陸上の金魚
今日も、誰かのために着飾る。好いていない人に身体を許す。
あの頃の初恋だけを、心の支えに生きてきた。少しの想いを伝えることも許されず、親に売られ、身を売られ。悲しみの涙も、もう出なくなってしまった。
陽が沈み、花街に灯りが咲く。生憎の雨でも、道を行きかう人の往来は止まない。華やかな花街には、秘密や嘘が蔓延っている。
「桜花さん。そろそろ準備をなさって下さい。」
「はい。」
私は、薄紅を差し、白粉を纏わせる。綺麗な着物を身に着け、今日も誰か様の一夜の恋人となる。
「登坂様がおいでになりました。桜花さん、ご指名でございます。」
「わかりました。」
お客様のお待ちになる部屋へ向かう間、幼き日々を思い出す。夕暮れの中、神社の境内で遊んだこと。忘れられない彼と行った、夏のお祭り。少ない小遣いをはたいて、彼が買ってくれた手毬は、私の部屋の片隅に置いてある。
「お待たせいたしました。桜花でございます。登坂様、今宵はよろしくお願いいたします。」
畳に手をつき、頭を少し下げお辞儀をする。
「あぁ、君が桜花か。斑月屋で一番の美人だと聞いていたが、想像していたよりも幾倍も綺麗だ。さぁ、頭をあげて此方へおいで。一夜は短い、此方へ来て相手をしておくれ。」
「はい。」
その晩は、登坂様の思うままに身を捧げた。熱い吐息や少し掠れた声が、この身体に残る感覚が幻であれば、と今日も願う。叶わぬ願いと知りながら。
登坂様がお帰りになり一人、窓から空を覗くと、夜空にはたくさんの星と大きな月が輝いていた。
「もしも私があの月になれたのならば、彼と離れることもなかったのでしょうか…。」
ふと、夜空に手を伸ばした。
「この指に運命の糸があるのならば、その糸を手繰った先に、彼がいてくれたら、と思うことは許して下さいますか。」
華やかな景観に誘われた方々が、今日も花街に連なる。
親や恋人に売られた遊女の悲しみは、花を幾つ積むよりも重いものだ。知らない人の吐息を浴び、嘘を重ねる。好きの言葉に好きと返し、相手の望むままに感じたフリをする。
夜が明け、昼の太陽が花街を照らし、嘘を隠す。華やかに飾られた遊女達も、今だけは着飾った女を脱ぎ、ただの少女に戻る。この時間だけは、誰にも注目されない花になりたいと、切に願う。
部屋の片隅に置いてある手毬を手に取る。こうして遊んでいる間に、時間を巻き戻すことが出来たら。ぼぅっとしていたようで、手毬が手から落ちて部屋の暗がりに転がっていく。思い出の彼が遠くへ行ってしまうようだった。
「お願い。一人にしないで。」
口から出た言葉は、静寂に飲み込まれていった。
晴れた夜には、沢山の方がいらっしゃる。今日も薄紅を差し、白粉を纏う。
「近藤様がおいでになりました。桜花さん、ご指名でございます。」
「わかりました。」
いつもよりも足取りが重い。拒絶する心身と、抗えない立場。過去の思い出に縋って息をする日々。いつかこの檻の外へ行きたい。それだけを夢見て、今日もお客様の元へ向かう。
「お待たせいたしました。桜花でございます。近藤様、今宵はよろしくお願いいたします。」
顔をあげると、幼い頃に恋い焦がれた彼に似た男性がいた。
「あぁ、君が桜花さんか。噂に聞いていたよりも綺麗だ。」
近藤様は、思い出の彼と同じような笑顔で微笑んだ。
少しの間、二人で他愛のない会話を交わした。近藤様は呉服屋の跡取りで、遠出した記念に花街に来たと言った。
「なんだか君は、昔近所に住んでいた僕の初恋の人に似ているよ。話し方や笑い方もそっくりだ。いつだったか、彼女はいなくなってしまってね。よく遊んでいたから寂しかったな、あの時は。」
「そうなのですか。わたくしは、本当の名前も生まれた土地も忘れてしまったのでわかりませんが、どこかで近藤様の初恋のお相手が、幸せに暮らしているといいですね。」
近藤様が私の初恋の相手に似ていることは言えなかった。言ってしまったら期待してしまう。絶望させてしまう。此処は嘘を売る場所だ。お客様にも、自分にも。
近藤様と恋人のように過ごした一夜は、何年も感じたことのなかった幸福感のようなものを感じることが出来た。近藤様に抱かれて、初めて嘘偽りなく感じた。夢にまで見た彼に抱かれているような気がした。
近藤様がお帰りになって、一人で部屋にいると近藤様のことを思い出してしまう。そして、同時に、この檻から出られないという現実が突き付けられる。
「夢を見すぎていた罰なのですね。」
明日から、お客様のお相手を務められる自信がなくなってしまった。今日がいつまでも続けばいいと願う程、明日は目の前まで近づいてくる。
切り離すことの出来ない明日には、近藤様との約束も、思い出の彼との約束もない。空を見上げると、大きな満月が薄雲に隠れていた。くすんだ月明かりに、手を翳す。
「こんな思いをするのなら、彼との思い出を忘れてしまえればよかったのに…。」
雲の隙間から満月が現れた。
「月の元へ行くことが出来たらいいのに。」
月の妖気に誘われるままに、着物の帯をほどい台に上り、帯を天井の梁に結び付け、垂れた先に輪を作った。
「最期に、彼に似た方と出会えてよかった。」
近藤様と出会わなければ、こんな思い切ったことはしなかっただろう。
垂れ下がった帯の輪に首をかける。つま先で台を蹴倒すと、体重が首にかかる。規則的に揺れる体。苦しくなる呼吸。目の前に星が瞬いているように、流れる涙に月明かりが反射する。体が軽くなって、意識が遠くなっていく。
窓から見えた月は、大きく、赤く、そしてとても綺麗だった。