第89話 信頼関係
追加点を取り、スコアは4-0。まだ2回とはいえ、リードを広げたことで、ベンチの空気もやや余裕が出ていた。
──だが、その余裕は続かなかった。
2番の先輩と3番の山岡先輩が、いずれも内野ゴロで打ち取られてしまったからだった。追加点のチャンスは潰えたが、それでも点差はある。
「切り替えていくぞ!」
神宮寺先輩から声が飛ぶ。俺はキャップのつばを軽く押さえ、マウンドへ向かう。
守備位置についた春日と軽く目を合わせる。キャッチャーミットを構えるその目には、動揺も緊張もない。いつもの春日だった。
──しかし、初球。思わぬ事が起きた。
バッターがジャイロカッターにかすめた打球は、レフト方向へのイージーなフライとなり、ふわりと高く上がった打球に、レフトの矢代先輩が反応する。
「よし、普通のフライ……」
ベンチも、俺もそう思っていた。
だが──ポトリ。
「えっ……」
目を疑った。矢代先輩のグラブが、わずかにそれていた。太陽が角度を変え、視界に差し込んだのか。それとも打球の揺れを読み間違えたのか。
打球は、グラブをかすめて後方へと落ち、慌てて八代先輩がセカンドに向けてボールを投げるも。
「……セーフ!」
打者走者は二塁まで到達。記録はエラーとなった。
ベンチがざわつく。矢代先輩が悔しげに歯を食いしばりながら、俺に頭を下げているのが見えたので、軽く問題ないと手を振って応えた。
(大丈夫だ、落ち着け)
自分に言い聞かせるように、スパイクでマウンドの土を踏みしめる。
春日が俺にジェスチャーを送ってきた。「切り替えろ」と言わんばかりに、ポンとミットを叩いてくれる。
次のバッターは、下位打線のバントが得意なタイプ。予想通り、初球からバントの構えを見せてきた。
俺はインコースにスクリューを投げたが、バッターは見事に転がした。三塁前に転がる完璧なバント。
「っ、間に合わない!」
三塁を守っていた金城先輩が処理して、バッターランナーは一塁アウト、だが──
「ランナー三塁へ!」
一死三塁。
不穏な空気が、わずかにグラウンド上に漂う。
ベンチのざわめきが、遠くから聞こえるように感じた。
(冷静に──一つずつ、確実に)
俺はマウンドに立ち、右手の指先でボールを軽く転がす。土の感触が、わずかに汗ばんだ手を落ち着かせる。
バッターボックスには相手の七番。体格はあるが、バットはやや大振り。チャンスで浮き足立っているようにも見える。
キャッチャーの春日が、サインを出した。
(……アウトローのストレート。初球は強気でいく)
俺はうなずき、ワインドアップ。
「……っ!」
外角低めいっぱい──ズバン、とミットが鳴った。
「ストライク!」
審判の声と同時に、春日がミットをポンと軽く打ち鳴らす。その音が、妙に頼もしく感じた。
二球目。春日のサインは、スクリュー。
バッターのバットの軌道を見て、下へ沈ませる──そういう意図だ。
投じたボールは、ホームベースの手前でクッと落ちた。
「ブン!」
空を切るバット。空振り。
「よっしゃ! 追い込んだ!」
ベンチからの声が飛ぶ。カウントは0-2。焦るのは、向こうのはずだ。
(最後は……ジャイロカッター。ここで決める)
春日が、小さくうなずいた。
右手の感覚に集中する。芯を突き抜けるようなスピードと、カーブよりも鋭い沈み。これが俺の、決め球──
──ズバァッ!!
バットが空を切る。
「ストライクバッターアウト!」
三振。春日のミットに収まった瞬間、緊張が弾けた。
ベンチが湧き上がる。だが、まだ終わっていない。
二死三塁。油断すれば、すぐに1点返される状況。
続く九番バッターは、コツコツと粘るタイプとデータが出てる。ここも、慎重に攻める必要がある。
一球目、外のカーブで様子を見る。見送られてボール。
二球目、インコースにストレート。ファウルで1-1。
三球目、外角低めのスクリュー──
打ち返された打球は、ショート正面!
「猫宮先輩っ!」
軽やかなステップで前進し、落ち着いて一塁へ送球。
「アウト! チェンジ!」
ピンチを切り抜けた。
ベンチに戻ると、猫宮先輩が俺の肩をポンと叩く。
「ナイスピッチ、風間。ピンチで決めるあたり、やっぱりお前は“本物”だぜ」
春日も俺のグラブに拳を軽くぶつけてきた。
「ありがとな、お前の落ち着けってジェスチャー伝わって来たよ」
俺は少し笑いながら、うなずいた。
(──これが、春日との野球。今はそれが、なにより楽しい)




