8 たくさんある中のひとつでも誰かにとっては、それはたったひとつの大切なもの
「ぴゃあぁぁ…!」
ぽよ~ん、ぽよ~ん。
マリジュの体が弾む。
ソファーの周囲にはびっしりとハランドの魔力糸の網がはってあり、マリジュをトランポリンのように受け止めた。
マリジュのどのような危険も見逃さないハランドにとって、落下も予測範囲内であった。
ハランドは常に観察して分析をする。
理解して想像して予測をする。
ハランドは小さいマリジュにとって、人間の動き手のひとふり足の一歩さえ危険であると熟知していた。たった30センチ60センチの段差でも、それはマリジュにとって身長の5倍10倍もあるのだということを。
心臓をバグバグさせ血の気を失った人々の顔色など気にもとめず、ハランドは網からひょいとマリジュをつかむと頭にのせた。だが、その美貌は冷たく凍っていた。
マリジュは安全地帯に戻ってへにょりと全身をとけさせた。
「…ぴー…」
こわかった…。
あの浮遊感、マリジュは2度と鳥に憧れたりしないと思った。
「マリジュちゃん、ごめんなさい!!」
夫人と姉娘が泣きながら謝罪する。
「事故ですぅ…。大丈夫ですから気にしないで下さい…」
マリジュはよろよろと顔を上げて、真夏の暑さに手足を投げだしぺちょりと溶けたハムスターのような体勢からハランドの頭上で座りなおした。
「それよりお姉ちゃん、痛みがしばらく続きます。本当は安定のために今後もマリジュの魔法を流した方がいいのですけど…」
夫人はすがるようにハランドを見た。
マリジュを危険な目にあわせておきながら、図々しい願いであるとわかってはいたがたった今マリジュは姉娘の月のものを導いてくれた。医師にも誰にもできなかったことだ。
「クルーガー公爵閣下、どうか、王都のお屋敷への訪問の御許しをいただけないでしょうか?」
「私からもお願い致します。許可をいただけるならば、ヤハム侯爵家は全力でマリジュちゃんの庇護をお約束致します」
姉の婚約者もハランドの顔色を伺い頭を下げる。
「ハリアント侯爵家も全力を尽くします。魔法契約も厭いません」
「隊長、姉を助けて下さい。お願い致します!」
夫人とコリンがそろって深く深く頭を下げる。
もにゅもにゅ
もにゅもにゅ
マリジュがハランドの頭皮を子猫のようにもみもみ揉む。
「ーーマリジュ、何をしている?」
「マッサージです、リラックスです、だんな様。助けてくれてありがとうございました。マリジュはだんな様のおかげで傷ひとつありません。だから安心してお姉ちゃんの力になってあげて下さい」
「俺は…」
ハランドは自分でも驚くくらい平常心が乱れていた。常に冷静沈着で冷酷と言われた身であるのに、安全は万全とわかっていたはずなのにマリジュが落下した時、臓腑の全てがゾッと冷えた。
生まれてから今まで何かを怖れたことなどなかった。しかしあの瞬間、感じたのは恐怖であった。
そんなハランドの気持ちを、マリジュの前世が「わかる!」と頷いている。
そしてマリジュに「ごきげんをとるべし!」と指令を出している。
「心配をかけてごめんなさい」
マリジュはハランドの金色の髪の毛をちっちゃな手でなでなで撫でる。
マリジュのちっちゃな手はハランドのお気に入りだ。
「だんな様、昨日マリジュは一族を失いました。毎日どこかで命は失われますが同じ日にどこかで命は生まれるように、だんな様と出会いました。ねえ、だんな様。夜空に星はいっぱいあるでしょう?お互いすごく近い場所にあるように見えても、本当はお互いすごく遠くにあるのですよ。見えるものが全てではないのです。かけがえのないものも全て目に見えているわけではないのです。でも目に見えていなくても大切なものはあるのですよ。ねえ、だんな様。大切な人がいて、その人を大切にできている人がどれだけいるでしょうか?だから、ね?だんな様。慈愛のみで生きている生かされている生き物はいませんけど、その欠片を与えあうことはできると思うのです」
「マリジュ、おまえ何歳だ?そんなにちまいのに百年くらい生きているのか?」
苦笑まじりにハランドはまじめにきいた。
「生まれて4年です。人間だと8歳くらいでしょうか?」
「人間だと?」
「一族は人間の倍の速さで成長して、寿命は人間の半分です」
「半分!?」
部屋中の人々が声を上げた。
「小さい生き物はたいてい短命です」
短い命だからこそ、とマリジュは言った。
「大切な人は大切にしたいのです。マリジュにとってはだんな様ですが、お姉ちゃんはお姉ちゃんを大切にする人にとって大事な人なのです。今は流しましたけど、体質的にお姉ちゃんはまた魔力がたまってしまうのです」
ハランドはフッと息をもらすように、乾いた笑いをこぼし自分の感情を整理した。
マリジュに大切な人はハランドと言われ、気分が上昇したこともおおきい。
ヤハム侯爵家とハリアント侯爵家を味方にすれば、マリジュはより一層安全になる。
マリジュの落下は恐怖が消えれば腹立たしさが残るが、怒りを向けるよりもマリジュの王都での庇護を考えた方がよい。
「歓迎します、ハリアント侯爵夫人。王都でまたお会いしましょう」
そして、
夫人は途方にくれた。
「どうしましょう、どうしましょう。クルーガー公爵の許可もいただけたというのに、なのに、なのに、おもてなしが…っ!」
ハリアント侯爵家の料理長も頭をかかえた。
「森の守り人に食事を召し上がっていただける機会なんてもうないかもしれないのに…っ!」
最高級の贅を尽くした晩餐が用意された、人間用は。しかしマリジュの分は。
「やわらかいもの、やわらかいもの。ああ!パムの実をすりつぶして!」
「いいえ、食器がないわ!マリジュちゃんに犬や猫のように皿をなめさせようというの!?スプーンもフォークもナイフもないのよ…」
「そうでした、食器が!ではでは、スープすらお出しできない!?」
「そうよ、そうなのよ。1センチの、いいえミリサイズの食器やカトラリーなんてないのよ~」
よよよよよ、と夫人が嘆く。
「もし食器があったとしても、1センチの皿にオムライスをつくれる?ハンバーグは?ねっ、母上できないでしょう?」
先ほどパンくずで冷たい視線を浴びたコリンがドヤ顔をすると、夫人はキッと顔を上げて扇子でコリンをバシバシ叩いた。
「あなたもハリアント侯爵家の人間なのですよ。マリジュちゃんにパンくずの食事しか用意できないことを恥と思いなさい!」
その夜マリジュの食事は、果肉がやわらかく果汁たっぷりな果物とトロトロの甘いジャムとパンくずだった。
マリジュは喜んだが、夫人と料理長は涙にくれてリベンジをかたく誓った。