一-二
しばらく気を失っていたのだろうか、周囲が暗い。
いやいや、それはない。本棚が自分にのし掛かってくる光景を一瞬前のように覚えている。時間はそれほど経ってないはずだった。
おそらく本棚の下敷きになっているのだろう、体が動かせない。幸いなところ、痛みはない。
ひとまず助けを呼ぼうと思い叫んでみたが、本棚が倒れた衝撃で鼓膜が破れてしまったようで、自分の声が聞こえなかった。涙が出た。放課後で人が少ないということもあり誰も助けに来なかった。
じっと待っていると、少しずつ本棚が崩れていってくれて、体を動かせる範囲が広がった。
なんとか一人で抜け出すと、自分の体に目に見えるほどの怪我はなかった。逆に図書室の中は倒れた本棚で酷い有様だった。自分が無事であったことが不思議なくらいに。
本棚の足元と上部を見てみると、どれも転倒防止の金具が付いていなかった。それが付いていた跡はあった。床の上には一つも金具は落ちていなかった。同じクラスの皆の顔が頭の中に浮かんだ。
こんなものはもうイジメの範囲を超えている。死んだっておかしくない。感覚が狂っている。
烏の鳴き声と共に下校時間を知らせる鐘の音が聞こえた。
よかった。耳も問題ないみたいだ。今日はもう、無事な内に帰ってしまおう。
校門を抜けるとき、少し離れたところに先生を見つけたので、挨拶がてら図書室の現状を説明しようと大きな声で呼び掛けたけれど、無視をされてしまった。
あたしの目にまた涙が溢れてきた。
自分でも自分の声が聞こえなかった。
誰かとすれ違わないよう、すれ違っても相手にされないよう、速度を緩めることなく走って帰った。
家でも母に心配されたくないので隠した。
あたしは普段から大人しいので怪しまれなかった。と思う。
次の日は学校をさぼった。学校に行くふりをして病院に行った。早く治したかった。
お金は、将来役に立つものに使おうと貯めてきた少ないお年玉を取り出した。
筆談で医者に説明した。本棚の下敷きになったことは問題になりそうなので話さなかった。
医者からは、口腔咽頭肺に気になるような傷もないから精神的なものだろう、と告げられた。
心的負担が軽くなれば自然と声が出るようなるらしい。
できるだけストレスを溜めないように、と無茶なアドバイスと向精神薬をもらった。お年玉はほとんどなくなってしまった。
その日はひと気のないところで学校の終わる時間になるまで過ごした。日が暮れて始めたところでマスクを買って家に帰った。
母が「風邪?」と聞いてきたのであたしは黙って頷いた。「忙しくていつも看病してあげられなくてごめんね」と謝られてしまったので、そんなことないよ大丈夫だよといった意味を込めて大袈裟に首を横に振ってみせたら、母は苦笑いをしてくれた。
次の日、学校へはマスクを付けて行った。
恐る恐る教室のドアをゆっくり開ける。仕掛けは何もなかった。
中に居た皆が不思議そうにあたしを見る。少しだけ珍しい光景だった。
不思議なのはこっちだ。ヒソヒソとしたあたしには聞き取れない会話が増していった。
そのあと入ってきた子が「痛い」と短く叫んで、理解した。どうやらあたしのときは仕掛けが発動しなかったらしい。
何かが床に転がった。もしかして指、かと勘違いして気が引けてしまったが爪のようだった。
それでも充分肝が冷えた。
その子はあたしを睨み付けて他の子と一緒に保健室へ駆けていった。
「あたしじゃない!」と言いたかったけれど、喉から空気が出ただけで音にはならなかった。
後から自分の指先を見てみたけれど傷一つ付いていなかった。
今日の朝礼はいつもと違い、教室ではなく全校生徒を集めた体育館で行われた。
校長先生が壇上へ上がる。話の内容は一昨日の図書室のことだった。
これからは図書室の扉は常に施錠し、教師同伴の元で生徒は図書室を利用するように決まった。
これからあたしは一体どこで勉強すればいいのだろう。
先生達はきっと犯人の目星は付いている。だからきっと、早く解決してくれるだろうと少しだけ期待を込めた。
声が出なくて詳しく説明するのが億劫だったあたしは、朝礼が終わったあとも一昨日のことを先生に話せないでいた。
あれだけ図書室が滅茶苦茶になっていたのに、幸いにもあたしの体に外傷が全くなく、不幸にもあたしが被害者だという証拠がどこにもなかったので信じてもらえないだろうと思った。
ちなみにこの事件を最初に発見したのはあたしと同じクラスの図書委員の子で、先生に報告したのも同じ生徒だった。
更には昨日学校を休んだあたしが怪しい。ということになっていた。
とんでもない話だ。最も図書室を必要としている生徒が図書室を破壊するわけがない。
先生も噂を鵜呑みにはしていないようで、わたしが図書室の件について尋ねられることもなかった。
五時限目の途中で急な会議が決まり、六時間目の授業は自習になった。教室の中は休み時間のように騒がしくなった。
外では体育の授業も自習らしく、好き勝手に動き回る楽しそうな生徒達の大きな声が負けじと教室を包んだ。
あたしは昨日の図書室で手に取った本がいくつか鞄に入っていたので、それを読んで過ごすことにした。
先生のいない一時間、特に何かされるわけでもなく自習の時間が終わりそうな頃、騒がしかった教室はガラスの割れる音で急激に静かになった。
あたしも何が起きたのか気になって本を置く。
足元には野球のボールが転がっていた。
割れた窓ガラスから外を覗いてみると、いつの間にか体育の自習で野球を始めていたようだった。バッターの後ろ側に飛んでくるとはとんでもないファールボールだ。
教室の中では皆があたしを見つめていた。
いやいやいや、ガラスを割ったのはあたしじゃないんだけどな。
誰もボールを拾わないのであたしが拾って、こちらへ走ってくる生徒に投げて渡してあげた。
その生徒に手を振りながら振り返ると、クラスの皆があたしの後ろに群がっていた。気色悪そうにあたしを見る目が、不気味で仕方なかった。
そんな、おかしな目で見られることが毎日続いた。
あたしへのイジメにあまり積極的でなかった子たちも、同じかそれに近い目をするようになり、いよいよバケモノだのなんだのという噂話も絶え間なく聞こえ始めた。いつも同じようなことを言われていたけれど、それは今までの声の調子や表情とは全くの別物で明らかに本心が混ざっており、あたしの心のまだ無傷な場所に新しい穴をあけていった。
これからイジメがどんどん酷くなっていく。と思いきや、体に傷が付くようなイジメはなかった。
いや、あったけれど、運が良くどれもあたしに当たらなかったり仕掛けが動かなかったりで、体は傷付かなかった。それが余計に、あたしがバケモノであることの噂を加速させていった。
ある日、家に帰っていつもより熱めのお風呂に入ったとき、何かが緩んでしまい勝手に溢れ出した涙がぼろぼろと湯船の上に落ちていった。
平気なつもりだけど駄目だった。耐えきれなかった。
みんなの目が脳裏に焼き付いていて離れない。怖い。あれは人間を見る目じゃない。やっと理解した。
この夏休みの前までは、あたしはまだ人間として扱われていたのだ。同じ目線で相手にされていたのだ。
それが二学期が始まってからは、人間どころか生物とすら思われなくなってしまっているようだった。
とにかく、自分が人間だと思われていないのが怖い。
もう、自分が皆のことを人間だと思えなくなりそうで怖い。
お母さんはさっき仕事に出かけたばかりで、まだまだ帰ってこない。
あたしは濡れた体のまま台所に立っていた。
包丁を手に取り、すっと自分の手首の上をすべらせる。抵抗は全然なかった。
駄目だった。
何度繰り返しても切れない。
死にたくない臆病な自分が、無意識の内に手を緩めているようだった。
それならば、と両手で逆手に握り直し勢いよくお腹に突き付ける。
刃先が肌に触れる直前、見えない壁に遮られるみたいに包丁を持つ手が止まってしまった。何度やり直しても、その刃が体を貫くことはなかった。
自分の勇気の無さをひたすら悔やんだ。
次の日からも学校では相変わらずの日々が続いた。
自殺を試みたところで何も変わりはしなかった。
しっかりできないと何の意味もなかった。
続くイジメ。擦り減る心。
それなのに何故だか、以前よりも体への負担は減っていた。学校を休まなければいけないほど体調の悪い日もやってこない。
病気なら勇気も何も要らずに衰弱死できるのに。
今のあたしの、風に吹かれるだけで消えてしまいそうな薄っぺらい精神とは反対に、体はいつの間にか風邪一つ引かないような立派な丈夫さを勝手に手に入れていた。不釣り合いな成長を遂げていた。
あたしの気持ちを知る由もなく、「悪霊退散」という言葉と共に、過激すぎるイジメを受けた。それで成仏できるのなら大歓迎だったけれど、この世を去ることはできなかった。人間扱いはされなかったけれど、運良く無傷のままでいられた。
あたしをイジメているのはクラスメイトだけなのか、クラスメイト以外もなのか、もう判別できないほど規模が大きくなっていた。
あたしが声を出せないことに気付かれて、すぐ側で似てない声真似をしながら下らないことを話された。面白くないことでもみんな笑った。
目を離した持ち物が綺麗さっぱり消えていった。どれだけ探しても見つかることはなかった。
財布も持っていかれた。少しも中身は入っていなかったので困りはしなかった。
髪を鋏で引っ張られた。中心の留め具が緩んでいたようで切られなかった。
あたしが触れそうな至る所に、剃刀の刃や縫い物の針が仕掛けられていた。他の人が血を流して気が付いた。あたしは上手いこと隙間に指を置けていたらしい。
体中に不気味な落書きをされた。油性ではなかったようで簡単に消すことができた。
人間らしくオシャレでもしろとネックレスの代わりにワイヤーを首に巻かれた。絞め方が下手くそでちっとも苦しくなかった。
両耳に拡声器を押し当てて叫ばれた。音波がぶつかって打ち消し合ったのか鼓膜は破けなかった。
技術室でクランプに指を一本ずつ挟まれることもあった。錆び付いていたみたいでどの指も潰れる前にネジが回らなくなった。
「病気なら頭を冷やさなくちゃ」そう言って給食のデザートを冷やすためのドライアイスを頭に括り付けられた。袋に入ったままだったからか凍傷にもならなかった。
部活動の助っ人に呼ばれてピッチングマシーンから出てくるボールを全て体に受け止めた。あたしよりも先にピッチングマシーンの方が壊れて助かった。
怪しい薬を飲まされた。消化できなかったみたいで排泄のときにそのまま出てきた。
タバコの灰皿代わりにあたしの肌が使われた。すぐに火が消えてくれて火傷はしなかった。
体育の見学中、足をロープで縛ると自転車に繋いで引きずられた。ジャージや体操服がぼろぼろに擦り切れた。
トイレ用の強い洗剤で顔を洗われた。しっかりと水で流したので時間が経ってもかぶれたりしなかった。
産まれてくる子が可哀想だから産まれてこないようにと下腹部に何度も暴行を受けた。痣ができていないので大丈夫だろう。
瞼を無理矢理開けてレーザーポインターの光を直視させられた。電池が切れかけていたのか光が弱くて目が見なくなることはなかった。
窓ガラスが倒れてきたけれど、床に落ちてから割れたのでどこも怪我しなかった。
既に興奮状態のスズメバチの巣に誘導された。体中ハチだらけになったものの敵意がないことが伝わったのか一匹にも刺されなかった。
二階三階から椅子机が降ってきた。どれもあと一歩分ずれていたら直撃していただろう。
登下校中、何度も自転車に轢かれかけた。たまに気が付いて避けると道路に飛び出してしまっていて、そのたびに車はあたしの直前でなんとか止まってくれた。
心身を鍛える剣道と称して、あたしは竹刀防具なし相手は刀で試合をさせられた。模造刀だったようで斬られはしなかった。
手足を縛り口を塞いで校門近くの溝に詰めたられた。学校を出入りする歩行者や自転車、更には自動車があたしの上を通過していったけれど、カモフラージュ用に置かれた板が負荷を分散してくれて痛くなかった。
廊下を歩いていると安全装置の外された防火シャッターが勢いよく落ちてきた。頭に当たるか当たらないかのギリギリのところで時間が一瞬止まったように感じ、その隙に倒れるように避けた。走馬灯を見たのかもしれない。
臓器を売るために開腹しようと腹部へ様々な刃物を突き付けられた。どれも刃先が丸くなってしまっていたみたいで刺さりはしなかった。
切れた電線が浸かる水たまりへ誘導された。電気が流れていなかったのか感電しなかった。
可哀想だから処女を貰ってあげると言って木の枝を差し込まれた。痛くないし血も出ていなかったのでたぶんまだ処女のままだと思う。
当然ながらこれだけではないし挙げていけば落ち葉のようにきりがなく、思い出したくもない。
今日も、誰かが持ってきたカセットコンロで炙った給食のスープを、大鍋ごと頭からぶっかけられた。すぐにプールの更衣室に行って、制服を着たままシャワーで体を洗った。ゆっくりと制服を脱いでいく。あたしのもとへスープを持ってきたときには温度が下がっていたようで火傷にはなっていなかった。制服に付いたスープの汚れはどれだけ洗っても全然落ちなかった。
濡れた制服で教室に戻り、トイレで体育のジャージに着替えた。
授業後、もう使われていない学校の焼却炉に、満杯のゴミ箱を持ってきた。焼却炉の中は意外と綺麗で狭かった。
その中にゴミを入れ、トイレに落ちていたライターで火を付ける。
汚れた制服も、もういらないから焼却炉に突っ込んだ。乾かしてあったのでゴミと一緒になってよく燃えた。
あたしもゴミなので、ジャージを脱いで焼却炉の中に入った。
燃えてしまえば勇気がなくても死ねると思った。
なかなか火は燃え移らなかった。
熱くなる前に苦しくなった。
呼吸ができない。煙で何も見えない。
必死にもがいていると、焼却炉の外に出ていた。
息を吸って吐いてと何度か繰り返して落ち着くと、自分の根性の無さに絶望した。死ぬどころか火傷すらできていなかった。
苦しいのは駄目だ。一瞬で終わるものでなければ、あたしは逃げてしまう。
制服は焼けてなくなってしまったので、それからはジャージで登下校した。先生からは何も言われなかった。きっとイジメで制服を隠されたと勘違いしてくれたのだろう。
学校のジャージは学年ごとに色分けされていて、あたしの代は燃えるような赤色なのが目立って嫌だったけれど、新しい制服を買うお金もないし、私服で登校する発想も浮かばず、そのまま着用し続けた。
病人のようにマスクを毎日着けているので運動をする人にも見えず、周囲にとても不審感を与える格好であることだろう。
家で、母は何も言わなかった。あたしのことを心配していなければそれでよかった。
制服からジャージに変わったことで誰かがあたしのことを心配しイジメが弱くなるなんてこともなく、服装の違いがより一層刺激することになった。。
確かにあたしの格好は校則違反かもしれないけれど、それで大義名分を得たかのように、正当性を得たかのように、イジメの勢いと人数が一気に増した。
あたしは休むことなく攻撃され続け、それでも死ぬことはなかった。
ふと、給食の時間中に屋上から飛び降りてみようと思った。授業中に飛び降りてしまうと、授業を中断させて皆に迷惑をかけてしまうからだ。
屋上のフェンスを越えて躊躇うことなく一歩足を踏み出す。皆の態度と比べればこんなもの怖くもなんともなかった。
ただ、落ちている間は別だった。まるで巨大な壁が落下してくるような錯覚を感じ、恐怖であたしは意識を失った。ジェットコースターにでも乗って慣れておけばよかったなあ、なんて呑気なことを思う余裕もなかった。
このまま一生目が覚めないのだろうと思っていたけれど、すぐに意識が戻ってしまった。
真っ先に視界に入った天井の模様でここは学校の保健室だと理解する。ベッドに寝かせられていた。
体に痛みはなくすぐに立ち上がり動くことができた。
あたしに目立った外傷がないことを確かめると、問題を起こしたくない先生達は親を呼ばず、病院にも連れて行かず、穏便に片付けた。
あたしにはそれで丁度よかった。好都合だった。
これでまた飛び降りることができる。
だいたい、高い所から落ちて無傷でいられる奇跡がそう何度も起こるはずがない。誰かが助けてくれたのだとしても、気まぐれで落ちるあたしと簡単にタイミングが合うはずない。
また屋上に登り、次は怖くないように目を閉じて落ちてみる。
視界がなくなると他の感覚が余計に鋭くなってしまい、顔にぶつかる塊のような空気や、風に引っ張られる衣服や髪の毛、耳を塞ぐような想像上の轟音に、高速で近付く地面の気配。意識を逸らせば逸らすほど、残された他の感覚から伝わる恐怖が巨大に膨れ上がり、あたしは耐え切れずまた気絶してまった。
毎日毎日、毎日毎日毎日、何度繰り返しても、慣れることなくあたしは恐怖に負けて意識を失ってしまい、その間に運ばれた保健室で無傷のまま目を覚ます日々が続いた。




