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入れ替わり

作者: 霧氷 こあ

 男は一大決心をした。長年勤めた会社を退職し、自分で小さな会社を建てたのだ。

 もちろん、ちょっと遠出をしてくる、といったレベルの話ではない。それこそ、男の人生を大きく変える分岐点といっていいだろう。

 代償は大きかった。男は、長年連れ添った妻に猛反発に合い、話し合いの末、別居することになったのだ。口論になるのはよくあることだったが、今までの不満を纏めてぶつけられたといっても過言ではないレベルの口論だった。

「いつも仕事から帰ってくると何やら部屋に篭っていると思ったら、会社を建てるですって? 正気の沙汰じゃないわ、今後の生活について考えさせてもらいます」

「そう結論を急ぐな。私の考えたこの仕事が波に乗れば、今まで通り生活できる。いや、それ以上の生活だって夢ではない」

「寝言は寝て言うものなのよ。だってあなた、あたしに内緒で借金までしていたでしょう。とにかく、あたしは出て行きますからね」

 そそくさと荷物を纏めて出て行く妻を、男は引き止めなかった。

 しかし、それでいいのだ。全ては男の計算の範疇である。この新しい仕事で大儲けをして、噂を聞きつけた妻が、やっぱりあたしにはあなたしかいないわ、と泣きついてくる姿を見られるからだ。それほど、男はこの仕事に自信があった。

 小さな事務所のデスクにふんぞり返って、妻の懇願する姿を想像していると、チャイムが鳴った。

「どうぞ」

 男は出来るだけ威厳のある声色で客を迎えた。

 客は、眼鏡を掛けた青年だった。瘦せ型で、背は男より十センチほど高い。

「こ、こんにちは」

 弱々しい声で挨拶する青年を、近くの椅子に座るよう促す。

「いらっしゃいませ、身体レンタルへようこそ」

「あ、あの本当にレンタルが出来るんですか?」

「ええ、もちろんですとも。お客様の脳のデータと、身体能力のデータを提出してもらうことになりますがよろしいですね?」

 男は不安がる青年に向かって、至って冷静に落ち着いた様子で話す。

 男の仕事は、依頼者の人生を変わりに過ごすというものだった。長年の研究で造りあげた機械に依頼者のデータを読み込ませ、それを自分の脳にインプットする。更に、体全体を包み込む巨大なカプセルに入り込み、特殊加工を施し姿も真似るのだ。男女の差異など、この特殊加工にかかれば何の問題もない。十二時間もあれば、ほぼ百パーセント本物に近づく。

 青年のデータを取り終えて数日後。再び事務所を訪れた青年が目を丸くした。

「うわぁ、本当に僕そっくりだ」

「そうでしょうとも。おっと、今はお客様の前ですからこの口調ですが、外に出てからはあなたと同じ口調になりますよ」

「それなら安心だ。それで、その、追加オプションなんですが……」

「ええ、料金さえ頂ければいくらでもお付けいたしますよ」

「僕に成りすましている間に、仕事で業績を上げてもらいたいのです」

「お安い御用ですとも」

「ありがとうございます。では僕は一ヶ月間、海外で遊んできます。本当に大丈夫なんですよね?」

「もちろんですとも。どうぞお気をつけて、しばしの間、人生をおやすみ下さい」

 青年は最初に事務所に顔を出したときとは打って変わってにこやかな表情で去っていった。

 それから一ヶ月間、男は青年として生活した。脳から取り出した数多の記憶は、あたかも自分自身が元から持っていた記憶のように男に馴染んだ。会社でも、まさか青年が別人と入れ替わっているとは悟られず、それとなく活躍し、業績を上げた。

 そして契約最終日。海外から帰ってきた青年に一ヶ月間のレポートを提出した。

「凄い、まさか本当に業績まで上げるなんて。本当に感謝しています。これは残りの料金です」

 アタッシュケースに入った札束を受け取り、男は悦に浸った。何とも簡単な仕事である。脳のデータは当然ながら正確で、全く苦ではなかった。それに、一ヶ月とはいえ他人の生活を体感するのは、今まで会社に缶詰め状態だった身としては何とも新鮮だった。

 青年を帰したあと、男は新たに予約が入っていることに気付き、すぐさま事務所に呼んだ。チャイムが鳴り、女が顔を出す。

「こんばんは。あの、本当に入れ替われるんでしょうか」

 聞き覚えのある声に目を凝らすと、それは妻だった。しかし、男はまだ青年の姿をしたままである。

「あの、一ヶ月の交換で、追加オプションを付けてもらいたいのですが」

「……かしこまりました」

 男は引くに引けず、まず先に妻の脳内データを抽出して自身の脳にインプットすることにした。これだけなら、そう時間はかからない。

 インプットが完了すると、脳のデータが入り乱れ混濁し、瞬く間に自分が憎くなり、迸る怒りに身を任せて包丁を胸に刺し込んだ。生命活動が止まったことにより、特殊加工のボディが剝がれ落ち、本来の男の姿が露になる。

 物音を不審がった妻が駆け寄り、ゆっくりと微笑を浮かべた。

「あら、あなたの新しい仕事ってこれだったのね。それにしても、入れ替わってアリバイを作ってもらってから殺そうと思っていたのに手間が省けたわ」

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