<第十話>潜水母艦「平安丸」
氷川丸が人生初の空襲を経験した次の日、トラックに集結していた機動部隊が出港した。ラバウル攻略のための出撃である。旗艦「赤城」を主体とする艦隊が、濛々と黒煙をたなびかせて出港していく。その姿は頼もしく、甲板で見送る将兵に、彼らがいる限り日本は負けないという絶対不敗の自信を与えた。
雄人も、その一人だった。舷側に詰め寄る仲間たちと共に帽子を振って機動部隊の出撃を見送っていた。手摺りから身を乗り出して「俺達の分も戦ってきてくれー!」と叫ぶ患者もいる。皆、それぞれに声援を送っていた。
「みなさーん! 気をつけて下さいねー!」
兵士たちの間から、氷川丸も声を張り上げる。そんな彼らの見送りに応えるように、「赤城」の汽笛が一つ鳴った。
機動部隊はやがて、水平線にその姿を霞ませ、見えなくなった。
それから暫くの間、「氷川丸」はトラックに停泊していた。熱帯特有の蒸し暑さはあるが、のんびりとした平和な日々が続き、乗組員は南国の陽気を楽しんでいた。
しかし、当然だがその様な平穏な日々はいつまでも続かない。二月一日早朝、第四艦隊長官から「氷川丸」へ『マーシャル方面に急航準備をなせ』との命令が下された。命令を受け、出港準備を進める「氷川丸」は続けて『クエゼリンへ急行せよ』との命令を受領した。急ピッチで作業を行った「氷川丸」は、十時五五分、トラックを出港。一路、クエゼリンへと向かった。
「マーシャル諸島の様子は聞いた? 氷川丸」
最大船速に近い速度で海上を往く「氷川丸」の船上で雄人が聞く。氷川丸は頷いて、
「はい。アメリカの機動部隊がマーシャル諸島に襲来し、かなりの被害が出ているらしい、と・・・・・・」
沈んだ声で言った。
「被害は、どのくらいなんでしょうか・・・・・・?」
「分からない。とにかく、今は急いでクエゼリンに行くしかない」
雄人の言葉に、氷川丸は頷いた。道中、新たな患者の収容に備えて船内の消毒を行い、クエゼリンに着いたのは三日後の二月四日だった。
クエゼリンに着くや否や、即座に患者の収容を開始する。ルオットで行ったのと同じように、担架を使って船内に患者を運ぶ。かつては荷役に使用されていたクレーンも、今は患者の収容に使われている。無闇に動かせない重傷者は、この方法で船内に下ろしていく。患者の所属は基地航空隊や巡洋艦、徴用商船など、多岐に渡っていた。
その後、「氷川丸」はマーシャル諸島の島々を巡り各地の負傷者を収容。九日の朝、再びクエゼリンに戻って来た。
その時の事である。
「あっ・・・・・・!」
近付く島影を眺めていた氷川丸。彼女が、突然大声を出した。隣にいた雄人はいきなりの事に面食らった。
「な、なに? どうしたの、氷川丸?」
「雄人さん、ちょっと失礼します!」
雄人の問いにも答えず、氷川丸はどこかへと転移してしまった。残された雄人はただ呆然とする。何か彼女の興味をひく物があったのかと周囲を見るが、それらしい物は見当たらない。いつも落ち着いた感じの氷川丸が驚き、尚且つ血相を変えるほどの物は無いように見えた。艦魂の転移能力は互いの船上に限られているから、相手は同じ艦魂のはずだ。という事は、この前の比叡みたいに誰か懐かしい顔を見つけたのかも知れない。
そう考えた雄人は、氷川丸の行き先を気にするのは止め、のんびりと彼女の帰りを待つ事にした。
◆ ◆ ◆
雄人の推理は、おおよそ当たっていた。しかし、氷川丸が見つけたその相手は、「懐かしい顔」の一言で片付けるには深過ぎる関係にあった。何故なら彼女は、氷川丸と同じ寸法・同じ性能を持った船――姉妹船だったからだ。
「久しぶりだね。平安丸」
血を分けた姉妹を前に、氷川丸は優しく言った。柔らかく温かい声音は、愛情に満ちたものだった。
「おねぇ・・・・・・ちゃん・・・・・・?」
信じられないといった表情の少女が、ぽつりと呟く。そして、
「おねぇちゃんっ!」
目の前に立つ相手を認識すると、その胸元に飛び込んだ。
「よしよし。元気だった? 平安丸」
両腕を回して抱きつく少女の頭を撫でながら、氷川丸は言った。少女は小さな雫を瞳の縁に浮かべながら「うん」と頷いた。
「・・・・・・本当に、おねぇちゃんだよね? ・・・・・・夢じゃ、ないよね?」
「うん。夢じゃないよ」
少女は右手で自分の頬を抓る。力いっぱい抓って手を離した少女は、赤くなった頬を手で押さえながら微笑した。
「・・・・・・ほんとだ。夢じゃない」
少女の名前は、平安丸。日本郵船がシアトル航路に配給した三隻の一万二千トン級貨客船の一隻。氷川丸の、実の妹だった。
「平安丸」は「氷川丸」の姉妹船で、その三番船にあたる。「氷川丸」、「日枝丸」、「平安丸」の三隻からなる日本郵船の一万二千トン級貨客船は、全員が海軍の徴用を受けていた。しかし、長女の「氷川丸」が病院船へ改装されたのに対し、残りの二隻は潜水母艦に改装されていた。「平安丸」は現在、特設潜水母艦として第六艦隊第一潜水戦隊に所属していた。
潜水母艦とは、洋上で長期間活動する潜水艦の後方支援を行う軍艦である。潜水艦の艦内は窮屈で、息苦しく蒸し暑い。食事も缶詰ばかりで美味しくなく、入浴も滅多にできない。そうした過酷な環境で過ごす兵士たちに休養の場を提供するのが、潜水母艦である。潜水母艦はまた、潜水艦へ食料や弾薬の補給を行ったりもする。海軍では独自に潜水母艦を建造し保有していたが、同時に商船を徴用してその任に就かせてもいた。豪華な船内設備を持つ客船は、乗員の憩いの場としては最適であるからだ。
平安丸の外見は、幼い。まだ十代前半にみえる少女だった。性格は寂しがりやで甘えん坊。典型的な末っ子タイプだった。
「おねぇちゃん。どうしてここに?」
「お仕事だよ。この前、アメリカがこの島を攻撃したでしょ? お姉ちゃんは、それで怪我した人たちを助けに来たのよ」
氷川丸と平安丸は、互いの近況を話し合った。姉妹は久方ぶりの再会を懐かしむように、よく話した。
そこへ、聞き慣れた声がかかった。
「あれ? 氷川丸?」
「えっ・・・・・・、雄人さん?」
振り向いた氷川丸は間の抜けた声を出した。雄人も雄人で、ぽかんと口を開けている。
「どうしてこんな所に・・・・・・?」
「それはこっちの台詞ですよ」
雄人の質問を、氷川丸がそっくりそのまま返す。雄人は肩に担いだ箱を見せながら、
「医薬品の補給の手伝いだよ。この船・・・・・・『平安丸』に医薬品を補充する事になって、それに協力してるんだ」
「そうなんですか」
「それで、その子は――」
雄人が言い終わる前に、通路を進んだ先から声が聞こえた。「平安丸」の乗員の声だった。
「日高一曹、早く来て下さい!」
「今行く! ――氷川丸、また後でね」
雄人は医薬品の入った箱を担いで医務室のある方向へ進み、階段を下りていった。その背中を見送った氷川丸は、下から自分を見上げる視線に気がついた。視線を下ろすと、自分の事をじっと見詰める平安丸と目があった。
「おねぇちゃん、今の人、だれ・・・・・・?」
首を傾げる平安丸に、氷川丸が答える。
「あの人は日高雄人一等看護兵曹。私の所で働いている看護兵さんよ」
「『氷川丸』に乗ってるの?」
「そうよ」
氷川丸の説明に、平安丸は納得したように頷いた。
「どんな人なの?」
興味津々といった様子で聞く平安丸に、氷川丸は少し考えてから答えた。
「優しい人よ。優しくて、私のことを大切に思ってくれている・・・・・・そんな人」
「いいなあ、おねぇちゃんは。わたしなんて、まだ一回も艦魂がみえる人に会ったことないのに・・・・・・。おねぇちゃんだけずるいよ」
「大丈夫。そのうち、平安丸も出会えるよ」
それから少し経って、医薬品運びの手伝いを終えた雄人が戻って来た。
「お疲れ様です、雄人さん」
氷川丸の言葉に雄人は「ありがとう」と返す。そして、彼女の隣に立つ平安丸に訊ねた。
「君は、この船の艦魂?」
「うん。そうだよ」
答えを聞いた雄人は、笑顔で自己紹介をした。
「僕は日高雄人一等看護兵曹。『氷川丸』の乗組員だよ」
「うん、知ってるよ。おねぇちゃんから聞いたもん」
「お姉ちゃん・・・・・・?」
疑問符を浮かべる雄人の横から、氷川丸が言う。
「平安丸は、私の妹なんです」
「えっ!?」
驚きの声を上げる雄人に、二人の姉妹が頷く。
「わたしは平安丸。氷川丸おねぇちゃんの、妹だよ」
にっこりと、屈託の無い笑みを平安丸は見せた。雄人は、心底驚いた様子で並び立つ姉妹を見比べた。二人は背丈も容貌も違っているが、どことなく似た雰囲気を漂わせていた。恐らく、生まれ持った客船の艦魂としての気品だろう。清楚で大人びた印象の氷川丸はもちろん、幼い平安丸にも軍艦の艦魂とは一線を画す淑やかさが備わっていた。軍艦の艦魂を武家の娘に例えるならば、客船の艦魂は公家の娘といえた。
「まさか任務先で氷川丸の妹に会うとはね・・・・・・。驚きだよ」
雄人の言葉に、氷川丸が頷く。
「私だって驚きましたよ。初めに見た時は自分の目を疑いました」
「世の中って、案外狭いのかもね」
「そうかも知れませんね」
雄人は作業の続きがあるからと、「氷川丸」に戻っていった。残った二人は、平安丸の自室へと移動して話を続けることにした。
平安丸の部屋は、氷川丸と同じく、空き部屋の一等客室だった。飲み物を取ってくると言った平安丸が部屋を出でいき、氷川丸は静かな室内でベッドに座った。
「・・・・・・・・・・・・」
そのまま、ベッドに倒れこむ。ぼんやりと天井を見詰めていると、部屋の扉が開き平安丸が帰ってきた。
「おねぇちゃん? どうしたの?」
ベッドに仰向けに転がっている姉を見て、平安丸が少し驚いた様子で聞く。身体を起こした氷川丸は「何でもないよ」と答えた。
「はい。お茶どうぞ」
「ありがとう。平安丸」
ベッドから腰を上げた氷川丸が椅子に座り、差し出された紅茶を受け取る。姉妹はテーブルを挟んで向かい合わせに腰を下ろした。そのまま、部屋に静寂が訪れた。紅茶を啜る音と、陶器の触れ合う音だけが響く。
その静寂を最初に破ったのは、平安丸だった。
「ねえ、おねぇちゃん・・・・・・」
「なに?」
カップに口をつけながら、氷川丸は視線だけを妹に向ける。平安丸は悲しそうな口調で言った。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」
氷川丸は、答えない。平安丸も姉の答えを待たずに言葉を続けた。
「わたしたちが生まれた頃は、まだ日本もアメリカも、そんなに仲が悪くなかったのに・・・・・・どうして、戦争なんて始めちゃったんだろうね」
「そうね・・・・・・」
氷川丸が短く言ったきり、部屋は沈黙に支配された。お互いに何も話さない、息苦しい時が流れる。
氷川丸と平安丸は、シアトル航路の定期船として十年に渡って日本とアメリカの間を結んできた。そんな彼女たちにとって、アメリカという国はとても身近な国だった。そのアメリカと日本が戦争をしている事実は、二人にとって辛いものだった。
「どこかで、仲直りできなかったのかな・・・・・・?」
平安丸の問いに答える者は、いない。潜水母艦として戦場に身を置いている現状が、彼女の問いに答えていた。
「わたし、アメリカの人たちと戦いたくないよ・・・・・・」
平安丸が呟くように言う。彼女自身、言ってもどうにもならない事だとは分かっていたが、言わずにはいられなかった。
「それなら――」
その時、氷川丸が口を開いた。俯いていた平安丸の顔が上がり、丸い瞳に姉の姿が映った。
「生き残るのよ、平安丸。過ぎたことを言っても、どうにもならない。だから、未来のことを考えるの。この戦争を生き延びて、またシアトル航路に帰るのよ。戦争が終わった後の世界で、私たちが日本とアメリカを結ぶ架け橋になるの。私たち姉妹が、二つの国を仲直りさせるのよ」
「おねぇちゃん・・・・・・」
力強く言った氷川丸の言葉に、平安丸は頷いた。その口から紡がれた言葉は、先程までの悲しそうなものではなくなっていた。
「――うん。おねぇちゃん、わたし、生きるよ。この戦争を生き残って、また客船に戻る。そして、日本とアメリカの人が・・・・・・ううん、世界中のみんなが笑顔でいられるような世界を作るの」
姉の瞳をしっかりと見据えて、平安丸は決意を語った。それを聞いた氷川丸は笑顔をみせて言った。
「そうそう。その意気よ」
そして、右手の小指を差し出した。
「?」
首を傾げる平安丸に氷川丸が言う。
「指切りよ。この戦争を生き残る約束の」
頷いた平安丸は、氷川丸の小指に自分の小指を絡めた。互いの目を見詰め合って、姉妹は契りを交わす。
「いい? 平安丸。何があっても、絶対に生きるのよ。そして、また北大西洋を駆けるの。私と、平安丸と、日枝丸とで」
「約束する。二引きの社旗に誓って」
絡め合った指に、力が入る。互いの意志を確かめ合った姉妹は、指を解いた。
「それじゃあ、私はもう行くね。また会いましょう、平安丸」
「うん。元気でね、おねぇちゃん」
「平安丸こそね」
氷川丸の身体が、淡い光に包まれる。転移する直前、二人は息を揃えて言った。
『また、シアトル航路で』
言い終わると同時に、氷川丸は自船へと転移した。部屋に舞う光の残滓を、平安丸はいつまでも見続けていた。
作者「前回は酷い目に遭った・・・」
青葉「過ぎた事はとやかく言わない!さっさと後書き始めるよ」
作者「氷川丸はともかく、ぐうたら青葉に言われるのは気に食わないな・・・」
青葉「・・・撃つよ?二〇センチ砲」
作者「すみません」
氷川丸「二人とも、何やってるんですか。真面目に後書きやって下さい」
青葉「はーい。そういえば、今回は氷川丸の妹が登場してたね」
作者「末っ子の平安丸だね」
青葉「そうそう。ずいぶんと懐かれてるじゃん、氷川丸」
氷川丸「まあね」
青葉「おっ、まんざらでもない様子だね。まあ、私も妹がいるから気持ちは分かるよ」
氷川丸「貴女のところは、姉妹関係が逆転してそうな感じだけどね」
青葉「そんな事ないよ。私は立派にお姉ちゃんやってるよ」
氷川丸「トラックに機動部隊と一緒にやって来た時、作戦会議をさぼろうとして妹に連れ戻されたのは誰だったかしら?」
青葉「うっ・・・」
作者「まあまあ、その辺で。青葉と衣笠はあれで上手くやっているんだから」
青葉「助かった・・・」
作者「それじゃ、そろそろ締めましょうかね。まずは、この作品を読んでくれている読者の皆様に心よりの感謝を。そして」
氷川丸「ご意見・ご感想、お待ちしております」
◆登場人物紹介◆
平安丸
身長:145cm
外見年齢:13歳
姉妹船:氷川丸、日枝丸
日本郵船が建造したシアトル航路用一万二千トン級貨客船の三番船。日米開戦に伴い、海軍に徴用されて潜水母艦に改装された。
甘えたがりな性格で、二人の姉によく懐いている。加えて、寂しがり屋でもある。
戦前、何度も日本とアメリカを往復してきた事からアメリカを身近に感じており、両国の間に戦争が起こった事を悲しく思っている。