その男、チェリー
「うわあぁぁぁぁぁあん!」
自室。かぐやは媼の膝でまたまた泣いていた。そんなかぐやの頭を媼はまたまた優しく撫でる。
「よしよし。……災難だったねぇ」
「うああぁ! チャラいのよ! なんなのよあの男⁉ あんなのと結婚しろって? 頭の髪ひん剥いて禿げさらしたろか⁉」
泣いている、というより鳴いていた。叫んでいた。
「私にだってねぇ、理想というものがあるんですよ! 三十路近いばばあ予備軍ですけど、中身はロマンティックを求める乙女なの。筋肉むきむきの好青年に誘拐されたい夢があるの!」
「なにを言ってるのかぐや……。あんたまだ十代でしょ?」
「はっ! そ、そうよ。私は花も恥らう十七歳。でも結婚という現実の前に恥らっている場合ではないのよ。あと二人、あと二人も残っている……」
かぐやは怪しげな笑いを浮かべながら呟いた。
変わった子だと媼は思いつつ、かぐやが蹴散らした座布団を元の位置に戻した。そこに、眉を八の字にしながら翁がやってきた。
「ばあさんにかぐや。きいてくれ。次の大伴さんなんだが、ここに来るために船を出したが嵐で来られないらしい。残念だが今回の話を棄権すると――」
話をきいたかぐやの顔をみて翁は言葉を続けることをやめた。なぜならばそれは、深い驚きと焦燥に駆られる感情が入り混じっている、ヤバい顔をしていたからである。表現をするにも憚られる、人間がしてはいけない顔だった。
「……え? もしかしてあと一人? え? ――なんでこないんじゃああああああ!」
大納言大伴御行のせいで耐え難い苦痛の悲鳴をあげるかぐやだった。
「私このまま結婚できないのおおおおおおお」
「まぁまぁ、落ち着きなさい。かぐや」
対して媼は特別驚くことなく、座布団の上に泰然と座っていた。
「ばっちゃあ! あと一人だよ? もう失敗できない。どうすればいいの!」
かぐやの必死の訴えにも動じず、媼は鋭気に満ちた真剣な表情で言った。
「どうやらこれは、私がじいさんを落とした時に使った、あれを使うしかないかね」
「あれ?」
かぐやは思わず聞き返した。
「そう、色仕掛けよ」
石上は鳴り止まない胸の早鐘を持て余しながら、襖の前に立つ。
この先に、絶世の美女と噂されるかぐや姫がいる。一体、どれほどの美しさなのだろう。
若くしも逞しい妄想力ですら想像ができない。
顔が熱い。自分でもわかる。まっかっかだろう。それを見られるのは恥ずかしい。しかし、勢いあまって参加してしまったこの見合い。決して心が定まっていないわけではない。
本気で彼女と結婚を考えているからこそ参加したのだ。気持ちは本気だ。
「……よし」
見合いの儀最年少かつ最後の相手、中納言石上麻呂。
意を決して襖の引手に手を置き、その扉を開く。そこには――
「あらぁん? いらっしゃぁぁいぃ……」
着物を着崩し、はだけさせて肩を露わにしている美しい黒髪の女性がいた。
「うえぇぇぇぇえ! ま、まちがえた?」
「間違えてないわぁ。私がかぐやよ。……ねぇ、こっちにおいでよ。さびしいじゃない……」
いじけているような猫撫で声を出すかぐやとおぼしき人物は、今度は前かがみになって石上にゆっくり寄ってきた。四つんばいで、一歩ずつ一歩ずつ、卑しくゆっくりと。着物がはだけていることもあってか、胸部のふくよかな白い肌がこれでもかと強調される。
「ええっ⁉ ど、どうすれば⁉」
いつのまにか石上の足元まで寄ってきたかぐやは、今度は上目づかいで石上の身体をにじり上ってきた。
「どうすればってぇ、ねぇ? ちょっと、私のお願いをきいてもらえればいいのよ?」
「お、おねがいとは?」
「燕の巣の子安貝をとってほしいの」
石上は突然の申し出に、ちょっとした冷静さを取り戻した。
「え? 子安貝?」
だがしかし、その質問の真の意図を自ら理解するまでには至らなかった。
「私の、ね?」
いたずらっぽくウインクをするかぐやを尻目に、石上は顔を深紅に染めた。ぼんっ、と頭上から湯気が立ち込めそうだ
「な、ななななななななにをいって⁉ あばばばばばばばばば」
「わ、わたしだって恥ずかしいのよ⁉ いいから私と結婚しなさい!」
「むむむむむむむりですうう」
冷静さを欠いていた、というより頭の中の思考回路が完全にショートしていた石上には、もうなにがなんだかわからなくなっていた。冷静さをまだどこかに持っていたならば、ここで結婚という単語に気づくチャンスはあった。お互い気持ちが通じ合えたはずなのだ。しかし、それも虚しく現実はそうはならなかった。
「無理じゃない! 私には後がないのよ! さぁ既成事実を作るわよ!」
「ぼくにはむりですううううううううう」
石上はべったりとくっついていたかぐやを引き剥がし、一目散に彼方へと消えていった。
「この……甲斐性なし!」