第90話 三回
三回表、攻撃の先頭は四番──神宮寺先輩だった。
ベンチ前で素振りを繰り返していたその背中が、ひとつ息を吐くとゆっくりとバットを担いで打席へ向かっていく。
マウンド上の相手ピッチャーは、明らかに調子を上げてきていた。球速は初回より2キロは上がり、テンポも早い。
一球目、インローぎりぎりのストレート。ボールに見えたが、審判の手が上がった。
「ストライク!」
ベンチがざわめく。
二球目、外角いっぱいのスライダー。神宮寺先輩が食らいつこうとしたが、バットの先にかすった打球は三塁線を転がり、ファウル。
追い込まれてからの三球目、変化球にタイミングを外され──三振。
(くっ……やっぱり球が伸びてる)
続く五番・金城先輩。初回にはタイムリーを放っているが、今回は苦戦。
カウント1-1から、内角へのカットボール。差し込まれて、打球はショート正面へ。軽快な捌きでアウト。
二死。打席には六番の矢代先輩が向かう。
さっきのフライの処理ミスを引きずっていないか、ベンチからも静かな視線が注がれる。
(……ここで一本返せば、雰囲気は変わる)
矢代先輩は、慎重にボールを見極めていく。カウント2-2までもつれた末──
五球目、外角のストレートを強振。しかし詰まり気味の打球はレフトフライ。
スリーアウトチェンジ。
──三者凡退。
早実の攻撃は、ここで完全に切られた。
ベンチに戻る空気が、先ほどまでとは違っていた。先輩たちも短くうなずくだけで、誰も油断した顔はしていない。
(相手、完全に立ち直ってきてる……)
スコアはまだ4-0。だが、流れが相手へと傾き始めていた。
俺は帽子を深く被り直し、スパイクの底でマウンドの土を噛むように意識した。
(ここからが、本当の勝負だ)
◇
三回裏。守備につく前に、俺は一度、春日の隣に腰を下ろした。
グラブを膝に乗せ、互いに言葉少なに前の回の攻撃を思い返す。打線が沈黙し始めた。流れが、静かに、だが確実に変わり始めている。
春日がミットを握ったまま、ぽつりと口を開く。
「……ここで相手に点を返されたら、一気に流れを持ってかれるかもしれない」
「ああ。守り切らなきゃ意味がない。打線を再び調子づけるためにも、こっちでしっかり踏ん張ろう」
言いながら、俺は左手でグラブを叩く。手のひらに残る汗が、集中の証だった。
「ピッチング自体は悪くない。変化球のキレもあるし、ストレートも走ってる。ただ……」
「ただ?」
「初球の入り方、変えたほうがいいかも。さっきの七番とか、変化球が頭に入ってて、逆に振ってくれたけど。そろそろ狙いを変えてくる」
春日はサイン表を見ながら、何度か頷いた。
「じゃあ、次は……初球にわざと甘めのストレート。見せ球にして、二球目で変化球を落とす」
「わざと見せるのか?」
「そう。気持ちよく振らせて、あとの球で仕留める。振らせるための球を先に置く。……お前の球なら、それができる」
静かにそう言われて、少しだけ息を呑んだ。春日の目は冗談じゃなかった。完全に“本気”だ。
──俺のピッチングを、信じて任せてくれている。
そのことが、何よりも支えになる。
「じゃあ、やるか。俺の球、お前の読みで使ってくれ」
「おう。そろそろ、あいつらのバットを折る時間だ」
二人で拳を合わせ、立ち上がる。緊張と高揚が入り混じった感情が、胸の奥で火花を散らしていた。
マウンドへと戻る足取りは、さっきよりも確かなものだった。




