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目を開けると青空が目の前に広がった。
「うっ」
起き上がろうと力を入れるけど上手く力が入らない。一度起き上がるのを諦めてふぅと息を吐いた。
寝転んだまま見える空は明るい。湖に来たのは夜だったから、かなりの時間気を失っていたんだな。
こりゃあ今頃お兄ちゃんは発狂してるだろうな。もしかしたら警察沙汰になってしまってるかも。
なんて苦笑しつつ、気合を入れて体を起こす。辺りを見回すと、湖にその中央に佇む大木、湖の周りを取り囲む林。さっきまでいた場所だ。だけど、何処にも唯の姿が見当たらない。
「唯一!」
叫んでみたけど、声は木が風で騒めく音に掻き消されてしまう。
どういうこと? さっきまで確かに唯と一緒に居たのに。いや、そもそも明るくほど長い時間が経っているなら、唯が助けを呼ぶなりしているはず。なのに1人倒れていたのだ。
ゴクリと生唾を飲む。
もう一度辺りを見回してみる。
湖に林、あるものは変わらないけど、さっきまでいた場所と一緒かとなると少し違う気がする。なんていうか、空気が違うっていうか、湖だけはこことは違う場所でとても神聖な場所のように感じる。私なんかが近づいてはいけない場所なんじゃないか、と思ってしまう。
何ともいえない恐怖で体が震える。
「お、落ち着け私。そうだ、水の中に引っ張られて気づいたらこんな事になってるんだ。もう1回水に入れば……」
善は急げだ。勢い良く飛び込もうと反動をつけて地面を蹴る。
ガサガサッ。
数歩進んだ時、背後から物音が聞こえた。足を止め音の方へ振り返る。
林から現れたのは3人。いや、3匹と数えた方がいいかもしれない。彼らは豚の様な大きな鼻に口元には鋭い牙が。しかし豚とは違い二足歩行で下半身を布で覆い、言葉を話している。この見た目、見覚えがある。そう、ファンタジーのゲームやアニメなんかで出てくるオークだ。
困惑して動けなくなっている私を彼らはマジマジと見つめてくる。
『ん? おいあれ』
『人間じゃねぇか。なんでこんな所に』
『そんな事どうでもいいじゃねぇか。獲物だ獲物!』
そう言って彼らは興奮した様子で襲いかかってくる。動き出した彼らに、ハッと我に返って林の方へ走って逃げる。
「はぁ、はぁ」
乱雑に生え並ぶ木々を避けながら走る。足場も悪く、思うように前へ進めず体力が奪われていく。
『待てぇ!』
『逃げても無駄無駄!』
『さっさと食わせろぉ』
涎を垂らし、興奮で目をギラつかせて追ってくるオーク達は全く疲れを感じられない。
行手は林が何処までも続いている。いつまで逃げればいいの。逃げる方向は合ってる? この先に助けはあるの? 不安が歩みを阻んでくる。
「きゃっ」
木の根に躓いて盛大に転んでしまう。痛いと思うよりも先に早く立たなければと思った。
『やぁっと追いついた』
真上から声がした。
恐る恐る振り向くと、オーク達は嬉々とした表情で見下げている。
『ククッ追い詰めたぞぉ』
『マジでいい匂いだな。おい、これってもしかして巫女だったりするんじゃないか?』
『巫女?! だったらアイツ食えばすんごい力を手に入れられるんじゃねぇか!』
『おうよ。全部食えば敵うやつなんかいなくなるさ』
『全部? おいお前独り占めするつもりか?!』
『あ゛ぁ? なんでそうなるんだよ。そんな事言うってことは、俺らのこと出し抜こうって考えてるんだろ!!』
仲間割れ? 誰が食べるだ裏切りだなど言い合って、しまいには殴り合いを始めている。
こ、これって今のうちに逃げればいいんじゃ。
呆気に取られていたけど、今こそ逃げるチャンスだと気づいてゆっくりと後退りしていく。チラッと後ろを見ると、丁度よく隠れられそうな幅の木があった。あそこまで行って、立ち上がって走って逃げよう。ゆっくり、ゆっくりとオーク達の様子を見つつ下がる。
パキッ
枝の折れる音が響く。オーク達が一斉にこちらを向いた。
手の下敷きになった小枝が折れてしまったんだ。
逃げなきゃ、と体を動かそうとしたけど、ギラついた彼らの目に金縛りに遭ったかのように体が動かなくなってしまった。
『コイツ逃げる気か?!』
『誰が食うなんて後回しだ! まずはコイツの息の根を止めるぞ』
『賛成だ!』
そう言って、彼らは雄叫びを上げて飛びかかろうと構える。
もうダメだ。ギュッと目を瞑った。
『ギャッ!!』
来ると思った衝撃ではなく、しゃがれた悲鳴が聞こえた。目を開けると、襲って来ようとしていたオークの1匹が倒れ込んでいた。その肩には矢が刺さっている。
『な、なんだ?!』
『弓矢だ! 一体どこから…… ギャァ!!』
矢が次々と飛んできてオーク達を襲っていく。彼らは悲鳴を上げながら、転がり逃げるように去っていった。
一変した状況に目をパチクリさせる。
一体何が起こったの? 私、助かった、の……?
ホッと息を吐いた瞬間、どっと疲れが襲ってきて、視界が霞んだ。
ザッと草を踏む音が近づいてくる。多分助けてくれた人が近づいて来たんだろう。お礼を言わなきゃ、と思うんだけどどんどん意識が遠のいてきて顔を上げることすら出来ない。ダメだ、もう起きてられない……
支えていた手から力が抜けて、私はその場に倒れこんだ。途切れそうな意識の中微かに、風になびく赤い髪を見た。
♢ ♢ ♢
倒れる私に誰かが近づいてくる。足は目の前で止まり、誰かはしゃがんで顔を覗き込んできた。目線だけ動かして見てみるけど、視界が霞んでハッキリ見えない。
「安心して。次は僕ら幸せになれる。アイツなんかに君を奪わせないから」
そう言って私の頬を愛しげに撫でる。辛うじて見えた彼の顔は、手とは裏腹に黒さを滲ませた笑みを浮かべていた。
♢ ♢ ♢
いい匂いが鼻をかすめる。
お兄ちゃんまた早く帰ってきたのか。たまには友達と遊んだりだとか自分の時間を持ってって言ってるのに。
「私もう料理くらい作れるのよ」
「いやぁ。料理はちょっと無理なんじゃないかな」
お兄ちゃんとは違う声が聞こえてバッと目を開ける。目の前には真っ暗な林じゃない木の天井、そして様子を伺うように見つめる男の人。
「調子はどう?」
「えっと……」
「声が枯れてしまってるね。水を持ってくるからちょっと待ってて」
そう言って男の人はどこかへ行ってしまった。私は訳が分からず目をしばたたせる。
ここは一体どこなんだろう。さっきの人は?
取り敢えず起き上がろうとしてみるが、力が上手く入らなくて起き上がれない。
「あぁ無理に起き上がろうとしなくて大丈夫だよ」
丁度戻ってきた男の人が近づいてきて、手に持っているコップを傍のテーブルに置いて背を支えて起き上らせてもらった。背もたれに体重を預けると少し楽だった。
「どうぞ。自分で飲めるかい?」
「はい」
体勢を変えて力が入るようになり、コップを受け取って水を流し込む。体に染み渡って体が生き返る。
「大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
コップを返すと、男の人はニコリと微笑んだ。
水分をとって落ち着き、改めて辺りを見回す。木でできた小さな個室はベットと枕元にランプが置いてある小さなテーブル、少し離れたところにテーブルとイスがある。
視線を男性へ。茶色い短髪に髪より薄めの色の瞳、笑みは優しげでとても整った顔をしている。
「具合はどうだい? 腕や足は傷だらけだったから申し訳ないけど手当させてもらったよ」
言われて自分の腕を見てみると無数の切り傷が。林を走っていた時のだろう。無我夢中だったから気が付かなかった。
「いえありがとうございます。えっと……」
「僕は黒斗。君、倒れたこと覚えてる?」
「あ、はい。私は明日香と言います。助けていただきありがとうございます」
頭を下げようとしたが目眩がして倒れそうになり、黒斗が支えた。
「大丈夫かい? 昨夜まで高熱だったんだ、まだ無理しちゃだめだよ」
そう言って明日香を寝かせて毛布をかける。
「また落ち着いたら色々と聞かせて」
「あ、はい」
「じゃあまた様子を見に来るから。今はゆっくり体を休めて」
パタンとドアが閉まり、ふぅと息を吐くと眠気が襲ってきた。
一体私はどうなってしまったんだろう。ここはどこなんだろう。分からないことだらけだけど、今は取り敢えず体を休めて動けるようにならないとな。
そう思い、眠気に抗わず目を閉じた。
♢ ♢ ♢
次に目を覚ますと部屋は暗闇に包まれていた。
「トイレ行きたい」
体を起こしてみると、さっきより随分動けるようになっていた。ベットから出て立ち上がってみても、少しふらついたが歩くのに支障はなさそうだ。
ドアを開けて外の様子を伺ってみる。短い廊下にいくつかドアがあるのが分かったが、一体どれがトイレなのか分からない。さっき黒斗に場所を聞かなかったことが悔やまれる。
どうしようかともう一度辺りを見回してみると、1箇所だけ光が漏れているドアがある。音をたてないように廊下を進み、そのドアをゆっくりと開けて中を覗き込んでみる。
中は工房で、所狭しと木や家具などが置かれている。そして、その奥でイスに座って黙々と作業をしている男の人の背中。とても集中しているであろう背に私は声を掛けられずただ呆然と見つめていることしか出来なかった。
ふと、男の人の動きが止まりパッとこちらへ振り返って目と目が合う。
真っ赤な髪と瞳。整った顔立ちをしているが、黒斗とは違って少し無愛想な表情と射抜くような視線に、まるで金縛りにでもあったように動けなくなった。いや、彼から視線を外せない。
「何故泣いてる?」
発せられた言葉に金縛りが解け、頬に触れて自分が泣いていることに気づいた。
どうして泣いてるんだろう。彼が怖いとかじゃない。ただどうしようもなく切なくて、胸が張り裂けそうで、嬉しくて、色々な気持ちが溢れて渦巻いているのだ。
彼は立ち上がって前に立ち、真っ直ぐ見つめてくる。何も言わず、怪訝そうな表情を浮かべて吸い込まれそうな真紅の瞳が私を見つめる。バクバクいう心臓が痛くて胸の前で手を握り、またほろりと涙が頬を伝った。