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<第十四話>青い眼の患者

 ラバウルからトラックへ戻った「氷川丸」は休む間もなく次の目的地へと向かった。今度の行き先はグアムである。


 グアムは、ハワイと並び今日でも観光地として有名な場所だ。マリアナ諸島に連なるグアムは日本が統治する同諸島の中で唯一の米国領であり、太平洋戦争の開戦直後に日本軍によって攻略されていた。


 旅行のパンフレットでよく見るような、典型的な南国のリゾートの風景が広がるグアム。紺碧の海と純白の砂浜。照りつける太陽の日差しを受け、全てがきらきらと輝いて見える。砂浜には、椰子の木が整然と並んでいる。そうした色彩豊かな場所でも「氷川丸」の赤十字は目立っていた。


 元が貨客船だからか、「氷川丸」の姿はどこの港に入ってもよく映える。白い船体と赤い赤十字を纏っている事により、それはさらに強まる。しかし、できる事ならもっと違った立場で巡りたかったと、この船の艦魂である氷川丸は思っていた。


 今の彼女は病院船。海軍の船だ。彼女が訪れる土地の多くは、日本が占領した土地。彼女は、その土地を占領した軍隊の船としてそれぞれの土地へ赴いているのだ。


 氷川丸は、その事実に一抹の悲しみを覚えていた。彼女は元々、日本郵船の貨客船。お客を乗せ、国と国とを結ぶ船である。その交通は、本来、平和的で友好的なものだ。だが、戦争という非常事態はその交通を遮断し、破壊した。交通を結んでいた両者は一夜にして敵同士となり、憎しみ合う関係になった。


 そうした事態は、氷川丸から貨客船としての使命を奪った。彼女だけではない。世界中の客船が、その使命と誇りを剥奪された。そして、彼女たちは一様に、祖国から戦火に身を置く事を要求された。


 ――できれば、貨客船としてここを訪れたかったな――


 グアムの景色を眺めながら、氷川丸はその気持ちを強く思った。戦争中ではなく、平和な時にここを訪れる事ができたら、どんなに良かっただろうか。つい、そう考えてしまう。


 「・・・いけないな、こんな調子じゃ。今はただ、自分に課せられた任務を果たすだけ。平安丸にも、そう言ったのに」


 妹の前では力強く言ったものの、やはり本心は隠せない。自嘲気味な笑みと共に氷川丸は呟く。


 病院線「氷川丸」に、思わぬ患者が運び込まれたのは、そんな時だった――




 「おい! 誰か手伝ってくれ!」


 患者収容作業の最中。船上の一角から声が上がった。それを聞いた手空きの数人が、すぐに駆けつける。しかし、駆けつけた看護兵たちはその場所へ着くと一斉に驚きの表情を浮かべた。


 「ちょっと手を貸してくれ。俺たちだけじゃ運ぶのが難しい」


 そう言った看護兵長が連れていたのは、大柄な男だった。日本人ではない。金髪碧眼の、白人だった。


 「か、看護兵長・・・一体、どうしたのですか?」


 唖然としていた看護兵の一人が、ようやく口を開く。看護兵長は肩を貸している白人を目で指し示しながら答えた。


 「こいつが海に漂ってるのを、俺が見つけたんだ。助けたは良いが、舷梯を上るだけでも一苦労だ。ちなみに、もう一人いるぞ」


 言われた看護兵たちが舷門から海面を覗くと、舷梯につけたボートの上に、もう一人大柄な男が寝かされているのが見えた。


 「とにかく、まずは服を着替えさせて診察しなきゃならん。ほら、手伝え」


 日本人よりもずっと大柄な欧米人の体格に苦労しながらも、看護兵はどうにか二人の白人を船内に運び込んだ。ひとまず、二人は他の患者とは別の病室に入れられる事になった。


 しかし、ここでも問題が生じた。ベッドのサイズが合わないのだ。日本人の身長を基にしたベッドでは、長さが明らかに足りない。寝かせると爪先がつっかえてしまうのだ。そこで、ベッドを二つ縦に繋いで全長の不足を解消した。


 体格の違いは、衣服の面でも不都合を生じた。ベッドのサイズと同様に、患者用の白衣も彼らの体格に合った物を用意するのに苦労した。


 一通りの事が終わった所で、診察と聴取が行われた。その結果、収容された二人はアメリカ軍の航空兵である事が判明した。彼らは乗機が墜落し陸地を目指して泳いでいた所を「氷川丸」に救助されたのだという。


 敵国の兵士である二人は捕虜として「氷川丸」に収容され、日本へ移送される事になった。その間、彼らは別室に隔離収容される。病院船の院長である金井軍医大佐は捕虜に対しても丁重な扱いをするように言った。病院船は敵味方の区別なく全ての交戦国の傷病者を救助する事が義務づけられている。例え敵の兵士であろうとも、手を尽くして介抱するのが病院船の責務であった。乗組員たちも院長の言葉は初めから心得ており、二名に対し丁寧な対応をとった。


 収容された当初は不安の色を隠せていなかったアメリカ兵も、次第に落ち着いてきた。二、三日経つ頃には、だいぶ平静を取り戻していた。


 負傷者とはいえ、捕虜という位置付けなので、彼らの病室の前には見張りが立たされる。ローテーションを組んで、毎晩病室の前で番をするのだ。


 今夜の担当は、雄人だった。消灯後の薄暗い船内でただじっと扉を背にして立ち続ける行為はなかなか疲れる。日中仮眠を取ったにも関わらず漏れ出してくる欠伸を噛み殺しつつ、立番をする。はっきり言って、暇だ。しかし万一の事態に備えてここにいなければならない。


 「ふわあ・・・」


 堪えきれなくなった欠伸が口から零れる。深夜の病室巡回をする足音以外に人の気配が感じられない状況。こうして立っていると、この船には自分しか乗っていない錯覚にも陥る。今、雄人の耳に入るのは「氷川丸」を動かすディーゼルエンジンの駆動音だけだった。


 「本当に、僕しかいなかったりして」


 誰に言うともなく、雄人は一人ごちた。言ってから、本当にそうなのではないかと思った。もちろん、そんな事はある筈がない。だが、夜の静寂は雄人の冗談じみた呟きに奇妙な現実感を持たせた。


 「・・・まさか、ね。そして誰もいなくなった、なんて事は無いよね」


 確認するような口調で雄人が呟く。しかし、当然のように彼の呟きに答える者はいない。


 「・・・・・・」


 どこまでも続く静寂。堪えきれなくなった雄人が溜息を零そうとした時、不意に耳元に生温かい風が吹いた。


 「He went out and hanged himself and then there were none.(彼が自分の首を吊り、そして誰もいなくなった)」


 「うわあっ!?」


 「しーっ!」


 耳元に囁かれた声に驚いた雄人が大声を上げるのを誰かが咎める。見ると、三つ編みを揺らした少女が人差し指を口の前にあてて注意を促していた。


 「大声出したらダメです、雄人さん。患者さんが起きちゃいますよ」


 その容姿と声にようやく相手を認識した雄人は大仰な溜息をついて言った。


 「なんだ、氷川丸か。驚かせないでよ・・・」


 「雄人さんが驚きすぎなんです。雄人さんがあまりに大きな声を出すので、私まで悲鳴を上げそうになりました」


 「そりゃ驚くよ。深夜の、誰もいない船の通路で、いきなり耳元で囁かれたら誰だって腰を抜かすさ」


 「そうですか?」


 「そうだよ。立場が逆だった時の事を考えてみてよ」


 氷川丸は十秒ほど想像を巡らし、それからやにわに顔を青くし、


 「確かに・・・怖いです」


 「でしょ?」


 「すみません・・・。ほんの悪戯のつもりだったのですが・・・」


 申し訳なさそうに謝る氷川丸。と、部屋の扉が出し抜けに開いて白衣を着た米兵が顔を出した。


 「通路から大きな声が聞こえたが、何かあったのか?」


 いきなり開いた扉に、驚きの声を上げそうになるのを懸命に堪えている二人に構わず、米兵は質問する。雄人も英語の心得はそれなりにあったが、米兵の発する英語は訛りが強く、何を言っているのかさっぱりだった。


 「Well...」などと言って誤魔化す雄人の様子を見て取った氷川丸が、すかさず耳打ちする。


 「この人は、通路で大声が聞こえたけれど何かあったのかと聞いています」


 質問の内容を理解した雄人は、平静を取り戻して米兵に答えた。


 「寝ぼけてふらついていた患者が、巡回中の乗組員とはち合わせたんです。安眠を妨げてしまい、すみません」


 まさか普通の人間に対して、艦魂に驚かされて大声を出したとは言えない。雄人はとっさに思いついた答えを返した。しかし、当然というべきか米兵は雄人の返事の内容を訝しむ事もなく、言葉を返した。


 「いいや、気にしないでくれ。どうせさっきから起きていたしな。陸と飛行機の上しか経験が無いからか、どうにも船の揺れってのは慣れない。俺の相棒は、すやすや寝てやがるがな」


 米兵が部屋の中を指さす。


 「あの憎たらしいまでに気持ち良さそうな寝顔に、ケーキを投げつけてやりたいぜ」


 「それなら、とびきり美味しいケーキを用意しましょう。この船の厨房には、日本郵船のコックがいますから」


 雄人の言った「日本郵船」の言葉に米兵は耳聡く反応し、驚きとも歓喜ともつかない声を上げる。


 「ほう! NYKラインのか! そいつはいい。最高のケーキが作れるぞ。それを独り占めできるあいつは幸せ者だな」


 「ええ。羨ましい限りです」


 そう言って二人は笑う。深夜の病室に眠る患者を起こさない程度のボリュームに絞られた笑い声が、密かに船室に響く。一頻り笑い合った後、米兵はベッドに戻っていった。


 「ふぅ・・・。助かったよ、氷川丸。ありがとう」


 扉が閉まったのを確認してから、雄人は小声で言った。


 「それにしても、よくあんなに訛りの強い英語が聞き取れたね。艦魂は世界中のどんな言語でも理解できるの?」


 「まさか。艦魂同士ならば、国籍を問わずに意志の疎通ができますが、言語は自分で学びますよ。私は貨客船ですから、主要な言語は覚える必要があったので勉強しましたけど、あそこまで訛った状態では、普通は理解できません」


 「じゃあ、さっきのはどうして分かったの?」


 「あれはたまたま、あの人の訛り方が私のよく知っているものだったからです。アメリカ西岸、シアトル周辺のものです」


 「シアトルって、確か氷川丸の――」


 「はい。私と日枝丸、そして平安丸が就航していた航路です」


 雄人の言葉を肯定するように氷川丸が首肯する。


 「何度も現地に行って聞いた言葉ですから、私にとってはとても馴染み深いものです」


 氷川丸の話を聞いた雄人は納得した様子で頷いた。


 「ということは、彼はシアトルの出身ってわけだね。氷川丸の事も知ってるかな」


 「そうかも知れませんね。でも、多分気づいていないと思いますよ。貨客船時代と違って、今の私は全身真っ白ですから」


 同じく純白のナース服を翻しながら、氷川丸が言う。確かに、今の『氷川丸』の外観からは、貨客船である頃の姿を想像するのは難しい。あの米兵が『氷川丸』の存在を知っていたとしても、この船がそうである事には気がついていないだろう。


 「もしもこの船が『氷川丸』だと知ったら、驚くだろうね」


 「ふふっ。そうですね」


 真夜中の船内に、青白く照らされた笑い声がそっと響いた。


 余談だがその後、この船が「氷川丸」だと知った米兵はその変わりぶりに驚き、また故郷に縁ある船に救助された事に因縁めいたものを感じたという。




 朝まで病室の番をしていた雄人は、起床ラッパの音が鳴る頃にその任務から解放された。重い瞼を擦りながら雄人は自身の寝床である船倉・・・ではなく、上層の一等客室へと向かった。


 空き部屋とされている一室の扉を開けると、案の定そこには一人の少女がいた。室内に二つ置かれているベッドの片方、少女の腰掛けていない方へと雄人は迷わず歩み寄る。


 「氷川丸、ベッド借りるよ・・・」


 丁寧にベッドメイキングされたベッドにぼすんと倒れ込み、半ば事後報告気味に雄人が言う。そのだらしなさに怒るでもなく、氷川丸は「どうぞ」と優しく応じる。


 すぐさま寝息を立て始めた雄人に、毛布をかけてやる。本来、雄人のような下士官や兵は船倉に設けられた多段ベッドが寝所である。空き部屋とはいえ、士官用である一等客室のベッドで眠っている所を見られたら、ただでは済まない。しかし、昼夜を問わず患者の相手で忙しい病院船の乗員には空き部屋ひとつに注意を向けるだけの余裕はない。発見される可能性は低い。


 一日の活動を始めた船内に様々な音が溢れ出す。しかし、部屋の中にはその喧噪も届いてこない。遠くに聞こえる音が、漣のように鳴っている。


 氷川丸は椅子に座り本を読み始めた。一等の読書室から拝借してきた本だ。静かな寝息をたてる雄人の横で、氷川丸は黙々と読書をする。


 一等とはいえ、限られたスペースしかない船の客室はそれほど広くない。その部屋の中で若い男女が二人きりという状況は、普通は意識せざるを得ない。だが、氷川丸がこの状況を変に意識する事は無かった。


 氷川丸は本から目を離し、雄人の寝顔を見つめた。思えば、前にもこれと同じ構図が生まれた事があった。あれはまだ二人が出会って間もない頃。船倉での寝心地に慣れず、重度の寝不足状態だった雄人に、氷川丸がベッドを貸してやったのだ。あの時も、その状況を変に意識しはしなかった。


 もしかすると、自分は彼に対して深く信頼を寄せているのかも知れない、と氷川丸は思った。それも、かなり最初の段階から。今まで自覚はしていなかったが、不意にそう感じた。


 日高雄人。最初はどこか頼りないようにも思ったが、今は違う。彼は自分の事をとても大切に思ってくれていて、自分もまた彼の事を大切に思っている。彼と一緒にいる時は心が安らぐし、また楽しくもある。父と慕う初代秋吉船長とはまた別の意味――もっと身近な存在として――で、氷川丸は彼に惹かれている。


 ――この人となら、この戦争も乗り越えられる――


 眠る雄人の顔を眺め、氷川丸はそう確信した。

 作者「ふぅ・・・。それにしても、昨日は揺れたな」

 氷川丸「東北地方で発生した大地震のことですね」

 作者「最大震度7だなんて、尋常ではないよ。長野の方でも別の大地震が発生したそうだし」

 青葉「宮城の地震は、マグニチュード8.8だったけ。関東大震災より大きいなんて冗談じゃないよ」

 氷川丸「作者さんの住んでいる所は大丈夫でしたか?」

 作者「幸い、震度4で済んだよ。停電と断水は起こったけど、揺れによる建物の被害は無かった。家の中も無事。水も電気も今日の朝には復活したし。ただ、震源地の被害の大きさには目を覆うばかりだよ・・・」

 氷川丸「そうですね・・・。今はただ、被災者の方々の無事と早期の復興を祈るばかりです」

 作者「同感だよ。さて、暗い雰囲気になってしまったけど、そろそろ締めようか。青葉、明るく頼むよ」

 青葉「はいはいっ、任せといて! この作品を読んでくれる読者のみなさんに心よりの感謝を。ありがとう! 次回もよろしくね!」

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