1.ハタチ
月明かりがぼんやり浮かび上がってきた頃に、目覚ましが鳴った。
この街で暮らし始めてから半年が経つ。すっかり夜行性になってしまった私は、今日も薄汚れた靴を履いてバイトへ向かった。今年は何年ぶりかの猛暑が続くらしいが、夜中の私の生活に何の支障もない。それよりも今日発売のジャンプが気になっていた。
この時間は、向かう途中にコンビニと居酒屋が交互に笑いかけてきて
「いってらっしゃい! 今日もお互い頑張ろうな」
なんて声をかけてくれるのが心地良い。私の幸せは、時々馬鹿げているようにも感じる。 仕方がない。昔から人と会話するのが苦手で案の定、友達もなかなか出来やしない。そのくせ人間観察は大好きだ。
そんな私は、ラブホテルのベッドメイキングのバイトをしている。普通なら若干二十歳の 女の子が働くにはあまりにも危ないらしく、支配人の小太りな男が額の汗を拭きながらため息混じりに私の顔と履歴書を交互に見ながら面接したのを覚えている。
「若い女の子だとねーー、結構重労働だし、男のスタッフと二人きりって時もあって色々と危ないんだよねーー、その辺わかってる? 大丈夫?」
小太りな男の圧は、色んな意味で暑苦しかった。
「だ......大丈夫です。あの、空手とか習ってたんで」
意味の分からない嘘をついた。「嘘をついてはいけない」子供の頃に覚えた約束事だが、少し大人になってくると、嫌いな人が増えて、大事なものが増えて、生きていくためにはつかなきゃいけない嘘もたまにはあるんだ!と自分に言い聞かせては、嘘とコーラを一緒に飲み干して炭酸が私の中にいる卑怯者を殺してくれている。歳は重ねても嘘は重ねなきゃそれでいい。ずるいな。結局、人には文句ばかりでも自分には甘いことに嫌気がさす時もある。ついつい糖分多めが、癖にはなりたくない。
「うーん、はい。じゃあ明日から来れる? まあ、頑張ってみて」
「はい、ありがとうございます。頑張ります」
なんとか採用されて、今に至る。
商店街を抜けて細い裏路地に入ったすぐ角に「HOTELジェリー」はある。あまりにも ぽつんとあるので小さいが目立っていた。スタッフの数も少なく、いつもだいたい五つ年上で京都出身のミキタさんと元ホームレスだった六十歳の通称てっちゃんと夜は三人。プラス支配人の奥さんでシフトを組まれていた。
「お前、変わってんなあ。これは褒め言葉や」
ミキタさんが私にかけてきたこの言葉がずっと頭に焼き付いている。お笑い芸人を目指して上京し、コンビを組んでいるミキタさんは細身の黒ぶちメガネの男でとにかく早口だった。たまに何を言ってるか早くて聞きとれないので「そうなんですか」と、適当に合わせ誤魔化して怒られるというやりとりを何度かしてしまい、苦手意識を持っていた。
「彼はコンビでツッコミ担当だからさ。職業病みたいなもんだし、気にすることないさ」
お弁当を頬張りながらてっちゃんが言う。
「てっちゃんはミキタさんの事、好きですか?」
「好きか......考えた事もないなぁ。でも例えば嫌いだと思った時は、自分にも何か原因が ある時の感情だと思っているよ。そろそろ時間か」
お弁当をかき込み、一気にお茶を飲み干したてっちゃんは、おもむろに立ち上がり掃除用 具を私に渡し、本日最後のベッドメイクに二人で向かった。足音しか聞こえない廊下の細い通路を歩きながら、さっきてっちゃんに言われた言葉がぐるぐる頭の中で繰り返されていた。何度もどういう意味か考えてみたけれど今の私にはよく分からず、ただ何かが胸の奥にひっかかっていて悔しかった。てっちゃんの発言はたまに意味深の中に喜怒哀楽が見え隠れ している。その謎解き迷路にいつも迷い込んでは、歩きすぎて靴擦れになるまで考える感覚が意外と好きだった。
203号室の常連がベットの下に靴を並べてコレクションしている、301号室のシャンプーにはオレンジジュースが混入してあったり、105号室の枕は持ち逃げされていたり。これだけでは序の口で毎日色々あるが、未知で無知な脳内花畑みたいな奴らが理解できず、無性に腹が立つ日もあった。
「見解の相違だよ。無責任だけど、そう思って上手く橋を渡っていかないと。葵ちゃんは危いと思った橋をすぐ撤去してしまう。まあ、真面目で良い子だけど」
そう言いながらてっちゃんは度々笑い、私のしょうもない愚痴を嫌な顔一つせず聞いてくれていた。世の中は決して思い通りにはいかない。それを当たり前だとは思っていたけれど、なかなか心がついていかない。多分私は、そんな事をする奴らよりも現状の世の中についていけない自分に嫌気が指しているのかもしれない。
「おつかれさん。今日は、ちょっと早いやないか」
休憩室に戻ると、ミキタさんがソファに寝転がっていた。
「お疲れ様です。あれ? 出勤ですか?」
「いや、携帯が見当たらんでなあ。探してはるんやけど知らん?」
メガネを外し、目をこすりながら私に問いかけるミキタさんの目の下はクマで真っ黒だった。寝ないでネタ作りでも頑張っていたんだろうか。私は、ミキタさんのように何かに打ち込めるような夢がなかった。そこまでしてやる意味も自分の価値も全く無頓着な私に対して、どことなくミキタさんは私の背中を一歩踏み出せるように押そうとしていた。ミキタさんの強引な性格上、優しく押すというより崖から突き落とす勢いの方が近い。有り難いが余計なお世話だと思っていた。
「あ、フロントのデスクの上に、なんか黒い電話あったよ」
てっちゃんが、急いで着替えながら大声で言う。
「ほんますか? おっ! あったわ。てっちゃんサンキューー」
「よかった。じゃ、お先失礼するよ。お疲れ様」
今日はいつもより早く退勤できたからか、てっちゃんはそそくさと帰宅してしまった。ミキタさんと二人だけになってしまったこの休憩室は、なんだかいつもより煙草のせいか煙たくて、湿気のせいか重かった。それがミキタさんと私の、今の心の距離感なんじゃないかと 思っていた。時計の針は、ゆっくりと午前二時を指す。
「お前さ、カラオケとか普段行くんか? 歌とか知らんやろ?」
急に口を開いたかと思えば何を言い出すんだこの人は。と、私は動揺がバレないようにフロントの点検シートを記入し続ける。
「まぁ。たまには付き合いで行きますけど、歌うのは嫌いです」
そんな返し方しかできない私は、やっぱりクソだなと気まずい空気を出していると、それを見てミキタさんがいきなり大笑いした。
「性格悪っ! やっぱお前変わってんなぁ。それ絶対、歌うの嫌いじゃないやん。でもそ
ういう奴が案外さ、奇跡とか起こしちゃったりするんやろな、羨ましいわ」
何をロマンチックに浸っているんだろう。私は普段から気持ちが高ぶったり、ましてや大笑いする事もほとんどない。だけどそれが自然に出来てしまうミキタさんの方がよっぽど可能性も感じるし、結局羨ましかった。
「あ、もう着いたみたいや。ちょっとお前に紹介したい奴がいてるんやけど、一緒に来てや」
なんだろう。珍しいな。怖いな。と思いながら「はい」と言い、ミキタさんと外に出た。 外は、夏なのに不気味なくらいひんやりとした風が少し肌を撫でる。
ホテルのすぐ角に、リュックを背負った男の子がしゃがんでいた。
「俺の弟の奏太や。こいつはバンドでプロを目指して上京してきたんや。歳もお前と同じだし、仲良くしてやってや」
突然のミキタさんの紹介にキョトンとしてしまった。
「あ......あの、葵っていいます。お兄さんにはいつも仕事でお世話になってます。よろしくお願いします」
暗闇の中、外灯の明かりと心臓の音が私たちを徐々に近づける。
「友達少ないし嬉しいわ。よろしく」
長い前髪の奥からうっすら見えた切れ長の目は、寂しそうに笑っていてなんだか今にも泣きそうな感情の裏側を見たようで、私の心は一瞬目をそらした。気のせいか。そう思いたくなるほど、不可思議な真夜中に奏太と私は出会った。
月明かりがぼんやり浮かび上がってきた頃に、目覚ましが鳴った。
この街で暮らし始めてから半年が経つ。すっかり夜行性になってしまった私は、今日も薄汚れた靴を履いてバイトへ向かった。今年は何年ぶりかの猛暑が続くらしいが、夜中の私の生活に何の支障もない。それよりも今日発売のジャンプが気になっていた。
この時間は、向かう途中にコンビニと居酒屋が交互に笑いかけてきて
「いってらっしゃい! 今日もお互い頑張ろうな」
なんて声をかけてくれるのが心地良い。私の幸せは、時々馬鹿げているようにも感じる。 仕方がない。昔から人と会話するのが苦手で案の定、友達もなかなか出来やしない。そのくせ人間観察は大好きだ。
そんな私は、ラブホテルのベッドメイキングのバイトをしている。普通なら若干二十歳の 女の子が働くにはあまりにも危ないらしく、支配人の小太りな男が額の汗を拭きながらため息混じりに私の顔と履歴書を交互に見ながら面接したのを覚えている。
「若い女の子だとねーー、結構重労働だし、男のスタッフと二人きりって時もあって色々と危ないんだよねーー、その辺わかってる? 大丈夫?」
小太りな男の圧は、色んな意味で暑苦しかった。
「だ......大丈夫です。あの、空手とか習ってたんで」
意味の分からない嘘をついた。「嘘をついてはいけない」子供の頃に覚えた約束事だが、少し大人になってくると、嫌いな人が増えて、大事なものが増えて、生きていくためにはつかなきゃいけない嘘もたまにはあるんだ!と自分に言い聞かせては、嘘とコーラを一緒に飲み干して炭酸が私の中にいる卑怯者を殺してくれている。歳は重ねても嘘は重ねなきゃそれでいい。ずるいな。結局、人には文句ばかりでも自分には甘いことに嫌気がさす時もある。ついつい糖分多めが、癖にはなりたくない。
「うーん、はい。じゃあ明日から来れる? まあ、頑張ってみて」
「はい、ありがとうございます。頑張ります」
なんとか採用されて、今に至る。
商店街を抜けて細い裏路地に入ったすぐ角に「HOTELジェリー」はある。あまりにも ぽつんとあるので小さいが目立っていた。スタッフの数も少なく、いつもだいたい五つ年上で京都出身のミキタさんと元ホームレスだった六十歳の通称てっちゃんと夜は三人。プラス支配人の奥さんでシフトを組まれていた。
「お前、変わってんなあ。これは褒め言葉や」
ミキタさんが私にかけてきたこの言葉がずっと頭に焼き付いている。お笑い芸人を目指して上京し、コンビを組んでいるミキタさんは細身の黒ぶちメガネの男でとにかく早口だった。たまに何を言ってるか早くて聞きとれないので「そうなんですか」と、適当に合わせ誤魔化して怒られるというやりとりを何度かしてしまい、苦手意識を持っていた。
「彼はコンビでツッコミ担当だからさ。職業病みたいなもんだし、気にすることないさ」
お弁当を頬張りながらてっちゃんが言う。
「てっちゃんはミキタさんの事、好きですか?」
「好きか......考えた事もないなぁ。でも例えば嫌いだと思った時は、自分にも何か原因が ある時の感情だと思っているよ。そろそろ時間か」
お弁当をかき込み、一気にお茶を飲み干したてっちゃんは、おもむろに立ち上がり掃除用 具を私に渡し、本日最後のベッドメイクに二人で向かった。足音しか聞こえない廊下の細い通路を歩きながら、さっきてっちゃんに言われた言葉がぐるぐる頭の中で繰り返されていた。何度もどういう意味か考えてみたけれど今の私にはよく分からず、ただ何かが胸の奥にひっかかっていて悔しかった。てっちゃんの発言はたまに意味深の中に喜怒哀楽が見え隠れ している。その謎解き迷路にいつも迷い込んでは、歩きすぎて靴擦れになるまで考える感覚が意外と好きだった。
203号室の常連がベットの下に靴を並べてコレクションしている、301号室のシャンプーにはオレンジジュースが混入してあったり、105号室の枕は持ち逃げされていたり。これだけでは序の口で毎日色々あるが、未知で無知な脳内花畑みたいな奴らが理解できず、無性に腹が立つ日もあった。
「見解の相違だよ。無責任だけど、そう思って上手く橋を渡っていかないと。葵ちゃんは危いと思った橋をすぐ撤去してしまう。まあ、真面目で良い子だけど」
そう言いながらてっちゃんは度々笑い、私のしょうもない愚痴を嫌な顔一つせず聞いてくれていた。世の中は決して思い通りにはいかない。それを当たり前だとは思っていたけれど、なかなか心がついていかない。多分私は、そんな事をする奴らよりも現状の世の中についていけない自分に嫌気が指しているのかもしれない。
「おつかれさん。今日は、ちょっと早いやないか」
休憩室に戻ると、ミキタさんがソファに寝転がっていた。
「お疲れ様です。あれ? 出勤ですか?」
「いや、携帯が見当たらんでなあ。探してはるんやけど知らん?」
メガネを外し、目をこすりながら私に問いかけるミキタさんの目の下はクマで真っ黒だった。寝ないでネタ作りでも頑張っていたんだろうか。私は、ミキタさんのように何かに打ち込めるような夢がなかった。そこまでしてやる意味も自分の価値も全く無頓着な私に対して、どことなくミキタさんは私の背中を一歩踏み出せるように押そうとしていた。ミキタさんの強引な性格上、優しく押すというより崖から突き落とす勢いの方が近い。有り難いが余計なお世話だと思っていた。
「あ、フロントのデスクの上に、なんか黒い電話あったよ」
てっちゃんが、急いで着替えながら大声で言う。
「ほんますか? おっ! あったわ。てっちゃんサンキューー」
「よかった。じゃ、お先失礼するよ。お疲れ様」
今日はいつもより早く退勤できたからか、てっちゃんはそそくさと帰宅してしまった。ミキタさんと二人だけになってしまったこの休憩室は、なんだかいつもより煙草のせいか煙たくて、湿気のせいか重かった。それがミキタさんと私の、今の心の距離感なんじゃないかと 思っていた。時計の針は、ゆっくりと午前二時を指す。
「お前さ、カラオケとか普段行くんか? 歌とか知らんやろ?」
急に口を開いたかと思えば何を言い出すんだこの人は。と、私は動揺がバレないようにフロントの点検シートを記入し続ける。
「まぁ。たまには付き合いで行きますけど、歌うのは嫌いです」
そんな返し方しかできない私は、やっぱりクソだなと気まずい空気を出していると、それを見てミキタさんがいきなり大笑いした。
「性格悪っ! やっぱお前変わってんなぁ。それ絶対、歌うの嫌いじゃないやん。でもそ
ういう奴が案外さ、奇跡とか起こしちゃったりするんやろな、羨ましいわ」
何をロマンチックに浸っているんだろう。私は普段から気持ちが高ぶったり、ましてや大笑いする事もほとんどない。だけどそれが自然に出来てしまうミキタさんの方がよっぽど可能性も感じるし、結局羨ましかった。
「あ、もう着いたみたいや。ちょっとお前に紹介したい奴がいてるんやけど、一緒に来てや」
なんだろう。珍しいな。怖いな。と思いながら「はい」と言い、ミキタさんと外に出た。 外は、夏なのに不気味なくらいひんやりとした風が少し肌を撫でる。
ホテルのすぐ角に、リュックを背負った男の子がしゃがんでいた。
「俺の弟の奏太や。こいつはバンドでプロを目指して上京してきたんや。歳もお前と同じだし、仲良くしてやってや」
突然のミキタさんの紹介にキョトンとしてしまった。
「あ......あの、葵っていいます。お兄さんにはいつも仕事でお世話になってます。よろしくお願いします」
暗闇の中、外灯の明かりと心臓の音が私たちを徐々に近づける。
「友達少ないし嬉しいわ。よろしく」
長い前髪の奥からうっすら見えた切れ長の目は、寂しそうに笑っていてなんだか今にも泣きそうな感情の裏側を見たようで、私の心は一瞬目をそらした。気のせいか。そう思いたくなるほど、不可思議な真夜中に奏太と私は出会った。