<第十三話>ラバウル入港
パラオでの患者収容任務を果たし、トラックへの道を急いでいた「氷川丸」だったが、その道中で第四艦隊司令部から彼女へ追加の命令が下された。曰く、トラックへの帰投を取り止め、ラバウルへ向かうようにとの事だ。「氷川丸」は針路を変更し、ラバウルへと舳先を向けた。
ここで、これまでの戦況の流れを整理しておきたいと思う。
昭和一六年十二月八日に開戦した太平洋戦争は、日本軍の真珠湾への奇襲攻撃とマレー半島への上陸によって火蓋を切った。開戦二日後の十二月十日には、「マレー沖海戦」と呼ばれる海戦が勃発し、海軍航空隊の陸上攻撃機が英国東洋艦隊の戦艦二隻を撃沈する大勝利を収めた。
同年中に日本は香港やグアムの攻略に成功し、年が明けてからは更にマニラやシンガポールも手中に収めた。シンガポール陥落の際、陸軍司令官の山下奉文中将が「イエスかノーか」と降伏を迫ったという話は有名である。開戦から数ヶ月。かつて聖徳太子が「日出ずる処の国」と表したように、昇りゆく朝日の如き勢いで日本軍は破竹の快進撃を続けていた。
「氷川丸」がこれから向かうラバウルも、日本軍の猛烈な進撃の中で落とされた拠点の一つである。しかし、このラバウルは単なる拠点の一つではなかった。ニューギニア島の東に隣接するニューブリンテン島。ソロモン海に面したこの島の北端に位置するラバウルは、戦略上極めて重要な価値を持つ、言わば扇の要のような存在であった。
ラバウルが戦略上大きな意味を持っている理由は、その地理的環境にある。ラバウルが位置するニューブリテン島は、西にニューギニア、南にオーストラリア、東にソロモン諸島を臨む環境にあり、南洋諸島の中心のような場所だ。ここを取れば、それらの地点への絶好の攻略拠点となる。日本としては、是が非でも落としたい場所であった。
一方、米軍にとってもラバウルは価値のある存在だった。ラバウルの北には、日本海軍の前線基地であるトラックがある。その距離は千五百キロほど。アメリカがここを手に入れる事ができれば、敵の喉元に刃を突きつけるも同然の状態となる。
また、ラバウルには大艦隊が停泊できるほどの大きさを持った港があり、飛行場の建設に適した平地もあった。充実した艦隊泊地と飛行場を構築する事ができるラバウルは前線基地として大きな価値を持っていた。
つまり、ラバウルは日米両軍にとって敵拠点への攻略の足掛かりとなる、絶対に無視できない土地なのだ。日本は早期にここを攻め落とす事を考え、第一航空戦隊(空母「赤城」「加賀」)、第五航空戦隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」)、そして護衛の第三戦隊(戦艦「比叡」「霧島」)を中核とした艦隊を派遣して攻略にあたった。前に「氷川丸」がトラックに入港した時、出撃を見送った艦隊はこのラバウル攻略のためのものだった。後に空母「飛龍」「蒼龍」から成る第二航空戦隊も合流し、真珠湾攻撃と同様の布陣で陸軍の上陸を援護した。投入した兵力の規模から、日本軍が如何にラバウル攻略に熱意を燃やしていたかが想像できる。
機動部隊の強力な援護の下で上陸した陸軍は現地のオーストラリア軍を瞬く間に撃破。一月二三日にはラバウルの占領に至った。日本軍は直ちに基地の設営に乗り出した。この地に置かれた航空隊こそが、後に「ラバウル航空隊」としてその名を轟かせる部隊である。精強をもってなるラバウル航空隊からは多くのエースが生まれた。「大空のサムライ」の著者、坂井三郎もその一人である。最終的に、終戦の日までラバウルが連合軍の手に落ちる事はなかった。
「氷川丸」がラバウルへの行程にある最中も、ラバウル周辺では戦が起こっていた。
ラバウルを陥落させた日本軍はニューギニアへの進攻を開始。三月八日には東岸のラエやサラモアを占領した。それに対して敵も黙っている筈はなく、十日には連合国軍の爆撃機がそれらの地域への空襲を行い、輸送船四隻を喪失、軽巡「夕張」などが損傷する損害を受け、死傷者も多数出た。「氷川丸」がラバウルに到着したのは、そうした時期だった。
入港した「氷川丸」を迎えたのは、もくもくと噴煙を噴き上げる活火山だった。港からもよく見える位置に一つの山があり、盛んに煙を噴き出している。
「雄人さん、あの山、煙を出していますよ」
舷窓から火山を覗く氷川丸が言う。雄人は腰掛けていたベッドから立ち上がり、舷窓に寄った。
「本当だ。かなり高い所まで上がってるね」
濛々と立ち上る噴煙を眺めながら雄人が言う。
「・・・噴火したり・・・しないですよね?」
おずおずと氷川丸が聞く。
「怖いの?」
「・・・はい」
「僕は自然学者じゃないから分からないけど・・・多分、平気だと思うよ。本当に危険な状況だったら、僕たちも入港できていない筈だし」
「それもそうですね」
氷川丸が安堵の表情を浮かべかけた瞬間、ぶわっ、と山の頂から煙が勢いよく噴き上がった。
「きゃっ!」
思わず氷川丸は雄人に縋り付く。その頭を撫でながら雄人は安心させるように言う。
「大丈夫、噴煙が上がっただけだよ。噴火はしてない」
そう言うと、ようやく氷川丸は顔を上げた。そして窓の外を確認し、火山が噴火していない事を認識すると、ほっと安堵の息を漏らした。
「それにしても、こうも噴煙が上がってるようだと、島の中は火山灰だらけだろうなぁ。ここに配属された人たちは大変だ」
窓の外を眺めながら雄人が呟く。断続的に立ち上る噴煙を見ていれば、島内に火山灰が降り積もっているであろう事は容易に予想がついた。
その予想は見事に当たった。入港翌日に上陸の機会を得た雄人はラバウルの街を散策する事にした。しかし、パラオの賑わいとは正反対にラバウルの街には何もなく、一面灰にまみれた風景が広がるばかりだった。民家の屋根はもちろん、並木の葉の上まで灰色に覆われている。
おまけに歩いている最中でも空からは火山灰が降り注ぎ、風が吹けば地上に積もった灰が舞い上がる。とても楽しめるものではない。
さらに間の悪い事に、雄人が道を歩いている所へトラックが走ってきた。歩くだけで軽く灰が舞う状況でトラックが通りかかったら、どうなるかなど火を見るよりも明らかだ。案の定、雄人は嵐のように巻き上がった灰に襲われた。結局、見るものも無く灰を被っただけでこの日の上陸は終わった。
ラバウルの攻略は抵抗らしい抵抗を受ける事も無く済んだため、現地の病院から移送する負傷者はいなかった。代わりに、ニューギニア方面の戦闘で発生した負傷者を収容する任務が待っていた。「氷川丸」が急遽、ラバウルに回されたのも、それが主因だった。
負傷者の搬送を待つために「氷川丸」は、ラバウルに一週間ほど停泊した。その間に、敵の空襲があった。
ある日の朝の事だった。朝食を終え、一日の仕事が始まろうとする朝八時。突然、「舷窓を閉め!」と号令がかかった。
船内に響いた号令に、しかし雄人を含めた乗組員たちはすぐには反応できなかった。皆、かかった号令の意味が理解できずに数秒の間そこに佇んだ。
だが、直後、彼らの思考を吹き飛ばすような爆音が遠雷のように轟いた。
「総員、部署前に整列! これは訓練ではない。総員、部署前に整列!」
船内放送を通して船内に命令が伝わる。ここでようやく、乗組員たちは本当に空襲が起きた事に気づいた。全員の顔に緊張が走る。急いで身近な所にある舷窓を閉め、乗組員たちは各々の部署に集まる。
その間にも、船内の放送は外の状況と命令を伝えてくる。
「敵爆撃機が来襲。現在、基地航空隊および陸上の高角砲が応戦中」
「乗組員は船内に退避。部署前にて待機し、決して甲板に出ない事」
「不測の事態が発生した場合は患者の安全を第一に考え、行動せよ」
自身の所属部署前に到着した雄人は、それから病室へと向かった。患者が恐慌状態に陥らないようにするためである。
しかし、それは杞憂に終わった。病室の患者たちはみんな泰然として構えており、空襲の知らせに混乱する様子もない。白衣を着ていても、彼らは日本の軍人なのだ。雄人は改めてそれを思った。
遠くから高角砲の射撃音と敵機のエンジン音、そして投下された爆弾の爆発音が聞こえる。雄人は固唾を飲んで時を過ごした。小さく丸い舷窓から見えるものは少なく、外の様子を正確には把握できない。それが余計に不安を煽る。病院船は身の安全が保証されているとはいえ、絶対のものではない。誤爆でもされた時には、防御のない病院船は大きな被害を受ける。患者の中にも、緊張の色を浮かべる者がいた。
空襲は、比較的早めに終わった。襲ってきた敵機の数が少なかったのだろう。船内放送で敵機が去った事が告げられると、船内にほっとした空気が広がった。
再び部署前に整列し、解散した雄人は真っ先に氷川丸の所へ向かった。部屋の扉を開けると、そこに彼女の姿はなかった。
「氷川丸?」
部屋に入った雄人は名前を呼んでみるが、返事は無い。氷川丸がどこへ行ったのか考えていると、突然部屋の一隅に光が生じた。光は収束し、人の形を成す。
「お帰り、氷川丸」
光が消え、現れた少女に雄人は声をかける。
「あ・・・ただいま、です」
呆気にとられた様子の氷川丸が返事をする。
「雄人さんが部屋にいるとは思いませんでしたから、少し驚きました」
「氷川丸の事が心配だったから。大丈夫だった?」
雄人の問いに氷川丸は頷く。
「はい。平気です」
「どこに行ってたの?」
「船橋です。船長さんたちと一緒に、空襲の様子を見てました。味方の大砲が何機か落としていました」
「被害は大きそう?」
「ここからでは、何とも。ですが、そう大きくはないと思います」
氷川丸の言う通り、この空襲による被害は小さなものだった。「氷川丸」は数名の負傷者を受け入れ、さらにニューギニアから搬送されてくる負傷者を待った。
数日後、ようやく負傷者を乗せた輸送船がラバウルに到着した。「氷川丸」は輸送船と接舷し、直接負傷者を収容した。迅速に患者の移送を完了させ、その日のうちに「氷川丸」はラバウルを出発した。ラバウル在泊中に空襲を受けた事もあり、帰路の見張りは特に厳重なものになった。特に、潜水艦への警戒は絶対に怠らないようにされた。
幸い、敵の潜水艦や飛行機に接触される事も無く「氷川丸」は無事トラックへと帰る事ができた。
青葉「今回はラバウルかあ。ラバウル航空隊って歌にもなってたよね。『銀翼連ねて南の前線~♪』って」
氷川丸「私は貨客船だから軍歌にはあまり縁が無いんだけれど・・・そういえば、軍艦の艦魂はみんな軍歌を覚えていたりするの?」
青葉「うーん、人によってまちまちかな。歌うのが好きな艦魂はかなり覚えてるけど」
氷川丸「青葉はどうなの?」
青葉「私は結構覚えてる方だよ。歌うの楽しいからね。氷川丸にも今度教えてあげよっか?」
氷川丸「そうね。お願いしようかしら」
青葉「何から教えようかな・・・。やっぱり最初は軍艦行進曲だね。あれは名曲だよ。次は・・・」
作者「はいはい。話の腰を折るようで悪いけど、そろそろ後書き終わらせるよ」
青葉「むう・・・いい所だったのに」
作者「そう膨れない。後書きが終わったあとで続きをやればいいだろ?」
青葉「それもそうだね。そんじゃ、ちゃちゃっと終わらせよっ!」
作者「切り換わりの早い奴だなぁ・・・。まあいいか。この作品を読んでくれる全ての方に心よりの感謝を申し上げます。次回もお楽しみ下さい」
青葉「意見・感想もよろしくね!」