二-三
あたしは完璧に騙せていると思っていた。
母は初めから娘の異変に気付いていて、それでも娘の強さを信じて、知らない振りを続けてくれていた。
感謝の気持ちと同時に、怒りが込み上げてきた。
あのとき、母が味方になっていればどれほど心強かっただろうか。どれほど安心できただろうか。
しかし、母が味方になっていればあたしはその優しさに甘えてしまっていただろう。現実から逃げて、ずっと母にすがっていただろう。
今あたしが一人で立っていられるのは、信じて待って支えていてくれた母のおかげなのだ。
それに母があたしを丈夫な体に産んでくれたからこそ、あたしは今、あたしでいられるのだ。
最後は感謝の気持ちだけが残った。
けれど今はそれを言葉にしてあげない。
やっぱりちょっとだけ、仕返し。
思春期だから。反抗期だから。
中学を卒業したらすぐに就職する予定だったけれど、お母さんやや先生に説得されて進学することにした。その頃にはもう病気で寝込むことも一切なく、病弱だった面影とは無縁になっていた。
あたしの通う高校ではイジメはなかった。
あたしが無くした。
いつの間にやらあたしは校内でちょっとした有名人になっていて、部活や委員会活動に積極的に誘われた。
とりあえず、難しい準備が必要なくすぐに始められそうな陸上部に入ることにした。
部活を決めると他の勧誘も落ち着いた。
あたしは部内で一番足が遅かった。それでも構わず毎日走り続けた。
体を思い切り動かすことなんて生まれて初めてで、とにかく楽しかった。
ちっとも上達はしなかったけれど。
順調な高校生活を送っていると、お母さんから居酒屋のアルバイトを紹介された。
若さゆえかスタミナは有り余っていたし、お母さんの手伝いもしたかったので、バイトを始めることにした。
バイト先では、先輩も常連のお客さんもみんなお母さんの苦労を知っているらしく、あたしにも優しくしてくれた。
雰囲気のいいお店で、周辺の学校の教師や親御さんもよく訪れるため、他校の生徒の情報が簡単に手に入った。
良い噂と悪い噂をしっかり選り分けて、悪い生徒だけに狙いを絞った。
どう更生させようか悩んだ末、とびきりの恐怖を与えれば性格も変わるだろうと踏んだ。
八つ当たりもできないほど怯えさせてみせる。
相も変わらずあたしは頭が悪いから、説得なんて無理だろう。
こうやってごり押しするしかない。
学校が終わったあと部活もバイトもないとき、部活が終わったあとバイトがないとき、バイトが終わったときに、悪い生徒を探した。
あたしは赤いつなぎにピエロの仮面を付けたコスチュームで、相手にそっと近寄る。。
あたしは足音も気配もなくせるから、突然現れたように見えただろう。
これでまずは精神的に相手よりも優位に立てる。
ここで逃げられればあたしがどこまでも追い掛ける。
仮にもあたしは陸上部だから、先回りができる程度には相手よりも足が速かった。
立ち向かってくればあたしはそれを受け止める。
元々丈夫な体だからいくらでも耐えていられた。
逃げればどこまでも追いかけ。手を出せば敵わないと分かるまで応じる。それをひたすら繰り返す。
声を出せない期間があったおかげで、無言の圧をかけることは得意になっていた。
やがて相手は自分の罪を自覚し、幼児のように喚いて許しを請う。
ここまで尊厳を落とせば以後誰かを見下すようなことはないだろう。
あたしは身を引く。
アルバイト先に来る先生の、生徒が更生したという噂を聞くたび嬉しかった。
それでも懲りていない者の名が耳に入れば、次は容赦なく徹底的に追い詰めた。
部活にバイトに世直し、あたしの高校生活は充実していた。
二年生に上がってから、部活動であたしのタイムが良くなり始めた。みんな、あたしの走りのフォームは元々余分なものがなく綺麗だったから、何かきっかけがあれば速くなると思っていたなんて言ってくれた。
このペースで上達すれば今の三年生が引退する頃にはレギュラーに入れそうだと喜んでくれた。
大会とか勝ち負けとかに興味はなかったけど、それでも嬉しかった。
止みそうでなかなか止まない雨が降り続く鬱陶しい梅雨のある日。行方不明だった父親が帰ってきたらしく、家の中のものは全てなくなり、その家と土地すらも売りに出されていた。
唯一置いてあるのはワープロで書かれた父からの手紙のみで、足跡一つすら残っていなかった。
お母さんは強くて、「しょうがないひとね……」と笑って済ました。
あたしは許せなかったけれど、お母さんが笑っているのなら、あたしも我慢して笑って過ごそうと思う。
まずはお母さんの勤め先の従業員や常連さんの家に泊めてもらい転々とした。
お給料を前借りして着るものを揃えた。
食事は必要最小限に。
次のお給料で、住むところを決めた。
あたしも新しいアルバイトを始めた。
朝は新聞、昼は郵便配達。
あっという間に、大事に貯めておいたお年玉の額を越えたことが虚しかった。
勉学に励む時間が取れず学校は中退した。
日に日に体中の毛が抜けていった。
もちろん髪も。
帽子を深く被って過ごしたけれど、みんなには見破られてしまった。
心配掛けまいと空元気からやる気を捻り出してがむしゃらに振る舞っていると、頭からだけは新たな毛が生えてきてくれた。
それは元の色とはかけ離れた、血がそのまま流れ出てきたような赤い髪だった。
不気味で堪らなかったけれど、みんなはあたしがカツラを被り始めたのだと思い込んで受け入れてくれた。
あたしも自分の髪ではないと思うことにしたら気が楽になった。
アルバイトをしていると、今まで知らなかった道を通ったり意外な近道に気付いたりと思わぬ発見かあった。
これは相手を追い詰めるときの効率が上がりそうだ。
いつの間にかあたしのファン(?)もできていた。
暇があれば外に出て、あたしの配達を待ってくれている。
正直、最初の頃は時間を取られて鬱陶しかったけれど、毎度世間話を聞いているうちに良くない噂も紛れるようになった。
それはあたしが最も求めていた情報だった。
教師陣からでは補えきれない、学生以外の評判。
世直しのための足掛かり。
悪い噂の真偽が確認できると、相手が学生だろうが誰だろうが構わず裁きを下しに行った。
夜道に突然現れる、ピエロのような格好のあたしを見ると大の大人でも恐怖し動きを止めていた。
無邪気な子供とは違って、むしろ精神的に成熟した大人の方こそ、心のどこかで悪い行為に対して負い目を感じてしまい、天罰というのを本能的に理解しているから、実際に裁きに来たあたしを余計に恐れてしまうのではないだろうか。
アルバイトでの自転車漕ぎアンドジョギングで部活以上に鍛え抜かれたあたしの足からは、もう誰も大人でさえも逃げ切ることはできなかった。
自分よりも年上の相手が地面に転がるのを見て満足する。
こんな年端もいかない少女の前で這いつくばるなんて、きっと、今まで自分が弄んできた誰よりも最も惨めで情けないことだろう。
今のあたしには世間の目と耳がある。
どこまでも追いかけ追いつく屈強な脚がある。
絶対に傷付かない丈夫な体がある。
決して諦めず下を見ない、前向きな強い心がある。
恐れるものなど何もなかった。
昔からずっと悪の巣窟だと思い込んでいたゲームセンターに乗り込んでみたものの、そんなわけはなく、単なるあたしの勘違いだった。
清潔感があり不良の姿は見えず大勢いるスタッフの目がしっかり光っていて悪さをする隙もない現状は、タバコの煙が蔓延している薄暗いホールに柄の悪そうな人達がたむろする無法地帯なイメージからは程遠かった。
ゲーセンの醍醐味ともいえるプリクラやUFOキャッチャーは隅の方へと追いやられ、中央は一種類のゲームだけで埋まっていた。
皆、自身を囲う円状の手すりに掴まりバランスボードのような不安定な板の上に乗っている。
頭にはゴーグルを被り、時折腰に備え付けた銃を構えてはトリガーを引いていた。
GGSRと書かれた看板が天井から吊り下がっている。
なんなのかよくわからない。
たぶん今大流行しているゲームなのだろう。
とりあえずこの町のゲームセンターにはおとなしそうな人ばかりで悪い奴はいなさそうだった。
中を一周回り雰囲気だけ楽しんですぐに出てきた。
たまに現実の出来事とは思えないような話を聞くこともあったけれど探しても見つからなかった。あたしの体だって現実とは思えないほど丈夫なのだし、ありえない話でもないのだろう。
あたしの体質を知っている者もいないのだから、あたしが他の不思議な人を見つけるのもまた難しいのだろう。
いつからか、変な鞄が急に流行りだした。
童話にある裸の王様のような鞄。馬鹿馬鹿しいとは思ったものの、郵便配達中にその鞄が幾度となく目に入るうちに、あたしはその魅力に取り憑かれていた。
アルバイトが休みの日、とうとうあたしはその鞄を買ってしまった。わざわざ買う必要もないのに、そうしないと本物でない気がした。
さっそく、その鞄を手にして歩いているときだった。
歩道橋の上で、大柄な男子学生とすれ違った。
どうせぶつかるものでもないし、とあたしが鞄を寄せずにいると、その男子学生は「痛え」と「邪魔だ」と怒り始めた。
なんとも不思議な迷惑な話だった。
こんなにも堪忍袋の緒が切れっ速い男は早いとこ更生させてしまおう。怒りを恐怖で上書きしてやろう。あたしは彼が攻撃してくるのをじっと待った。
待つ必要はなかった。速い。避けられない。見えない。そして、重い。久しぶりに重さを感じた。
只者ではないとわかった。しかし舐められては困るから、あたしは強がってみせた。
すると逆上した相手は全身全霊であたしを攻撃し続けた。自分の赤いスカートが風ではためいたとき、闘牛の様が頭の中をよぎった。
彼はあたしに、決定的なダメージを与えることはできなかった。あたしの方が強かった。
悔しさによる八つ当たりか、歩道橋の手摺の上に、今まであたしを殴っていた拳を振り下ろす。
金属製の手摺は見事に湾曲していた。なんてデタラメだ。
もしかしたらこの男はあたしと対になる存在じゃないかと思えた。
最強の盾と最強の矛。あたしの方がちょっとだけ強いから矛盾はしていない。
あたしが軽口を叩くとすぐに喉元目掛けて拳が飛んできた。
苦しくもなんともなかった。
気が付くといつの間にかあたし達の周囲は大勢の人に囲まれていた。
両端から歩道橋を駆け上がってくる全員、みんな顔馴染みの人達だった。あたしを助けにきてくれたらしい。
さりげなく、後ずさりして湾曲した手すりに触れると、まだ熱を感じた。今が夏だとしてもそれでも気温以上の熱さだった。
あたしの力が無力だとすると、この男の力は腕力とか筋力なのかもと思ったけれど、もしかしたら違うのかもしれない。
高熱であれば金属を歪めるくらい簡単だろう。それに生物的にも体温が高い方が活発に動けそうな気がする。
思考を巡らしていると、また別の男が飛び出してきた。彼はこの人波を縫ってきたようだった。一体どうやって?
さっそくその彼は男の怒りを買ってしまい攻撃を受けている。どうやら男の知り合いではないらしい。もちろんあたしの知り合いでもない。では何故ここに?
それに彼はこの男と対峙して、まだ立っている。気持ち悪い。生理的嫌悪を感じた。
……はっとした。そうか。これが、昔イジメっ子達があたしに向けた感情なのだ、と身を持って理解した。
あたしの根っ子の部分はその人達と同じだったのかもしれない。いや、むしろあたしの心はその人達に育てられていたのかもしれない。
あの人達の感情と行動は正しかったのかもしれない。
とにかく彼は異常だ。全く中身が読めない。
あたしは思わず彼の股間を蹴り上げていた。
無力のおはなし 終




