生き方
「嘘つき…」
記憶は色褪せているが、それが彼女の最後の言葉で、彼女のその目は、微笑んでいたことは確かだった。
はっきりとは覚えていないが、俺は、どこかの情報機関に属していて、汚れ仕事をこなしていた。
ビルが反射させるギラギラと照りつける太陽に淀んだ排気ガスまみれの空気。全く嫌な時代だった。あの時代、どこへ行ってもそんな所ばっかりだったのだから。
そんな時代の小さなビルの一階にある小さな喫茶店を営む若い二十代の女性と、言っても少年だった俺よりは年上の人が今回のターゲットだった。何を口実にされたかは分からないが、ほとんどのターゲットが無実な人達だったのは、当時、薄々と気が付いていた。そんな理不尽なことが沢山あったのも俺があの時代を嫌う理由の一つだ。が、俺は、この汚れた世界を生きるためにその人達を「自殺」させねばならなかった。証拠を消せば警察は、「自殺」として事件を扱ってくれるので任務自体は楽だった。
そもそも、こんな汚れた世界に生きていることが意味のあることなのだろうか?「自殺」させられるべきなのは本当は俺なのではないか?
けど俺は、死ぬのは御免だ。泥水を啜ってでも生き抜いてやる。
俺は、迷いを振り切りながらターゲットの営む喫茶店のドアを開け、コートの内ポケットに潜めた拳銃を強く握った。
「いらっしゃい。」
ターゲットの女性は、カウンター越しから俺に微笑んでみせた。
「コート掛けるから脱いでちょうだい。」
彼女は、カウンターを出て、俺のコートに手を掛ける。
俺は、急いで拳銃を握りしめている手を離した。その時俺は、少なからず焦っていたことだろう。なんせ、銃を奪われるという殺し屋らしからぬ重大なミスを犯してしまったのだから。
「さぁ、座って、座って。」
彼女は、焦りを隠すのに必死になっている俺の背中を押してカウンター席へと案内した。
確か、彼女が俺に出してくれたのはアイスレモンティーだったような気がする。今でもそれを飲む度に懐かしい感じがするものだ。
俺は、黙ってグラスに緊張で、乾ききり少し震える唇を付け、傾けた。それを彼女は、カウンターに腕を組み、微笑みながら眺めていたのも覚えている。彼女のその優しげな笑顔だけは、脳裏にしっかりと焼き付き、忘れられない。
「私、水無月 栞奈。あなたは?」
「敷島 碧。」
俺は、偽名を名乗ると、またレモンティーを口に運び始めた。
「そう、碧君ね。それにしても、変わってるわね。真夏にコートなんて。」
「あ、ああ…寒がりなんだ。」
「そうなの…大変ね。」
「あ、ああ…」
しばらく俺は、彼女の視線とその組んでいる腕の上に乗っかっている大きめな胸の間にある谷間がTシャツの襟口から覗かせているのが気になってしょうがなかった。
くそっ…こんな時に…どうにかして気を紛らわせなければ…
「な、なぁ、何か読み物はないか?」
「読み物?そうね…何かあったかしら…あ、あったわ。」
彼女は、手をポンと打つと、カウンターの下にしゃがみ込み、一冊の小説本を取り出すと、俺に差し出した。
俺は、その本を手に取り、手の上でページを捲り始めた。
「よかったら貸してあげるわよ。その作家さん、無名なんだけど私とっても好きなの。あなたにも気に入ってもらえると嬉しいわ。」
しばらく俺は、その小説の内容に入り浸った。内容は、はっきりとは覚えていないが、確か、生き方に迷う少年の物語だったような気がする。どうすれば幸せに生きられるのか?そもそも幸せとは一体なんなのだろうか?本当にこれでいいのか?
いや、このままではいけない。
気が付くと外は夕方で、店の隅にある小さな小窓から夕日が差し、窓の隣にある古ぼけたテーブルを赤く照らしている。
もう任務なんてどうでもよくなっていた。俺は、有意義に生きることを胸の内に決意していた。
「ごちそうさま。レモンティー美味しかった。」
俺は、しっかりと床に足を付けるとゆっくりと立ち上がった。
「その目、どうやら迷いは、晴れたみたいね。」
「!?」
「あなたの目を見た時から分かっていたわ。あなたが私を殺すべきか否かを迷っていたことを。」
そう言うと、彼女はカウンターの端に掛けてある俺のコートの内ポケットから拳銃を取り出し、俺にしっかりと握らせた。その拳銃は、いつもより重く感じられ、手の中にずっしりと沈み込んだ。
「私を殺しなさい。」
「嫌だ!俺は有意義に生きるって決めたんだ!!」
「初めて私の前で感情を表した。けど、そんな顔しないで。」
彼女は、あの笑顔を俺に見せる。
「いい?ここで私を殺さないとあなたは、同じ過ちを犯す。私を殺して、最後の任務を終わらせるの。そうすればあなたは開放される。」
彼女は、銃を握りしめ、冷や汗で冷え切った手をそっと包み込み、銃口を、彼女の心臓の辺りへ持っていった。
「トリガーは、あなたが引きなさい。」
彼女の柔らかく、暖かい手の中で、銃を握りしめる俺の手は、大きく震えていた。
そして、俺は、泣きながら彼女に向けて何かを言おうと唇を動かした。
その時、何を言ったのかは、覚えていない。が、そのあと彼女が微笑み、両目から涙を流し、「嘘つき…」と言ったのははっきりと覚えている。
そして次の瞬間、銃声が鳴り響き、彼女は、死んだ。
しばらく俺は、呆然と立ち竦んでいたが、やがて涙を腕で拭うと、証拠の処理に取り掛かった。
処理が終わり、コートを着て拳銃を内ポケットへとしまい、帰ろうとした時、ふと、カウンターの上に取り残されていた小説本が目に留まった。
「…」
俺は、小説を手に取り、拳銃とは、反対側の内ポケットにしまい、店を出た。
「この汚れた世界で有意義な生き方をしよう。そして、彼女の分まで幸せに生きて見せる。」
それから俺は、情報機関を辞めると、作家になり、今に至っている。
現在、まだ無名で、幸せと言えるかどうかと言われると、疑問だが、いずれはそうなるつもりでいる。
彼女が手渡してくれた本は、風化し、読めなくなってしまったが、大切にしまってある。存在自体が大きいのだ。
人生の方向を大きく変えてくれた本。俺は、そんな本を書きたい。
—終—