5・転生者の記憶に関する考察
転生者だって努力する。
もしも彼女、この世界の『主人公』であるゴルディリア・エンハートが前世の記憶を持つ転生者であるのなら。この世界の行く先を知っていてそれに沿うべく行動しているのだろうか。
サーフェイも考えてみたがどうもそうは思い難い。一つには、ゴルディリアの行動だ。もしも彼女がサーフェイの知る、恋愛シミュレーションゲームを知っていたらあそこまでやる気のない授業態度にはならないと思う。如何に主人公補正とはいっても、やり方次第では結構バッドエンドもあるゲームだったのだ。バッドエンド、というか概ねデッドエンドでかなり死亡率が高い。
中でもとりわけ後味悪いのがサーフェイの関わるアダティスルートのバッドエンド。それは、ゴルディリアが頑張っても魔力のコントロールが上達せず、業を煮やした教師のサーフェイが彼の父親が開発した魔法陣を持ち出す。それは、対象者の持つ魔力を他者が制御できるようになる術だが実はこの術、その時点で未完成だ。それによって主人公は廃人になってしまう、というバッドエンドだ。
実はこれは、既に実際に起こったことでもある。父のカイヤが開発した魔法陣で、彼が対象として選んだのは自分の妻でサーフェイの母だった。元々彼女も持って生まれた魔力の大きさの割に制御が甘く、それを解消しようと編み出されたのだ。しかし結果的に母は魔法陣に精神を囚われて昏睡状態、そのショックで父も殆ど寝たきりで伯父の世話になっている。正確には父はその母を一度掛けた術から解放しようとしていろいろ手を尽くしたのだが実らず、己の為したこと自体に強く衝撃を受けたのだが。
ちなみにトパジェのバッドエンドだと、主人公は彼の叔父が秘密裏に営んでいた奴隷商人に拐かされ、競りに掛けられるというものだった。娼館に売られて薬漬け、が暗示されていた。
ソルだと彼にフられ、傷心で田舎に帰ると沸いてきた魔物に食らいつくされる。パルミナの場合は神殿で異端者の烙印を押され、学園からも追い出されて路頭に迷う、というものだ。アンドレアス侯爵ルートは領地の不作に切羽詰まった彼の手によって生け贄として殺される。
そう言えばエイメッドのバッドエンドは知らない、というか前世の母も見ていないと思う。見ていたら語らずにいられない人だった。もっとも彼は真面目な朴念仁で、女性にもてる割に色事に疎いという面倒なキャラクターなのでそもそも彼のルートに入ること、その好感度を上げて親しくなることがとても難しい。それもあってかつての母はエイメッドの攻略を一番後回しにしていたらしい。実際攻略はしたはずだが(「よっしゃ全クリアー!」という歓喜の悲鳴を聞いた覚えもある)詳しい内容は覚えていない。
そうした諸々をつき合わせて考えるに、ゴルディリアが前世の記憶を持っていれば取らない行動だと思う。判っていれば攻略対象との好感度を上げるより己の能力を上げる方を優先するだろうと思うのだ。
そうすると単なる怠け根性かと思うが、それならいっそ王子の勧誘を断って故郷で静かに暮らす道だってあったはずだ。それにゴルディリアのやる気がないのは基本的に座学だけで、実習は好きらしい。ただしそれもやはり制御が甘いために上達は遅い。座学である程度理論を身につけなくてはこれ以上の能力は望めない。自覚はともかく、彼女自身は決して理屈を必要としないような天才ではないのだ。
攻略対象に対してはとても前向きだが、そんな状態なのでパルミナやソルはあからさまに煙たがっているしアダティスも今となっては扱いに困っているというのが実際のところだろう。エイメッドやトパジェはそれに倣っているが、トパジェはいつもの笑顔の裏でやはり彼女を持て余している気配がある。エイメッドは本当によく判らない。キャラクターとしても真面目で冷静な割に時折ぶっ飛んだことをしてのける破天荒なところもあったが、その振り幅が大きくて把握しきれない。
ただ、真面目な分他人に対してもある程度の真面目さを求める彼は今一つ真剣味の足りないゴルディリアに対して好意を持っているようには思えない。端で見ている限りは慇懃無礼の見本のようだ。筋の通らないことが嫌いで正直な男だから、身分にはこだわらない。現に平民でも剣の腕を上げてきているソルは気にかけているし他の生徒達相手でもそれは変わらない(ただし女性には基本的に関わらないようにしているらしい)。
しかしその辺りについては、直接彼女に関わり合う気のないサーフェイがどうこう言えることではないだろう。よしんばゴルディリアが本当に転生者でこの世界をゲーム感覚で考えているのだとしても、だからと言ってサーフェイの方から咎め立てる筋合いでもない。ゲームの中では彼女の魔力が国を守るために必要不可欠、と称されていたが実際にはそんなことはない。
サーフェイの編み出した個別認識して魔力通信を行う術が功を奏し、大規模な魔物の襲撃にも連携して事に当たることで被害を最小限に抑えることも出来た。アンドレアス侯爵やパルミナの、故郷の作物がもっと収穫できるようになれば飢饉の規模も小さくできるかもしれない。そして少なくとも今現在のこの国は、ゲームで描かれた世界よりも少しだけ余裕がある。その辺りが既にちょっと違っているのだが、ゴルディリアはそのことに気づいているのかどうか。
サーフェイとしても、自分の生きるこの世界が少しでも豊かで暮らしやすいに越したことはないのだ。食べ物だってそうだが、便利にするための努力は彼なりにしている。
「珍しいな、サーフェイ。おまえの方から私を呼び出すとは」
「お忙しいところすみません、伯父上」
王宮魔道師長の伯父は、当然とても多忙だ。判っていて声を掛けたのでもちろん多少は待つつもりだったのだが伯父も時間が空いていたのか、結構すぐ学園を訪ねてきた。
「それで、用件は何だね?」
しかしもちろん暇なわけではないのだろう。用件をさっさと済ませたい、と言う態度はこの際当然だと思う。
判っているからサーフェイは用意していた魔法陣を伯父に見せた。
「今回、これを編んだんですが。伯父上の評価がいただければと」
「ふむ?」
今回サーフェイが編み出した魔法陣の基本は、父の編んだ他者の力を使うためのものだ。ただし今回のこれは、自身の力を使わないときに集めて溜めておくというもので、簡単に言えば魔力の充電池である。
「人間は、魔力に幅があります。けれどこうして、普段使わない魔力を溜めておいて必要なときにそれを使えればどうでしょう。持って生まれた魔力が少なくともこれなら対抗できる」
「なるほど。……確かにそれはおもしろい目の付けどころだな。……髪に魔力を溜めるように?」
「あれもまあ、参考にはしましたが。これで例えば魔力宝珠とかに溜めておけばいざというときにも使えるかと」
「うむ、なるほどなるほど」
サーフェイの編んだ魔法陣を解析しながら伯父は楽しそうに頷く。タイプは違うしむしろ対人能力が優れているせいで彼の魔道師としての能力が大したことがないように誤解している者もいるが、実のところさすがに四十代の若さで王宮魔道師長に抜擢されただけあって、術を編むのも人が編んだ術を解析するのも大変好きな男だ。サーフェイも子どもの頃父が教えてくれなかったことまで彼に習った。魔道に関しても人後に落ちない、優秀な魔道師であるのだ。
「確かにこれは使えそうだな。魔道師と言えど、四六時中魔力を放出しているわけではない。普段使わない、使えないでいる無駄な魔力をこうして溜めておけばいざというときには役に立つ」
魔力宝珠は、魔力を蓄積できるよう加工した鉱石だが今までは人がいないところで明かりを点けておくとか人がいなくとも魔物の接近を関知するような機器に使われる、要は魔道機器を無人化して使えるようにするための動力源だ。いったん使い切ったものに再度魔力を込め直すことも出来なくはないが効率は落ちる。
しかし今回サーフェイはそれも改良し、魔力を効率よくかつ簡単に込められるような術も開発した。これが実用に出来れば、持って生まれた魔力の大きさよりもこうして魔力を溜めた外付けの動力をどれだけ保持しているか、が鍵になってくるかもしれない。また、いったん魔力宝珠に込めた魔力は本来の持ち主でなかろうと使える(最初に設定しておけば込めた人間にしか使えないようにも出来る)。
本来の魔力量が小さくともこれを使えば大きな魔力を必要とする術も使えるようになる、またそれにはそれ用の研鑽も要するが。多くの者が使いこなせるようになれば、魔道師を統括する伯父としても使いどころはいろいろ広がっていくだろう。
「これは利用範囲の広い術だな、サーフェイ。おまえは本当に立派な魔道師になってくれた」
「お褒めの言葉ありがとうございます、伯父上。お役に立てば幸いです」
サーフェイとしても、故国が力を付けて下手な危機に陥ったりしないことが望ましい。仮初めにとは言え、彼自身も魔道師として国の資格を得ている以上僅かながら領地のものとは別に禄も得ている。そうでなくとも貴族は国や領民に養われているのだ、それを損なうような事態は極力避けねばならない。
「……っいしょ、っと」
積み上げた本を崩さないように抱え直してサーフェイは慎重に歩を進める。図書館から出たところでさすがにちょっと多かったかと後悔を覚えたが、一度戻るのも面倒でゆっくりと気をつけて歩くことにする。
普通の荷物なら術で軽くすることも出来るのだが、魔道書の中にはそれ自体が魔力を帯びているものもあるので術が掛けられない。或いは掛けても効かなかったりする。なので、重い思いをしながら自力で運ぶしかないわけだ。
学内で図書館と教師の部屋とはそう離れていないのだが、しかし嵩張り重い荷物を運ぶのはちょっと辛い距離でもある。休み休みで行くしかないな、と自分に言い聞かせて地道に進む。
「……聞いていただけませんの!?」
不意に抑えかねたような声が耳に入ってサーフェイは足を止めた。この辺りは滅多に人が使わない。なので、本を運ぶのに邪魔なこともあって彼は珍しくフードをかぶっていないくらいだ。
周囲を見回すと、声の主は建物の壁際にいた。正確には、その相手なのだろう。長身の美貌だけが、植え込みの上から覗いている。
華やかな金の髪、白い精緻な容姿。距離があるがあの翠の瞳は常のまま冷静に相手を見ているに違いない。
「それは、私が関与することではない」
自分より背の低い相手に対しているのだろう、僅かに視線を下げて応じているのはエイメッドだった。少し距離はあるが声が聞こえる程度だ、彼からもサーフェイは視界に入っているに違いない。ただしこちらを巻き込むのは勘弁してほしいと思うのは、どうやら彼がどこぞの貴族令嬢と向かい合っている風だからだ。
相手はさすがに一人ではないのだろう。普通貴族のお嬢様は、単独行動を取らないしそうしないよう指導されてもいる。さすがに学園内では侍女をつけることも出来ないので(こちらも禁止事項)同じ年頃の少女達が固まって行動するのだがそこに親同士の繋がりや権力抗争が反映されるのがさすが貴族、と言うべきか。
「酷いですわ、エイメッド様!」
「そうですわ、メアリスタ様のお言葉を聞いていただいてもよろしいのではなくて!」
甲高い女性の声で相手も察せられる、メアリスタは確かスファレ伯爵令嬢だ。この国の政に関わる政治家でもあり、文に知られている反面武には影響力が弱い。それもあって、武の一角を担うエイメッドに売り込みを掛けたらしい。言ってみればトパジェの実家に対抗したいのかもしれない。或いは、単純な話として彼女個人がこの美貌の侯爵令息に恋愛感情を抱いている可能性も十分ある。
「どうかお話を聞いていただけませんか、エイメッド様」
しかしそうした御家事情はともかく色恋沙汰には疎い朴念仁であるのがこの男だ。
「お断りする。私の立場では、貴女方の話を聞くこと自体が望ましくない」
木で鼻をくくったような素っ気なさに女性達がたじろぐ隙に、エイメッドは小さく会釈して彼女達の前から身を返した。ぽかん、と眺めていたサーフェイの方へ、真っ直ぐに歩み寄ってくる。
「フェイ、半分持とう。どこまで運ぶのだ」
「え……え、あ、いや……あの、エイメッド様、どうかお気になさらず」
完全に不意をつかれたサーフェイは慌てて断ろうとするがそれが通じる男でもない。あわあわしている彼の手から、積み上げられた書籍を半分以上かっさらってしまう。
「ちょ、ちょっとちょっと、待ってください……!」
大股に歩き出す彼に追い縋りつつ肩越しに背後を伺えば令嬢達は卒倒しそうな顔をしていた。それもおっかなくて慌てて彼を追う。
「え、えぇとそちら、魔道師の棟です。……部屋、案内しますから……」
騎士であるエイメッドは基本的に教師である魔道師達が使う棟、つまりサーフェイが使っている棟には縁がない。場所と用途くらいは護衛として弁えていても、それ以上詳しいことは知らないと思われた。
魔道師達が使う幾つかの棟のうち、サーフェイが使っている棟は一番狭い。ただし、この棟を使っているのは彼一人で彼の他は学園長くらいしか鍵さえ持っていないし、たまに(先日の伯父のような)客がある時以外は誰も足を踏み入れることさえない。要はサーフェイの個人的な場所と言ってもいい。
その棟は一番奥に寝室がある他は、積み上げられた古書や古い文献、様々な資料やその他魔道に関する雑多な物がひしめき合ってあふれ返らんばかりだ。魔力宝珠やその他の魔道具、魔法陣の参考になりそうな諸々。魔道をかじっている者なら目の色を変えるような貴重品も少なくないが、同じくらいガラクタも多い。
一番手前の部屋、テーブルの僅かな隙間に本を積み上げたところでようやくエイメッドはサーフェイを振り返った。
「……済まなかった、フェイ」
「いや、別に……運んでいただいたんですし、礼を言うのはこちらですが」
「その、前だ」
「……」
正直なところ、この男が自分をメアリスタ伯爵令嬢から逃げ出す口実にしたことを気にしているとは思わなかった。実際はともかくアダティスやトパジェ、パルミナを含めて彼等はソルの友人であるフェイを平民と思っているはずだ。高位貴族である(パルミナ除く)少年達がフェイを気遣う理由はない。
その辺りは彼の性格的なものだろう。平民でも見所のある剣士は目を掛けているようだし地位を嵩に着るような貴族は相手にしない。特に先程のような、上から目線の勘違いした令嬢にはとても素っ気なくむしろ礼節を弁えた平民の少女に対しての方が丁重なくらいだ。もっともそのどちらにも気を持たせるような真似はしないのだが。
そこいらに慎重さを要するのは、彼らしい処世術なのだろう。或いは要せざるを得なかった経験があるか。どちらといえば後者のような気がした、何かしら女性関係で苦労した経験があるのでは、と思わずにいられない。また、見ている限りエイメッドは生真面目で女性達に集られるのを厭う。策を弄することも嫌いな真っ直ぐな性格、にも関わらず見え見えのわざと臭さで令嬢を拒絶する辺りやはり彼女達に甘い顔を見せないよう気を配っていると考えるべきだ。
「……フェイは、サーフェイ導師の門下なのか」
「え、えー……まあ、そういうところですかね。私的な手伝いとかそういうことも含めて」
公式なサーフェイの身分は魔道学園の特別講師だ。ただし他の教師陣がいずれも大勢の助手や弟子達を侍らせ、日毎夜毎騒ぎ立てているのに対し殆ど人を使わないことで知られている。
それはどうやらエイメッドも知っていたのだろう、不審そうな彼の視線に肩を竦めてサーフェイは部屋の片隅に歩み寄った。
「もしお時間おありでしたら、お茶くらいいかがですか。……まだ、ご令嬢方いらっしゃるかもしれませんし」
滅多に客など来ないが、それこそ先日の伯父のようなこともある。人を使わないサーフェイはお茶を淹れるのも手慣れたものだ、ただし正義作法はいささか怪しいし高位の貴族としてはそんな振る舞いは本来許されない。
が、平民の『フェイ』であれば貴族のエイメッドにもてなしとしてお茶を淹れるのは別段おかしなことではない。問題があるとすれば、侯爵令息に供するには安っぽい茶であることくらいか。
もっともそのお茶も、サーフェイ自ら調合した薬草茶だ。気持ちを落ち着け、緊張を解す効果のあるただし味は微妙なもの。貴族としてより武人として育てられたらしいエイメッドは食べ物飲み物の味についてどうこう言わない。それを知っているから気楽、ということもある。
「……いただこう」
おとなしく頷く彼に、お湯を沸かしてお茶を淹れてやる。独特の香りは、一般の貴族が嗜むものや庶民が好むものとも違っている。エイメッドが甘いものを好まないことはサーフェイも知っている、なのでお茶受けには甘くないラスクを出した。発酵食品があまり見られないこの世界で、ようやく酵母を使うパンが出回りだしたところ(無論これにもサーフェイが関わった)、今はチーズにも手を広げようとしていてこの味付けにも使ってみている。
「どうでしょう、これ……ちょっと癖があるんでお気に召すかどうか判らないんですが」
薄く切ったパンをカリカリになるまで焼いて粉にしたチーズをかけている。いわゆるフレッシュチーズは酪農をする村の一部では僅かに作られていたので、それを元にいろいろ試行錯誤している最中だ。乾燥させた堅めのものをおろした粉チーズの類は、こうした味付けにも使えそうだとソルやその家族と試したりもしている。ポップコーンにはすごく合うと評判が良くてパルミナにもかなり好評だった。
「柔らかいパンをまた堅く焼くのがよく判らない」
もっともエイメッドはこの調子なので、扱いにくいというか今一つ掴めない男であることは間違いない。
「味はどうです? 不味くはないと思うんですが」
「ああ、それは……確かに美味いな。これは、乳なのか?」
「はい。チーズ……乾酪ですね。ヴェルディア領でも酪農は盛んでしょう、多分そちらでも作っていると思いますよ」
問いに応じるとちょっとエイメッドは考え込んだ。言いたいことがあるらしいと察してサーフェイは彼の言葉を待つ。
「……フェイは、アンドレアス侯爵領で作り出したという新しい麦の話は聞いているのか?」
「ええ。湿地に育つものですね。そろそろ最初の収穫を届けると聞いていますが」
どうやら水や土が合っているらしく、豊作だとアンドレアス侯爵がとても嬉しそうに教えてくれた。どうやら収穫が思っていた以上に多く、領民もその気になっているということで計画の成功を見込んで上機嫌だった。とりあえず今年の収穫がそろそろ届くから、そうしたら学園内の食堂で試食会を催そうという話になっている。
「それ、は……うちの領地でも育つだろうか」
「さあ……今からだと冬になるので、試すとしたら来年になりますよ。種籾は回せると思うのですが」
「いいのか!?」
思いがけない申し出に応じれば、エイメッドの方こそ驚いたらしい。らしくもなく声を上げてそれを詫びてくる。
「すまない、大きな声を出すつもりではなかった」
「いえ、それは構いませんが。……ヴェルディア領はアンドレアス領ほど湿地だらけではないでしょう、作付けがどのくらい出来るかにもよりますけど」
「そう、だな……新しい作物を作れ、といっても農民達もそう簡単には同意しないだろうし」
その点、アンドレアス領は元々麦の生育に不向きで他に何かいい作物はないかと農民も領主も悩んでいたのだ。むしろ米の生産は、願ってもない話だったらしい。
翻ってヴェルディア領、エイメッドの故郷はさほど湿地帯というわけではない、むしろ山がちで岩場が多く、あまり畑が作れない。それ故収穫量も上がらないのでは、米を導入してもそれはあまり変わるまい。
「むしろ、酪農に力を入れてみるとか」
「しかし乳は十分な量が取れているんだ。むしろ量が多すぎて値崩れを起こすこともある。一部は状態保持の魔法を掛けておくが、あれは明らかに味が落ちるからな」
「ならばこそ、チーズはどうです」
サーフェイの提案にエイメッドは目を瞬いた。そこへ畳みかける。
「この、チーズというのは土地柄や牛の種類によっても味が微妙に違うんです。乳量が十分あるのなら、試験的に作ってみるだけでもどうでしょう。状態保持の魔法を掛けずとも、乳の状態よりずっと持つし料理や菓子にも使えます。塊になる分持ち歩きも便利だし地域によって味が違うなら余所と競合もしにくくなる」
逆に言えば消費者にとっては選択の幅が広がることになる。そもそも状態保持の魔法は初歩魔法とはいえ、農村の全てにあまねく広まっているものではない。魔法がなくとも収穫を無駄にしないですむならそれに越したことはないはずだ。
農村の収穫はここ最近ようやく余剰が出る程度で、四・五十年前までは飢饉も珍しくなかった。状態保持を考える余裕もなく、ただ有るもので口を糊することが精一杯。それを改良されたのは土地の改良技術や農機具の開発、そうした器具類を村ごとで共同購入、協力して生産を行うような体制を取るところが出てきたためだ。この共同農業の手法が当たり、農業生産量が増えたことでかなり生活レベルが向上している。
それが言ってみればゲーム世界との違いになっている。そこまでサーフェイは関知していないから、或いは自分の前に記憶持ちがこの世界には現れてその人なりの努力をしたのかもしれない。
しかしバターがあるのにチーズがないと言うのはどういう状況だ。とにかく全般に於いて食物の保存性が考慮されていない。発酵食品がなかったこともそうだがベーコンやソーセージと言った薫製もなかった。辛うじて肉は塩漬けという保存方法がある。野菜や魚介は乾燥させるのがせいぜいだ。
それが耐え難くていろいろやっているが、対外的には「実家の書庫にあった古文書」を元にしていることになっている。サーフェイの立場としては、おかしな話ではない。何しろ彼の父も母も根っからの魔道師でついでにどちらも相当な蔵書家だった。母は結婚の時に自分の実家から一山の古書を持ち込んだというし、実家の書庫にはすっかりぼろぼろになって読めない本もずいぶん大量にあって、その辺は結構ごまかしが利く。調子に乗って蒸留酒を試そうとしたらさすがに伯父から「もう少し年を取ってからにしなさい」と突っ込みが入った。一応飲酒が許される年齢には達しているのだが、まだ酒の味さえ良く判らないうちからそういうことをするな、ということらしい。