<幕間>氷川神社参詣記
横須賀という街は今も昔も軍港の街として栄えている。今でこそ在日米軍の基地がある場所という認識のされ方をしているが、戦前は現在海上自衛隊と米軍が使用している面積よりも広い範囲が海軍の用地となっていた。
横須賀は、古くから城下町や湊町として栄えてきたわけではない。明治の開国以前は、田舎であった。それが、開国以来、急速に開発されていった。そのためか、横須賀には城下町から発展した都市に見られるような名所旧跡といったものは見られない。この街の開発は、専ら軍港としての能力の拡充に重点が置かれていた。
昭和二年、宇野浩二が『中央公論』に発表した『軍港行進曲』という小説には、次のように書かれている。
『どういう訳か、横須賀と言う町には宿屋らしい宿屋がないのだ。恐らく日本の中で、市と名のつく市で、横須賀ほど宿屋のない町は少ないだろうと思う。多分横須賀に泊まって何処へ見物に行こうという所がないのが一つだろう。汽車は大船から一本の道でそこが行き止まりになっているが、そこは唯軍港があるだけで、商業も工業もない。』
このように殺風景な街だったから、京都のような風光明媚は望むべくもない。一応、久里浜や三浦には海水浴場もあるし、衣笠にはかつて三浦氏が拠点とした衣笠城の跡もある。だが、当時はそれらの場所まで鉄道が走っておらず、足を運ぶのは少し面倒だった。ちなみに、久里浜は黒船のペリー提督が上陸した地として歴史にその名を留めている。当地には提督の上陸記念碑も建てられている。
帝都東京と軍都横須賀を結ぶ国鉄横須賀線は、軍事上の重要路線と位置付けられ早くから整備が行われてきた。線路の複線化も積極的に進められ、当時はまだ少ない電車も導入された。後には、戦局の悪化に伴い各地の地方路線が不要不急路線として廃止される中で逆に横須賀~久里浜間を新たに開業した。尚、この区間だけは資材と工期の関係から複線とする事はできず、現在に至るまでずっと単線のままで営業している。
横須賀線が優遇されているもう一つの理由としては、沿線の住宅事情が挙げられる。逗子、鎌倉、葉山といった町には比較的裕福な家庭が暮らし、別荘地としても名が知れていた。特に、葉山には皇室の御用邸が存在し、御召し列車も運行される事から郊外路線としては高く格付けされていた。
軍都横須賀の玄関口である国鉄横須賀線横須賀駅は、逸見の波止場に近い位置にある。すぐ近くには衛兵の詰める守衛門があり、軍港都市としての雰囲気を感じさせる。
この横須賀駅は、少し珍しい構造をしている。駅舎に段差が一切存在しない、つまり階段の無い駅なのだ。改札口を通ると、目の前はもうホームである。この当時、駅舎を設計した人々が意識していたかどうかは知る由も無いが、今日の言葉で言えばバリアフリー構造の駅舎である。
潮の香りが漂う早朝の横須賀駅。そのホームに、大勢の男たちがいた。人数はかなり多い。二百人ほどはいようか。その誰もがきっちりと粧し込み正装をしている。鉄骨支えの屋根の下、正装の男たちは整然と列車を待っている。
やがて、ファンッ、と警笛を鳴らしながら電車が駅構内へ進入してきた。ブレーキの音を軋ませて電車が停まると扉が開き、中から乗客が降りてきた。その中には海軍の軍人も混じっている。横須賀駅行だった列車は折り返し東京行となり、正装の男たちは数両の車両に分かれて乗車した。運転手と車掌の交代を済ませ、発車準備を整えた列車は警笛を一つ鳴らし横須賀駅を発車した。
国鉄横須賀線の三等車両の車内から、日高雄人は外の景色を眺めていた。といっても、流れる景色はしょっちゅう暗黒に塗り潰され、満足に楽しむ事はできない。
山がちな三浦半島の地形から、横須賀線には隧道が多い。軍歌『敷島艦行進曲』の中でも、
『隧道つきて顕わるる
横須賀港の深みどり
潮に浮かぶ城郭は
名も香しき敷島艦』
と歌われている。
何本もの隧道を抜け、ようやく横須賀の港に辿り着く。初めて横須賀へやって来る人は「いったい幾つあるんだ」と思うことだろう。
先ほど抜けた隧道は、抜けるのに一分以上もかかった。「氷川丸」乗り組みを命ぜられて横須賀へ赴いた時も感じたが、横須賀は隧道だらけだ。よくもまあこんな所へ線路を通したものだと思う。
驚きと感心の入り交じった表情で流れる景色を眺めていると、隣に座っていた同僚の吾妻司一等看護兵曹が声をかけてきた。
「なあ、雄人よ。トランプやらねえか?」
「いいけど、何やるの?」
「ポーカーだ。野田、高木。お前等も入れ」
吾妻は向かいに座っていた二人の看護兵、野田と高木を半ば強引に誘い込み、ポーカーを始めた。横須賀線に配備されているモハ32系列車の座席は向かい合わせのボックスシートとなっており、ゲームをするには持ってこいの座席配置となっている。
「負けた奴は向こうで昼飯奢る。良いな?」
「あの、吾妻一曹。実は自分、今月は厳しくて・・・」
「問答無用! 主計長から前借りでも何でもしとけ!」
「そ、そんな!」
「お前が勝てば良いだけの話だ。出費が怖くば勝負に勝て!」
野田の訴えを切り捨てた吾妻は強引にゲームを開始する。この吾妻という男は賭け事をこよなく愛する人物で、稼ぎの大半はそれに費やしているともっぱらの噂である。
配られた五枚の手札を見た吾妻はニヤリと勝ち誇ったような笑いを浮かべた。
彼の手札には初手にして強力な役、フォーカードが並んでいた。これに勝てる役はそういない。勝利を確信した吾妻はノーチェンジを宣言した。手札の交換を行う雄人たちを横目に見ながら、吾妻は内心ほくそ笑んだ。
全員がノーチェンジを宣言した所で互いの役を競い合う。既に勝利の美酒に酔っている吾妻は勇ましく手札を公開した。
「見ろ、フォーカード! これで俺の勝ちだ!」
得意げな表情の吾妻に対し、雄人と高木は浮かない顔をしている。役を見ると、雄人はツーペア、高木に至っては役無しである。
「おい、お前はどうだ?」
吾妻の問いに、野田は申し訳なさそうな顔をする。そして、
「・・・ロイヤルストレートフラッシュです」
「なにぃっ!?」
見せられた手札に吾妻が驚く。雄人と高木も「おおっ」と声を漏らす。
「嘘だろ!?」
「すみません。何だか空気読めない手札で」
「謝るな! 余計に俺が惨めな気持ちになる!」
「すみません・・・」
「だから謝るな!」
「静かにせんかッ!」
ゴンッと軍医士官の拳骨が炸裂し、吾妻は蛙が潰されたような声を出した。痛む頭を押さえながら、吾妻は「もう一回だ!」と言った。
リベンジを目論む吾妻の野望は、しかし・・・
「フルハウス!」
と言えば高木が、
「フォーカードです」
「ストレート!」
と叫べば雄人が、
「フラッシュ」
と、悉く敗北し、結局最下位で終わった。
「それじゃあ司。お昼、よろしくね」
「「宜しくお願いします!」」
自らが提案した賭けの条件通り、三人に対して奢る事になった吾妻は、沈鬱な溜息をつきうなだれた。
「日高一曹。大宮の名物とは何でしょうか?」
「さあ。僕も行った事は無いから分からないな。向こうで美味しそうなお店を見つけよう」
「そうですね」
雄人と二人の看護兵は遠足に行く学生のような様子で会話をする。列車は横浜を過ぎ、東京へ近づいていた。
過ぎ行く景色を眺めながら、雄人は横須賀で氷川丸に聞いた話を思い出していた。
「・・・氷川神社?」
「はい」
鸚鵡返しに聞く雄人に氷川丸は頷く。
船渠入りの前日。氷川丸の自室で雄人は氷川丸からある話を聞いていた。
「初代の秋吉七郎船長の時代から、ドックに入渠したり船内消毒を行ったりする時に船員一同で氷川神社にお参りに行っているんです。今回のドック入りでも行くはずです」
「氷川神社って、結構有名な神社だよね? 場所は確か・・・」
「埼玉県の大宮です。私の船名は、そこから戴いたものなんですよ。船橋の船内神社にもおまつりしています」
「へぇ・・・」
「私の妹の日枝丸や平安丸も、それぞれ同じように神社の名前を船名に戴いています」
氷川丸の説明に、雄人は感嘆の声を漏らした。氷川神社といえば、関東一円に分社を持つ格式高い神社である。その氷川神社から名を授かった「氷川丸」という船は、強く神仏の加護を受けているに違いない。
ちなみに、シアトル航路と並ぶ太平洋航路の主要路線であるサンフランシスコ航路の客船「浅間丸」、「龍田丸」、「秩父丸(後に「鎌倉丸」と改名)」も神社の名を船名に冠している。一万七千トンのこれら三隻の貨客船は現在、海軍に徴用され輸送船として活動している。
「『板子一枚下は地獄』。船乗りというのは、平和な時でも常に危険と隣り合わせです。船底を隔てた先は底無しの海ですから。だから船内に神様をまつって安航を祈願しているんです」
「それで、いつも護ってもらっているお礼をしに大宮の氷川神社まで御参りに行くってわけだね」
「そういうことです」
「それって、僕たちも行くのかな?」
「もちろんです。雄人さんたちも、今はこの船のクルーなんですから。氷川神社への参詣は乗組員全員で行くのが決まりです。しっかりお参りしてきて下さいね」
「うん。分かった」
氷川丸の言葉に雄人は頷く。彼女の言った通り、上陸した雄人たちは船の入渠中に船員一同で氷川神社へ参拝する事を病院長より告げられた。
やがて、列車は東京駅に到着した。横須賀線は東京が終着駅なので、大宮へ行くには路線を乗り換える必要がある。日本全国、津々浦々まで延びる全ての鉄道の起点。帝都東京を象徴する建造物の一つである東京駅は、赤煉瓦の威容を人々に誇っている。その大きさはホームが二番までしかない横須賀駅などとは比較にならない。一人で来たら絶対迷うだろうな、と地方出身者の雄人は思った。
列車を乗り換え、一路大宮へ。横須賀から東京へ向かう時は徐々に都会に近づいていった景色が、今度は逆に段々と長閑な風景に変わっていく。県境を越えて埼玉県に入るとじきに大宮駅に着いた。
大宮駅から氷川神社までは、徒歩で二十分ほどかかる。
「氷川丸」が海軍に徴用される際、海軍は船体と共に船の乗組員も借り上げる形をとっていた。そのため、病院船となった「氷川丸」では海軍と郵船の乗組員が一緒に働いている。両者が一体となって隊列を組んで歩いていく様は、ちょっとしたパフォーマンスのように見えた。
石畳の参道を抜け、一行は遂に氷川神社に到着した。船長と病院長が神主の所へ挨拶に行き、持ってきた献納物を奉納する。「氷川丸」から神社へ奉納される物は、「氷川丸」自身の航空写真や日本酒など。これに加え、南方での任務中に調達した砂糖も奉納する。物資統制により国内では手に入りにくくなった砂糖の献納は、神社にとっても嬉しいものだった。
献納物の奉納を済ませると、一行は揃って船の航海の安全を神に祈った。みな、船の安航を念じると共に、自身の安全も祈願した。雄人も左右の者に倣って両手を合わせ、戦火を無事に潜り抜けられる事を祈った。
参拝を済ませた一同は社務所でもてなしを受けたあと、神社を発った。帰り際に、御神籤を引いたり御守を買ったりする者の姿が多く見られた。殆どは身の安全を期する御守を買い求めていたが、中には「恋愛成就」と書かれた御守を購入し、あとでからかわれている者もいた。雄人も御守を買った。無論、前者である。個数は二つ。余分に買った一つはもちろん、氷川丸の分である。
神社から駅までの帰り道を、土産物屋を物色しながら歩いていく。行きの電車内でのポーカーで惨敗した吾妻は約束通り雄人、野田、高木の三人に奢る羽目になった。三人が土産物を買う度に「支払いはこれで」とクレジットカードのように酷使された吾妻は財布の中身を殆どすり減らした。二月の寒空の下、体感温度も懐も寒くなった吾妻は、
「雄人ぉ~、覚えてろよ~・・・」
と、奥歯をガチガチ震わせながら恨めしそうに言うのだった。
再び長い列車の旅を過ごし、雄人たちは夕方頃に横須賀へ戻ってきた。就役後の船は、たとえ入渠中であっても船長はじめ主要スタッフは船に残っていなければならない。幸運にも、雄人は船内居残り組に選ばれてはいなかったため、どこかの下宿に一時の居を構えようとしたのだが、そこへとんだ邪魔が入った。
「船内に残留する予定の吾妻一曹が急に体調を崩した。ついては、貴様に彼の代わりをやってもらう」
左官の階級章をつけた軍医の一言で雄人の予定は瓦解した。吾妻に託されたといって渡された手紙には一言、「ざまあ見ろ!」と書かれてあった。
「・・・司は、吾妻一曹は何か言ってましたか?」
「ん? 何も言っていなかったが。・・・そう言えば、その手紙を渡してくれと頼まれた時、妙に嬉しそうな顔をしてたような・・・」
「(・・・司の奴、絶対仮病だな)」
首を捻る軍医の言葉を聞きながら雄人は心中で呟いた。それにしても、軍医の目を欺ける仮病なんてそうあるものではない。一体どんな手を使ったのやら、と雄人は内心で呆れた。
しかし、上官の言葉には逆らえない。雄人は巧みな仮病を使った同僚の代理として船内居残り組に名を連ねる事になった。
「あれ、雄人さん? 戻って来てたんですか?」
入渠中、船を降りて市内に下宿を借りる事を告げられていた氷川丸は雄人の姿を見ると間の抜けた声を上げた。雄人が事情を説明すると、
「それはお気の毒でしたね。せっかく、久しぶりの陸を楽しめるはずでしたのに」
「まあ、いいよ。陸に上がっても特に何をする予定も無かったし」
「それにしても、その吾妻さんという人も災難ですね。急に身体を壊すなんて、やっぱり任務の疲れが出たんでしょうか?」
「いや。司のは多分仮病だよ」
「えっ? 仮病、ですか?」
「うん。ほら、この手紙見て」
そう言って雄人は例の手紙を見せる。それを見た氷川丸は何とも言えない顔をした。
「ざまあ見ろ、って・・・。雄人さん、何かその人に恨まれるようなことをしたんですか?」
「ううん。司が自分の言い出した賭けに負けただけ」
「それって・・・逆恨みですか・・・?」
「そんな所、かな」
「・・・前言撤回です。災難なのは雄人さんの方でした」
お気の毒です、と氷川丸は本当に気の毒そうに言った。まったくね、と雄人が僅かな苦笑を含んだ声で応える。
「ところで、氷川丸。ドック入りの期間はどの位なの?」
「早ければ数日、遅くとも一週間は超えないと工廠の方が話しているのを聞きました」
「そっか。案外早いものだね」
「私の場合、船体の傷みを修繕するだけですから。大穴の空いた軍艦の修理も手掛ける工廠の方々にとっては朝飯前といったところなのでしょう」
氷川丸の言葉に、雄人は確かにそうだと頷いた。横須賀海軍工廠は、呉の海軍工廠と並んで軍艦建造のメッカである。多くの戦艦や空母を手掛けてきた横須賀海軍工廠には、「氷川丸」の船体にできた傷みなど掠り傷にも満たない。あっという間に修理を完了してしまうだろう。
「氷川丸」が工廠のドックに入渠している時、横須賀では「大和」、「武蔵」に続く第三の巨大戦艦が建造中であった。しかし、海軍のトップ・シークレットに属するこの戦艦の存在は徹底的に秘匿されており、雄人と氷川丸はその存在を知る由も無かった。
やがて、修理と要望箇所の改造を終えた「氷川丸」はドックを出渠。二月二二日には再び内南洋トラック諸島へと二度目の航海へ旅立つのであった。
作者「今回は番外編のような位置づけの話にしてみました。如何でしたか?」
青葉「横須賀ねぇ。私も寄ったことあるけど、軍港以外はホントに何もないよね。別府湾に入った時なんかは、温泉とかあるのに」
作者「地元民には耳が痛いから、その位にしてくれ・・・。今はそれを利用して、海軍カレーとかで町興ししてるんだから」
青葉「ふぅん。でもそれって、他の所でもできるんじゃない?呉とか佐世保とか」
作者「いや、横須賀には『三笠』がある!」
青葉「呉にも大和ミュージアムあるけど?」
作者「うぐっ・・・。くそ、ずるいぞ!同じように開国前はド田舎だったくせに横浜だけ発展して!」
氷川丸「はい?」
青葉「うわぁ。完全に八つ当たりだ」
作者「こっちは波止場の守衛門が名所になる程に何も無いのに、横浜は豪華な客船たくさん呼び寄せてずるいぞ!」
氷川丸「それは単純に港の性格の違いだと思いますけど・・・。横須賀は軍港、横浜は貿易港として発展したんですから、差が出るのは当然です。第一、軍港に客船が入港してきたら不都合ですよ。機密の塊の軍艦を間近で見せることになりかねませんから」
青葉「正論だね」
作者「・・・・・・」
氷川丸「氷嚢あげますから、これで少し頭冷やして下さい」
(作者、退場)
氷川丸「ふぅ・・・。さてと。そろそろ終わりにしよっか、青葉」
青葉「そだね」
氷川丸「この作品を読んで下さる読者の皆さんに心よりの感謝を申し上げます。ご意見・ご感想もお待ちしております」
青葉「またねー!」