今日から僕は 40
吉田はそのまま実働部隊控え室を覗いたが誰もいなかった。
「あいつ等も好きだねえ」
そう独り言を言うと軽快に管理部の前を通り過ぎてハンガーの階段を駆け下りる。
ハンガーの中からグラウンドを見る。
珍しくサングラスを外している明石の叫び声が吉田にも届いた。
「おいアイシャ。ワレの連れとシャムはどうした?」
白い野球の練習用ユニフォームに身を包んだ明石が試合用の『保安隊』と左胸に縦書きで書かれたユニフォームを着たアイシャに声をかけた。
「すいません!夏コミの原稿入稿が明日で今日は修羅場なんで……」
そう言うアイシャは軽く屈伸をした。
「ったく初日からこれか。まあええわ、その方がワシ等らしい。とりあえずアイシャ落とし前はつけろや」
そう言ってグラブをつけたばかりのアイシャにボールを投げる明石。
「え!なんかHなことされるんですか?」
ボールを受け止めたアイシャがニコニコしながら答えるのを聞いて、明石はあきれたように天を見上げた。誠はマウンドの上で何度かジャンプしていた。
飲みすぎで気分はあまり良くは無い。
「昨日、神前の球見たろ?」
サードベースの横に立っているアイシャからボールを受け取ると明石はいつものどら声で叫んだ。
「そんなに大きな声出さなくてもいいじゃないですか」
アイシャはそう言うとプロテクターに身を固めた明石にボールを投げ返す。
しばらくボールを持って考えていた明石が何かひらめいたようにマウンドの上の誠を見た。
「神前の。お前も打席に打者が立っとる方が勘が戻るじゃろ?」
そう言うと明石は手にしたボールを誠に投げた。
投手用の大きめのグラブでそれを受け取ると、誠はボールと明石を何度か見比べてみた。
「はい、まあ……」
誠は曖昧にそう答えた。
自信はなかった。
懐かしい白い練習用のユニフォームに袖を通している間から昨日には無い不安が彼を支配していた。
本当に肩は大丈夫なのだろうか?
肩を回し、腕を上げ、違和感が無いことは確実に分かるのだがかつての肩の筋肉の盛り上がりは無くなっていた。
球速は戻らないのは自分でも良く分かる。これから筋トレして元の体を作り上げたとしても、肩への不安が残り続けるのは分かっていた。
「今度はマジで行くけ、マスクつけるわ。カウラ、いい勉強だ審判やれ。島田とキム、それにヨハンは外野で球でも拾えや」
そう言い残すと明石は用具置き場のほうに歩いていった。
「誠ちゃん!ただ打つだけじゃつまらないから、なんか賭けない?」
久しぶりの投球を前に緊張している誠に向けて、アイシャはそう話しかけた。
カウラの目が鋭くこちらのほうを見ているのを痛々しく感じながら、誠はおずおずと三塁ベースからホームに歩くアイシャの方を見つめた。
「賭けるって……冬コミの執筆か何かですか?」
呆れたように両手を広げるアイシャ。彼女はバットを持ってホームベースのところにいたカウラからバットを奪い取ると素早くスイングをした。
右打ち、バットはグリップエンドぎりぎりのところを持って腕をたたんで振りぬく。
「馬鹿ねえそれはもう決定事項だから。そうじゃなくって私が勝ったら、キスさせてもらうってのはどう?損な話じゃないと思うけど……」
そのアイシャの言葉に誠は混乱した。
「アイシャさん、それって逆じゃあ……」
同じく動揺していたカウラがアイシャの狙いを理解して彼女をにらみつけた。
「怖い顔しないでよカウラ。誠君も奥手そうだからね。じゃあ先生が勝ったらカウラにキスさせてあげるって言うのはどう?」
にらんでいたはずのカウラが急に頬を染めてうつむいた。
しばらく下を向いてスパイクで何度かグラウンドの土を蹴飛ばした後、言葉の意味を理解して激高するようにスイングを続けるアイシャを見つめた。
「アイシャ!何を言ってるんだ!」
動揺しているカウラの顔が赤く染まる。
「ほんとこの子は冗談が分からないんだから……そうだ!今度、どっか行った時、おごって上げるわよ。それでいいでしょ?それじゃあ決まりね!」
そう言うとアイシャは一人納得したようにバッターボックスに入った。インコースの低めの球をおっつけるようなスイング。外角高めの速球を予想して叩きつけるようなスイング。そして外角低めのボールを救い上げるようなスイングをアイシャは見せた。
そしてアイシャは紺色の帽子を一度脱いで、後ろで縛った紺色の長い髪を風になびかせるとまるで挑発するように誠の投球を待つ用にオープンスタンスでバッターボックスに立った。




