エピローグ
エピローグというか、本編2というか……
数日後。
「フィアナ、約束を果たしてもらいに来た」
いきなりやってきて、約束の履行を求める男に、少女は首をかしげる。
「約束? さぁ、どの約束のことでしょう?」
「言ったろう? メイリーンと別れたら慰めると」
てっきり、惚気話のほうだと思っていた少女は、はっと息を呑んだ。
「……え?」
「忘れたのか? だが、幼馴染なら慰めてもらえるんだろう?」
男は軽くからかうような笑顔で再度約束の履行を迫ったが、少女はそれどころではなかった。
「え? 何故? メイリーンは……。きっと、きちんと伝わらなかったんですわ。私、ちょっと説明してまいりますっ!」
やおら慌てて駆け出そうとする少女の腕を、男は掴んで止める。
「おっと」
「離してくださいまし! 私、私がメイリーンに説明しますわ。だって、メイリーンはまだ貴方のことを……」
「分かっている。彼女は、こんな俺でも慕ってくれていた。……違うんだ。すまない、そうじゃないんだ」
「では、どうしてですの? 何故諦めようとするんですの?」
涙目で詰め寄った次の瞬間、少女は男の胸の中にいた。
「え?」
「すまない。卑怯な真似をしようとした。違うんだ、俺がメイリーンと別れると言ったんだ」
「え?」
頭が飽和状態の少女を抱きしめた男は、そのまま腕の中の少女が逃げ出さないよう、きっちりと捕まえたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「お前に言われて、俺は最初から考えた。叔母のこと、彼女のこと、自分のこと」
幼い頃、叔母にされた仕打ちについて。それにより植え付けられた、女性への恐怖と軽蔑。それは、自身を蝕み、自分へ好意を向ける女性への不信感となった。母親が物心着く前に他界していたこと、叔母に加担した者が侍女ばかりであったことも不幸な結果となった。
女に対し上辺だけの礼を貼り付けるようになった自分にまとわり付く女性は、大概、その容姿と地位に引き寄せられただけの者であったため、自分のために利用することを躊躇うことはなかった。
どうせ向こうとて、一時の非日常な感情を味わいたいだけなのだ。ほんの少しいい夢を見せてやり、終わったら切り捨てても問題ないではないか。だって、一切隠しも言い訳すらしていない状態で、女は引きも切らずにくる。つまり、最初からそれを分かった上で自分に誘いをかけており、切り捨てられた女が自分を憐れみ泣くまでが通過儀礼なのだと。
だが、彼女は違った。自分を頼り、気まぐれに助けただけなのに、全開で感謝を伝えてきた。勝手に自分をいい人だと思い込み、頼りにするようになった。
自分に向けられる全幅の信頼と、煩わしい裏のない好意は、最終的には女を捨てるために接することに飽いていた自分の心に、甘く染み込んだ。
自分が彼女を守らねばならないという思いは、正しい心の有り様であり、自分の心を曲げてまでしなければならないご機嫌取りとは、全然比べ物にならない充足感を得られた。
彼女が喜ぶ姿を見られるなら、今まで煩わしかった事柄でさえ、する事が苦にならない自分がいた。
……それが自己満足の押し付けであるとは気付かず。
「俺は、彼女の望みを叶えることを喜んでいたんじゃない。偶々、自分がやりたいことと彼女の望みが一致していただけだった。それが乖離した場合に、彼女に合わせることなんて考えもしなかった」
今まで喜んでいたのだから、これからも喜ぶはず。そんな思い込みで現実を歪め、彼女がその押し付けを苦痛に思っているのを気付かなかった。
「結局、俺は、彼女が好きだった訳ではなく、自分にとってより都合のいい人物が好きだっただけだったんだ」
「そんなことっ!」
自嘲するような男の声に、思わず声を荒げる。
男は自分の想いを否定したが、それだけであったはずがない。そこには、少女が羨ましく思う、純粋な好意も確かに存在していたのだ。
「彼女を好きでしょう? 共に歩みたいと思ったのでしょう? その気持ちは間違いではなかったはずです」
男の腕から逃れようともがきながら、必死に言い募る少女に、男は静かに首を振った。
「確かに、彼女を好ましいと思う気持ちはあった。それは、今も存在している」
「ならっ!」
「考えたんだ。それが、そもそもどこから来る想いだったのかを」
「どこから……?」
男は、おとなしくなった少女を抱く力を弱め、泣き出しそうな瞳で見上げる少女と眼を合わせた。
「あぁ。不思議に思ったんだ。俺は、何故態々嫌悪対象である女性と、散々関わりあってきたのか、と。最初は、ある種の復讐だと思った。自分に縋る女を捨てることで、溜飲を下げているのだと」
「勿論それもあったと思う。けれど、心のどこかで期待していたんだ。女は俺を騙し、陥れようとするだけの生き物じゃない、と。いつか、それを証明する存在に会えたら、と」
「それが、メイリーンだった。……そうでしょう?」
「そうだ」
はっきりと頷く男に、少女はほっとしたような悲しそうな表情を浮かべる。
「だが、俺は彼女に会う前から、きっと知っていたんだ。決して自分を裏切らない女がいることを」
男は、少女の頬にそっと手を添え、ゆっくり撫でる。
「俺はずっと、君からの手紙を義務だと思っていた」
少女の体がぴくりと震える。そんな少女を宥めるように、男は頬に添えていた腕を頭に滑らせ、ゆっくり髪を弄びながら続けた。
「数日に一度、いつか紙で邸が埋まるのではないかという頻度で来る手紙を、いつも面倒だと思いながら、返事を出していた」
「……はい」
「だがある日、いつもは来るはずの手紙が届かなかった。結局は、事故で少し遅れていただけだったが、あの時は、返事を出すのが面倒だと思っているにもかかわらず、勝手に手紙が来なくなったことに動揺した」
自分が態々手紙のための時間を用意してやっているというのに、それを無駄にさせるなんて、どういうことだ、と、訳の分からない苛立ちが男の心に燻った。別に、決まった間隔で手紙を出す約束があったわけでもない上、自分自身は、毎回返信を出す訳でもなかったというのに。
「そして、次の手紙が前の手紙と一緒に届いたとき、手紙を書くのをやめた訳ではないと分かってほっとしたんだ。なんだ、ただ単に届くのが遅れただけか、と」
ほっとした男は、同時に苛立った。
「何故、来ても来なくても構わないはずの手紙が変わらずに来ただけで、何故こんなにほっとするんだ、と、混乱した俺は、返事に何を書いていいか分からなくなった」
これまでも、何回分かの手紙に纏めて返信する事はあった。今回とて、状況は変わらないはずなのに、何を書いても納得できなかった。何故か、そのまま返信すると、今度こそ手紙が来なくなるような、えもいわれぬ焦燥感に襲われたのだ。
「結局、何度か書きかけた返事を破り捨て、次の手紙を待つ事にした。その頃にはきっと、何か書くことも浮かぶだろう、と」
だが、次の手紙が届いても、状況は変わらなかった。いっそ今まで返信できていたのが不思議なほど、何を書いていいのか分からなくなっていたのだ。
「今回も返事を見送ることも考えたが、流石に何通も貰ったまま返信しないのはまずいと思い、ケイドに書かせた」
結局、その数日後に、少女自ら学園へ乗り込んできたため、それ以後、手紙を書く必要はなくなったが、もし手紙があのまま続いていたとして、自分は返事を書くことが出来ただろうか?
「多分、俺は恐れていたんだろう。今まで当然のように来ていた手紙が来なくなることを」
自分にとって、少女の手紙は、返信は面倒なものだったが、手紙が来ること自体は嫌ではなかった。手紙を読めば、共に遊んだ少女の姿が浮かぶから。
「俺にとって昔共に遊んだ君は、いつだって幸せな時代の象徴だった。そんな君から昔と変わらず手紙を受け取っているということは、俺自身は失ってしまった眩しい世界に、片足だけでも引っかかっていられると感じられることだったんだ」
誰にも奪うことが出来ない、幸せの記憶。それを唯一簡単に消し去ることが出来る人物、それがフィアナだった。
「だから、会いたくなかった。君が成長して、その辺の女と区別が付かないほど変わっていたら? もし君が穢れきった俺を拒んだら? そんなこと、受け入れられる訳がなかった」
少女は、自分が少女を傷つけないように逃げていたのだろうと言っていたが、そうではない。自分が怖かっただけだ。少女が自分を捨てやしないか、会いたくない、と言い出しはしないか、と。
「だが、君は俺を追ってきた。昔のままの真っ直ぐな態度で。ほっとした」
幼い日の幸せは、まだ完全に消え去ってはいないのだと確かめたくて、男は少女から逃げた。記憶の中の少女は、いつだって自分を見つけると一目散に駆け寄ってきたから。
「君が俺を探して必死になるのが楽しかった。態と自分の行く場所を周囲にもらしたり、ぎりぎりまでその場に留まったり」
「私は、すんでのところで逃がしてばかりで、ちっとも楽しくなかったですわ」
ぷくっと膨れっ面で言う少女に、思わず笑みがこぼれる。
「すまない。君が俺のために動いてくれているのが嬉しかった。俺に会えずにしょんぼりして、俺のことで頭をいっぱいにしていてほしかった」
再会するまでは、本当に会いたくなかったというのに、一度会ってからは、身勝手にも自分だけを見てほしいと思った。
「君が俺に気付かず、他人と話しているのを見る時は、腹が立った。君に笑顔を向けられた男なんて、殴り飛ばして全ての記憶を消してやりたいと思うくらいに」
「……」
「あれだけ、君が変わっているかもしれないと思っていたのに、それでも君が、俺を追いかけないことは考えすらしなかった。何があっても、どういう態度をとっても、それでも君は俺のそばにいるのだと」
実際には、そんな事ありえる訳がないにも拘らず、男は思いつくことすらできなかった。婚約者でなくなった少女が、自分から離れていくなどと。
「だから、メイリーンと付き合い始めて、君が来ないことがショックだった。君は変わらず俺に会いに来ると疑いもしていなかったんだ」
「……元婚約者が、破棄された後も付き纏っていたら大問題ですわ。恋人との仲だって危うくなりかねませんわよ」
「そうだな。だが、愚かにも全く気付かなかった。まるで、幸せな過去に見捨てられたような絶望を味わった」
だから、余計にメイリーンに固執した。失ってしまった幸せを取り戻すために、彼女を守ろうとし、反発する彼女を押さえ込めようとした。
自分には、彼女しか残っていないのだと思い込み、自分自身を追い詰めた。その結果、傷付いたのは巻き込まれた彼女だったのだから、救いようもない。
「君に励まされ、彼女に会いにいった時、メイリーンは話を聞いてくれた」
ひたすら謝る男の話を遮ることなく全て聞き、最後に縋るような眼で一言言った。
『私、まだ貴方のこと、好きですよ?』
ここで男が、自分の行いを悔い改め、彼女の意志も尊重する、何かあったらきちんと二人で話し合うようにするから、もう一度やり直したい、と言っていれば、メイリーンは首を縦に振っていただろう。
「ここで望めば、メイリーンは戻ってきてくれる。そうすれば、今度は二人でよりよい関係を築いていけるだろうというのは分かった。何より、彼女がまだ自分を望んでいてくれたから」
だが、男はその道を選ぶ事はできなかった。
「……分かってはいるんだ。最初に身勝手に手放したのは俺だと。今更俺には何の権利もないと」
婚約破棄をした己が、それでも少女を望む。それがどれだけ愚かしいことかはわかっている。身勝手にも程がある最低な望みだ。
「だが、それでも認められそうにない。君が他の誰かと付き合うなんて。他の誰かの隣に立つ君を見るくらいなら……」
――いっそ、君を殺してしまいたい。
縋りつきながら、搾り出すように言われた言葉に、少女の体が震える。
酷い男だ。少女はいつだって変わらずに待っていたのに、勝手に遠ざけ、恐れ、突き放された。挙句の果てに、勝手にいもしない相手に嫉妬して殺されそうになっている。
自分自身で、少女に対する権利がないと言いながら、その腕は少女を決して放さないよう、きつく少女を捕らえている。
今更だ。彼女は傷付いた。追えば逃げられ、まともに話せたと思ったら婚約破棄だ。少女だって傷付くのだ。むしろ、好きな相手にこれだけのことをされながら、傷付きもしない女がどこにいる。
ここまでされておきながら、まだ好きでいてもらいたいなんて調子が良すぎる。あれからどれだけの日数が経ったと思っているんだ。もうとっくに吹っ切って、新たなお相手を親から紹介されていたっておかしくないというのに。
なのに、なんで。
「どうして……」
「フィアナ……、すまない。頼む、お願いだから泣かないでくれ」
焦ったような途方にくれたような声が聞こえる。それは、男が本当に困りきったときに出す声。
それを聞いた少女は、ますます涙腺が弱くなるのを感じた。
「だって、かいるさま、もう、わたくし、いらないって。めい、りーん、すき、だって」
ぼろぼろと泣きながら訴える。
「わたくし、ずっと、あなた、あき、あきらめっ」
そのまま言葉に詰まってしゃくりあげる少女に、男は慌てて宥めようとするが、頭を撫でる手は振り払われてしまう。
「何ですの、今更! わ、私が今までどれだけ辛かったと思っていますの? それでもメイリーンと幸せになるというから、それで、よ、良かったのだと、安心していたというのに、諦められると思っていたのに、何故っ」
「すまない。フィアナ、俺は……」
「いやっ! もういや! カイル様なんて、カイル様なんて、大っ嫌いですわ!」
叫びながら、言葉とは裏腹にしがみついてくる少女を抱きしめる。いやいやと顔を胸に押し付け、決して顔を上げようとしない少女の耳元に唇を寄せ、男はそっと囁いた。
「フィアナ……、好きだ。愛してる」
「っ! ……私は、嫌いですわ」
「それでも、俺は好きだ」
言葉と共に、頭の上に、チュっというリップ音が降ってくる。
思わず身を固くした少女に構わず、男は少女の頭にキスの雨を降らす。
結局、根負けした少女が、男に素直な気持ちを伝えるまで、男の攻撃は止まらなかったのだった。
最初、テーマは青い鳥、つまり、幸せは気付いていないだけで最初からあったのよ、というコンセプトだったはず。それが、蓋を開けてみれば、何かほんのりヤンデレに? いや、ほんのりか?