二-一
ある日、転機が訪れる。
人を救おうと思ったのだ。
傷付いた人を救うのではない。傷付ける側を救うのだ。これ以上、人として落ちないように。
もう何度目か数え切れないほど目覚めを過ごした保健室のベッドの上で、布団に包まりながら考えを巡らせる。
首吊り、腹切り、火炙り、飛び降り。どれも死ぬことはできなかった。
つまり運が良いのか、それとも体質か、どうやらあたしは丈夫らしい。
それならば命を懸けるようなことでも命を懸けずに挑むことができる。
真正面からぶつかっていける。
奥底にある勇気を振り絞りベッドを飛び出す。
駄目だった
意気込むほど足が重くなる。進まない。怖い。嫌だ。
立ち向かおうとすると心が拒む。
勇気はちっとも残っていなかった。
結局後ろ向きな気持ちのまま、何も変わらなかった。
ゆっくりと教室に戻ると、まだ授業が始まっていなかった。ギョッとした目で見られながらあたしは自分の席に座る。どこにもおかしなところなんてないのに。
着席した途端に何人かの生徒があたしの席へやってきた。
飛び降り防止という名目で、あたしの脚と椅子の足、あたしの胴と椅子の背もたれを縛った。 自分で解かないようにと両手も縛られた。
そのままの状態で授業が始まる。
先生は何も言わなかった。
身動きが取れず退屈で、だんだんと瞼が下がってくる。
ウグイスがさえずるような授業を聞き流していると校内放送が不審者に対する注意を呼びかけた。あたしのことだろうか。
すぐに目が冴え答えがわかった。不審者はあたしではなかった。
教室のドアを乱暴に開けて、変わり果てたこのクラスの元担任が姿を現した。
学校を辞めるときに見た最後の姿も可哀想なくらいボロボロだったけれど、それとは比べものにならなかった。
わずか数ヶ月の間に何十年分も老けてしまったような顔はもちろんのこと、背中に背負った二丁と右手に構えたもう一丁の、猟銃のような長身の銃が、彼はもう人生をやり直せないことをものがたっていた。
何かを叫んでいるようだけれど、呂律が回っておらず聞き取れない。
飛び出した両目はカメレオンのように別々に動いており、その不気味さから再開を喜ぶ気は起きなかった。
窓ガラスに向けて銃を発砲する。
銃声と破砕音と悲鳴が連続的に重なった。
飾り物ではなく本物だと証明された銃が、生徒達の不安を恐怖に変えた。
さっきまでチョークを握っていた方の先生は、他の生徒に混ざって怯えている。
元担任が銃を構えたまま次の弾を撃つ準備をする。その動作と音がまた一層皆を震え上がらせた。
その両目の焦点が合う。ギョロリと眼球が飛び出そうなほど盛り上がる。
視線の先をあたしも皆も辿る。
蜜原蜂野。狙われたのは、この学校でイジメを行う主犯格。
元担任も彼女にここまで追いやられたのだから殺意を向けられるのは当然とも言えた。
「おまえかあ! おまえかあああ!?」
銃を向け、吠えるように叫ぶ。
蜜原さんは顔を引きつらせて首を横に振る。
「……みんな、助けて。……助けて」
悲痛な声が喉から絞り出される。
彼女の言葉を聞いても誰も動かない。動けなかった。
恐怖による統治は、更なる強い恐怖によって簡単に上書きされてしまうという証明になった。
銃の引き金に指が掛けられる。
「やだ……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
両手で顔を覆って蜜原さんは泣きじゃくる
謝罪の言葉だけでは足りないのだろう。
銃口は下がらない。
クラスメイトも助けてくれない。
皆、彼女がいなくなることを密かに願っているようでもあった。
イジメられていたのはあたしだけではなく、あたしがいないところ、あたしが見えないところでは他の人がイジメられていた。
彼女を慕う者がいないのも仕方なかった。
蜜原さんがこのまま殺されれば、きっとイジメは止まるだろう。
「……みんな、助けて、……お願い。ごめん、お願いだから……助けて、ごめんなさい、ほんとうに。助けて……」
しかし死にたくない人をみすみす見殺しにしてしまっても良いのだろうか?
もしかしたらこの事件を機に、蜜原さんは心を入れ替えて優しくなるかもしれない。
他の皆も彼女を許して、平和な学園生活が訪れるかもしれない。
生きていればいくらでも可能性はある。
こんなあたしだって誰かの役に立てるかもしれない。
蜜原さんを助けたい。
皆を助けたい。
蜜原さんを殺しただけで元担任が止まる保証だってないのだから。恨みのある順に次々と殺していくかもしれない。
今。あたしが止めなければいけない。
あたしにしか止められない。
今のあたしは椅子に縛り付けられて動かせないけれど、声を上げることくらいはできる。
それであたしに注意が移ればいい。注意が移ったらその隙に蜜原さんが逃げればいい。
一発では殺せないあたしに、きっと何発も銃を撃ち込むことになるだろう。持っている弾を全て、あたしで撃ち切ってしまえばいい。凶器がなくなったのだから皆逃げてしまえばいい。
理想だけが一人歩きしていった。
現実のあたしはどうだろう。動けないどころか少しの声も出せなかった。
息は吐けるのに音にならない。
病院の先生は言っていた。あたしの声が出ないのは精神的なものだって。出そうとすればいつでも出せるって。
精神はもう充分じゃないのか。
あたしは強い。
あたしは死なない。
首を吊ったって窒息しなかった。
リストカットだって血が流れなかった。
火だって燃え移らなかったし、飛び降りてもなんともなかった。
自転車に引きずられても自動車の下敷きになっても、シャッターに挟まれても蜂に刺されても刀で切られても、薬剤も杭も熱も電気も呪いも全部全部全部平気だった。
あたしは強い。
あたしが皆を守って助けるんだ。
生きてさえいれば罪を償う機会と時間が与えられる。
絶対に死なせてはいけない。
だから声を出せ。
出せ。出せ! 出せ! 出せ!!
教室内に大きな音が響く。
それでもまだ、あたしの精神面は不安定みたいだった。
蜜腹さんは椅子ごと後ろの机を巻き込んで倒れ、元担任が握る銃からは煙が揺らいでいた。
横たわったまま蜜原さんは起き上がらない。
流れ出る血液が床の上に広がっていく。
皆の悲鳴が上がった。
あたしは声を出せなかった。
助けられなかった。
「ふはははははははははははははっ」と、元担任は背中を反らせて喜びに満ちた笑い声を狂ったように上げている。
ガチャリと新しい弾を装填する音が鳴る。
次こそは助ける。絶対に!
蜜原さんが撃たれてもあたしは悲しい気持ちにはならなかった。
自分の恨みを晴らすために相手を殺す行為への怒りと、残った皆を助けたいという思いが強くなっていった。
元担任は銃口を自分の顎の下に押し付けてトリガーを引く。
銃声と共に血飛沫が上がる。
衝撃で元担任の体は倒れた。
助けられなかった。
あたしに全弾撃ち尽くしていれば自殺はできなかったはずだ。
人を殺すのは罪だ。
その人の可能性をなくしてしまうから。
罪人を殺すのも罪だ。
反省する機会を奪ってしまうから。そもそも殺人がいけないことだから。
罪を背負ったまま自殺するのも罪だ。
罪を償えていないから。自分を殺してしまっているから。
蜜原さんと元担任を死なせてしまったのはあたしの罪だ。
あたしが見殺しにした。
二人の分もあたしがまとめて償おう。
グロテスクな光景を前にして、今は誰も叫べず固まっていた。
生徒よりも少しだけ先に我を取り戻した先生が、皆に教室から出るよう促した。
銃声を聞きつけた男性教師達がやってきたときにはもう、生徒達は全員放心状態で廊下に座り込んでいたところだった。
慌てて教室内に足を踏み入れた先生達は途端に顔を歪める。
予想外だったのだろう。
犯人であろう人物が倒れていること。
生徒が倒れていること。
床が血の海なこと。
その中で一人、椅子に縛られている生徒の顔がやる気に満ち溢れていること。
あたしはあの二人が死んでも悲しいとは思わなかった。
特に親しくもなかったから。
テレビの画面越しに見るかどうかくらいの違いでしかない。
それよりも今は誰かを助けたくて仕方なかった。
先生達はあたしを椅子ごと持ち上げて教室の外に運びだした。
あたしの頭がおかしくなったと勘違いされたのか、やけに優しく扱われた。
どさくさに紛れて、椅子に縛られていたのも犯人のせいになっていた。
校内放送が流れ、全員体育館へ集合するように指示される。
皆、言われるがままだらだらと歩いていく。
あたしは縄を解かれたものの、先生に背負われて移動した。
大事に扱われるのも嫌ではなかったので、流れに身を任せることにした。
体育館に着いたのはあたし達のクラスが最後だった。
そのことについては、特に何も責められず、むしろ皆優しいくらいだった。
壇上に上がった校長先生の話は短かった。
校内に不審者が侵入したこと。
生徒の心の療養のために学校を一週間休みにすること。
一人で外出しないこと。できれば大人と一緒に行動すること。
それだけだった。
その場で下校となり、親などの保護者が迎えに来た人から帰宅していく。
よく見れば他のクラスは全員、通学用の鞄を準備していた。
あたし達のクラスは先生が持ってきてくれた。足りないものがあれば何度も教室と体育館を往復してくれた。
事情を知らない生徒の楽しそうな声が、体育館から遠ざかる。
日が暮れてもあたしの母は来なかった。他にも何人かそういう生徒が残っていて、先生が車で順番に送ってくれた。
車の中で事情を知らない他のクラスの生徒や先生に質問責めにされたけれど、あたしはまだ喋ることができず、声が出ないことが完全にバレてしまった。
その原因も今回の事件でショックを受けたせいということになった。
あたしよりも遅くに帰ってきた母には学校から連絡が入っていたらしく、既に事のあらましを知っていた。
娘の無事が嬉しかったようで強く抱き締められたけれど、その感触も温もりもあたしはもうわからなかった。絶対に傷付かない体になっていた。
休み中に一度先生が家庭訪問にやってきた以外は特に何もなくすぐに一週間が過ぎた。
ストレッサーがいなくなっても、その一週間だけではあたしの声は戻らなかった。
蜜原蜂野。彼女があたしの心に刺した棘はとても深く深くて簡単に抜けやしなかった。




