異変
「薔薇が? まぁ、不思議ね」
カイルは憂鬱そうに頷く。
昨日、叔母と共に見た薔薇が、何故か一夜にして枯れてしまっていたのだ。その薔薇は、数年前にフィアナと一緒に選び、それぞれの庭に植えたもので、フィアナの薔薇と呼んでいたものだったのに。
その薔薇以外に、不自然に枯れたものはない。虫がついていた様子もなければ、葉が変色していたということもなかった。その証拠に、叔母の部屋に飾った一輪は、綺麗に咲き誇っている。
「フィアナに何と言えばいいのか……」
「サランディア家のお嬢さんね。確かに、自分の名前の薔薇だけ枯れたとなれば、お嬢さん自身に何か悪いことが起こっていそうですものね」
薔薇が枯れたことでフィアナに何かあったら。関係するはずがないと思いつつも、心のどこかで心配していたことを叔母に言われ、不安がいや増した。
『
愛しのカイル様
今年もフィアナの薔薇が咲きました。カイル様と一緒に選んだ薔薇。今頃、そちらのお庭でも咲いているでしょうか? 同じ花が咲いていると、二人の距離は薔薇で繋がっているような気分になってきます。
薔薇の向こうに、カイル様がいてくださればいいのに。ベルベットの手触りを楽しみつつ、そんなことを考えています。
今度、お父様が、この薔薇の香水を作ってくださるというので、次回は、フィアナの薔薇の香りを纏ってお会いできるかもしれません。
今度は叔母様も一緒に来れることを祈って。王都で流行っているお菓子を一緒に食べましょう。
私は今、グラント領についてお勉強をしています。将来のために必要だから、と、詳しく教えてもらえるそうです。カイル様のいる場所というだけで、いつもより楽しいのは何故なのでしょう? この場所は、カイル様に連れていっていただいた場所、この場所は、カイル様が視察に行ったことのある場所、という風に、思い出しながら聞いているせいなのかもしれません。
それでは、私の想いを乗せた花びらを添えて。 フィアナ・サランディア
』
綺麗な花びらの押し花が送られてきたことにほっとする。あちらの薔薇は大丈夫そうだ。
こちらの薔薇が駄目になってしまったのは悲しいが、今度、株分けしてもらい、あちらの家で育った薔薇が庭にあるという状態になれば、同じ種類というだけではない、もっと近い薔薇を共に楽しめるだろう。
カイルは、嫌な気分を振り払うように、楽しいことを考えた。
「本当にごめんなさい」
心からすまなさそうに肩を落とす叔母に、首を振る。
「いいえ。形あるものは、壊れることだってありますから。それより、叔母上に怪我がなくてなによりです」
「でもこれ、サランディアのお嬢さんがくれたものだったのでしょう? そんな大切なものを……」
「ですが、フィアナだって分かってくれます。彼女だって、叔母上が無事で良かったと喜んでくれるでしょう」
叔母を慰めて、部屋から出たカイルだったが、気分はとても落ち込んでいた。
最近、フィアナのものが相次いで失われていたのだ。フィアナの薔薇に始まり、この前は、少しの間、机に出しておいたフィアナの折り紙を、新参の侍女に間違って捨てられた。ゴミだと思った、という侍女は、それを火にくべてしまっていた。知らなかったと顔を覆って震える侍女に、強く叱責することも出来ず……。
そして、今回。あれは、フィアナが五歳の時に、自分の誕生日プレゼントとしてくれた陶器の小物入れだ。眼をキラキラ輝かせながら、一生懸命、選ぶまでの苦労と、内緒にする辛さを話してくれたのを思い出す。
確か、あれがフィアナが自分にする一番最初の秘密だった。今までは何でもすぐに話してくれたのに、その時は、何かそわそわしながらも、こちらが眼を向けると、ぱっと逸らされることに、何かしただろうか、と心配したことさえ鮮明に覚えている。
壊れたことは仕方がないと分かっている。叔母の気分が晴れるなら、と貸したのは自分だ。壊されたことに恨みはないが、フィアナを思うと心が痛くなる。あんなに必死に選んでくれたのに。喜んで受け取ったカイルに、まるで自分の方がプレゼントを貰ったかのようにはしゃいでいた。
一生大切にすると指切りしたにもかかわらず、壊れてしまったことに泣き出したい気持ちになる。
――フィアナに会いたい。
会って、謝りたかった。どれだけ自分が悔いているかを伝えたかった。悲しむだろうフィアナを抱きしめ、約束を破った怒りだって受け止めたかった。
だが、フィアナに会える時期はまだ遠く。八年も努力してきて、未だにフィアナを守る力のない自分が悔しい。守る力があれば、ずっと共にいられるのに。
カイルは、自分の無力さを噛みしめ、ぎゅっと手を握りしめた。
『
愛しのカイル様
カイル様のスケジュールを聞いて驚いてしまいました。休む時間や遊ぶ時間はあるのでしょうか? 私は、お勉強の後、ゆっくり飲むお茶の時間が好きです。可愛らしいお菓子もついていると、それだけで疲れも吹き飛びます。特に、この間カイル様が送ってくださったお茶を飲むと、カイル様の暖かさを思い出して、何でも出来そうな気分になります。
カイル様も、休憩の時間を忘れずに、無理はしないでください。カイル様がご病気になってしまったら、私は泣いてしまいますから。
そうそう、うちの鳥が増えました。一羽、カイル様の家との往復を訓練するのですって。なかなかに人懐っこくて、ちょっぴり食いしん坊さんです。そちらに行かせた際には、息抜きにご飯をあげてみてください。きっと懐いてくれると思います。伝書鳥を最初から育てるのを見るのは初めてなので、楽しみです。
それでは、くれぐれもお疲れの出ませんように。 貴方を案ずるフィアナ・サランディア
』
「まぁ、それでは、フィアナ様は、生まれた時から既に、結婚相手が決まっておりましたの?」
「はい。サランディア侯爵が、是非婚約を、と打診してきたそうです。父は、まだ私の相手を決めていなかったため、二つ返事で承諾したと聞いております」
「まぁ。それは不幸なこと」
「え?」
叔母の心配するような声に、つい声が出る。今のどこに不幸があったのだろうか?
「カイルもフィアナ様も、他の相手を知らずに、お互いを好きだと思い込んでおられる。けれど、初めて会う相手が、自分にとって最上の相手ということは、滅多にないこと。大きくなって、貴方が本当に愛する人が現れても、貴方は想いを殺さなければならないだなんて」
叔母に考えたこともないことを言われ、動揺する。フィアナ以上の存在がいるなど、想像することさえ出来ない。それに。
「侯爵は、私達の気持ちが重要だと常々仰ってくださいます。もし、二人が共にいられないとなれば、婚約の破棄も検討する、と」
「まぁ、なんてお優しい侯爵様。侯爵様は、フィアナ様をとても大切になさっているのね」
楽しそうに義父を褒める叔母に、こちらも嬉しくなる。しかし、そのまま続けられた無邪気な言葉に、頭をガツンと殴られたような気分になった。
「フィアナ様はまだ十歳。今はまだ、親から言われた相手に、何の疑問も抱かずに慕っていられる年齢ですけれど、もう少し経てば、他の殿方と会うようになるでしょう。自分の目で見て好ましいと思った男性が現れてもおかしくありませんものね」
フィアナに、好きな人? 自分以外に?
そんなこと、考えられなかった。フィアナは、いつだって自分を見つけると、とんできた。他の人と話していれば、じぃっと睨みつけるように順番を待っていたし、少しでも間が空くと、話は終わりとばかりに割り込んできた。
そんなフィアナが、自分以外に想いを寄せる?
あり得ないと一蹴しようとしたとき、不意に自分から逃げてしまったフィアナの姿が浮かぶ。
カイルは頭を振って、おかしな考えを振り払った。あれは、自分が変な言葉遣いをしたせいで、フィアナがびっくりしただけだ。別に、自分自身が嫌で逃げた訳ではないのだ。そう、言い聞かせた。
「カイル?」
はっと気付くと、叔母が心配そうに自分を覗き込んでいた。目の前に相手がいることすら忘れ、みっともなく取り乱した自分を恥じる。
「すみません、叔母上。何でもありません」
「そう? 無理をしては駄目ですわよ?」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
何とか返したカイルの表情は、とても暗かった。
「カイル、お前何かあったか?」
侯爵家で、フィアナを守れるかどうかのテスト中。いつもは、簡単に駄目出しするだけの義父が、眉を寄せながら聞いてくる。
「何か、とは?」
抽象的過ぎる質問に答えられず、首を捻るカイルを見た義父は、一旦口を開き、また閉じた。
「いや、気のせいか。……そうだな、まだまだだ。まだまだだが、少しは様になってきたんじゃないか?」
「本当ですか!?」
珍しい義父の褒め言葉に、思わず前のめりになる。
「あぁ。まだまだだがな。それでも前には進んでる。……だから、焦るんじゃないぞ?」
「はい! ありがとうございます!」
今までけんもほろろに追い払われるのみだったのに、はっきりと前に進んだと言ってもらえた。しかも、アドバイスまでもらえたカイルは、弾むような足取りでフィアナの元へ向かった。
「カイル様!」
「フィアナ、おいで」
自分のところへ駆けてくるフィアナに手を広げ、ぎゅうぎゅうに抱きしめる。
「カイル様、カイル様、どうなさったの? 何だかとっても嬉しそう」
「そうだね、フィアナ。とってもいいことがあったんだ。義父上が、俺を少しだけ認めてくれたようなんだ」
「お父様が?」
「あぁ。及第点にはまだまだだけど、俺の姿が様になってきた、だってさ」
「わぁ! カイル様、おめでとう! フィア嬉しい!」
我が事のように喜ぶフィアナに、鬱々とした思いは全て吹き飛んでいた。
「フィアナ」
「何ですの? カイル様」
カイルは、フィアナの前に膝を着き、その手を取って額をつける。
「私、カイル・グラントは、フィアナ・サランディアに結婚を申し込む」
そして、顔を上げると、笑って付け加えた。
「俺のお嫁さんになってくれるか? フィアナ」
「っはい!」
飛びついてくるフィアナを抱き止め、頬を寄せる。
「これで、自分の意志で決めた婚約者同士、だな」
「はい!」
一も二もなく頷くフィアナに、例えようもない幸せを感じた。