<第十二話>二度目の航海
横須賀海軍工廠で修理を終えた「氷川丸」は二二日朝、横須賀を出港した。向かう先は日本海軍の前線基地、トラック諸島である。
朝冷えする空気の中、「氷川丸」は浦賀水道を下る。凪の海は穏やかで、船の動揺は殆ど無い。左手には房総半島の峰々が聳え、山の端を東雲色に染め上げている。
冬の遅い朝日を受けて純白の船体を彩る「氷川丸」の姿は、水道を行き交う船の中でも一際鮮やかだ。特に、彼女の責務を表す舷側の赤十字は周囲の視線を彼女に集めた。
この船の艦魂、氷川丸は、その様子を見て照れ笑いを浮かべた。
彼女は船の艫から水道の風景を眺めていた。初めは朝焼けの房総半島の眺望を楽しんでいたのだが、その内、やけに視線を感じるようになった。見ると、行き交う船々の視線が自分に集まっていた。
見られる事は、別に嫌いじゃない。自身を眺めて「綺麗な船だ」と言ってもらえれば、それは嬉しい。けれど、こうも沢山の船から眺められては流石に少し恥ずかしい。氷川丸は視線を逃がすように三浦半島の山を見た。
「あ・・・」
その時、氷川丸は小さな声を漏らした。半島の先端に、真っ白な灯台が建っていた。観音崎灯台である。
「氷川丸」の船体と同じ純白を身に纏った灯台は、彼女に数ヶ月前の記憶を思い出させた。
病院船となった「氷川丸」が初の任務に赴いたのは今から三ヶ月ほど前の事だ。その時に見た灯台と今日の灯台は、雰囲気がまるで違っていた。
三ヶ月前、遠ざかる陸地に見た観音崎の灯台は得体の知れない不安感を氷川丸に抱かせた。岬の先にぽつんと一つ建つ灯台が、大海原を一人進む自分に重ね合わされたからだ。孤独な気持ちを掻き立てられ、無性に寂しくなった。
しかし改めて見る灯台からは、そうした印象は受けなかった。寧ろ、背中を押される気分にさえなる。半島の突端に聳える白い灯台に安心感と頼もしさを感じた。
この違いは如何なるものだろうか、と氷川丸は考えた。そして、心持ちの違いなのだろうと結論づけた。
初の出動時、彼女の心を支配していたのは不安感だった。病院船という身の安全を保証された船とはいえ、戦場では何が起こるか分からない。もしかしたら沈められるかも知れない。そんな不安があった。夜間航行時は潜水艦に見つからないよう、本来点灯させるはずの赤十字灯をつけないほどだった。
しかし、今は違う。戦場への恐怖は変わらずある。けれど、それ以上に使命感のようなものが強くあった。戦いに傷ついた人々を助け、生命を救う。トラックで目の当たりにした空襲の様子、収容した患者の痛々しい姿――戦争の一部を垣間見て、現実を知った。知ったからこそ、氷川丸はその気持ちを強く思った。
浦賀水道を通り抜けた「氷川丸」は航海速力へ速度を上げた。背後に霞む陸地に別れを告げ、船は南へ舳先を向けた。
「氷川丸」が内南洋トラック諸島に到着したのは、横須賀を出港してから五日後の二七日の事だった。到着早々、「氷川丸」は司令部からの命令を受領した。
『パラオに向かい負傷者を収容の上、なるべく速やかにトラックに帰投すべし』
命令を受けた「氷川丸」は手早く補給を済ませるとパラオへ向かった。パラオはトラックの西、フィリピンの東に位置する島であり、トラックと同じく多数の小島から成り立つ。トラックと同緯度に位置し、緯度は十度もない。赤道直下、生粋の南洋の島である。島の南方にはニューギニア島、そしてオーストラリア大陸が控えている。
トラックを出た「氷川丸」は三月三日、パラオに入港した。
内地ではちょうど桃の節句が祝われている日。日本から遠く離れたパラオでも、その光景は見られた。パラオやトラックといった島々は第一次世界大戦後に日本の委任統治領となっており、大勢の人々が移住していた。日本から移り住んだ人々の中で女児を持つ家庭では、華やかな祝儀が催されていた。
とはいえ、海上の移動病院である「氷川丸」には陸地での祭りは無縁の存在であった。もし「氷川丸」に小児科が存在し、そこに小さな女の子でも入院していたのなら話は別であっただろうが、この船の役割から見て、それは有り得ない話だった。
負傷者の収容・治療、後方への移送、前線での防疫・医薬品補充など様々な任務をこなす病院船には、陸上の総合病院にあるような一通りの設備が備わっている。外科内科はもちろんの事、歯科に耳鼻科、薬局にレンントゲン室も設けられている。しかし、小児科はなかった。理由は簡単だ。設置する必要が無いからだ。
病院船の主任務は、負傷した軍人の救命にある。収容するのは軍人のみである。当然ながら、軍隊に属する者の中で小児科にかかるような年齢の者はいない。それならば、小児科を置く理由は無い。当たり前といえば当たり前の話である。
加えて、「氷川丸」に乗っている人間は、みな男性である。病院船の中には赤十字の女性看護婦を乗せている船もあったが、「氷川丸」の場合は全員男性であった。だから、女子の節句である雛祭りには一切合切、縁が無い。
しかし、この船にも女性は一人、乗っていた。他でもない、この船の艦魂である氷川丸だ。外見は十代中頃の少女であり、大人びたしっかりした性格の彼女だが、そうしたお祭り事はやっぱり楽しみたかった。
「一度でいいから、雛人形を飾って雛祭りを祝ってみたいです」
「やっぱり、そういうのには憧れる?」
「それはまあ。私も女の子ですから」
嘆息して呟いた氷川丸は雄人の問いに頷く。パラオに到着はしたものの、まだ患者の収容は始められていない。準備は既に済んでいるので、二人は余分の時間を港内の眺望を楽しむ事に費やしていた。
「客船だった頃は船内で雛祭りとかやらなかったの?」
「端午の節句に、マストに鯉のぼりを揚げる事はしました。ですが、雛人形は飾りませんでしたね」
「そうなんだ。でも、客船って社交室とかあるよね? そこに雛人形を飾るスペースくらいはあるんじゃないの?」
何気ない気持ちで雄人は聞いた。しかし、それを聞いた氷川丸は目を見開いて驚いた。
「とんでもない!!」
血相を変える氷川丸に雄人は驚いたが、彼女の次の言葉にその理由を理解した。
「シアトル航路の荒れ具合は、世界でも有名なんです。特にアリューシャン列島の鼻先を掠める辺りは特に酷いです。私なんて、左右に三十度揺れた事もあるんですよ?」
「さ、さんじゅう・・・!?」
氷川丸の示した数字に雄人は絶句する。三十度といえば、それは猛烈な揺れである。この位の傾斜になると、立っている事さえ難しい。無論、優雅な船旅など期待できよう筈もない。
「プロムナードデッキの手摺が波を受けてひしゃげたり、一等ラウンジのグランドピアノがひっくり返ったりもするんですから。波が煙突の中に入った時は、さすがに肝を冷やしました」
氷川丸が語る航海の様子を聞き、雄人は言葉を失う。初任務で通った南の海しか知らない雄人には想像もできない過酷な状況だった。
「そんな感じですから、船内に雛人形を置くなんて事はできません。置いてたとしても、ひっくり返ってしまいます」
「そうだね・・・」
自身の想像を遙かに超える話に雄人は返す言葉も無くただ頷く。
そこで会話が一度途切れ、無言の時が訪れた。景色を眺めるだけの静かな時間が流れていく。
パラオはトラックと同様、日射量に恵まれた熱帯の土地である。しかし、その景観にはどことなく日本を思わせるものがあった。
その一つが、松である。船から見る島々の海岸線には、どこも松の木が並んでいた。駿河の景勝、三保の松原を想起させる風景にここが内地ではないのか思う者もいた。
逆に、この地独特の景物もある。それが、奇妙な形の岩の群れだ。
停泊中の船から周囲の島々を望むと、その周りに点在するものが見える。よくよく目を凝らすと、それらが海面から頭を出した岩だという事が分かる。荒々しい岩肌は洗練された美しい景観の中で一種のアクセントとなっている。
面白いのは、その形だ。海面から突き出た岩は、殆どがキノコのような、根本の括れた形をしている。元々は山なりの形をしていた岩が、波に洗われている内にキノコ形になったのだ。愛らしい見た目をした岩たちは、自然が生み出した豪快な彫刻作品なのだ。
湾内の風景はどれも特徴的でいくら見ていても飽きがこない。しかし風景ばかり見ている訳にもいかない。彼らには仕事があるのだ。
入港後、患者受け入れ準備と小休止に数時間を費やしてから「氷川丸」は患者の収容を開始した。
桟橋に横付けした船へと負傷者が担ぎ込まれていく。軽傷者は舷梯から、動かせない重傷者はデリックを使って収容する。一度目の航海を経て、乗組員たちも作業に慣れてきていた。二人掛かりで担架を運ぶ際の息もぴったりと合っている。患者は入港日から翌日にかけて全員収容された。
患者収容を終えた次の日は、全ての乗組員に外出が許可された。押し合いへし合い、乗組員たちは競って上陸していく。
日本の委任統治領となった南洋諸島の中でも、パラオには多くの人々が移住しており、その人数は二万人を超える。そして、このパラオは昔から艦隊の休養地として有名であり、島内の娯楽施設はトラックのそれを遙かに上回っていた。
桟橋に横付けした「氷川丸」から舷梯を伝って上陸した兵士たちは白浜青松を横に見ながら島の大通りへと足を向ける。きれいに舗装された道路が真っ直ぐに延びる大通りは、いわゆる商店街であった。左右の歩道に連なる建物には衣服や酒など店の売り物を示す看板が下げられている。通りは島に住む人々の活気で溢れ、よく賑わっていた。
ここで一部の兵士が店に入り、買い物に興じだす。しかし大部分の兵士は大通りでは立ち止まらずに一本路地を入った裏通りへと向かった。
裏通りはレストランやカフェが集まる歓楽街であった。どこからともなく流れてくる美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。道の所々にアイスクリームを食べ歩く人の姿が見える。食べ物、特に甘い物に飢えていた兵士たちはカフェや茶屋に押し寄せる。たちまち人の山ができた。
甘い物をたらふく食べた兵士たちは、ここでようやく表通りに戻って店を覗く。通りに並ぶ店々では、衣類や酒、菓子など内地では既に配給制となってしまっている物品が自由に買えた。戦争が始まってからも、南洋諸島では戦前とほとんど変わらぬ生活がのんびりと続けられていた。
夕日が沈む頃、上陸と買い物を心行くまで楽しんだ兵士たちが戻ってくる。誰も彼も、上機嫌な様子だった。
「雄人さん、上陸中に何かいい事でもありましたか? 何だかとても幸せそうな顔をしています」
帰船後、氷川丸と話していた雄人は彼女にこう聞かれた。
「そんな顔してる?」
「ええ。とっても」
氷川丸がそう答えると雄人は苦笑した。
「それほど大きな事でも無いんだけどね。島で甘い物を沢山食べられたから」
「甘い物、と言いますと?」
「アイスクリームに蜜豆。あ、御団子や御饅頭もあったね」
「・・・他には?」
「内地で食べられるお菓子は、大体あったよ・・・って、氷川丸?」
氷川丸の質問に答えていた雄人は、ふと鋭い視線を感じて言葉を止めた。見ると、氷川丸がどこか恨めしげに雄人を見つめて・・・いや、睨んでいた。
「氷川丸?」
「・・・ずるいです」
「え?」
「ずるいです!」
がしっ、と氷川丸は雄人の両肩を掴んだ。
「どうして私にも買ってきてくれなかったんですか! 雄人さんだけ美味しい物を食べてくるなんてずるいですっ! 私だって甘い物は大好きなんですよ!」
「ちょっ・・・、落ち着いて!」
がくがくと自分の肩を揺らす氷川丸を雄人はどうにか宥めさせる。
「いきなりどうしたのさ。氷川丸」
猛烈に揺すられて若干くらくらする頭をいたわりながら雄人が聞く。氷川丸は詰問するような口調で言う。
「どうして雄人さんだけ甘い物をたくさん食べてきたんですか。私もアイスクリーム食べたかったです。なんで買ってきてくれなかったんですか」
「・・・と、言われてもねぇ・・・」
雄人は困ったように頭を掻き、それから
「買ってきても良かったけど、それでも多分氷川丸は食べられなかったと思うよ」
「どうしてですか」
「この暑さだもの。船に持って帰るまでに溶けちゃうと思うよ」
無言。
氷川丸は最初、「しまった」という風な表情をし、それからそんな簡単な事にも思い至らなかった事を恥じるように顔を赤くした。
「・・・雄人さん」
「なに?」
「すみません。理不尽な事を言ってしまって。少し取り乱してしまいました」
「ううん。気にしないで」
少しどころじゃないよ、という心の声は胸の内にしまっておく。
「僕の方こそ、何もお土産買ってこれなくてごめんね」
「いいえ。気になさらないで下さい。雄人さんのお話が聞けるだけで私は楽しいですから」
氷川丸が笑みを浮かべる。さっきまで物凄い剣幕で雄人を責め立てていたとは思えない変わりぶりだ。
その変貌に内心で驚き半分、恐れ半分しながら雄人は適当に返事をしておいた。
翌日の六日、「氷川丸」はパラオを出航し、トラックへの帰路についた。「なるべく速やかにトラックに帰投すべし」という司令部からの命令が、「氷川丸」に早目の出航を促した。
賑やかなパラオの街を惜しみながら「氷川丸」は島をあとにした。
作者「2011年最初の投稿です。皆さん、今年も宜しくお願いします」
青葉「あけおめ~・・・って言うには、もう遅いね。元旦から二週間も経っちゃってるし」
氷川丸「鏡開きも終わってしまいましたしね。むしろ、この土日はセンター試験です。作者さんも、今年の春からは受験生でしたっけ?」
作者「そうだね。あー、今から憂鬱だなぁ・・・」
青葉「早めに決まればいいね」
作者「そうである事を祈るよ。来年の冬休みが勉強一色というのは、回避したい」
氷川丸「冬休みといえば、今年は何をして過ごしたんですか?」
作者「郵便局で年賀状配達のアルバイトをしたよ。中働きだけどね」
青葉「へぇ~。どんな事したの?」
作者「集められた年賀状を、家ごとに仕分けていく。それを『組立』って言うんだけど、結構大変だったよ。機械で大体は分けられているから楽ではあるんだけど、同じ苗字の家が並ぶとややこしい」
青葉「うわぁ~。私には無理だ」
作者「もし間違えたら、その家には元旦から他人の年賀状が届く事になるからね。下手はできないよ」
氷川丸「責任重大ですね」
青葉「大変だねぇ・・・。さて、んじゃそろそろ終わらせよっか」
作者「そうするかな。二人とも、頼むよ」
氷川丸「はい。この作品を読んでくれている全ての方に心よりの感謝を申し上げます」
青葉「意見・感想もよろしくね~」