美しき独身
暗闇の中に散りばめられた煌めく星々。その中のひとつにある、とある月の住人の町。それは広大な宇宙の中に存在していた。
地球と同じように日が暮れ、町に夜が訪れる。暗がりの中に白い街灯が淡く点灯しはじめ、月の夜も日本と同じように大人の時間へと顔を変えていた。
ところせましと並んだ居酒屋にキャバクラ、ラーメン屋にホストクラブ。食事処はどこも人で賑わい、客引きはスーツを着た月の住人に笑顔で声をかける。そんなうっすらと白煙が立ち込める夜の街。
日々の疲れと明日の自分へ鼓舞する喧噪の中、居酒屋かぐらでは一人の美しい女性がカウンター席で店主に絡んでいた。
中ジョッキをぎゅっと握りしめ、艶やかな唇に当てる。ごきゅっごきゅっと豪快に喉を鳴らしながら、頭をあげて腰まで伸びた黒髪をまっすぐにおろす。ジョッキを半分ほど飲み干すと机にごんと音を立てる。
「ぷっはあぁぁぁ‼」
「あいっかわらずいい飲みっぷりだねぇ」
居酒屋の店主は出来立てのあたりめにマヨネーズをトッピングして、ハンチングを被った女性の前に置いた。
「おっ。ありがとー」
にこやかに女性はあたりめを受け取り、手に取ってたっぷりとマヨネーズを付けた。
「しっかしまぁ一国の最高権力者がこんな辺鄙な居酒屋で一人酒を浴びているなんて、俺ぁ不思議な気分になるぜ」
「うるさいうるさい。私だって三十路間近になってこんなとこにいる自分に呆れてんだから」
この女性、この月の星の最高権力者であるかぐや姫である。
齢二十九、地球から月に帰還してからは働きずくめで、気づいたらこの歳になっていたのである。息抜きに仕事を抜け出し、お忍びでこの居酒屋かぐらに通い始めた。しょっちゅうこの店に来るので店主に正体がバレ、今となっては常連客になっていた。客であれば、立場の関係なしにかぐやに接してくれる店主にも愛着がある。
「だっはっはっは。おかげでうちも暇しないぜ」
無精ひげを生やした店主は豪快に笑った。かぐやはむすっとした表情であたりめを咀嚼する。
「かぐらさん、こんばんは。ちょっと失礼します」
そう言ってバンダナを被った男性の従業員は、かぐやの隣のカウンターテーブルの拭き掃除をしていた。“かぐら”とは、この店でのかぐやのあだ名である。店主と従業員であるこの男はかぐやがお忍びで来店していることを配慮し、ここではそう呼んでいる。
「あ、渡上くん。ちょっと聞いてよ!」
左手にジョッキ、右手にあたりめを持ってかぐやは駄々っ子のように声をかけた。
「な、なんですか……?」
渡上は一旦手を止め、かぐやのふくれている顔を見た。手に持っているものと、その表情を除けばまさに大和撫子、長い艶やかな黒髪におしろいのようなきめ細やかな肌は美人という言葉が最もふさわしい。デニムジャケットに黒のパンツ、中にタートルネックを着込みハンチングを被るという地味な恰好だが、気品を失うことなく彼女はそれを着こなしている。
渡上の頬は少しばかり紅潮していた。
「今日ね、母様から『そろそろ、孫の顔がみたいですねぇ』って嫌味ったらしい笑顔で言われたのよ! そりゃもうとびっきりの笑顔で! どう思うよ⁉ これ嫌味にしか聞こえなかったんだけど⁉ 『そんな歳にもなって恋人はおろか恋愛すらしたことないとか笑えるっわー』って馬鹿にされた!」
「それは、深読みしすぎでは?」若干苦笑いで渡上はこたえた。
「そんなことないわよ。あの女、私が地球に追放されてた時に何人も愛人作ってそりゃあもう遊んでたらしいのよ。そんなアバズレ女よ⁉」
「俺は、純粋にかぐらさんの身を案じてのことじゃないかと……」
「ふんっ。いちいち鼻につくのよあの女。――ねぇ、そんなとこ突っ立ってないで、隣座って私の話きいてよ」
ばんばんと隣の席の椅子をたたきながらかぐやはあたりめに噛みつく。
「いや、仕事中なんであとで……」
「はによ、つれないわねぇ」
かぐやはもぐもぐと顎を動かし咀嚼する。
「おうおう、働け働け。お前も色ボケしてないでさっさとビシッと言って、身を固めろぉ」
「ばっ、親父! 余計なこというなっ」
店主の発言になぜか渡上は異様にうろたえた。だが、酔っぱらいの客はそんなことなどお構いなく、注文のために渡上を呼んだ。
「おう、注文だぞ」と店主に促され、渡上は横目でちらちらとかぐやを見ながら注文をとりにいった。
「あ~。あたりめおいしー」
「おうよ、かぐらちゃんの好みに合わせてるから当然さぁ。食いすぎて腹壊すなよ?」
かぐやの発言から自分の胸中には気づかれていないと推測し、渡上は内心ほっとした。
「あ~あ~。地球にいた頃はよかったなぁ。誰からもモテまくってさぁ。噂が噂を呼ぶ、誰もが一目見たくなる超絶美人! それが今じゃ居酒屋のおっさん相手にグチグチうるさく突っかかってるだなんてさ。あの時は、特に5人の貴公子にしつこく求婚されちゃったりさぁ。モテモテだったなぁ」
「おうおう、辛気臭いこと言ってると近くにいる男が逃げちまうぞ?」
がたっ、と誰かがつまずいた音がした。
「あの頃はさぁ、人を寄せつけないように無理難題押し付けちゃったけど、あの時一人でも捕まえて月に持ち帰るべきだったわ」
「後悔先に立たずっていうけどな」フライパンを振りながら店主は適当にこたえる。
「あぁ、あの頃に戻れたらなぁ」
はぁ、と力なくスルメ臭いため息をつく。
そんなかぐやの嘆きに店主はほんの冗談交じりで、軽い気持ちで、例えばそう、信号が切り替わったことに気づいていない老人に、青信号ですよと教えるような心持ちで、こう言った。
「あんた月で一番偉いんだから、過去に戻れるくらいできんでしょ」
「それだわっ‼」
天啓が突然降りたかのように、かぐやは机をたたいて立ち上がった。
「あっはっはっはっは。なに言ってんだよ。いくら月の力があるあんただって過去に戻るなんてできっこない。無理無理。無理無理の無味の生姜焼き~」
プライパンを握りながら思いつきで歌う店主を、かぐやは口角をあげ、ニヒルな顔つきでみつめた。
「ふっふっふっふ。舐めないでもらえるかしら? 私を誰だと思っているの?」
かぐやの顔はまさに酔っぱらいのそれだった。
「月の姫、かぐやよ!」
握っていたあたりめを突き出し、声高にかぐやは言った。言ってしまった。
その瞬間、賑わっていた店内は時が止まったかのように静かになった。店内にいる人の目線は彼女一点に集中する。店主は開いた口が塞がらなかった。ただ、フライパンの肉を焼く音だけがそこら一帯に響いていた。
「ありがとう! さっそくいってくる!」
お勘定をカウンターに無造作に置き、ダッシュでかぐやは居酒屋かぐらを去った。
「あぁ肉が!」
静止した時間が動き出したのは誰かのその言葉が発せられてからだった。
渡上は開けっ放しの玄関口を見ながら呟く。
「あんなのが姫でこの星は大丈夫なのか……?」