<第十一話>祖国への帰路
マーシャル諸島一帯での患者収容と医薬品の補充を終えた「氷川丸」は九日の午後、クエゼリンを出航した。向かう先は横須賀。「氷川丸」は船首を西へ向け、懐かしき祖国への帰路を急いだ。
途中、日本近海にて敵潜水艦が発見されたと横須賀鎮守府より緊急の機密電が入り、航路を変更するように指示された。「氷川丸」は鎮守府の指示通りに航路を変更すると共に見張りを強化したが、幸いな事に敵潜水艦との接触は無かった。
広大な太平洋の海を、「氷川丸」はただ走り続ける。初の出動で「氷川丸」が収容した患者は合計三百名以上。遺骨も百柱以上を預かっていた。患者の内訳では米軍のマーシャル諸島への反攻による負傷者が最も多く、二百名を数えた。入院中に息を引き取る者もおり、内地へ帰還する間も、煙突裏の火葬場からは煙が立ち上った。
祖国への帰路を辿る病院船「氷川丸」。その船内の様子は、往路とはかけ離れたものだった。
往路の「氷川丸」は改装を終えたばかりであり、真新しさが随所に見られた。船内には医薬品特有の鼻につく臭いが満ち、白い船体と相まって清潔感に溢れていた。
しかし、復路の現在。「氷川丸」の船内には凄惨な光景が広がっていた。
客室を改装した各病室には傷病者が詰め込まれ、入りきらなかった患者が廊下に溢れ出ていた。当初、船内に満ちていた医薬品の臭いは負傷者を乗せる度に薄くなり、今は完全に消え失せていた。代わりに船内を満たすのは、死の臭い。思わず鼻を覆いたくなるような地獄の臭気だった。
多数の患者が詰め込まれた船内は息苦しく、蒸し暑い。そこに、消毒液や動けぬ重傷者の排泄物の臭いが加わり、むせかえるような臭気を病室に充満させている。長くいると吐き気をもよおすか、若しくは失神しそうな悪臭だ。
そうした中でも、看護兵たちは己の任務を忠実にこなしていた。
定期的な包帯の交換を行うために雄人は仲間と共に病室を回っていた。今日は、氷川丸もついてきていた。
「ねぇ、氷川丸」
隣を歩く氷川丸に雄人は小声で話しかける。小声で話すのは、他人の目があるからだ。
艦魂が見える者は、ごく限られている。少なくとも、「氷川丸」の乗組員の中では雄人だけだ。艦魂と会話をしている場面を艦魂が見えない者が見たら、雄人が独り言を呟いている奇妙な光景に見えてしまうのだ。
「何ですか?」
「・・・本当に、一緒に来るの?」
「はい」
雄人の問いに、氷川丸はしっかりと頷く。
「僕としては、氷川丸にはあまり見せたくないんだけれどね・・・」
気乗りしない調子で雄人が言う。雄人が「見せたくない」と言っているのは、病室の事である。
病室内には、大勢の患者が収容されている。病院船に入院しているから当然だが、彼らは負傷している。程度の軽い傷ならば良いが、中には四肢のいずれかを失うなどの重傷を負っている患者もいる。身体の一部を失った者たちがベッドの上に横たわっている光景は、氷川丸にとってショックが強すぎると雄人は考えたのだ。だから、これまでも雄人が病室を回る時は、氷川丸には自室で待っていてもらっていた。
しかし、今日は氷川丸の方から「一緒に連れていってほしい」と言い出した。
雄人としては、凄惨な病室の光景を女の子に見せたくはなかったのだが、氷川丸の意志は固かった。
「雄人さんの配慮はありがたいですが、それでは自分が納得できないんです。この船は私自身なのに、私は船の中で起きている事を知らない。雄人さんたちが一生懸命患者の方々を看病している中、自分だけ何もしていない。それは嫌なんです」
氷川丸は強い口調でそう言った。結局、雄人が折れて氷川丸を連れていく事になったのだが、やはり雄人は気が進まなかった。そのため、最後にもう一度確認したのだが、案の定、答えは同じだった。
「・・・分かったよ。でも、無理しないでね。病室の中は臭いもきついから」
「はい」
氷川丸の返事を確認すると雄人は前方を向き直って歩き続けた。
一行は、患者が大量に収容されている部屋にやって来た。ここは本来、二等食堂として使われていた場所だ。現在は食卓の代わりに患者を横たえるベッドが並べられている。
部屋に入った看護兵たちは患者に包帯を取り替えに来た事を告げ、てきぱきと作業に取りかかった。
雄人も包帯を手に患者の下に向かおうとして、足を止めた。後ろを振り返り、そこにいる少女に声をかけた。
「大丈夫? 氷川丸」
「はい・・・」
雄人の問いかけに氷川丸は頷いた。しかし、その表情から病室の臭気を堪えているのは容易に見て取れた。
「辛くなったら、部屋に戻って良いからね」
そう言って雄人は包帯の交換に取りかかった。看護する側もされる側も慣れたもの。看護兵が手際良く包帯を取り替えるのはもちろん、患者の方も作業をしやすい位置に手足をもってくるなど、看護する側に配慮した行動をしていた。動ける者は、看護兵の負担を少しでも軽くするために、患者同士で包帯の交換を行い合っていた。
しかし、包帯の交換も楽々といくわけではない。乾いた包帯が肌に貼りつくと剥がしにくく、一苦労であった。乾いた包帯は瘡蓋のように肌と密着しており、無理に剥がそうとすると患者を痛がらせてしまうのだ。だから剥がす時は慎重にゆっくりと剥がすのだが、それでも痛い時には痛かった。うっかり勢いをつけて剥がしてしまおうものなら、患者から「もう少し丁寧にやってくれ」と苦情半分、懇願半分で言われるのだった。
「イテッ!」
雄人が包帯を剥がしていると、患者が短い声を上げた。
「あっ、すみません」
「気をつけてくれよ?」
慌てて謝る雄人に、患者は苦笑混じりに言った。
しかし、どういう訳かこの患者の包帯は特別に剥がし難く、患者が叫び声を上げる度に雄人は恐縮して謝るしかなかった。
ちなみに、一度使った包帯は捨てる事なく洗って再利用する。燃料や弾薬と同じように、医薬品も重要な軍需物資なのだ。使えるものは再利用しなければならない。そうではないものも、無駄に使う事はできないのである。
剥がした包帯を回収した雄人たちは次の病室へと向かう。同じ作業を行い、また次の部屋へ。その繰り返しだ。
包帯の交換を行う雄人の後ろから、氷川丸はその様子をじっと見つめていた。
病室の中には、白衣の群れ。見渡す限りの白衣の患者が病室に収まっている。自分の船体と同じ、純白の服。しかし、その清らかな色とは裏腹に、病室に流れる空気はひどく悪い。異臭が鼻をつき、気分を悪くさせる。それが船内に――自分の身体に充満しているのだと気づいた氷川丸は胸焼けのような感覚を覚えた。
胸をつく不快感を抑えながら、氷川丸は雄人の作業を見守る。何か手伝いたいが、病室の臭気のせいか身体が重い。何もする事がないまま、雄人に従って次の病室に移動した。
氷川丸が動けなかった理由は身体の不調の他にも、もう一つあった。それは、病室の光景である。
病室に収容されている患者たちの姿は、氷川丸に大きな衝撃を与えた。白衣の傷病兵たちは、身体のあちこちに包帯を巻いた痛々しい姿をしていた。銃弾に貫かれた腕を吊っている者や、足を負傷して動けない者。様々な者がいた。
しかし、負傷しながらも五体満足でいられればまだ幸運な方かも知れない。病室には、身体の一部を失った兵士も大勢いた。
氷川丸が最初に彼の姿を目にした時、彼女は小さな悲鳴を上げた。
頭部に巻かれた包帯に、まずは目がいった。だが、頭部の傷は浅く、病院船に収容される程のものではないように見えた。他に怪我をしている箇所があるのだろうかと、氷川丸は視線を下に送った。胸部、腹部、と患者の身体を観察する。そして負傷箇所を見つけた時、少女は「ひっ」と短く叫んだ。
その兵士の左足は、上腿部の付け根から半分を残して、そっくり無くなっていた。円形の傷口が包帯に覆われている。片足を失った兵士は、まるで糸の切れた操り人形のように寝台に座っていた。寝台の縁から一本だけ垂れる右足が、手持ちぶさたに揺れていた。
兵士の目には、感情が宿っていなかった。何も映していない、穴のような暗い瞳。その目が不意に動き、氷川丸と視線を結んだ。氷川丸は、恐怖を感じた。とても人間を見ているようには思えなかったからだ。彼は既に廃人であった。生ける屍と化していた。得体の知れない懼れの感情が、氷川丸の心を支配した。
身体の一部を失った兵士はそう珍しいものでもなかった。他にも、片腕を失った者や手の指を銃弾に持っていかれた者などがいた。爆風にやられて視力を損ねた者もいた。彼らの姿は、戦争というものがただ人の命を奪うだけでなく、生き残った者にも傷を与えるという事を示していた。死闘の果てに生還を果たしたとしても、身体の一部を失った兵士はその後の人生から可能性を奪われた。
また、雄人たちは立ち寄らなかったが、戦闘によって精神を病んだ患者を収容する部屋もあった。
戦争が人々に与える害を、氷川丸は改めて認識した。そして恐怖した。今まで船内を見て回らなかったのは、心の奥でこうした光景を目にするのを恐れていたからかも知れなかった。一人でこの光景を見ていたら、恐怖で立ち竦むだけでは済まなかっただろう。
担当する病室を全て回り、雄人たちは仕事を完了した。回収した包帯を洗い場に集め、一息ついた雄人は氷川丸に訊いた。
「氷川丸、気分はどう?」
「・・・少し、疲れました」
力の無い微笑を添えて氷川丸は答える。その顔からは疲労の色が見てとれた。初めて目にした病室の光景と、そこに満ちる臭いに当てられたのだろう。
「少し休もうか。氷川丸」
雄人は氷川丸の手を引き、甲板へと上がった。プロムナードデッキの長椅子に空きを見つけ、そこに腰を下ろす。海風が運んでくる新鮮な空気を深く吸い込み、肺に溜まった澱んだ空気を吐き出す。
「水、飲む?」
氷川丸は頷くと雄人が渡した水筒を受け取った。中身を一口飲んで、小さく息をつく。
そのまま暫くの静寂が訪れ、やがてそれを破って氷川丸が小さく呟いた。
「・・・あれが、戦争の姿なんですね」
雄人は肯定も否定もしない。氷川丸も答えは望んでいなかった。
「彼らの姿はある程度想像していましたが・・・実際にこの目で見ると、やっぱりショックでした・・・。彼らを介抱する立場のはずなのに、怖いとさえ感じてしまいました・・・」
心中を吐露した氷川丸は長い息を吐いた。元々、慣れない南洋での活動で貯まっていた疲れに精神的ショックが加わり、氷川丸は疲労困憊していた。雄人は氷川丸を部屋まで連れて行くと、ベッドに寝かせた。
ほどなくして、氷川丸は整った寝息を立て始めた。これにより緊張の糸が切れて疲れが溢れ出たのだろう、氷川丸はこれから先、横須賀に到着するまで体調の優れない状態が続くことになる。
「氷川丸」が横須賀の港へ帰り着いたのは、二月の十六日。マーシャル諸島クエゼリンを出発してから一週間、昨年暮れの出航以来、約二ヶ月振りの帰国であった。
昼前に横須賀港に入港した「氷川丸」は岸壁に接岸し、傷病者の転院準備を開始した。
呉、佐世保、舞鶴と並ぶ海軍の主要軍港の一つ、横須賀には鎮守府をはじめ様々な施設が置かれている。その中の一つ、横須賀海軍病院に「氷川丸」に入院中の患者を移送するのだ。船内に収容されていた合計三三一人の患者が、横須賀海軍病院へと転院された。
遺骨の方も、横須賀の海兵団へと引き渡された。その数百十七柱。遺骨を託す時は、託す側も託される側も沈痛な面持ちで遺骨の受け渡しを行っていた。
患者の転院と遺骨の引き渡しが終わったところで、病院線「氷川丸」の初任務はようやく終了した。初の任務達成に、乗組員たちはみな安堵の表情をみせた。
しかし、彼らの様子とは反対に、この船の艦魂である氷川丸は浮かない表情をしていた。それもそのはずで、彼女は横須賀への帰途の途中からずっと身体の調子が悪かったのだ。
原因は横須賀に帰って来てからすぐに知れた。船体各所に傷みが発生していたのである。
艦魂の身体は、本体である船と密接に関わり合っている。船体に損害が生じれば艦魂も身体に傷を負う。そこまでいかなくても、船体や船内の機構に不具合が生じると艦魂自身の健康状態に影響が出るのだ。
「氷川丸」の船体は、至る所が傷んでいた。何しろ、竣工してからずっと北太平洋のシアトル航路を走ってきた船である。今まで彼女が経験してきた海といえば、アリューシャン列島近海に代表される冷たく波の強い海だった。
ところが、今回赴いた先は赤道直下の南太平洋。気候はもちろん、海水の質も北太平洋とは大きく違っていた。特に海水温には大きな隔たりがあった。例えて言うなら、今まで北海道に住んでいた人がいきなり沖縄に移り住んだようなものである。
急激な環境の変化は、人間にとって体調を崩す原因となる。それは船に対しても同じである。冷たい海から急に温かな南洋へと送られた「氷川丸」の船体は各所に傷みを生じていた。船の内外に発生した損傷箇所は合わせて二六ヶ所。殊に床に敷かれたリノリューム材の損傷が三ヶ所も発生したのは暑さによるものだと判断された。ラムネ製造機の故障は、使い過ぎによるものと診断された。
それら諸々の損傷箇所の修理と、乗員からの要望を受けた改造を施すため、「氷川丸」は横須賀海軍工廠で修理を受ける事になった。「氷川丸」は早速、工廠のドックへ入渠し修理を開始した。
それに伴い、乗組員たちは船を降ろされる事になった。久しぶりに祖国の土を踏んだ彼らは自分たちの船が船渠に収められている間、羽を伸ばす機会を手に入れた。
荷物を纏めて下船の準備を整えた雄人は氷川丸の所へ足を運んだ。軽くノックしてから扉を明けると、振り向いた氷川丸と目が合った。
「あ、雄人さん」
ベッドを椅子代わりにする氷川丸は雄人の姿を認めるなり立ち上がって迎えようとする。それを手で制して雄人は氷川丸の隣に腰掛けた。
「どう? 調子は」
「悪くはありませんが、頭が少し重いです」
「そっか。でも、それももう少しの辛抱だよ。ドックに入れて傷んだ部分を修理するっていうから」
「そうみたいですね。これでようやく、止まない頭痛からも解放されます」
そう言って氷川丸は清々した表情を浮かべる。が、すぐにそれを引っ込めて、
「・・・でも、雄人さんはその間船を降りてしまうんですよね」
「まあ、そうなるね。僕が船に残っていても工廠の人の邪魔になるだけだろうし」
「・・・少し・・・寂しいです」
心細そうに言う氷川丸を励ますように雄人が言う。
「大丈夫だよ。すぐに戻ってくるから。陸のお土産も買ってきてあげるし、面白い話も聞かせてあげるよ。だから、早く元気になってね」
明るい口調で言う雄人に、氷川丸は頬を綻ばせて頷いた。
「ええ。楽しみにしています」
船を降りる雄人を氷川丸は甲板の上から見送った。陸に降り立った雄人が歩きだし、その姿が見えなくなると、氷川丸は改めて周りの景色に目をやった。そこには、ここを出ていった時と変わらない長閑で平和な景色が広がっていた。内地の様子を見ていると、この国が戦争をやっているなんて信じられなかった。しかし、船内に残る血の臭いは、確かにこの国が戦争の最中にある事を教えていた。
乗員たちを降ろした「氷川丸」は翌日にもドックへ入れられた。初の大役を果たした「氷川丸」とその乗り手たちには、暫くの休息が与えられる事になった。
作者「何だかんだで、この作品の連載を開始してから半年が経ちました。早いものです」
氷川丸「初投稿の日が5月の初めでしたから・・・もうすぐ七ヶ月ですね」
青葉「そういえばさ、作者はどうしてこの話を書こうとしたのさ?他の艦魂小説だと軍艦が主役の話が多いじゃん。病院船って、どっちかというと後方支援というか、地味な方じゃん?なんで?」
氷川丸「それは、私も気になりますね。どうして私のことを書こうとしたんですか?」
作者「えーっと、何でだったかなぁ・・・(日記を開いて見返す)・・・あぁ、そうそう、思い出した。きっかけはすごく単純だったんだよ」
氷川丸「と、言いますと?」
作者「四月のある日、『氷川丸』に立ち寄ってね。その時は特に目的も無くて、横浜に来たついでに足を向けた感じだった」
青葉「ふぅん。・・・で?」
作者「船内の展示を見て回るうちに段々と『氷川丸』について興味が湧いて、もっと知りたいを思うようになった。次いで、知った事を伝えたいと思った」
青葉「ほうほう」
作者「今は横浜の一角で静かに時を過ごしている客船が、かつては戦場を駆け巡り、多くの命を救ってきた。前線で戦う戦艦や空母の活躍に隠れがちだけれど、その後ろで戦っていた者たちもいるんだってことを伝えたかった。その衝動に駆られて書いたってわけ」
青葉「だってさ、氷川丸。どう?」
氷川丸「どう、って・・・。面と向かって言われると、少し気恥ずかしいですね」
青葉「やーい、赤くなってらぁ」
氷川丸「うるさいっ」
青葉「あははっ」
氷川丸「まったくもう・・・。では作者さん、そろそろ切り上げましょうか」
作者「そうするか。氷川丸、青葉、よろしく」
青葉「はいはーい!毎度ながら、この作品を読んでくれてる人たちに感謝の言葉を。ありがとね!」
氷川丸「ご意見・ご感想もお待ちしております」