一-一
あたしにはなんにもない。
友達も、才能も、お金も、丈夫な体も、声も、父親も。
通い慣れた中学校の屋上で、フェンスを乗り越え目を閉じる。
しばらくして目を開けてみても、そこにあるのはいつもの見慣れた風景。
ああ、あたしはまだ生きている。
自分自身も殺すことができないほどに、あたしは無力なのだ。
見慣れた保健室の天井を眺めながらまた自殺できなかったと嘆く。あたしがいなくなるまであたしはイジメられ続けてしまう。
イジメの原因なんてわかったもんじゃない。いや、そもそも原因なんて無いからわかるはずがないんだ。みんなドラマやマンガの見過ぎでそれの真似事をしてるだけなんだ。学園モノのマンガとかドラマとかだと、そう深くない理由でイジメが始まる。でもそれは話を面白くするためだ。
現実はどうだ。ちっとも面白くない。
例えばイジメられてる主人公が親友に助けられたり、逆にイジメられてる親友を主人公が助けだしたり、はたまた主人公が一人でイジメを乗り越えたり、そんな展開が視聴者にとってはすかっとして気分が良くて面白いのだろう。
だけど現実には視聴者なんていない。あたしに共感してくれる人なんて一人もいない。
イジメられるのはただただ辛いだけだ。
みんなも考えてはいないけど頭の中でそれはわかっているんだと思う。物語のかっこいい主人公を演じたい。でもイジメられるのはいやだ。だったら脇役でもいいや、イジメる役につこう。そんな感じのことを無意識でやってるのかもしれない。
ああ、イジメられていると考え方までひねくれてしまうみたいだ。そんな話があるわけないだろう。なんなんだイジメ役って、それこそドラマだ。
少なからずあたしにもイジメられる原因があるんだろう。まさに今の、あたしは悪くない悪いのはみんなだって考え方も、自己中心的であって、人から嫌われる原因になるかもしれない。
しかしそれはあくまで思考であって、その考えの通りに行動したり、話したりなんてことは一切したことがない。そもそもあたしはこの中学校で二年以上過ごしてきてまだ誰とも会話をしていないんだ。
もともと病弱だったあたしは中学の入学式直前に倒れて、そのまま二ヶ月近く入院した。入院中にお見舞いに来てくれたのはお母さんと学校の先生と小学校のときからの友達だけで、同じクラスの見知らぬ生徒は当然ながら来なかった。あたしだって知らない子のお見舞いになんか行かないだろうから、それは仕方がないことだ。
退院して始めて教室に入ったとき、あたしの机の上には縦長の花瓶が置いてあって、一輪の花がそこに挿さっていた。
あたしはその花の名前は知らないけれど、この光景は知っていた。テレビで見たことのある光景だった。たしか小学生の女の子が事故で死んじゃって、その子の机の上に花瓶が置かれてみんなが黙祷をするシーンだ。他にもいくつかあるけど、全部共通するのは死だ。
これはあたしの退院祝いではないとすぐにわかった。
あたしは死んだことにされてるらしい。
あたしが誰に話しかけても返事が返ってくることはない。
誰かと仲良くするこもできない。
二ヶ月もあれば仲の良いグループはすでに完成されてしまっていて、よそ者が入れる隙間などなかった。窓の外で梅雨らしい雲が梅雨らしい雨を降らしていたのを覚えている。
それからも体調を崩して学校を休むたびに机の上に花瓶を置かれた。
あたしは亡くなったことにされた。
三日休めば机が無くなった。
あたしは無かったことにされた。
一週間休むと教室に入った瞬間に目隠しをされ、口にテープを貼られ、手足を縛られ、下校時刻までずっとロッカーの中に閉じ込められた。
あたしは泣きたくなった。
それが嫌で、体調が悪い日も登校するようになった。当然、学校では症状が悪化し、病原菌だのなんだのと罵られ、そんな毎日が一学期の最後の日まで続いた。
少しだけ楽しみにしていた夏休みは、平凡すぎてあまりにも早く終わってしまった。友達と遊ぶ予定もなく、遊ぶお金もなく、ひたすら家で勉強をしていた。いつ体調を崩すかわからないのでだいぶ先の授業の分まで予習をした。
九月から再び始まった学校生活。クラスメイトのみんなは夏休みの間に絆を深めたようで、あたしとの溝は更に深くなった気がした。
イジメも相変わらず続いたけれど今まで以上にエスカレートすることもなく、あたしの体も心もその生活に慣れ始めていった。
登校して机の上に花瓶が置いてあれば、元の場所へ戻してついでに他の花にも水をあげる。
登校して机がなければ、使っていない教室から持ってくる。
しかしいくら慣れたと言っても無意識のうちにストレスは蓄積されていっていたようで、一年生の春休み直前に高熱を出したあたしは年度を越えて学校を休むことになった。あったかい布団の中で、二年生になれば誰かと話せるかなとか、友達出来るかなとか、色々なことを想像した。
四月半ばになり体調も治ってきたあたしにとっての二年生始まりの日、新しいクラスに少しだけ期待を込め教室のドアを開けてみる。瞬間、指先に鋭い痛みが走り、手を離した。
ドアの手を掛ける部分に剃刀の刃が並んでいたのだった。
クラスが変わってもイジメは変わらなかった。
それどころかより悪質なものになっていた。
あたしがどれだけ泣くのを我慢しても、指先からは赤い雫がこぼれ落ちていく。教室中の皆があたしのことを興味深そうに覗いていた。けれど誰もが知らんぷりを装い、直接目を合わそうとする人はいない。その中を歩いて自分の席を探す。幸い机は捨てられていなかったけれど、何故だかラップでぐるぐる巻きにされていた。
席に着いて恐る恐るラップを剥がしてみると漂ってくる異臭。机の中は残飯らしきものでぎっしりと埋め尽くされていて吐き気がした。
少し離れた席の女の子が「この教室なんか臭くなーい?」と言い出して、その隣の子も「だよねー。あの子が教室に来てからじゃない?」なんてあたしのことを指差した。まるでそれが引き金になったかのように、ひそひそと小さな声が教室中に広がっていく。
体が弱ければ心も弱いあたしは何も言い返すことが出来ずに、ただただそのひそひそ声の中に埋れて俯きながら先生が来るのを待った。
あたしは何もしてない、何もしてないはずだ。
体が弱いからイジメられるのか?
貧乏だからイジメられるのか?
どんくさいからイジメられるのか?
父親がいないからイジメられるのか?
何もないあたしは友達すら望むことが出来ないのか。
少しだけ懐かしいチャイムが聞こえた後に、先生が小走りで教室に入ってきた。
異臭に気が付いたのか視線をあたしの方に向けて、あたしと目が合うと、一瞬だけばつが悪そうな顔をしてすぐに目を逸らした。
ああ。あたしには味方すらいないんだなあ……。
そう嘆きながら一日を過ごし、放課後に机を洗っていると職員室に呼ばれた。
あたしよりももっと呼ぶべき人達がいるだろうと思いながら職員室の扉を開けると、担任と学年主任の先生が土下座をしてあたしを迎えた。
先生は「何も出来なくてすまなかった」と謝ってくれた。
あの生徒達はもう手が付けられないらしい。嫌がらせを受けている教師もたくさんいるという。
先生はあたしに転校することを勧めた。でもあたしの家は引越しをするお金がないし、親にも心配をかけたくなかった。
あたしがこの学校に残ることを伝えると、先生は「困ったことがあったらなんでも相談してくれ、できる限り助けになってやる」と手を取ってくれた。
でもあたしは先生に相談する気は少しもなかった。
あたしが相談したせいで先生も同じ目に遭うかもしれない、そう思ったあたしは一人で全てを受け止めようと、乗り越えてみせようと、心に決めた。
次の日、恐る恐る教室のドアに手を掛ける。もう刃は仕込まれていないようだった。
あたしは出来るだけ元気な声で「おはよう」と言いながらドアを開け教室の中に入った。
同時にバケツいっぱいの水が上から降ってきた。
前向きな気持ちが全部流されてしまったかのようだった。
あたしの挨拶にも、仕掛けに引っ掛かったことにも、誰一人反応してくれた人はいなかった。
挨拶は無視されると思っていたけれど、ぶざまに仕掛けに引っ掛かったのだから笑い声くらい上げてくれたっていいじゃないか。せめて仕掛けをした人くらいは反応してくれたっていいじゃないか。
これでは一人で勝手に水を被ったみたいで本当に惨めじゃないか。
床だけ雑巾で拭いて、あたしは濡れたまま自分の席に着く。
暫くしてチャイムが鳴って担任の先生が入ってくる。
その先生もあたしをチラリと見ただけだった。確かにあたしは一人で頑張るなんて決めたけど、心の奥がやっぱり寂しくなった。
昨日「出来るだけ助けてやる」って言ってくれたのに。結局、先生に出来ることなんて限られているんだ。
先生はあたしだけの先生じゃない。この教室みんなの先生だし、未来の他の子供達の先生でもあるんだ。
だからあたしだけに構っているわけにはいかない。イジメられているからって甘えるわけにはいかない。
これは戦いだ。あたしが友達を作ることが出来るか、それともイジメに負けるか。
あたしは絶対に負けない。人生まで無くしてたまるか。
とにかく前向きでいよう。水がなんだ。鳥のフンじゃなくてよかったじゃないか。それにあたしの今の気持ちはこんな綺麗な水では流せないぞ。もっと粘り強いんだ!
決意したその日のうちに、あたしの教科書は絵の具でぐしゃぐしゃにされていた。トイレに行って戻ってくる間のわずかな時間で、それはもう使い物にならないだろうというくらいの有様になって、机の上に並んでいた。
あまりの出来事にあたしの思考は停止してしまい、それでも前向きに行こう前向きに行こうという思いが空回りをして、軽いパニック状態になり、つい、「カラフル……だね」とかわけのわからないことを口走ってしまった。
それなのに誰も相手せず、むなしくチャイムが鳴るだけで、日直は授業の号令をかける。
「起立」「礼」「着席」たった三つの単語がひどく乱暴に聞こえた。
流れ作業にも思えるその行為に感謝の気持ちなどこもっていないのだろう。
授業が始まって、あたしは先生の言葉を一言も聞き漏らすまいとノートに鉛筆を走らせた。 教科書が使えないから、早く机を並べて勉強できる友達を作らないといけない。学校が終わって、友達の家で一緒に宿題をする姿を思い浮かべると、自然と授業も頑張れた。
次の日の朝も教室のドアを開けると水が落ちてきた。しかし間一髪、昨日の出来事を思い出しドアの前で立ち止まったことで、ずぶ濡れになることは避けられた。と安堵した途端に、どこかに吊るされていた黒板消しがターザンの如く綺麗な弧を描きながら迫ってきて、あたしの顔に直撃し白い煙幕を吹き出した。チョークの粉が気管に入り思いっきり咳き込むあたしの姿を、笑う人も心配する人もいなかった。まったく変わらない、いつも通りの風景がとにかく苦しかった。
少し落ち着いてきたあたしは、仕掛けを外して黒板消しを元の位置に戻しておいた。舞ってしまった粉も掃除しておこうと思ったけれど、ほうきも雑巾も誰かが隠してしまったらしく、探しても見つけることができなかった。仕様がなくそのまま自分の席に着いて先生が来るのを待った。
チャイムが鳴って教室に入ってきた先生は、チョークの粉で汚れた出入り口付近とあたしを見て少しだけ驚いていた。
先生の反応はそれだけで、いつも通り、何事もなかったかのように朝のホームルームが始まった。
先生の話を聞きながら、今日は誰かに話しかけてみようかなんて想像をしていると、驚くべき言葉があたしの耳に入ってきた。
それはあたしがずっと心の中で待ち望んでいたことなのかもしれない。
「チョークで遊んだ人は授業が始まる前に綺麗に掃除しておきなさい」
先生があたしの味方をしてくれた。いや、実際それはただ単に汚れを指摘しただけであって、指導者としてはなんら珍しくない当然の行為なのだけれど、あたしの心臓はドクンと大きく跳ねて体の隅々を熱い液体がじわじわと満たしていくような不思議な感覚に包まれた。誰もいなければ拳を天高く振り上げていただろう。あたしの気分は急上昇していた。
少し離れた席の女の子が左手を挙げた。
「その子がさっき黒板消しを弄っているのを見ました」
おお。ついにあたしの味方になってくれるクラスメイトも誕生した! と心の中で喜んで、犯人が誰なのか教えてくれる女の子の方を見る。
名前はたしか、蜜原さん、蜜原蜂野さんだ。きっと蜜原さんがあたしの無実を晴らしてくれるだろう。もしかしたらこれで犯人が明らかになればあたしはイジメられなくなるかもしれない。それどころか蜜原さんと友達になれるかもしれない。蜜原さんは何が好きなんだろう。暇なときは何をしているんだろう。考えてみて、あたしは蜜原さんについて何も知らないことに気付いた。いや、違う。蜜原さんだけじゃなくて他の子のことも知らない。あたしは知らない内に自分で壁を作ってしまっていたんだ。これからはクラスの皆のことをもっと積極的に覚えていこう。そしてそれはまずは蜜原さんから始めよう。
あたしが期待の眼差しを向けていると、蜜原さんは挙げた手をゆっくり下ろしてあたしを指差した。
彼女の氷のような眼頬に対して、期待してにやにやしているあたしは本当に馬鹿みたいだった。ぬか喜びもいいところだ。こんな急に味方になってくれるわけないじゃないか。
先生があたしを見る。確かにチョークの粉を舞わせたのはあたしだけど、あれを仕掛けたのはあたしじゃない。そのことを弁明しようとしたら先生があたしの心を読み取ったのか代わりに言ってくれた。
「彼女がそんなことをするわけないだろう!」
いつになくあたしの味方をしてくれる先生がとても頼もしかった。それと同時に不安にもなった。
先生もイジメの被害にあったらどうしよう。
守ってもらえるのは嬉しい。けれど、あたしを守ったせいでその人が破滅してしまうのは悲しいし、そんなのは絶対に嫌だった。
先生に迷惑をかけないためにも、あたしは「自分が犯人だ」と嘘を吐こうとして口を開いた。
一人で頑張ると決めたのに、手を差し伸べられた途端甘えるなんて意思が弱すぎる。もっとしっかりと意思を固めなければイジメなんか乗り越えられないし、そんな人では誰も友達になってくれないだろう。
それだけ思いを巡らしても、あたしの口は開いたままで、言葉を発することはなかった。なぜだか声が喉の奥で詰まって出てこない。無理矢理にでも声を出そうとすると呼吸の仕方がわからなくなって苦しくなる。どうすれば空気が吸えるのだろう、どうすれば息が吐けるのだろう。まるで体が嘘を吐くことを頑張ることを拒んでいるかのように、口も喉も肺もそれぞれの役割を放棄していた。
呼吸が出来ず、だんだんと意識が薄くなっていく中で、先生の大きな声が聞こえたような気がした。
意識が戻るとあたしは保健室のベッドで横になっていた。夕日の眩しさに目を細める。
あたしの影が黒く長く床に伸びている。他には誰もいなかった。
鞄を取りに教室に戻っても、誰もおらず静まり返っていた。代わりに黒板いっぱいに書かれた色取り取りで賑やか過ぎるほどの先生の悪口が、一番に目に飛び込んできた。
あたしはすぐに消そうとした。
それは油性ペンで書かれているらしく、ちっとも消えはしなかった。
吐き気がした。
空っぽの胃からは出てくるものが何もないようで、ただ醜い声だけが喉をひっくり返すように漏れ出した。
苦しかった。
これが体の苦しさなのか心の苦しさなのかわからない。
あたしが学校に来なければ、こんなことにはならなかったのだろう。
あたしがいなければ、こんなことにはならなかったのだろう。
もう消えてしまい。
あたしが消えることで全てが元に戻るのなら今すぐにでもこの世から消えよう。
誰もイジメられることのない日常に戻るのなら喜んでこの身を捧げよう。
しかしそんなことはありえない。
夢を見ていてはいけない。
あたしだけが逃げてはいけない。
あたしを守ろうとしてくれた先生と一緒に、イジメを乗り越えなければいけない。
今日、先生が見せてくれた勇気を、あたしも持とう。
次の日から、あたしへのイジメは随分と軽いものになっていった。代わりに、担任の先生がその対象になってしまった。
相手が大人だからだろうか、あたしの時以上にイジメの内容が酷く、容赦がなかった。
あたしは出来る限り先生を助けようと、皆と同じようなことを考えて皆が仕掛けた罠を片っ端から片付けていった。それでもあたしに標的が移ることはなかった。
そんな日がどれくらい続いただろう。
それでもどうにもできないものがあった。
悪い噂を流された先生は教職を続けることができなくなった。
最後に見た先生は、頬が痩け、目は窪み、髪も薄くなってしまって、まるで別人のようだった。去り際に酷く恨めしそうに教室を睨みつけていた。
助けられなかった自分が情けなかった。
次の日から、あたしへのイジメは再開した。
担任の代理として他の先生が来たけれど、常に怯えていて、皆の機嫌を取ろうと必死だった。
あたしなんかの面倒を見ている余裕はなさそうだった。
担任の先生を相手にしたときに感覚が麻痺したのであろうイジメが、徐々に激化していく途中で夏休みが始まった。幸い学校外でイジメられることはなかった。
去年と全く同じように過ぎていった夏休みは、あっという間に終わっていった。
それは驚くほど静かで、平凡で、優しくて、現実ではないみたいだった。
夏休み最後の日、無性に学校へ行きたくなくなったあたしは、お母さんが仕事に行っていることを確かめると、椅子の上に乗って、家の柱に紐を結び、そこに、首を、通して、足元の、椅子を、蹴り倒した。
意外と、苦しくなかった。
よかった、と思った。見苦しい顔だとお母さんがびっくりしてしまう。
首吊りというのは、あたしがイメージしていたよりもずっと楽らしい。意識がなくなるまで穏やかな気持ちで待つことができた。
しかし、いつまでこうしていればいいのだろう?
もしかすると、あたしはいつの間にか窒息していて、ここは死後の世界ではないのだろうか、と疑問が浮かんだ。いやいや、そんなわけがない。こんな世界が続くわけがない。まだ死んでいないだけだ。
何も起きないまま時間だけが過ぎていき、流石に飽きてきて足を揺らしていると、縄が切れて体が落っこちた。
時計を見ると一時間くらい経っていた。首がしまった状態で。何故生きているのかわけがわからず混乱していたあたしは、とりあえずこの場を綺麗に片付けて今日はもう寝ることにした。
すぐに死ぬことがないのなら今後のイジメもなんとかなるだろう。
頭が働かず、そんな気楽な考えだった。
このとき意地でも死んでおけば楽だったのかもしれない、と思ったのは後になってからだった。
簡単に死ぬことはない、と吹っ切れたからだろうか朝起きると体が軽くなっている気がした。体調もいつもより優れている感じがする。病は気からというように、確かに心が楽になると体も楽になるようだ。この場合、多少不健全ではあるけども。
スキップをするような気軽さで登校して教室の扉を開けると、ごつんと変な音がした。教室の皆があたしの方を見ている。後ろに目を向けると、靴下を丸めたくらいの大きさの鉄球が転がっていた。どうやら運良く外れてくれたらしい。もし頭に直撃していたらと思うと全身に鳥肌が立った。
それ以降は授業が終わるまであたしの体に直接的な危害を加えられることはなかった。その分、精神的な攻撃が増していた。特に、いつもよりも多めに落書きされたあたしの持ち物には、バケモノだとかゾンビだとか、いつもは書かれない言葉が並んでいた。
普段はウイルスだとかオバケだとか言われていたので不思議だった。いや、よくよく考えれば大差なかった。
教科書もノートも使い物にならなかったので授業についていくことができず、わからなかったところを授業後クラスのみんなに聞いて回るも、誰一人として嫌な顔ひとつせずあたしのことを相手にしてくれなかった。
仕方がないので図書室に向かうと、夏休み中に模様替えでもしたのだろうか棚や机の配列が随分と変わっていた。同心円状に並ぶそれには少しだけオシャレな雰囲気を感じた。
中学二年生の教材の棚からいくつか本を手に取ったあたしは、他に誰もいない図書室の真ん中の机に座った。本に囲まれているようで気分が高揚した。
いくらか時間が経ってそろそろ切り上げようかと座りながら背筋を伸ばしたとき、不気味な音が鳴った。
ドスン、ドスン、と規則正しい重低音が周囲から聞こえてくるのと同時に埃の匂いが強くなった。まるで大きな怪物がこちらへ歩いているようだった。
しかしそんなことはあるはずもなく、気が付いたときには既に遅く、あたしを囲む本棚が、あたしを目掛けて倒れてきた。奥の本棚からドミノ倒しのように倒れてきていることに、すぐ近くの本棚が壁になってわからなかったのだ。
あたしは為す術もなくその大群に押し潰された。




