<第十六話>ミッドウェー海戦
一九四二年六月五日。その日は、日米双方にとって忘れられない日となった。ハワイ諸島の北西に位置するミッドウェー諸島。その沖合で日本とアメリカの機動部隊がぶつかり合った日である。
後にミッドウェー海戦と呼ばれるこの戦闘は、太平洋戦争のターニングポイントとなった。日本はこの戦いで四隻もの正規空母を失い、以後の戦局に甚大な影響を被った。対するアメリカは一隻の空母を失うに留まり、これを期に日米の攻守どころが逆転するようになる。
日本政府はこの惨敗を国民に伝えようとはせず、虚偽の発表を行い欺いた。大本営は、ミッドウェー海戦の戦果を敵空母二隻撃沈、味方の損害は空母一隻沈没、空母・巡洋艦一隻ずつが大破と報道した。しかし、実際の結果は前述の通りであった。
「氷川丸」は、偽りの海戦結果を横浜で聞いた。海戦から約一週間後のことだった。
ラジオから威勢の良い軍艦マーチが流れ、特徴あるアナウンサーの声が響く。そして、ミッドウェー沖での海戦と、同時に行われたアリューシャン列島への攻撃が伝えられた。
真珠湾攻撃、マレー沖海戦、珊瑚海海戦に続く海軍の勝報に「氷川丸」の船内は一挙に沸き上がる。男たちの歓声が、薬品のにおいが染みつく空気を震わせる。厨房では早速赤飯が炊かれ、夕食の食卓に上った。
しかし、「氷川丸」の乗組員たちは意外なほど早く、この海戦の真相を知る事になるのだった。
「今回の任務では、患者に対して一切の質問をしてはならない。また、その場で見たものを、一切口外してはならない」
最初に違和感を感じたのは、この時だった。横須賀を出港する時、院長は訓示の中でこのように言った。
今まではこのような事は無かった。これまで、「氷川丸」の乗組員たちは患者と接する中で多かれ少なかれ、前線の様子を話に聞いていた。それは看護兵から質問する事もあれば、患者の側から語りだす事もあった。だが、今回はそれが一切禁止されるという。何かがある、と誰もが直感的に感じた。
もやもやとした思いを胸に抱きつつ、「氷川丸」は指定された目的地である柱島へと向かった。柱島は、呉にほど近い瀬戸内海に位置する島で、連合艦隊の本拠地でもある。戦艦「長門」以下、日本が誇る連合艦隊の艦艇が集う場所だ。
「氷川丸」は六月一四日の夕刻、柱島に到着した。泊地には、別の病院船が一隻停泊していた。彼女も「氷川丸」と同じように海戦の負傷者を収容するために呼ばれたのだ。
柱島にはまだ連合艦隊の船はいなかった。今日はまだ来ないか・・・そう思った時、低い汽笛の音が夕焼けの柱島に鳴り響いた。
夕日を背に島影から姿を現したのは、巨大な黒い山だった。いや、山ではない。それは、天高く聳える檣楼を備えた戦艦だった。
その威容に、誰もが息をのんだ。「長門」が、「陸奥」が、鈍色の船体を黒光りさせながら悠然と入港してくる。曳船を従えるその姿は、王者の貫禄を放っていた。
たちまち、柱島の泊地は艦隊で埋め尽くされる。戦艦、巡洋艦、駆逐艦・・・あらゆる種類の艦艇がここに集結する。
その光景を見ながら、雄人はちょっとした違和感に駆られた。確かに、目の前に揃う艦隊は圧倒的な存在感を放っている。でも、何かが足りないような――
横を見ると、氷川丸と目が合った。彼女も、どこか引っかかる所があるような顔をしていた。
一体何が足りないのか。答えを求めてもう一度艦隊へと視線を戻した雄人は、そこに本来あるべきものが存在しない事に気がついた。
――航空母艦――
戦艦と並び日本海軍の中核を成す、洋上航空戦力。平たい甲板に小さな艦橋を載せただけの特異な外観を持つ船。多くの艦艇の中でも目立つはずのその姿が、どこにも見当たらないのだ。
日本海軍が保有する空母は大小合わせて十隻ほど。大型空母は六隻いる。そのうち二隻は先の珊瑚海海戦での消耗が激しいから今回の作戦には出ていない。とすると、今回の作戦には四隻の空母が出撃している計算になる。だが、泊地には一隻の空母も見えない。これは一体どういう事か・・・
考えられる理由は、二つあった。ひとつは、別の港へ入っているというもの。そして、もうひとつは――
出かかった考えを、雄人は無理矢理押し戻した。例え推測だとしてもそんな不吉な事は考えたくない。
その日はもう日没が近かったため、患者の収容は翌日に持ち越された。船内では薬の準備などをして明日に備えた。
そして翌日。朝から患者の受け入れが始まった。
各艦に分散収容されていた患者たちが艦載艇で「氷川丸」ともう一隻の病院船に運ばれてくる。自分たちに向かって押し寄せてくる艦載艇の群れは見慣れた光景になっていたはずだが、今日のそれは一段と数が多かった。そして、それに乗せられてやって来る兵士たちの姿もまた、これまでにないほど痛々しかった。
運ばれてくる患者は、ほとんどが担架に担がれた重傷者だった。一応、応急手当はされているが、明らかにそれでは足りない。早急に本格的な処置を施す必要があった。
しかし、処置をしようにも患者の収容で手一杯の状況では成す術がない。そうする間にも、患者は次から次へと途切れる事なく担ぎ込まれ、病室は瞬く間に満室となってしまった。
普段の航海で収容する人数を一度にまとめたような状態に、看護兵たちはてんやわんやの騒ぎとなる。患者を運んできた他艦の乗員にも手を貸してもらい、昼頃にようやく全員の収容を完了した。
交代で昼食と休憩をとり、息つく間もなく、看護兵たちは次の作業へと移る。通路にまで溢れ出す患者の手当を行うのは、乗員総出でも簡単にはいかなかった。
「包帯持ってこーい!」
「おい、消毒液が足りないぞ!」
「くそっ、包帯が乾いて皮膚に貼り付いてやがる! これじゃ剥がせないぞ!」
所狭しと寝かされた患者の間を、看護兵たちが手当しながら歩く。各病室は腐臭と手当に苦戦する看護兵の声とでいっぱいになり、それはたちまち船全体を覆った。
搬送されてきた患者の姿は、それまで大勢の負傷者の姿を目にしてきた看護兵たちも色を失うものだった。患者の多くは全身に酷い火傷を負い、ミイラのように身体中に包帯を巻かれていた。燃え盛る艦内で火に襲われたのであろう事は容易に想像できた。よくここまで生きてこれたと驚くくらいだ。
包帯を剥がすのも、一筋縄ではいかなかった。乾いた包帯は皮膚に貼り付き、容易には剥がせない。ゆっくりと剥がしても、皮膚や肉が一緒に剥ける。そのたびに上がる患者の悲鳴は、耳を痛く突いた。
三等食堂を改造した大病室で手当にあたる雄人も、あまりの惨状に目を覆いたくなる気持ちを必死に抑えていた。既に十人の包帯を取り替え、手当を施していたが、正直言って、包帯を取り替えて消毒する程度ではどうにもならない傷だった。
「うぅ・・・くそ、グラマンめ・・・来る・・・な・・・」
苦しげに譫言を言う患者は、左半身に重い火傷を負っている。左腕に巻かれた包帯は、血を吸って一分の隙も無く色を変え、赤黒く染まっていた。
雄人は結び目を解き、乾いた包帯を剥がし始めた。直後、患者が悲鳴を上げた。
「ぐあっ!」
慎重にやっていてもなお、皮膚が包帯にくっついて剥がれてしまう。包帯を濡らしてから剥がせば良いのだが、無数の患者を前にそれを行うだけの余裕はなく、雄人はただ謝りながら包帯を替える事しかできなかった。
丸一日にも及ぶ作業が終了した時、雄人を含めた看護兵たちは疲労困憊の状態だった。しかし、まだ彼らの任務は終わってはいない。負傷者を収容した「氷川丸」は息つく暇もなく柱島を発ち、横須賀を目指した。
数日前に通った道を、「氷川丸」は逆方向に辿っていく。船は豊後水道を抜け、現在は土佐湾沖を航行している。
鰹の漁場で知られる豊かな海を、純白の船が横切る。「氷川丸」からも、数隻の漁船が操業しているのが見えた。
患者への昼食の配膳を終えた雄人は、船尾甲板に上がった。甲板へ続く扉を開くと、潮香の混じった風が吹き込んできた。
雄人は舷側の手摺に歩み寄り、そこにもたれかかった。三々五々に散らばる漁船を、ぼんやりと眺める。
そうして幾らかの時間が過ぎ去った時、耳馴染みの声が彼を呼んだ。
「雄人さん。こんな所にいたんですか」
白衣の裾を海風に靡かせながら氷川丸が近寄ってくる。
「もうお昼ご飯の時間ですよ。どうしたんですか?」
氷川丸が言うように、今は昼食の時間であった。しかし、雄人は食堂に向かう事なく甲板でぼんやりと時を過ごしていた。
「どうにも食欲が湧かなくてね」
疲れた笑みを浮かべながら雄人は答える。その表情から、氷川丸は大体の理由を察した。
彼の食欲がない原因は、恐らく、病室の凄惨な光景にある。全身に火傷を負った大勢の患者たちが呻き苦しむ姿と常に対峙していれば、食事が喉を通らなくなるのも無理はない。
「でも、何も食べないのは良くないです。看護する人が倒れたら、どうしようもありません」
そう言って、氷川丸は肩に掛けた鞄から包みを取り出した。それを開いて中身を雄人に差し出す。
「一緒に食べましょう。司厨室から持ってきました」
彼女が差し出したのは、おにぎりだった。丁寧に海苔を巻かれたおにぎりが解かれた包みの上に整然と並んでいる。
「これ、氷川丸が作ったの?」
「はい。炊飯器に残っていたお米を頂いてきました。お塩もちゃんとふってありますよ」
「はい、どうぞ」と氷川丸はおにぎりを一つ手渡す。食欲の湧かない雄人は最初、この申し出を断ろうかとも思ったが、人間の身体とは正直なもので、白い艶を光らせる白米を見るや腹の虫が盛大に鳴った。
「・・・それじゃあ、ありがたく頂こうかな」
照れ笑いを浮かべながら雄人はおにぎりを頬張る。無言で一個目を食べ終えた雄人は大きく頷き、舌鼓を打った。
「美味しいよ、これ」
「本当ですか?」
「うん。もう一つ貰ってもいい?」
「もちろんです」
二人は船倉のハッチに腰掛け、並んでおにぎりを食べ始めた。
「このおにぎりの作り方も、秋吉船長に教わったんです。『お客様にお出しする機会は無くとも、覚えておいて損は無い』って。他にも、幾つか料理を教わりました」
「例えば?」
「そんなに豪華なものではないですよ。余った材料を使って練習できる簡単なものです。もっぱら、三等のメニューに載るような料理です」
「えっと・・・その三等のメニューっていうのが分からないんだけど」
さらりと言った氷川丸に、雄人がおずおずと聞く。
「あっ、すみません」
氷川丸は顎に人差し指をあてながら、
「鮭の塩焼きに、胡瓜の酢の物に、他には・・・」
何品か例を挙げた料理は、どれも一般家庭の食卓に上りそうなものばかりだった。洋風料理の名前ばかりが出てくるかと思っていた雄人は、肩すかしをくらったような感じになった。
「三等の食事って、案外、庶民的なんだね」
「ええ。もしかして、客船の食事は三等までコース料理だと思ってましたか?」
氷川丸の問いに、雄人は自分の無知を恥じるように頷いた。
「てっきり、三等まで洋食づくしなのかと・・・」
「まさか!」
氷川丸は大きく手を振り否定の意を露にした。
「一等から三等まで全室コース料理にしたら、すぐに破産しちゃいますよ! 確かに一等の料理は豪華ですけど、一等客の運賃だけでは収支が合いません。一等だけに限って言えば、運行するたびに赤字なんです。船全体で見て、ようやく黒字になるんです」
「そ、そうなんだ・・・」
人が変わったように力説する氷川丸に、雄人は思わず気圧される。氷川丸は更に続ける。
「一等は客船の顔。一等船室の評価が、そのままその船の評価に繋がると言っても過言ではありません。だから、一等は赤字覚悟ででも豪華にします。そして、その分の埋め合わせを三等でするんです。一等と三等には、客室や料理にも大きな差があります。客船の運行を支えているのは、華やかな一等ではなく、三等なんです」
いつになく饒舌だった氷川丸は、言い終えた後で「すみません。少し話しすぎました」と恥ずかしそうに言った。
「ううん。そんな事ないよ」
雄人がフォローの言葉を入れる横で、氷川丸は気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。二人は再び、おにぎりを食べ始めた。
「それにしても、一等と三等でそんなに差があるなんて、初めて知ったよ。てっきり、みんな美味しい料理を食べてるのかと思ってた」
「『美味しい』のは変わりません。一等は『豪華な』料理が出るだけです」
まるで三等の食事は美味しくないと言われているような気がして、氷川丸は口を尖らせる。これが穿った見方であり、雄人に悪気が無い事はもちろん彼女も分かっている。しかし、帝国ホテルと並び賞される料理の味を誇る日本郵船の客船としてのプライドが、彼女に一言いわさずにはいられなかった。
彼女の口調から機嫌を損ねてしまった事を察した雄人は素直に謝る。それを聞いた氷川丸は、つまらない意地を張って彼に謝らせてしまった事を悪く思った。
「いえ。私の方こそ大人げない事を言ってしまい、すみません」
拗ねた表情から一転、青菜に塩を振ったようになる氷川丸。そんな彼女に、雄人は優しく言葉をかけてやる。
おにぎりを食べ終えた雄人は、仕事に戻るべく、腰を上げた。
「ごちそうさま。おにぎり、美味しかったよ」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
「それじゃ、僕は仕事に戻るとするよ。また後でね」
「はい。頑張って下さいね」
甲板をこつこつと歩き、雄人は船内に繋がる扉へ向かう。取っ手に手をかけたところで、雄人が振り返った。
「氷川丸」
「はい」
「また作ってきてもらっても、いいかな?」
「・・・はい!」
雄人が船内に消えてからも、氷川丸はしばらくハッチの上に腰掛けていた。僅かに綻んだ口元から、呟きがこぼれる。
「覚えておいて損はない、か・・・」
かつて聞いた言葉を思い返しながら氷川丸は一人ごちる。
「船長の言ってたこと、本当だったみたい」
氷川丸はくすりと笑うと、自室へと瞬間移動した。
余談だが、その後、「氷川丸」では炊飯器に残された米がなくなるという珍事が時折発生するようになったという。
作者「突然ですが質問です。明日、四月の二五日は何の日でしょうか?」
青葉「二五日? えっと、昭和の日……は二九日だった。祝日でもないし……いったい何の日なの?」
作者「ある人の誕生日です。ヒントは、我々二人にとって身近な人、といえば分かるかな?」
青葉「えっ…それって……」
作者「そう。四月二五日は貨客船『氷川丸』が完成した日なのです! つまり氷川丸の誕生日!」
青葉「おおっ! おめでとう、氷川丸!」
氷川丸「ありがと、青葉」
青葉「何かプレゼントあげないとね。日高一曹も、何かお祝いしてくれるんでしょ?」
氷川丸「(少し頬を赤らめながら)うん……」
青葉「いいなぁ。私も、誕生日とかお祝いしてくれる人がいたらなあ……うぅ……」
作者「えーと、青葉の愚痴が長くなる前に終わらせましょう。氷川丸、いいかい?」
氷川丸「あ、はい」
作者「この作品を読んでくれる読者の皆さんに心よりの御礼を。ありがとうございます」
氷川丸「ご意見・ご感想もお待ちしております」