<第十七話>戦火を忘れて
甘く香しい香りが、そこら中に満ちている。燦々と照りつける太陽の下、南国の蒸し暑さと合わさって、身体にまとわりつくような甘ったるい匂いが漂う。その場にいるだけで胸焼けを起こしそうな空気だ。
「・・・何ですか、これは・・・」
目の前にうず高く積まれた「それ」を見て、氷川丸は呻きにも似た呟きを発する。夏用の半袖のナース服に身を包む彼女は、頬に一筋の汗を走らせながら眉を寄せた。
「何って、バナナだけど」
よく熟れたバナナを頬張りながら、事も無げに雄人が答える。
「それくらい、見れば分かります。あと、物を食べながら話すのはみっともないです。やめて下さい」
氷川丸は自分の視線の先にある黄色い山を眺め、重ねて問いかけた。
「私が聞きたいのは、どうしてこんな所にバナナの山があるのかという事です」
氷川丸の言う事も、もっともだった。二人がいるのは「氷川丸」のオープンデッキ。最上層の甲板だ。そこに、どこから仕入れたのか、房に実ったバナナが大量に積まれている。その量は、バナナ問屋でも開けそうなほどだ。
「・・・私、病院船からバナナ売りに転職した覚えはないのですが」
自分の船上が尋常ならざる状態になっている事に対し、氷川丸は戸惑いを隠せない。そんな彼女を知ってか知らずか、雄人は暢気に答える。
「いやあ、安かったからね。ついついみんなで沢山買っちゃったよ」
ははは、と雄人が笑う。しかし、氷川丸は笑ってられなかった。
「ははは、じゃないですよ! 一体どうするんですか、こんなにたくさん!」
氷川丸が叫んでいる間にも、舷側からバナナの載った籠が引き揚げられてくる。また一房、バナナの山に加わった。
「まあ、まあ。そんなに怒らないで。ほら、氷川丸も食べてみなよ。美味しいから」
山から新たに取った房から一本をもぎ取り、氷川丸に手渡す。三日月形をした南国の果物は、真夏の太陽のような鮮やかな黄色をしている。その甘い芳香に、氷川丸は思わず生唾を飲み込んだ。
一口食べるなり、氷川丸は言った。
「甘い・・・甘くて、美味しいです」
「でしょ?」
「文句なしで美味しいです。あれだけの量を買い込む価値はありますね!」
「このバナナ、値段はどのくらいなんですか?」控えめな一口を頬張りつつ、氷川丸が聞く。
「ほとんどタダ同然だよ。二、三十本で、煙草一箱分くらい」
「日本では考えられませんね・・・」
「本当だよ。内地でバナナなんて言ったら、高級品の代名詞みたいな物だからね」
うず高く積まれたバナナを見やりながら、二人は言う。
「氷川丸」は現在、インドネシアのセレベス島(現在のスラウェシ島)に停泊していた。ミッドウェー海戦の負傷者を横須賀に搬送した「氷川丸」は再び南方での任務に出発し、七月一日、フィリピンのダバオに到着した。
セレベス海を挟んで向かい側にあるセレベス島のメナドに寄港したのは七月の四日。錨を下ろした瞬間に、「氷川丸」は無数の小舟に取り囲まれた。
何事かと慌てた船員や海軍士官が甲板に飛び出して見下ろすと、それは島民のカヌーであった。彼らはやって来た「氷川丸」に、島で取れたバナナを売りに来たのだった。
一瞬、万一の事態を想定した船長だったが、島民がバナナを売りに来ただけだと分かると、作業が完了次第、休憩にするよう命じた。停泊作業を終えた船員たちは早速、島民からバナナを買い始めた。乗組員たちは破格の安さにつられてバナナを買い込んだ。船上はたちまち果物で溢れ、冒頭の状況に至る。
「それにしても、本当に賑やかですね」
自身の周りに群がる木船を眺めながら氷川丸が言う。
「トラックやラバウルでは、こうはいきませんからね。『都巡り』の名は、伊達じゃありません」
片言の日本語を話しながら商売に勤しむ島民の姿を見て、氷川丸は楽しそうに笑った。
海軍病院船が辿る航路には、主に二つのコースがある。一つはトラックやラバウルを中心とする南洋諸島コース。そしてもう一つは、フィリピンを中心とする西南諸島コースだ。地図上でいうと、フィリピンを基準として東側が南洋諸島コース、西側が西南諸島コースになる。
西南諸島コースは、別名「都巡り」とも呼ばれている。そして、二つの航路を比べるなら、この「都巡り」コースの方が断然人気であった。理由はごく簡単だ。そちらの方が、街が華やかなのだ。
トラック起点の南洋諸島コースは、その寄港地のほとんどが海軍の拠点だ。軍事的な性格の方が強いため、そこにある街も総じて規模が小さく、上陸して見かける顔も同じ海軍軍人が多い。
それに対して、都巡りでは、フィリピンやインドネシアの港を回る。海軍の船だから、寄るのは海軍が展開している場所である事に変わりはない。しかし、そこにある街は、トラック・ラバウル航路のそれと比べ、遙かに発展していた。
イギリス・フランスをはじめ、西洋列強の植民地である東南アジアの島々は街がよく整備されている。住民も多く、賑やかだ。これでは、都コースが人気になるのも当然である。
実を言うと、「氷川丸」はこれまで一度も都巡りを経験した事が無い。海軍は「氷川丸」の他にもう一隻、「高砂丸」という船を病院船として徴用していた。「高砂丸」はよく都巡りに行っているのに、「氷川丸」はいまだに行かせてもらえていなかった。乗組員の多くと同様に、氷川丸も都巡りに憧れていた。
そんな所に、今回の任務の命令が下った。待ち望んでいた都巡りとあって、乗組員たちの士気は大いに上がった。シンガポール方面は日本軍の支配が決定的となっていた折でもあり、都巡りにはうってつけであった。
そんなわけで、「氷川丸」は最前線のソロモン方面からしばし遠ざかり、華やかな都コースへと旅立ったのだ。
都巡りとはいっても、決して遊びではない。道中の寄港地の賑わい方が違うだけで、任務の重さは等しく変わらない。もちろん、それを忘れる「氷川丸」乗組員ではない。そして、任務の方も「氷川丸」にのんびりと都巡りを満喫させてはくれなかった。
メナドに停泊中の「氷川丸」に、医薬品の補充を求める信号が届いた。発信者は、陸軍病院船の「松江丸」であった。
「クレゾン石鹸液を五ガロン供給されたし・・・氷川丸、どうする?」
旗旒信号を読んだ雄人が聞く。氷川丸は一瞬、どうしようかと悩む表情を見せたが、
「供給はできませんね。陸軍兵士の衛生管理は、陸軍病院船が責任を持つ事になっていますから」
と答えた。
陸軍と海軍は、それぞれ独自に病院船を徴用している。理由は、両者の病院船に対する認識が違うからだ。
陸軍は病院船を後方の野戦病院に移送するための手段として位置づけていた。そのため、船の設備は搬送中の応急処置が行える程度に留められており、本格的な手当はあくまで野戦病院で行うことになっていた。
海軍は、病院船を単なる患者輸送の手段とは考えていなかった。海軍は病院船を移動式の野戦病院と捉え、充実した機能を持たせた。各地を回って負傷者を収容する間にも患者の治療を行い、できるだけその場で完治させる事を目的とした。内地にまで送り返して治療するより、病院船の中で回復させた方が戦場にも早く復帰させられるからだ。この、一般の病院と同等の医療設備を備えている点が、海軍病院船の特徴である。
艦魂である氷川丸の意志を反映するように、「氷川丸」のマストに「供給不可」を伝える信号が揚がる。すると、「松江丸」から一隻の内火艇が下ろされ、「氷川丸」へと向かってきた。
と同時に、二人のすぐ近くの空間に光が生まれ、一人の少女が現れた。
「陸軍病院船『松江丸』艦魂の松江丸です! お忙しい中すみません。でも、どうしても頼みたい事があるんです!」
甲板に足をつけるなり、少女は早口でまくし立てた。氷川丸は少女に落ち着くように言ってから、用件を聞いた。
「先ほど、こちらから石鹸液の供給をお願いしたのは、ご存知ですよね」
少女は頭を下げると、懇願するように言った。
「お願いです! もう一度考えてもらえませんか? どうしても必要なんです!」
「そう言われても・・・」
弱ったという表情で氷川丸が言い澱む。
氷川丸がこれ程までに医薬品の供給を渋るのには、理由がある。氷川丸も、できる事なら松江丸の要求に答えてあげたい。しかし、海軍の病院船である彼女には、海軍に供給する分の医薬品しか積んでないため、できないのだ。
松江丸もこの事情は心得ているが、彼女の方も簡単には引き下がれない理由があった。
「私には、患者と船員を合わせて千人の人たちが乗っています。でも、この暑さで細菌が繁殖しやすく、お腹を壊す患者さんが多くて困っているんです。倉庫の薬品も底を尽きそうで・・・どうか、少しだけでいいので分けてもらえないでしょうか?」
ちょうどその時、「氷川丸」の舷門に「松江丸」から下ろされた内火艇が接舷した。陸軍の士官服を着た人物が一人、舷梯を上ってくる。彼も、松江丸と同じことを頼みに来たのだった。
松江丸の話を聞いた氷川丸は、そういう事ならと松江丸の要望を聞き入れた。
「分かりました。薬品を供給しましょう」
「本当ですか?」
「ええ。金井院長も、その話を聞けば薬品を譲ってくれるはずです」
返事を聞いた松江丸は顔を綻ばせ、「ありがとうございます!」ともう一度頭を下げた。
程なくして、先ほど「氷川丸」を訪ねてきた陸軍士官が薬品箱を抱えて下船する姿が見えた。内火艇が「松江丸」に帰ったのを見届けた松江丸は、お礼の言葉を口にすると自分の船に戻った。
「氷川丸」の乗組員はここで上陸を許された。メナドは風光明媚な美しい場所だった。海岸には椰子の木が並び、砂浜に心地良い日陰を作っている。街の近くには標高二千メートルほどの山があり、「メナド富士」と呼ばれて親しまれている。
街自体も、きれいだった。オランダ人によって開拓された街には赤い屋根の建物が並び、南国の明るい日差しを受けて鮮やかに輝いている。街は活気に溢れ、物も豊かだった。
上陸した兵士たちは、メナドに到着した時の「氷川丸」と同じようにたちまち島民に囲まれた。様々な物を手にした島の人々は、いかにも商売慣れした風情で、覚えたての日本語を使いながら商品を売り込んでくる。それらの品物も船上から買ったバナナと同様に、信じられないくらいに安かった。
トラックやパラオで買い物した時も、日本より物価が安かったが、メナドのそれは別格だった。洋服、酒、腕時計・・・すべてが安く、夕方になって帰船する乗組員たちの手には買い物袋が幾つも提げられていた。
メナドを出航した「氷川丸」は、インドネシアの島々を巡り、患者の収容を行った。西に進むにつれて、街はどんどん華やかになっていった。
七月十九日、「氷川丸」はジャワ島のスラバヤに着いた。都巡りの寄港地の中でも、スラバヤは特に有名だった。
西の海が茜色に染まる頃、「氷川丸」は港に錨を打ち下ろした。来航した「氷川丸」を、現地の海軍病院の士官たちが出迎えた。
彼らの案内で「氷川丸」の士官は一足早くスラバヤの街に繰り出していった。ついて行けない下士官や兵は、揚々と船を降りていく背中を眺めて羨ましそうに見送った。ちなみに雄人は、後者である。
次の二日間は、半数ずつの乗員に外出が許された。スラバヤの市街地はメナドにも増して美しく、賑やかであった。馬車や三輪自動車が往来する大通りにはたくさんの店が軒を連ね、客を呼び込んでいる。これらの商店は、午後になると午睡のために店を閉じた。
街にはまた、煉瓦造りの高層建築も建っていた。街の中心にある高級百貨店は、銀座のそれにも劣らぬ店構えだ。店内は明るく、案内嬢も愛想が良かった。
どの乗組員も華やかな街を日が暮れるまで満喫した。桟橋と「氷川丸」を結ぶ内火艇の最終便は、会社員の帰宅ラッシュのように混みあった。
「お帰りなさい、雄人さん」
舷門を上がってきた雄人を、氷川丸が出迎えた。
「荷物、持ちましょうか?」
慣れた手つきで氷川丸は雄人が持つ手提げ袋を受け取る。無駄のない動作は、流石は日本郵船の客船といったところか。艦魂が見えない者がこの光景を見たら、荷物が独りでに宙に浮いていると大騒ぎになる。しかし、黄昏時の船上はぼんやりと薄暗く、加えて甲板にいる兵士たちも互いの会話に興じているために、氷川丸が荷物を持っていても人の目につく事はなかった。
「スラバヤの街はどうでしたか?」
プロムナードデッキに置かれた長椅子に腰を下ろした氷川丸が雄人に尋ねる。いつからか、雄人が上陸する度にその話を聞くのが氷川丸の楽しみになっていた。
「今日は司と一緒に街を回ったけど、噂通りだったよ。お店はたくさん並んでいるし、立派な建物もある。とても賑やかだった」
「司さんというと・・・以前、氷川神社のお参りに行った時に話していた、吾妻一曹ですか?」
「うん。司のやつ、もの凄くはしゃいでね。主計長に給料を前借りしてまで買い込んでたよ。来月の手当は、一円あれば良い方じゃないかな」
「どれだけ買ったんですか、吾妻一曹は・・・」
「途中で持ち切れなくなったから、近くの水兵に小銭を握らせて船まで届けさせていたよ。あの荷物、ちゃんと届いたのかな?」
「そういえば、昼過ぎに他の船の水兵が、届け物があると言って訪ねてきたような・・・。軍事郵便でもないので、詳細が分かるまで院長が管理しておくと言っていました」
「じゃあ、今頃は・・・」
雄人が言いかけた時、遠くから「他の船の乗員に迷惑をかけるな、馬鹿者!」という怒号が聞こえ、拳骨の音が響いた。
「やっぱり・・・」
「ところで、雄人さんは何を買ったんですか?」と氷川丸が聞く。
「丁寧に梱包されているようですが・・・割れ物ですか?」
「うん。綺麗な置物があったから、家族へのお土産にしようかと思って」
手のひら大の小袋を取り出して雄人は言った。「氷川丸の分もあるよ」
「本当ですか?」
喜色を滲ませる氷川丸に雄人は買ってきた物を手渡した。
「きれい・・・。これは――桜貝、ですか?」
雄人が氷川丸に渡したのは、貝を細工した手芸品だった。薄い桃色をした貝殻を五枚、星形に繋ぎ合わせたキーホルダー。自然の素材をそのまま使った品だ。
「海辺の民芸品店で買ったんだ。船乗りのお守りらしいよ。なんでも、これを持っていれば絶対に遭難しないとか」
雄人が店員から聞いた話を伝える。
「きれいで、素敵なお守りです。雄人さん、ありがとうございます」
嬉しそうな氷川丸の笑顔を見て、雄人も頬を緩める。その後も二人は夕食の時間になるまで会話に花を咲かせた。
「ん、もうこんな時間か」
夕餉の時刻を告げるラッパを聞き、雄人が腰を上げる。
「氷川丸、話の続きは食後でいいかな?」
「はい。構いませんよ。部屋で待っていますね」
「分かった。それじゃぁ、また後で」
ぞろぞろと食堂に向かう人の列に混ざり、雄人も船の中に入る。氷川丸も、自分の部屋へ転移する。
彼女が消えたあとの甲板で、淡い光の粒が夕陽を受け、きらきらと輝いた。
作者「実は、昨日でこの作品を書き始めて一年になりました。いやはや、早いものです」
氷川丸「一周年ですか。おめでとうございます」
作者「月一回のゆっくりとしたペースですが、こうして一年間続けてこられたのも読者の皆さんのお蔭です。ありがとうございます」
青葉「物語を最後に完成させるのは、読み手である……ってね」
氷川丸「青葉、良いこと言うじゃない」
青葉「でしょ? どっかで読んだ本の受け売りだけど」
氷川丸「やっぱり……そんな事だろうと思ったわ」
作者「では、今回のあとがきはこの辺で。いつも通り締めるよ」
氷川丸「分かりました。この作品を読んでくれている読者の皆さんに、心からの感謝を申し上げます。これからも、よろしくお願いします」
青葉「意見・感想も募集中だよ!」