<第二十一話>すれ違い
年が明け、昭和十八年になった。
戦局が大きく揺れ動いた昭和十七年が終わり、戦争は二年目に突入する。しかし、先の展望は良いとは言えなかった。
年明けに先立つこと一日。新年を待つ人々が寺社に集まる頃、大本営は御前会議でガダルカナル島の放棄を決定した。昨年八月七日の米軍上陸以来、幾多の将兵と艦船を失った果ての、敗北だった。
生き残った兵士を同島から撤退させるため、大本営は撤収作戦「ケ号作戦」を計画した。作戦名の「ケ」は「捲土重来」の頭文字から取られている。いずれ再起を図り、戦局を挽回する・・・そのような意志を感じ取れる作戦名である。陸海軍の首脳が参加した参謀会議の結果、作戦発動は二月とされた。
過酷な環境の中、必死の抵抗を続ける友軍を救うため、陸海軍は強力な連携をもって作戦に臨んだ。日頃はいがみ合い、同口径の機関銃ですら弾丸の規格が違う両者だったが、戦友の窮地を前にして互いの気持ちは一つだった。
二月からの撤収作戦を迅速かつ安全に行えるよう、また米軍に撤退の企画を悟られないよう、陸海軍の航空部隊は果敢な攻撃を行った。同時に、撤退までの戦力維持のために駆逐艦を使用したガダルカナル島への物資輸送も続行された。この時の海軍の防諜態勢は真珠湾攻撃時のそれに匹敵し、米軍は最後まで撤退が実施されている事を知らなかった。
撤収作戦は三回に分けて実施され、それぞれ二十隻の駆逐艦が参加した。連合艦隊司令部はこの作戦で駆逐艦の四分の一を失うと予想していたが、幸いにも味方の戦没艦は一隻にとどまり、合計一万三千人の陸海軍将兵を救出することができた。
「氷川丸」は、ケ号作戦の終了から十日ほど経った二月十七日にラバウルへやって来た。これに先立ち、「氷川丸」は船内の改造を行い、九百名以上の患者を収容可能としていた。このときの改造はかなり大掛かりなもので、士官室、兵員室はもとよりプロムナードデッキにまでも手を加えて病室を増やした。
このようにして患者数増加への対策を施してきた「氷川丸」であったが、戦況の厳しさは予想を上回るものだった。ラバウルに着くや否やガダルカナル島から撤退してきた将兵が各艦から一斉に搬送され、船内は一気に患者で埋め尽くされる。収容人数は定員一杯に迫る八八二人を数えた。改造を施していなければ、とても受け入れきれる数ではなかっただろう。
しかし、患者が増えても乗組員の数は以前と変わらなかったため、彼らの業務は多忙を極める事となった。どの部署も総動員で働き、目を回す者が続出した。
「氷川丸」はその日のうちにラバウルを発ち、二月二十日トラック諸島に入港した。トラックには、連合艦隊旗艦「武蔵」の姿があった。
港内の旗艦専用浮標に繋がれる「武蔵」は、澄んだ青空に大将旗をへんぽんと翻している。そのすぐ横に、姉妹艦である「大和」が仲良く並んでいる。二隻の巨艦は、手前に見える小島よりも大きかった。
両艦は、トラックの人々の注目の的だった。酋長を中心とした血縁社会を形成するトラックでは、長年に渡り漁労や採取を中心とする生活を送ってきた。彼らの知る船は、漁業用のカヌーや、コプラなどの特産品を仕入れに訪れる商船くらいであった。
そこへ、いきなり七万トンの排水量を持つ世界最大の戦艦が二隻も現れたのだ。その驚きは計り知れない。各島の浜辺には、世界最大の戦艦を一目見ようとする子供たちの姿が絶えなかった。
しかし、「氷川丸」から見た二隻の印象は少し異なるものだった。
甲板から望む「大和」と「武蔵」は、確かに他の全ての艦艇を圧倒する威容を誇っている。連合艦隊旗艦の在任歴でいえば彼女らより遙かに長い「長門」でさえも二隻の前では霞んで見える。生まれながらに最強を宿命づけられた、王者としての風格だった。
だが、今はその王者としての風格が彼女たちの姿をどこか浮世離れしたものに見せていた。紺碧の海に悠然と佇む艦影は、それを見る者に底知れぬ畏怖と頼もしさを抱かせる。この二艦がいれば、米軍には決して負けぬという気持ちを湧き上がらせる。しかし、その超然とした態度こそが氷川丸には不自然に感じられた。
「氷川丸」には、ガダルカナル島の戦いで傷ついた将兵が数多く乗っている。痩せ果てた彼らの姿と、その苦吟の声とに間近で接している彼女には、彼方に停泊する「大和」がどこか別世界の存在のように思われた。
戦艦「大和」は、ガダルカナル島の争奪戦が始まった当初からトラックに進出している。だが、現在に至るまで同艦が動きを見せた事は無かった。ソロモン海で両軍が鎬を削り、「鉄底海峡」と渾名されるほど多くの艦船が沈む中にあっても、「大和」は決して出撃しなかった。
聞けば、「大和」――現在は「武蔵」だが――にある連合艦隊の司令部では、毎日豪華な料理が食卓に供されるそうだ。貨客船時代の「氷川丸」の一等メニューに勝るとも劣らない食事に加え、昼食時には決まって軍楽隊の演奏が行われるという。熱帯の山中で多くの将兵が米さえ口にできずに苦しんでいる最中に、トラックの旗艦では夢のように豪勢な料理が食器の上で湯気を立てている。前線の兵から「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄されるのも、無理からぬ事だった。
――と、氷川丸が物思いに沈んでいると遠くから汽笛の音が聞こえた。船が入港してくるらしい。「氷川丸」からも答礼の汽笛が送られる。
環礁の出入口である北東水道へ目をやると、小さな艦影を確認できた。船の舳先は、主要艦艇が泊まる夏島泊地に向けられている。開戦以来、トラックを訪れる民間船は減少し、今では皆無に近くなっている。あの船も、軍艦に違い無かった。
氷川丸の予想を裏付けるように、艦の輪郭がはっきりしてくるにつれ、砲や煙突の姿が浮かび上がる。艦首に二基、艦尾に一基の砲塔を備えた艦影。二本ある煙突のうち、前方の一本が太くなっている。日本の重巡特有の結合煙突だ。
船橋の艦影識別表を繰って身に付けた知識を基に、氷川丸は入港船を分析する。そして、思い当たる艦の名を口にした。
「もしかして・・・青葉?」
呟き、氷川丸は相手の艦へと転移する。甲板に降り立った氷川丸はしばらく艦上を探し歩き、やがて舷側の手摺にもたれ掛かる少女を見つけた。
「青葉!」
氷川丸は相手の名前を呼ぶと、少女の隣に歩み寄った。
「久しぶり。元気にしてた?」
氷川丸の問いに、しかし、少女は酷く緩慢とした動作で顔を上げると、ようやく相手を認識したような表情を作った。
「ああ・・・氷川丸か」
「何よ、御挨拶ね。会いに来たのが私で、がっかりしてるみたい」
軽口を叩くつもりで氷川丸が言うと、青葉はクスリと笑って首を振った。
「そんな事ないよ。まぁ、他に会いたい相手がいるのは事実だけど・・・」
思わせぶりな言葉を口にする青葉に、氷川丸が訝しげな視線を送る。
「どうしたの、青葉? 元気ないわよ?」
「・・・元気? 元気なら、あるよ。今すぐにでも敵艦を血祭りにあげたいくらいにはね」
引き攣った笑みを浮かべ、青葉が答える。ここで、氷川丸はようやく青葉の様子が常と異なる事に気がついた。
「ねぇ・・・本当にどうしたの? 青葉、何だか様子が変だよ?」
心配そうな表情で氷川丸が尋ねる。それに対し、青葉は虚ろな瞳を氷川丸に向けると、口元を皮肉げにゆがめて答えを吐いた。
「変・・・か。そりゃあ、変にもなるだろうね。義姉も、実の妹も、すべてを一気に失ったんだからさ」
「え・・・?」
青葉の衝撃的な告白を聞き、氷川丸の思考は一瞬停止する。呆然としたまま、再起動した思考を回転させて氷川丸は問いを絞り出す。
「どういう・・・こと・・・?」
「どういう事か、って?」
嘲笑にも似た響きで鼻を鳴らし、青葉が答える。
「そのままの意味だよ。義姉さんたちも、衣笠も・・・みんな、いなくなったんだよ」
「・・・!」
出かかった悲鳴を、氷川丸は口元に手をあてて抑える。そんな彼女をよそに、青葉は淡々と言葉を続ける。
「第一次ソロモン海戦で加古義姉さんが。サボ島沖海戦で古鷹義姉さんが。そして、第三次ソロモン海戦で衣笠が・・・。去年一年の間で、私は姉妹を全員、失ったんだよ――」
その瞬間、氷川丸は腹部に重い一撃を受けたかのような感覚を覚えた。それほどに青葉の話は衝撃的だった。だが、氷川丸が何よりも驚愕したのは、血の通った姉妹を失いながら、その事実を他人事のように語る青葉の姿だった。
「そう・・・だったの・・・」
青葉のあまりの変わりように衝撃を受けつつ、氷川丸は言葉を継ぐ。
「残念だったわね・・・。でも、そんなに気を落とさないで」
姉妹を失った親友に向けて、氷川丸は慰めの言葉をかける。だが、氷川丸の意図とは裏腹に、その言葉は青葉の神経を逆撫でした。
「気を落とすな、か・・・。軽々しく言ってくれるね、氷川丸」
身に纏う雰囲気を一変させ、青葉が険のある視線を氷川丸に差し向ける。予想外の反応に戸惑いを隠せない氷川丸に詰め寄り、青葉は言葉を続ける。
「たった三ヶ月の間に三人の姉妹を立て続けに失って、気を保てるわけないでしょ? それとも、氷川丸は私と同じ立場になっても平然としていられるの?」
「それは――」
もちろん、平然としてなどいられない。だが、青葉は氷川丸の答えを待つことなく畳み掛ける。
「氷川丸も知ってるよね。私は、第六戦隊の旗艦だった。古鷹型と青葉型から成る姉妹艦戦隊の、旗艦。それなのに・・・それなのに・・・僚艦が次々に沈んでいく中、旗艦の私だけ生き残る。サボ島沖夜戦の時なんか、私はボロボロだったけど、衣笠は無傷だったんだよ? それが、無傷だったせいで、第三次ソロモン海戦に駆り出されて・・・。
氷川丸にこの気持ちが分かる? 旗艦でありながら姉妹を守れず、独り生き長らえるこの気持ちが。分かるわけないよね。氷川丸は旗艦任務に就いたことも無いし、ましてや、まだ姉妹を失った事もないんだからさ!!」
荒々しく、憎しみさえ感じられる調子で、青葉は吐き捨てた。親友から突き付けられた、刃のような剥き出しの敵意に、氷川丸は途轍もないショックを受けた。
言い終えた青葉は、すぐにはっと気付いた表情をし、気まずそうに顔を俯かせた。
「・・・ごめん。言い過ぎた」
青葉は軍帽を目深にかぶって目元を隠すと、踵を返して氷川丸に背を向けた。
「・・・『鳥海』に、着任の挨拶しに行かないといけないから」
そう言って、青葉は浮標を四つほど隔てた場所にいる「鳥海」へと転移した。残された氷川丸は、放心状態でその場に立ち尽くした。
この数分の間に、一体何が起こったのか。氷川丸は理解できなかった。しかし、氷川丸は決して頭の回転が悪い少女ではない。彼女が、自分のかけた言葉によって青葉を傷付けたのだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
「私の・・・せいだ・・・」
悄然として氷川丸は呟く。首を垂れる彼女の横顔には、深い悔恨の念が浮かんでいた。
氷川丸「…………」
作者「青葉のやつ、後書きにも来ないか……。氷川丸も黙り込んじゃってるし、気まずいなぁ」
氷川丸「青葉……。作者さん、私、青葉と仲直りできるんですよね?」
作者「えっ? それは、えーと……」
氷川丸「そんな……っ」
作者「ああっ、泣くな! 大丈夫、仲直りできる!」
氷川丸「(瞳を潤ませながら)……本当ですか?」
作者「うん。本当、本当」
氷川丸「……分かりました。信じます」
作者「ふぅ……。一先ず、泣かれずに済んだか。氷川丸もこんな調子だし、今回はこれで締めるとしよう。
この作品を読んでくれる読者の皆様に心よりの感謝を申し上げます。相変わらずの遅筆ですが、次回もご期待下さい。ご意見・ご感想もお待ちしております」