<第十八話>ガダルカナル争奪戦勃発
「氷川丸」が都巡りを楽しんでいる最中の一九四二年八月八日。この日、太平洋では日米の戦争が新たな局面に突入していた。
ソロモン諸島の一つ、ガダルカナル島。房総半島の二倍ほどの大きさの密林の孤島に、夜闇に紛れて近づく影があった。
漆黒の海を、それよりもなお黒い影が進む。一隻、二隻、三隻・・・列を成して進む船の舳先には、月光を受けて金色に輝く紋章がある。彼女たちの誇りであり、自己を示すもの。皇軍艦艇の証である菊花紋章だ。
第六戦隊旗艦、重巡洋艦「青葉」の艦魂、青葉は、艦前部にある第二主砲塔の上にから暗い海面を眺めていた。
「巡洋艦戦隊だけで敵泊地に突っ込むなんて、三川って司令官さんもなかなか剛胆だねえ」
先頭を進む巡洋艦「鳥海」に座上する司令官の事を考えながら、青葉が呟く。青葉は艦隊全体の二番艦として、第八艦隊旗艦「鳥海」の後に続いて航行していた。後方には姉妹艦の「衣笠」や準同型艦の「古鷹」型重巡が続く。
艦隊は二六ノットの高速でソロモン水道をガダルカナル島に向け航行していた。陣形は「鳥海」を先頭にした単縦陣。七隻の巡洋艦、それに一隻の駆逐艦が整然と並んで進軍する。
艦内には、既に戦闘用意が下命されている。主砲、魚雷ともにいつでも撃てる状態だ。あとは、敵が現れるのを待つばかり・・・
サボ島を掠めるように通過した艦隊は、いよいよガダルカナル島泊地に突入する。旗艦「鳥海」から、「全軍突撃せよ」の命令が下る。
「さぁて、始めますか」
不敵な笑みを口元に刷き、青葉が言う。同時に、艦橋の見張り員が敵艦発見の報告を叫んだ。
直後、周囲を包んでいた夜の闇が強烈な光に引き裂かれる。上空で待機していた偵察機が照明弾を投下したのだ。
暗闇の中、無骨な敵艦のシルエットが浮かび上がる。露になった影に向けて、青葉は軍刀を抜き放った。鋭い切っ先が敵艦に突きつけられる。その動作に合わせて、「青葉」に搭載された連装三基六門の二〇.三センチ砲が敵艦をピタリと照準する。
先頭を進む「鳥海」の主砲が、火を放つ。それに続くように、青葉も叫んだ。
「夜戦と雷撃は帝国海軍の十八番! 帝国海軍の実力、見せてあげるよ!」
青葉が軍刀を振り下ろすと同時に、「青葉」の主砲が火焔を噴き上げる。轟音と爆風が艦上を包み込み、静かな夜の海を一瞬のうちに戦場に変えた。
◆ ◆ ◆
「――で、それからどうなったの?」
話の先を促すように氷川丸が聞いた。聞かれた青葉は、待ってましたとばかりに口を開いた。
「いや、もう、そこから先は切った張ったの大立ち回り! 飛び交う砲弾、疾走する魚雷! あっという間に敵重巡四隻を撃沈! 帝国海軍の大勝利だよ!」
大仰な身振り手振りを交えて答える青葉は、非常に興奮した様子でいる。口調も、少しばかり芝居がかっている。
それもそのはず。青葉は今、第一次ソロモン海戦の話をしているのだ。こうして氷川丸に海戦の様子を語り聞かせている間にも、その時の事を思い出し、自然と言葉に力がこもる。
第一次ソロモン海戦とは、一九四二年八月八日に日米海軍の間に起こった戦闘である。
ラバウルを手中に収めた日本軍は、ソロモン諸島への足掛かりとするため、三月下旬にブーゲンビル島やショートランド諸島に前線基地を設立。七月には、ガダルカナル島に飛行場の建設を開始した。
ところが、飛行場の完成が目前に迫った八月七日、ミッドウェー海戦を制した米機動部隊が来襲。上陸してきた二万の米海兵隊に対し、飛行場を守る日本軍は三千名ほど。しかもその大半は飛行場建設のための部隊であり、実際に戦える兵力は三百程度であった。圧倒的な兵力差に日本軍は為す術もなく、飛行場は米軍の手に落ちた。
この知らせを受けた第八艦隊司令官、三川軍一中将は旗艦「鳥海」以下、巡洋艦六隻、駆逐艦一隻を率いラバウルを出撃。夜陰に乗じてガダルカナル島に忍び寄り、敵艦隊に夜襲を敢行。巡洋艦四隻撃沈の大戦果をあげた。
自慢げに語られる青葉の武勇伝を、氷川丸はアイスティーを片手にのんびりと聞いている。時々、適当な所で相槌を入れてやる。雄人の方は、男児の性か、少々興奮した様子で話に耳を傾けている。
残暑の厳しい九月の初旬。都巡りから帰った「氷川丸」は、再びラバウル航路行きを命じられた。米軍のガダルカナル島上陸をきっかけに急増する負傷者を収容するためである。ラバウルに入港した「氷川丸」は、そこで懐かしい顔と出会った。「青葉」である。
巡洋艦「青葉」は第一次ソロモン海戦の後、姉妹艦たちと共にソロモン海の哨戒任務に当たっていた。ラバウルには、補給のために停泊していた。
船橋から入港作業を見守っていた氷川丸が「青葉」の姿を見つけるのとほぼ同時に、青葉も「氷川丸」の船影を認めた。青葉はすぐさま、「氷川丸」へと瞬間移動した。
およそ半年ぶりの再会を、二人は喜び合った。そして、青葉の提案により雄人も呼んで三人で話をする事になったのだ。
青葉の話を聞きながら、氷川丸は内心、少しほっとしていた。というのも、彼女は青葉のことを心配していたからだ。
第一次ソロモン海戦で、日本海軍は敵艦隊に対して圧倒的な勝利を収めた。しかし、こちらも無傷とはいかなかった。作戦の帰途、重巡「加古」が敵潜水艦の雷撃を受けて撃沈されたのだ。「加古」は古鷹型重巡の二番艦であり、「青葉」とは準同型艦の関係にあたる。青葉にとっては、いわば義理の姉妹といえた。事実、青葉は彼女のことを「義姉さん」と呼んで親しんでいた。
ラジオのニュースで第一次ソロモン海戦の内容を耳にしていた氷川丸は、青葉が義姉を失った悲しみに打ちひしがれていないか気にかけていた。
だが、それは杞憂に終わった。調子よく語る青葉の様子は、常と変わる事のない陽気で明るいものだ。それを確認した氷川丸の口から、小さく安堵の息が漏れる。
「ん? どしたの、氷川丸?」
氷川丸の表情の変化に気づいた青葉が聞く。
「ううん。何でもない」
「そう?」
首を横に振った氷川丸に対し、青葉はそれ以上は追及しなかったが、少し間を置いてから言った。
「・・・まあ、もう一ヶ月経ったからね。私もある程度、心の整理はついてるよ」
自分の心の内を読まれたような言葉に、氷川丸は驚きの表情を浮かべる。。青葉は目を丸くする親友の顔を見つめながら言う。
「氷川丸のことだから、きっと私が落ち込んでないか心配してくれてたんでしょ? そりゃ、私も最初の一週間はヘコんだけど、いつまでもそんな事してる場合じゃないからさ」
「それに・・・」と青葉が続ける。
「私がヘコんでる時も、古鷹義姉さんは涙を見せなかった。それどころか、私を慰めてくれた。私なんかよりも、義姉さんの方がよっぽど悲しいはずなのに。一番辛い義姉さんが涙を堪えている時に、私が泣いてなんかいられないよ」
青葉の答えを聞いた氷川丸は、一言いった。
「・・・強いね、青葉は」
「そうかな? そんな事ないと思うけど」
「ううん。そうよ。私だったら、そんなに強くはいられない。もし、姉妹を失うような事があったら、きっと取り乱して立ち直れなくなる」
「大丈夫だよ」
力強く、青葉が言う。
「何のために海軍がいると思う? 氷川丸の妹は、絶対に米軍に襲わせたりしないよ。それが、海軍の役目なんだから」
口元に微笑を湛え、青葉は優しく言う。それにつられて、氷川丸も口元を緩めた。
「うん。ありがと、青葉」
「どういたしまして。そんじゃ、話を戻そっか。久しぶりに会ったのに、しんみりした話じゃつまらないからね。明るく楽しく、おしゃべりしよう!」
そう言って、青葉は中断していた海戦の話を再開する。三人の楽しげな会話は、その後、日が暮れるまで続いた。
◆ ◆ ◆
「青葉、元気そうで良かったです」
復路の洋上。朝の甲板を雄人と散歩しながら氷川丸が言った。
ガダルカナル島方面の負傷者を収容した「氷川丸」は、トラック経由で帰国の途に就いた。好天に恵まれた航海は順調に進み、明後日には横須賀に到着できそうだった。
横須賀到着を前に、今日は船内の患者を海軍病院に転院させる準備などをする予定だが、昨日深夜の当直だった雄人は少し遅れてその作業に参加する事になっている。そのため、こうしてのんびり氷川丸と甲板を歩いていられるのだ。
「氷川丸、青葉の事かなり気に掛けてたからね。安心したでしょ」
「はい」
とりとめもない話をしながら、二人は船首からプロムナードデッキを通り船尾甲板へと歩く。二人は楽しげに言葉を交わしていたが、船体中央部――ちょうど、煙突のあるあたり――を通った時だけ会話が途切れた。煙突脇に設けられた、火葬場の悪臭が流れてきたためだ。プロムナードデッキは火葬場がある最上層の甲板よりも一つ下に位置するが、独特の饐えたような臭いはそこにまで漂ってきていた。
全長一六〇メートルほどの「氷川丸」の船体は、話しながら歩いていると意外とすぐに端まで辿り着いてしまう。船尾までやって来た二人は、休憩がてら、海を眺めた。
船尾には、日の丸の旗が翻り、風を受けてはためいている。その向こうでは、白い航跡が尾を引いてのび、青い波に溶けていく様子が見える。
「今日は波も高くなくて、良い天気だね」
穏やかな海面を眺めながら雄人が言った。
「そうですね。日差しもそれほど強くありませんし、患者さんたちにとっても過ごしやすい日です」
ちょうど朝食の時間と重なっているからか、甲板上に人影はほとんど無い。そのため、二人は気兼ねなく話す事ができた。
話題に尽きる事なく二人は会話をする。だが、その時間を壊すように見張り員の絶叫が船上に響いた。
「左舷後方! 潜水艦!」
「っ!?」
二人の顔に、同時に驚きの表情が浮かぶ。弾かれたように海を見ると、遠く離れた水平線の上に不気味な黒い影が見えた。
双眼鏡を持たない雄人には、遠く水平線上にある影の細部までは分からない。だが、雄人が目を凝らしている間にも影はぐんぐんと大きくなり、程なくしてその全貌が明らかになった。
ナイフのような鋭い艦影。水中走行を考えて上部構造物をできるだけ廃したその姿は、紛れもなく潜水艦のものだった。潜水艦は、艦首に据えた一門の砲を不気味に光らせながら「氷川丸」との距離を詰めてくる。
「雄人さん・・・」
不安げな眼差しで氷川丸は雄人を見つめる。伸ばした手が、無意識のうちに雄人の袖口を掴む。
敵か味方か。発見した直後は判断がつかなかったが、最早その正体は明らかだった。肉眼でも艦上の構造がはっきり見て取れるほどの距離にまで近付いた潜水艦。その艦橋側面には、日本の潜水艦には必ず書かれている日の丸の旗印と「イ―○○」といった艦番号が書かれていなかった。敵の潜水艦――恐らく、アメリカの潜水艦――である事は間違いなかった。
「・・・っ!」
謎の艦影の正体が敵の潜水艦であると分かった瞬間、氷川丸の身体は硬直した。背筋が凍り、背中に刃物を突き付けられたような恐怖感が湧き上がった。
敵潜水艦は影のようにぴったりと「氷川丸」の後ろについて航行する。距離は千メートルもない。砲撃だろうと雷撃だろうと、撃てば確実に当たる距離だ。
もしも、攻撃されたら――氷川丸の脳裏に、沈みゆく「沖島」の姿と、炎の残る艦上で最期を看取った少女の姿がよぎる。
氷川丸は、今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。しかし、それをする事は逆に自身の身を危険に晒すことになるため、できなかった。
病院船はジュネーブ条約によって国際的にその安全が保証されているが、同時に守るべき掟も定められていた。その最たるものが、「病院船は如何なる理由があっても軍事目的に使用する事はできない」というものである。
軍事目的での使用を禁じられている病院船は、軍需物資を積んだり兵士を運んだりする事はできない。そのような行為を行えば、即刻、病院船としての権利を失う。その場合は、敵の攻撃を受ける事もある。そして、違反行為を疑われるような行動も慎まなければならなかった。
つまり、ここで敵潜水艦を振り切ろうとするような真似をすれば、何か後ろめたい物を積んでいるのではないかと疑われてしまう。そうなれば、敵対行為をとったとして撃沈されてしまう恐れもあるのだ。「氷川丸」は、自身の船体に描かれた赤十字の加護を信じて、ただ直進し続けるしかなかった。
そんな「氷川丸」を、敵潜水艦は執拗に追い続ける。時折、艦首に据えられた砲を動かしては「氷川丸」に照準をつけるふりをする。絶え間なく与えられるプレッシャーに、氷川丸は耐え切れなくなりそうになっていた。
息の詰まるような重圧の中、氷川丸がどうにか立っていられるのは雄人のおかげだった。雄人は彼女を庇うように抱き、その華奢な身体を支えていた。桜貝で作られたお守りを胸に握り締めて身体を固くする少女に、雄人は「大丈夫だよ」と優しく言葉をかけ続けた。
一秒が一時間にも感じられるような緊張した時間が暫くの間流れた。やがて、敵潜水艦は諦めたように反転し、現れた時と同じように水平線の彼方へと消えていった。
「助かった・・・のか?」
「そう・・・みたいですね」
小さくなっていく影を見送りながら雄人が呟く。危機が去った事を認識した氷川丸は、大きく安堵の息をついた。
「はぁ・・・。よかった・・・です」
言うなり、へなへなと氷川丸はその場に座り込む。その身体を、雄人が慌てて支えた。
「大丈夫、氷川丸?」
「はい・・・。安心したので、腰が抜けてしまったようです。しばらく、立てないかもです・・・」
安心感から微笑を浮かべた氷川丸が答える。氷川丸が無事である事を確かめた雄人はようやく緊張の糸を解いた。
「ふう・・・。一時はどうなる事かと思ったよ」
氷川丸の隣に腰を下ろした雄人が言う。腕時計で確認したところ、敵潜水艦との接触時間はおよそ一時間ほどだった。
「一時間ですか・・・もっと長かった気がしました」
「僕もだよ。さっきは本当に生きた心地がしなかった」
そう言う雄人の顔は、まだ少し蒼い。彼も先程の状況下で、ぎりぎりまで精神を擦り減らしていた。
「何はともあれ、無事に済んでよかったです。雄人さんが買ってくれた、このお守りのおかげです」
言って、氷川丸は手に握っていたお守りを見せる。雄人がスラバヤで土産に買った、桜貝のお守りだ。
「氷川丸」が攻撃を免れたのは無論、病院船であるからだ。しかし、病院船であっても攻撃を受ける事例が存在する中、氷川丸の言葉もあながち嘘ではないようにも思えた。
このように肝を冷やす一幕もあったものの、「氷川丸」は二日後の九月二十日に無事、横須賀に到着。患者を降ろし、整備のために入渠した。なお、今回の潜水艦接触を経験してから、乗組員の氷川神社への参詣が前にも増して熱心に行われるようになったという。
作者「高校の中間試験が間にあったために、少し間が空いてしまいました」
青葉「そんなこと言って、試験が無かったとしても遅れてたんじゃないの?」
作者「うぐ……」
青葉「まぁ、それは置いといて。ところで氷川丸、昨日は何の日だったか知ってる?」
氷川丸「昨日? 五月二七日……えっと……」
青葉「海軍記念日だよ、氷川丸」
氷川丸「あっ……!」
青葉「一九〇五年五月二七日。日露戦争でロシアのバルチック艦隊をボッコボコにした日本海海戦の勝利を祝う日だよ。今年は二〇一一年だから、えっと……何周年?」
作者「一〇六周年だよ。もっとも、今では普通の平日だけどね。海軍記念日は戦後に廃止された」
青葉「そーなのかー。そういえば、この作品で『三笠』は出さないの?」
作者「可能ではあるね。『三笠』は横須賀で保存されてるし、『氷川丸』は横須賀を母港みたいにして活動しているし。でも果たして、登場させる場面があるかどうか……」
氷川丸「作者さん、そろそろ終わりにした方が良いんじゃないですか?」
作者「おっといけない。だらだらと長引かせてしまうところだった。氷川丸、終わりの挨拶を頼むよ」
氷川丸「分かりました。この作品を読んでくださる読者の皆さんに心より御礼申し上げます。ご意見・ご感想もお待ちしております」