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六月のメモリーズ

作者: 鷹沢裕希

 今日から制服も新品の夏服に衣更えだというのに、俺の心は朝から湿った雪空のようにどよーんと沈んでいた。理由は、今読んでいる小説のせいだ。

「……吹きすさぶ木枯らしにもまれ、身体が次第に硬く冷たくなっていくのを感じながら、レイナは最後の力を振り絞って微笑んだ。

『さようならステファン、愛してくれてありがとう。』」

 読み終わって、俺は溜め息と共にちらっと目の前にいる母親を見た。出来上がったばかりの作品を誉めてもらえるかと、期待に胸を膨らましつつも、半ば不安げに胸の前で手を組む少女のようにあどけない睡眠不足の顔が、そこにある。(どうやら徹夜だったらしい。)

 俺は一瞬、何と言おうかと考えた。一生懸命やっているのをけなすのは、可哀相な気もする。が、期待を持たせるよりも、この際はっきり言ってやった方が本人の為だと、心を鬼にする事に決めて原稿をテーブルの上にバサッと投げ出した。

「だーめだこりゃ、超ダッセー。それもクッサクサのダッサダサ。今時中坊だってこんなセリフにゃ酔わねーぜ。モロ文学少女崩れってカンジィ。第一、何だよこのエンディング。恋に破れた妖精が石になっていくんだろ? 端的に言うなら、両天秤に掛けられた女が男に捨てられたって事じゃねーか。だったら尚更自分を裏切った男に、『愛してくれてありがとう』なんて言えるか? いくらレイナが世間知らずでお人好しの妖精だといったって、そんな事、口が裂けたって言わねーぜ。よーく考えてみろよ」

 恋をして裏切られ、消えて行くしかない女が、恨み言一つ言わずにむしろ感謝するなんて有り得ないって事、中坊の俺でさえそのくらいの心の動きは、教えてもらわなくてもわかる。本気でそんな事言えると思っているなら、いくらなんでも甘ちゃんに過ぎるぜ。いったい、いくつになったんだ、と言いたくなる。

「翔、ひどい、これ大人のメルヘンなのにぃ。だって、報われなくても、恋する喜びを知る事はできたのよ? だったらありがとうって言ってもいいじゃない」

 案の定おふくろは心外だと言う顔で反論する。だが俺は、厳しい批評で知られる某評論家のように、歯に衣を着せずに言ってやった。

「なーにが『大人のメルヘン』に『恋する喜び』だ。言っとくけど、フラれてさっぱりと諦めがつくのは、せいぜい小学生までだぜ? 大人だったら余計にこんな奇麗事で済むかよ。もっとドロドロして恨みたらたら、救いようがなくなっちまうんだろーが。違うか?」

 念を押されて、おふくろは言葉に詰まった。刑事ドラマで落しの名人が犯人を落とす時をマネして、俺はおふくろを優しく諭す。

「傾向はこの前のと似たり寄ったりだし、こんなんだったら読者にすぐ飽きられるぜ。もっと現実を見つめろよあかりサン、もとい、夢子センセ」

 優しいながらも毅然とした一言で、おふくろはたちまちしゅんとした。俺の説得力もたいしたもんだな、と、自分でも感心する。可哀相だが仕方が無い、これもあんたの為だよ。そう思って駄目押しの追加。

「ついでに一言。あんたやっぱり文才ないよ、いい加減諦めたら?」

 片目で照準を取ってバン!と指鉄砲で撃つマネをしながら、びしっと言ってやった。

「翔……!」

 まだ何か言いたそうなおふくろに行ってきますとだけ言い置いて、俺は部屋を出た。今頃はきっと親父の写真に向かって、聖ちゃん、わたしどうしたらいいの、なんて話し掛けているだろう。


 俺の母親・岡本あかりは、つい先だってロマンチック・ファンタジー新人賞を受賞して、三十歳にして作家としてスタートしたばかりの駆け出しだ。『メルヘンの美しき新星が贈る、疲れたあなたへの一服の清涼剤』などという、だいそれたキャッチ・コピーをつけられた挙げ句にペン・ネームが大木夢子(大きい夢)だなんて、それを聞いただけでいかにノー天気かがわかるってもんだ。

 言い遅れたが、俺は岡本翔。四年前に親父を亡くして現在おふくろと二人暮らしの、もうすぐ十四歳。都立桜ヶ丘中学の二年生だ。自分ではごくフツーの中学生だと思っている。今住んでいる桜ヶ丘団地五一四号室には、十五年前、出来てすぐ入ったらしい。

「おっそーい、翔、遅刻しちゃうよー」

 一階に着いたエレベーターが開くなり、外にいた藤谷美咲が騒いだ。こいつは俺の同級生、二階下の三〇三号室に両親と住んでいる、幼なじみの、けんか友達だ。(もっとも本人は俺の恋人のつもりでいるらしいが。)黙って立ってりゃグラビア級の顔とスタイルが、見返り美人ポーズで朝の光の中にきらきらと浮かび上がる。今年から新しく変わった夏服姿を真っ先に俺に見せたくて、ぎりぎりまで待っていたんだろう、プリーツの入ったグリーンのチェックのミニスカートと白のパフスリーブのブラウスが、色白の美咲に良く似合っている。

 機嫌のいい時ならお世辞の一つも言ってやるところだが、あいにく今朝の俺は虫の居所がすこぶる悪い。

「だったら先行きゃいーじゃねーか」

「あーっ、せっかく待ってたのに、何その言い草。かっわいくなーい」

「うるせ」

 ぷっと膨らんだ美咲を置いて、俺はさっさと歩き出した。トロトロしてたら本当に遅刻しちまう。

「どうかしたん?」

 美咲が追い付いて、俺の顔を覗き込む。

「何が」

「メッチャ沈んでるじゃん。お母さんとなんかあったんでしょ。ケンカ?」

 こいつ、顔は広末涼子と榎本加奈子を合わせたくらい可愛いのに、おせっかいなのと気が強いのが玉に疵だ。ちょっとでも俺に変わった事があるとすぐ感づいちまうし、黙っていれば話すまで纏わり付く。うるさくてしょーがねーから、俺はぶっきらぼうに言った。

「朝っぱらからヘッタクソな小説読まされて、消化不良起こしてんの」

 途端に美咲の眼がきらきら光る。

「夢子センセの新作? あたしも読みたーい。翔、おねがいっ、センセに頼んでっ」

「やめとけ、目が腐る」

「ひっどーい、翔。あたし好きだな、『夢の旅人』みたいな小説。愛があってさ。今度のもおんなじようなのでしょ?」

「ああ、ガキンチョ向けのプラトニック版ハーレクインてとこ。美咲向きかもな」

『夢の旅人』ってのは、おふくろが賞を取った小説の題名だ。内容は確か、主人公のミヤが愛する夫・カヤを漁で失い、失意の底に沈んでいた時に、妖精からもらった魔法の薬を使って、夫を取り戻す為に夢の国へと出掛けて行くってストーリーだ。夢の国へ行ったミヤは、希望の星や願いの星など、様々な星を巡り歩くが見つからず、とうとう禁を犯して神様の星まで行ってしまう。そこで神様に、カヤはおまえの中にいる、と言われる。

 夢から覚めたミヤが自分の身体を眺めると、お腹の中にかすかな灯かりがともっていた。それでミヤは、カヤが子供になって自分の許に帰ってきた事を知る、といった、オルフェウスと青い鳥を合わせたようなものだった。

「翔、反対なん? お母さんが小説家になるの」

 こいつはすぐに人の心の中を読んで、痛い所を突いてくる。正直に答えるしかねーな。

「あんな本、売れたって一,二冊だ、同じ傾向じゃすぐ飽きられちまう。それに気づかないんだからダメだっつーの。いいかげん『夢見る夢子さん』は卒業して欲しいよな。そんな事より再婚相手でも探した方がよっぽど建設的だ」

「翔、お母さんが再婚しても平気なん?」

「トーゼン! おふくろの保護者卒業できて、せいせいするぜ」

 これは俺の本音だ。親父が死んでからというもの、世間知らずで乙女チックなおふくろを守る為に、俺がどれだけ苦労した事か。ま、こいつに言っても仕方ないけどな。

「お父さん、心筋梗塞だっけ…?」

 こいつにしては珍しく遠慮がちに聞いてくる。いまさらそんな事聞かれたって、傷つきゃしねーよ。だけど、本当の事知ったらどんな反応示すかなと、ちょっぴりからかってみたくなった。

「腹上死、だってさ」

 美咲は小さくえっ、と言ったきり、赤くなって口を噤んだ。どうやら意味がわかったらしい。そんな言葉知ってる割にゃ純情だな。耳年増ってヤツか。しゃーねー、ちゃんと説明してやるか。

「親父の葬式でババアがわめいてたんだ、こんなに早く死ぬなんて、あかりさん、あんたのせいだって。あんたと結婚なんてしなけりゃ、聖二はもっと長生きできたんだ、あんたが無理させたから……」

 おふくろは何も言い返せずに黙って泣いていた。そんなおふくろを見ていたら、俺は急にババアと死んだ親父が腹立たしくなった。親父が死んで、俺達の方が悲しいんだぞ、それをなんだよ、親父は私だけの子供ですって顔しやがって。親父も親父だ、どうせ死ぬなら田舎へ帰った時にでも死にゃーよかったのに。そうすりゃおふくろがぎゃーぎゃー言われる事も無かったんだ。

 俺だってばあさんの気持ちがわからない事はない。可愛い息子に死なれたんだからな。だからって八つ当たりされるのは、こっちもたまんねーぜ。第一それを言うなら、そんな息子を産んだのはあんただろう、と俺は言いたい。俺だって親父の体質受け継いでる以上、何時何処でどうなるか、わかんないんだぜ。

「だから俺は結婚しない。俺みたいな不幸なガキ、これ以上増やしたくねーもんな」

「翔……」

 美咲は言葉を失って立ち止まった。変に期待させるのは可哀相だから、これでいいんだ。こいつとなら、多分一生友達でいられるだろう……。


 放課後、俺は担任の伊達先生に呼ばれた。

「あ、じゃ、あたし先に帰ってる」

「おう」

 美咲はいつもと同じ顔でそう言うと、鞄を提げて教室を出ていった。立ち直りが早いのは、あいつのいい所だ。めそめそされるより、よっぽどいい。

 俺も鞄を持って理科準備室へと向かう。伊達先生の担当教科は理科、身長百八十五センチ、体重七十五キロの、どちらかと言うなら体育会系のマッチョ・マンだ。日本人にしちゃ彫りの深い顔に爽やかな笑顔が似合う。色も浅黒いし、細いだけの俺と違っていかにも丈夫そうな身体をしているから、こーいうのを昔の言葉で美丈夫と言うんだろうな、と俺は思った。話と言うのは、多分あれだろう。

「失礼しまーす」

「おう、そこへ座れ」

 伊達先生はにこにこして机の横の椅子を勧め、俺と向かい合って座った。この部屋は職員室より緊張しないから、俺は好きだ。住人の人柄かもしれないけど。

 先生は封筒から一枚の書類を取り出すと、俺に渡してよこした。

「この間の心電図の検査結果、大丈夫だそうだ。よかったな、僕も安心した」

「ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる。進級後の健康診断で、二年生では俺だけ特別に心電図を採った。普通は一年の時だけだけど、俺の場合は親父が心臓病で死んでるから、学校の方でも気を遣ってるんだろうと思う。俺にしたって、多分大丈夫だと思ってはいても、やっぱり結果を聞くと安心する。

 この調子ならまだ一,二年は生きられるだろう、そう思ってほっとした途端、机の上にある本が目に止まった。

「あれ、この本……」

「ああ、早速読んだよ」

 伊達先生は照れながら本を手にした。なんと、おふくろの『夢の旅人』。

「スゴイなこれ。感動して涙が出てきた」

「へえー」

 体育会系男と乙女チックファンタジーという、あまりに意外な組み合わせに、俺は心底から感嘆の声を出した。

「伊達先生がこんなの読むなんて、意外だったな。もっとハードボイルド派だと思った」

 にやっと笑いながらからかうと、顔を赤くして照れた。

「結構好きなんだ、こーいうの。読み終わった後、心があったかくなるっていうか、人に優しくなれるような気がしてさ。入選時の書評でも、純粋で一途な作者の人柄が滲み出ているようだって、大変な誉めようじゃないか」

「どっちかというと、『若くて美貌の未亡人作家』って話題性だけで受けてると思うんですけどね」

 俺が本音を言うと、先生はやれやれ、という顔をした。

「おまえ、もっと素直に喜んでやれよ、せっかく夢がかなったんだろう?」

 いくらなんでもそれじゃ可哀相だと、デキの悪い息子を諭すように言う。けど、本当にわかってないのは先生の方だ。俺は苦笑した。

「夢だからこそ、早く醒めて欲しいんですよ。つぶれないうちに」

 先生は意味がわからないという顔をする。だから俺は、きっぱりと言ってやった。

「うちのおふくろ、作家としてバリバリやっていけるようなタイプじゃないし、そんな夢を見続けるよりは、良い人見つけて再婚した方が幸せになれると思うんですけどね、息子としては」

「そ…そーかあ?」

 先生は、まだ腑に落ちないって顔をしてる。

「でも惜しいなあ。せっかく才能あるのに」

「惜しいほどの才能じゃないって。第一これから先、これ以上のものが書けるかどうか。受賞作がピークだなんて、その方がミジメっしょ?」

 おふくろに才能が無いとは言わないけど、これから先、伸びるかどうかは未知数だ。俺がおふくろよりも長生きできるって保証があればそれでもいいけど、今の状態じゃそれさえ未知数だし。だったらあやふやな夢にすがるよりは、堅実に生活できる手段を見つけた方が、いいに決まってる。それには再婚させるのが一番だ、と俺は思う。(何より、俺に万一の事があっても安心していられるし。)

 伊達先生は、それでもまだ何か物足りないって顔をしている。

「醒めてるのなー岡本。俺だったら親が生き甲斐見出すの、嬉しいけどな」

「それでとばっちり食うの、こっちなんですよ。ここ二,三日、飯もろくなもん作ってくれないし」

 流行作家じゃあるまいし、締め切りに追われて飯の支度も出来ないような仕事なら、するなっつーの。作家である前に母親だろ? と、俺は言いたい。

「そうか。ところで、頼みがあるんだけど、いいかな」

「なにか?」

 俺に頼みって何だろうと思っていると、伊達先生はいきなりおふくろの本を目の前に差し出し、頭を下げた。顔を真っ赤にして。

「実は……これにサインもらって欲しいんだ、頼む!」

 なんとまあ、結構ミーハーなんだな、伊達センセ。思わず吹き出しそうになっちまったぜ、俺は。

「だったら家おいでよ。仕事、もう終わったはずだから」

「い…いいのか? それじゃ、そうさせてもらうかな。すぐ着替えるから、待っててくれ」

 誘いを掛けたら、すぐ乗ってきた。純粋にファンだって顔して、すごく嬉しそうだ。その顔を見ていたら、俺の頭にある事が閃いた。


「先生、今三十二歳だっけ、確か独身だったよね。結婚する気ある?」

 先生の車で家に向かいながら、俺は身上調査を始めた。

「……何だ、急に」

 運転しながら戸惑ったように、俺の顔を横目でちらっと見る。伊達広和、三十二歳。ルックス、頭、性格共に悪くない。いつものジャージ姿もいいけど、スーツに着替えると一段とパリッとしている。こうやって改めて見るとなかなかのナイス・ガイで、女生徒に人気があるのも頷ける。何より頑丈で、殺しても死なないような所が一番いい。

「いや、もし彼女がいないなら、家のおふくろ、もらってくんないかな、と思って」

 さりげなく言って反応を見る。さすがにどきっとしたみたいで、耳まで真っ赤くしておたおたしだした。マンガならさしずめ、胸のあたりにドキュンとハートマークが出るとこだろう。結構カワイイな。

「おっ…、大人をからかうな」

「本気だよ、俺。先生ならいいかなと思ってさ、おふくろ任せても」

 俺は先生の顔を見ないよう、正面を向いたまま、しみじみとした声で言った。その方が『真剣に母親を思う息子』の心情を演出できるだろう、という計算も、多少はあった。

「正直言うとさ、親父も十六くらいまでは何とも無かったらしいんだ。それが高校二年の時狭心症になって、挙げ句に心筋梗塞だろ? だから俺だってこの先どうなるか……。考えたかないけど、もしそうなった時に一人じゃ、おふくろ可哀相だろ? 今のうちにいい人見つけて、再婚して欲しいんだ。けど、おかしなのに掴まっても困るしさ、ならいっそのこと俺の気に入った相手の方がいいなって思って。おふくろ、十六で結婚して俺を生んだから世間知らずでさ、危なくてほっとけないんだ」

 これ、俺のホンネ。賞を取って雑誌で紹介されたりして、多少有名になったら余計に言い寄る男が多くなったから、早くしないとマジでヤバイかなって。そのせいで先月、パート先のスーパーも辞めちゃったんだし。(なんでも、店長にプロポーズされて、居辛くなったんだそうだ。プロポーズの言葉が「この店に永久就職しませんか」だったって言うから、結構笑える。)おふくろは大丈夫、何とかなるわよ、なんてノンキに構えているけど、俺にしてみりゃおふくろほどお気楽にはなれない。早いとこキチンとした保護者を見つけてやらなきゃって、この間から真剣に考えてたんだ。

「岡本、おまえって……」

 どうやら伊達センセ、本気で感動しちまったらしい。目にうっすらと涙を浮かべて、ぐすっと洟を啜った。こりゃ、おふくろといい勝負かもな。

「僕の事、お父さんて呼んでくれるか?」

 すっかりその気になっている。俺は返事の代わりに、落とせるよう頑張ってよ、と励まして、微笑んでやった。


 団地の入り口に車を止める。公道じゃないから、少しの時間なら路上駐車もO・Kだ。車から降りたら、ちょうどそこへ帰ってきた美咲と行き会った。

「あれー? 伊達センセ。なに……」

 言いかけて俺を見つけ、口を尖らかす。

「あー、いいなー、送ってもらったん? 翔ずるーい。あたしも待ってりゃよかったあ」

 ったく、いくつになってもガキだな、こいつ。

「おふくろのサイン欲しいんだってさ。で、急遽家に来る事になったんだ」

 そう言ってちらっと伊達センセを見ると、多少うろたえて赤くなった顔をごまかす為か、今日は結構暑いな、とか言いながら、上着を脱ぎ出した。まあ、まだどうなるかわかんないんだし、美咲が知るとうるさいから、黙っていた方が無難だ。

「あー、じゃあたしも。鞄置いて着替えてから行くね」

「おう」

 どうせダメだと言っても、押しかけてくるだろう、こいつは。


 玄関を開けると、見慣れない男物の靴があった。

「あれ、お客さんかな?」

 耳を澄ますと襖の奥から話し声が聞こえてくる。俺の家は玄関を入ってすぐがダイニングキッチンで、その奥に六畳の日本間と洋間がベランダ付きで並ぶ、という間取りだ。もちろん洋間は俺が使っているから、改まった客が来た時は、居間兼客間兼おふくろの寝室兼書斎の日本間に通すしかない。そこで俺は、伊達先生を玄関に待たしておいて、襖を開ける前に声を掛けようとした。誰が来てるかわからないから、それくらいは礼儀だろう。

「いいんじゃないですかこれで、この前のパターン踏襲しているし。戴いていきますよ」

 どうやら出版社の人らしい。話はほとんど終わったみたいだし、邪魔しない方がいいかと思って、中に入るのは止める。伊達先生には俺の部屋で待ってもらう事にしよう。

 そっと玄関まで戻ろうとした時、男の声がどうしました? と言った。俺は一瞬、ここにいるのがおふくろにばれたかと思い、なんとなく焦った。が、自分の家に帰って来たんだ、なにが悪い、と、開き直ってもう一度襖に手を伸ばした時、ためらいがちなおふくろの声が聞こえてきた。

「……実は、息子に言われたんです。同じパターンじゃすぐに飽きられると。それで考えてしまって……」

 なんだ、バレたんじゃないのか。少しほっとする。にしてもおふくろ、結構気にしてたんだな、今朝言った事。

「うん、確かにね、二作目はこれでいいとしても、三作目はもっと目新しいものでいきたいですな」

「目新しいもの、ですか」

 おふくろの声が沈んでくる。いいぞ、どうせ言うなら、書く気がなくなるくらいまで言ってやってくれ。

「そう、たとえば……今はやりの不倫をテーマにしたものとか。それもただの不倫でなく、ロマンチック不倫と言えるものを、どうですか? 夢子先生の新しいジャンルとして考えてみるのは」

「はあ?」

 おふくろが素っ頓狂な声を出した。恐らく、ハトが豆鉄砲食らったような顔してんだろう。そんなもん、純愛至上主義の、『夢見る夢子さん』に書けるわけないだろーが。ナニ考えてんだこいつ。

「はあ、あの……いえ、でもそういうのはちょっと……」

 案の定しどろもどろになって、返答に困ってる。当たり前だ、どうかしてるぜこいつ。編集者の癖に作家の資質見抜けないなんて、いったいどんなヤローなんだ。

 その上、事もあろうにそいつは、おふくろに挑戦的な事を言い出した。

「作家なんだから、別に経験がなくても書けるでしょう? 実体験以外は書けないとしたら、それは作家とはいえませんよ。第一先生のお書きになるファンタジーそのものが、実際には経験できない事柄じゃないですか」

「それは……そうですけれど」

 おふくろの声が小さくなる。あれ、いやに弱気だなおふくろ。まさかこのまま押し切られて、おかしなもの書くって約束させられるんじゃ、ないだろうな。

「まあ、でもいきなりは無理かも知れませんね、先生みたいな純粋な人には」

 そいつは急に口調を和らげた。なんか変だぞ、猫なで声なんか出したりして。

「どうですか、先生はやはり、自分で体験された事の方が書きやすいですか?」

「はあ、まあ、そうですね、どちらかというと多少は体験らしきものがあった方が、形にしやすいですが……」

「では、体験してみては如何ですか? 一種の人生勉強だと思って」

「え?」

 おふくろが怪訝そうな声を出す。相手の魂胆が見えて、俺はこめかみにピキッと来た。

「及ばずながらこの私が、お相手しますよ。一緒に新しい世界へ、飛び出しませんか?」

「ち、ちょっと待って下さい、何するんですか、やめて……嫌あっ!」

 頭にかっと血が上る。我慢もここまででリミット・ブレイクだ。俺は怒りを込めて襖をバシャンと乱暴に開けると、腕組みをして座卓を右足でダン!、と踏み付け、男を睨み据えてやった。遠山の金さんなら、さしずめ片袖捲り上げて、「おう!おう!おう! か弱い女に、何しやがんでい!」と言うところだろう。もっとも俺が実際に口にしたのは、後で考えると、それこそ美人局と間違えられても仕方がないような事だったが。

「そこまで! それ以上は別料金ね!」

「翔…!」

 座卓の向こう側に押し倒されそうになったおふくろが、助かった、という顔をする。

「な、何だ君は。どういうつもりだ」

 おふくろを襲った男は、ばつが悪いながらも虚勢を張って背広の襟を直し、俺の無礼を咎めた。歳は四十くらいか、銀縁眼鏡の、キザでにやけた、俺の一番嫌いなタイプだ。俺は腕組みしたままそいつの前に仁王立ちになり、静かに、だが声にドスをきかせて、「息子です」と言った。

「そっちこそどういうつもりだよ。商売モノに手を出さないのは、どの世界でも鉄則じゃなかったっけ? え? オジサン!」

 言いながら思いきり睨み付けると、そいつは「いや、私はただ次回作のヒントをと……本当に、ただそれだけですよ」などと言い訳しながら、おたおたしだした。それからすばやく原稿を取り上げると、では私はこれで、と、口の中でもごもご言いながら、俺と伊達先生が睨み付ける中をそそくさと逃げ出した。

 腹の虫が収まらない俺は、黙って受話器を手にする。

「翔……?」

 おふくろが、不思議なものでも見るような顔で俺を見つめるが、おれはかまわず、『ドリーム・ファンタジー』編集室へと電話した。

「もしもし、僕、大木夢子の息子ですが、編集長さんお願いできますか。……お忙しいところ、申し訳ありません、実はお願いがありまして。はい、母の担当者の方を、ぜひ女性の方に替えて戴きたいのですが。……理由ですか? 僕が話してもかまいませんが、直接本人にお聞きになってみて下さい。僕としては二度とあの男を家に上げるわけにはいきませんし、もしまた今日のような事があれば、今度こそ警察へ通報しますから、とだけ申し上げておきます。では、よろしくお願い致します」

 言うだけ言って電話を切ったが、腹立ちが収まるどころか、益々もってむかついてくる。何で俺がこんな事までしなきゃならんのだ。

「ありがと翔、恐かったぁ……」

 おふくろがべそをかきながら俺の首へ抱き付いてきた。俺はそんなおふくろにも、無性に腹が立った。乱暴に手を引き剥がしながら、はっきり言ってやる。

「ガキじゃあるまいし、もっと毅然としろよ。スキだらけだから付け込まれるんだろう?」

「翔……」

 おふくろが驚いたように目を見開いたまま呆然とする。恐かっただろう、もう大丈夫だよ、とでも言って、慰めるとでも思っていたのかよ。甘えるんじゃねえ!

「おふくろがそんなだから、俺が苦労するんじゃないか。俺だってもう、いい加減疲れたよ、あんたの保護者やるの」

 俺はこの時とばかりに言いたい事を言った。怒りと悔しさと情けなさで、止めようとしても止まらなかった。

「俺ができたのだって、ポヤッとしてるから親父に付け込まれて、ヤラレちまったんじゃないのか? そのせいで高校行けなくなったからって、今から夢をかなえるんだなんて、余りにも身勝手すぎるぜ。ちったあ息子の身にもなってみろよ!」

 おふくろに向かって、俺はマジでキレた。今まで押えに押さえていたものが、ついに爆発したってカンジだった。俺は自分で自分の感情をコントロールできなくなってた。おふくろはそんな俺を、信じられないと言う顔で見つめたかと思うと、首を振りながら、ふらふらっと夢遊病者のように後ずさりした。

「ひどい……そんなふうに思っていたの? わたしだって一生懸命やって……」

 途切れ途切れに言ったかと思うと、両目から涙がこぼれ落ちた。それからいきなり身を翻すと、ベランダに向かってダッシュした。あっと思う間もなく、手すりを乗り越えて身を躍らせようとする。瞬間、俺の心臓だけじゃなく全身が、凍り付いた――気がした。

「危ない!」

 伊達先生がものすごい速さで俺の横を擦り抜け、後ろからおふくろを羽交い締めにする。空中へ飛び立つように手を差し伸べた姿勢のおふくろが、抱き抱えられたままもんどりうってベランダへ転がるのを、俺の目はスローモーション・ビデオのように捕らえていた。間一髪だった。

「離して! もう嫌、わたし、聖ちゃんとこへいく! 聖ちゃん……!」

 髪を振り乱し、引き摺り下ろされてもまだ泣きながら嫌々をして手すりにしがみ付こうとするおふくろを見てほっとした途端、俺の全身の血が逆流した。俺はおふくろの傍に駆け付けるなり、平手でおふくろの頬を打った。パン! という勢いのいい音と二人の悲鳴を連れて、おふくろが伊達先生の腕の中にどっと倒れ込む。自分の身に何が起きたのか理解できないという顔をして。

 その顔を見ていたら、腹が立つのを通り越して、やりきれなくなってきた。

「あんたまで……俺を裏切るのかよ!」

 感情がわっと高まって、涙があふれてくる。泣きながらおふくろを睨み付けると、俺は部屋を飛び出した。

「……!待ちなさい岡本、岡本……!」

 伊達先生の制止を合図にしたように、おふくろがわあっと泣き出した。堰を切ったように続く泣き声を振り払うようにスニーカーをつっかけ、玄関を飛び出した途端、鼻歌交じりにやって来た美咲にぶつかりそうになった。が、構わずに廊下を走り出す。

「わっ、翔? なに……」

 美咲の叫び声にもおふくろの泣き声にも耳を貸さず、俺は階段を駆け降りた。解けた靴紐が邪魔して、何度も転びそうになる。あまり無茶をすれば心臓が発作を起こすかもしれない、と思いながら、一方ではそうなってもかまわない、と思うほど、ヤケになっていた。誰とも顔を合わせたくない、めちゃくちゃ独りになりたかった。

 桜並木の土手を乗り越え、河原に向かって走り続ける。はるか後ろで美咲が、翔、待って、と言いながら追いかけてくる声が聞こえたが、心の中でほっといてくれと叫んで、俺は走り続けた。


 小さい頃よく遊んだ原っぱあたりで限界だった。靴紐を踏んだ拍子に、俺は草むらの上によろよろと倒れ込んで、四つん這いになったまま立ち上がる事さえできなかった。はあはあと肩で息をするが、心臓が飛び出しそうなほどばくんばくんいっている。おまけに喉ががさがさして、咳まで出てきた。このまま意識を失ったら死ぬかもしれない、そう思って苦し紛れに草を掴んだら、掌に、おふくろを叩いた時の感触が苦い思いとなって甦ってきた。(どうしてあんな言い方しかできなかったんだろう。)俺は拳を握りしめ、何度も何度も地面に叩き付けた。汗と涙とよだれが、後悔と共にどっと押し寄せた。

「翔! どうしたん、苦しいの? しっかり……!」

 美咲が慌てて駆け寄って、俺を助け起こす。泣き顔を見られたくなくて、俺は下を向いて歯を食いしばった。が、鳴咽と涙が止めど無く流れ、俺の顔をぐちゃぐちゃにする。走った苦しさだけでなく、胸全体が、張り裂けそうに切なかった。

「翔……」

 美咲は俺の正面に膝を着くと、黙って自分の胸に俺の頭を抱きしめ、背中をさすった。いつもみたいにうるさく、何があったの、なんて聞かなかった。俺は美咲の胸に顔を埋めたまま、親に叱られた時のガキみたいに声を上げて、ずっとずっと泣き続けた。


 仰向けに寝転んで流れる雲を見ているうちに、だんだん空が夕焼けに染まってきた。さっきから頭の下で組んだ右の二の腕の内側が、隣に寄り添うように横坐りした美咲の腿に触れている。美咲も気づいているはずだが、別に嫌がる様子もなく、そのままでいる。膝枕にしたらキモチいいだろうなと思う柔らかさだった。

 時間の経過と共に、いつしか俺の心も穏やかになっていた。泣くだけ泣いたから吹っ切れたのか、それとも美咲から伝わってくる肌の温もりが気持ちを落ち着かせたのかは、俺にもわからなかった。が、さっきまでの嵐が嘘のように、俺は平静さを取り戻していた。同時に、あんなにも取り乱して泣いたことが、急に恥ずかしくなった。

「みっともないとこ、見られちまったな」

 俺は空を見たまま、独り言のように言った。美咲がちらっと俺を見て、何も言わず微笑む。夕日を浴びているせいか、髪も肌も、いやに眩しく輝いて見える。いつもはガキのこいつが、今だけは俺より数段大人のような気がしてくる。

 俺がハンカチ代わりにしたTシャツの胸のあたりがまだ少し濡れているのに気づいた途端、顔を埋めた時の感触と匂いが訳もなく甦り、顔が少し火照ってきた。感情の変化を気づかれたくなくて、俺は美咲から視線を外した。口には出さないが、女の胸って存外キモチいいもんだなと、改めて思う。

「帰る?」

 美咲が正面を向いたまま、穏やかな声で言う。

「ああ」

 どっちにしろ俺は、一度真剣におふくろと向かい合わなきゃならない。そう決意してからやっと、俺はある事を思い出し、飛び起きた。

「あ、やべっ! 伊達センセの事、忘れてた」


 独りで帰るのをためらう間もなく、美咲が、あたしも部屋まで付いていくと言う。あまりに当然だという顔をしているので、文句を言おうにも言えなくなっちまった。制服の汚れを払い、スニーカーを履き直す間、美咲は黙って空を見上げていた。何も言わずに歩き出すと、寄り添うように俺の隣に来る。青葉の生い茂る桜並木の下を、俺達は互いに黙ったまま歩いた。

 アパートの入り口に先生の車が止めてあるのを見て、なぜかほっとする。伊達先生も、あのままおふくろに付いていてくれたらしい。もっとも、こっちもあんな状態で、放っておけるわけないか。

「翔?」

 玄関のドアが開いたのを聞きつけ、おふくろが部屋から出てきた。立っているのを俺だと確認した途端、泣きながら裸足で飛び付いてくる。おふくろは俺の名を呼びながら、迷子の子供がやっと親に会えた時のように、縋り付いたまま泣きじゃくった。

「おふくろ、ごめん……」

 俺は素直に謝った。そうして、泣き続けるおふくろを、静かに見つめた。


 部屋の中で、俺はおふくろと向かい合った。伊達先生と美咲も一緒にいたが、俺は構わずに、親父が死んでからずっと心に溜めていた事を吐露した。

「俺、いらいらしてたんだ。親父が死んで四年もたつのに、おふくろ、いつまでたっても思い出の中で生きてるみたいでさ。おふくろ見てると、あの時から時間が止まっているような気がするんだ。だから、親父の事を忘れろとは言わないけど、もういい加減、過去は断ち切れよって、俺に遠慮する事なんかないから、いい人見つけたらさっさと再婚しろよって、いつもそう言いたくていたんだ」

「翔……」

 おふくろが意外そうな顔をする。それから少し首を傾げて、ほんの少し笑った。そうして何も言わず、整理箪笥の上の三人で撮った写真を愛しそうに見つめる。俺達三人が、それぞれ一番幸せだった時の思い出が、そこには凝縮されていた。

 親父の写真を見て微笑むおふくろは、いつも少女のように純粋な眼をしている。息子の俺でさえこのまま枯らすのは可哀相だと思うんだから、おふくろに好意を持つ男なら尚更だろう。伊達先生の、おふくろを見つめる視線が痛々しい。さっきからずっと、僕があなたを守ります、一生大切にしますと、喉元まで出掛かっているような顔でおふくろを見ている。

 伊達先生のそんな気持ちを知ってか知らずか、おふくろは独り言のように話し始めた。

「だって、聖ちゃん、わたしの生き甲斐だったんだもの。高校の美術の先生だったのよ、聖ちゃん。わたしが入学した時は着任してまだ二年目の新米教師だったんだけど、初めて会った時、お互いに、ああ、この人だって……。そりゃあ、わたしだって最初は一目ぼれだの運命の出会いだのって、小説の世界の事でしかないと思っていたわ。でも、そうじゃなかった。聖ちゃんと出会って、初めてわかったの」

 おふくろは夢見るような瞳で話を続ける。若くハンサムな高校教師と、ミス大川高校と騒がれるほどの美少女の出会い。お互いに純情だったから、余計に運命的なものを感じたんだろうか。

「でも、教師と生徒だし、聖ちゃんが心臓悪いのわかっていたから、二人とも結婚は諦めていたの。あれは―――九月十六日、土曜の午後だったわ。美術室で作品の整理を手伝っていた時に聖ちゃん発作を起こして苦しみだして―――他に誰もいなかったから、わたしどうしていいかわからなくて、とにかく救急車呼ぼうと思ったの。でも聖ちゃん、薬を飲んだから大丈夫だ、横にならせてくれないかって手を差し出して。わたし、膝の上に聖ちゃんの頭を抱えて、手を握り締めて、お願い、死なないでって、心の中で祈り続けたの」

 その時の事を思い出したのか、おふくろの瞳が潤んできた。それでも、気を取り直して話を続ける。

「暫く横になっていたら、蒼白だった顔に、ほんの少し赤味が差してきたの。聖ちゃん、一つ深呼吸して、驚かせてすまなかった、もう大丈夫だ、って。わたし、思わず本当に? って、聞いてしまった。聖ちゃん、微笑んで頷いてくれたわ。ほっとしたら、嬉しくて涙が出てきて、止まらなかった」

 この事は、死ぬ前に親父からも聞いた覚えがある。

『発作を起こした時、母さん、父さんの手をずっと握っていてくれたんだ。あの手のぬくもりがあったから、父さんは今まで生きてこられたんだよ』

 散歩にいった公園でブランコを漕ぎながら、親父は俺にそう言った。母さんと一緒になっておまえが生まれて、父さんほど幸せな男はそういないだろうな、そう言って空を見上げて、微笑んだ。今思うと、親父はその時すでに自分の死を予感していたのかもしれない。それから半年後だったもんな、親父が死んだのは。

「……祈りながら、心に決めたの。この人が助かったら、自分の気持ちを素直に打ち明けよう、たとえ少しの時間でもいい、この人と一緒にいたい……って。だから聖ちゃんの手を握り締めて言おうとしたの、先生にもしもの事があったら、わたし、後を追います、だからお願い、死なないでって。でも、最後まで言わせてくれなかった。聖ちゃん、ゆっくり起き上がると、わたしが言う前に手を握り返して言ったの。『あかり。僕はこんな身体だから、一生結婚はすまいと思っていた。迷惑を掛けて、その上この世に未練を残すくらいなら、一人でいた方がよっぽどいいと思っていた。だから今までは発作を起こしても、死をあまり恐怖とは感じなかった。どこかで人生を諦めていたんだ。だけど、君と出会ってから、考えが変わったよ。今日発作を起こして、僕は初めて死ぬ事に恐怖を感じた。今死んだら、僕は君の記憶の一部でしかなくなってしまう。そしていつか君は、僕の事など忘れ去るだろう。このまま何も言わずに君の前から消え去り、思い出だけになるなんて、僕には耐えられなかった。初めて、生きたいって願ったよ。君と生きて、できるものなら、死ぬ前に僕の子供を生きた証としてこの世に残したい、心からそう思ったんだ。お願いだ、どうか、僕と結婚してくれないか』そう言って真剣な顔で見つめたの。わたし、驚いて言葉にならなかった。でも、言われてみて、一緒に生きるってそういう事なんだと、初めてわかったような気がした。それでも、どう返事したらいいのかわからなくて……わたし、黙って聖ちゃんの顔を見つめていたの。そしたら聖ちゃん、『身勝手でわがまますぎるのは、僕自身が一番よくわかっている。僕には君を守ってやる事も幸せにする事もできないし、それ以前に君にプロポーズなどする資格もないって事も。それでも……できるものなら、許される限り君と生きたい!』って。わたし、返事の代わりに、泣きながら聖ちゃんの胸に飛び込んでいたわ。たとえわずかな時間しか残されていなくても、この人と一緒に生きたい、離れて後悔するのは嫌―――それしかなかった。回りには大反対されたけど」

 おふくろはそこまで話すと、初めて聞く事柄に呆然とする俺の顔を見つめ、くすりと笑った。多分俺は、ホントかよといった顔をしてたんだと思う。なぜって、葬式の時に俺が双方のじいさんばあさんから聞かされたのは、お互いに相手が息子を(娘を)たぶらかしたんだという恨み節ばかりで、親父やおふくろが言ってたような大恋愛の末に結ばれたという話を、否定する事柄ばかりだったからだ。十歳の俺にはどっちの言い分が正しいのかなんて分からなかったし、分かりたくもなかったが、親の話を全面的に信じてなかったと言う事は、多少は、ばあさんたちのいやみに影響されたのかもしれない。もっとも、言外に俺ができなきゃ結婚を許さなかったのに、という刺があるのを認めるようになったのは、俺にしてもごく最近の事だったが。

「だって、どっちにしても後悔するのなら、少しでも納得のいく方を選びたいじゃない。だから、後悔なんかしていないわ。高校中退も結婚もあなたを産む事も、全部自分で望んだ事なのよ」

 おふくろは穏やかに澄んだ瞳でまっすぐ俺を見つめてから、改めて思い出に浸るように目を伏せた。涙がうっすらと滲んでいる。

「十六歳になってすぐ籍を入れて、半年後にあなたが産まれて、聖ちゃんは学校を辞めて絵画教室を開いて……幸せだったわ。一生分の幸せを手に入れたって感じだった。聖ちゃんも病気の事を忘れそうなほど調子が良くて、それこそ治ったんじゃないかと錯覚するくらい元気だったのよ」

 知ってる。俺の覚えている親父は、普通の人と何も変わらなかった。よその父親と同じように遊んでくれたし、何よりもおふくろと俺を愛しているって、いつも態度に滲み出ていた。俺も幸せだったんだ、突然親父が逝っちまうまでは。だから余計に裏切られたような気がした。心臓が悪いなら悪いで、なんでもっと気をつけて養生しなかったんだよって、俺は親父とおふくろを怨んで人知れず泣いた。泣いて泣いて、俺達を置いて逝った親父なんて、忘れちまおうと心に決めた。

「あの日……聖ちゃんが最後の発作を起こしたあの日ね、買い物に出掛けようとしたら聖ちゃん、今日は傍にいてくれないかって言ったの。どうしたのって聞いたら、なんとなく、今日は顔を見ていたいからって、そう言って笑ったの。それから間もなくだったわ、発作が起きたのは。聖ちゃんには、きっとわかっていたのね。死ぬ前にこう言ったの。今まで僕のわがままに付き合ってくれて、本当にありがとう、これからは君の生きたいように生きてくれ……って。わたし、その言葉どおりに生きてきたつもりだった。後ろ向きって言われても仕方ないけど、わたしの小説は聖ちゃんとあなたへのラブ・レターだったの。あなたと聖ちゃんに、愛しているって伝えたかっ……」

 そこまで言うと、おふくろは我慢できずに両手で顔を覆った。静かに漏れる嗚咽を聞きながら、俺は心の中で、親父はともかく、何で俺なんだよとおふくろに問い掛けていた。

 言葉に出さなくてもわかったんだろうか、おふくろが鼻をすすりながら言葉を続ける。

「だって、あなたがいたから、今まで生きてこられたのよ。もし一人だったら、わたし、聖ちゃんの後を追っていたかもしれないもの……」

 泣きながら、それでも懸命に涙をこらえようとしているおふくろを見つめているうち、突然俺は、『俺自身』が、親父からおふくろへの最大のプレゼントだったんだという事を悟った。恐らく親父は、自分が死んじまった後のおふくろが心配でならなかったんだろう。世間知らずの女子高生のまま、なんにも成長していないおふくろの事が。

 二人ともあきれた親だな。おふくろがおふくろなら、親父も親父だぜ、俺に何の相談も無しにこんな大きなお荷物押し付けるなんて。その上、君の好きなように生きてくれだなんて、いくらなんでもカッコ付け過ぎだあ。ったく、やってらんねーぜ、こっちは。だが、これも乗りかかった船か。しゃーねー、最後まで面倒見てやるよ。

 俺は心の中でそう親父に話し掛けた。写真の中の親父は、頼むぞ、翔、とでも言いたそうに笑っている。能天気親父め、おふくろが再婚したって、文句言うなよな。

 親父に一つ悪態をついてから、改めて涙を拭いているおふくろを見る。俺は苦笑交じりにおふくろに言った。

「バーカ、そんな気の弱い事でどうすんだよ。俺だってまだおふくろを必要としているんだぜ?」

 おふくろがはっとして顔を上げる。思いがけない事を言われたって表情で。いつの間にか保護する者とされる者の立場が入れ替わってたから、おふくろの頭の中で、俺はすでに『守らなければならない子供』の域を抜け出してしまってたらしい。やれやれ、世話の焼けるお姫サマだぜ。自分が母親だという事を、もうちっと自覚しろよな。

 おふくろに自分の立場をわからせる為、俺は噛んで含むようにしておふくろに言い聞かせる。

「親父が死んだのは病気のせいだし、それはそれで仕方のない事かもしれないけど、あんたまで俺を置いてくなよ。俺はまだ中学生で、まだまだ保護者を必要とする立場にあるんだぜ? わかってんのかよ、おふくろ」

「翔……」

 おふくろの眼に、たちまち涙があふれる。それから思いっきり顔をくしゃくしゃにして、俺に縋り付いて泣き出した。泣きながら、ごめんなさい、と言って、何度も何度もしゃくりあげる。いつの間にか俺より小さくなった背中を、俺はよしよし、と、軽く叩いてあやした。

「ったくしょーがねーなー、逆だろ、これじゃ。どっちが親だかわかりゃしねー」

「だって……」

 くすんくすん鼻を鳴らしながら、それでも文句を言おうとするおふくろに、第一、縋り付く相手が違うんじゃねーか? と言おうと思ったけど、それはまだやめておく。今はまだ、おふくろの心の中に親父の占める割合が、多すぎるみたいだ。伊達先生には悪いけど、もう少し時間が必要かな。俺はまるきり、娘の結婚を心配する父親のような心境になって、おふくろの頭を抱えてぽんぽんと軽く叩いてやった。

「親父も心配だったろうな、こんなおふくろ残してくなんて」

「翔の意地悪……」

 おふくろは俺に縋り付いたまま、まだべそをかいていた。恋人に甘えるようにして俺にもたれかかっているおふくろを、伊達先生と美咲が微笑みながら見つめる。なんとも言えない複雑な表情で。

 おふくろが落ち着いてきたからか、それともこれ以上いても仕方がないと思ったのか、伊達先生が美咲を促して立ち上がった。

「それじゃ、僕たちはこれで……」

「あ……申し訳ありませんでした、お恥ずかしいところをお見せして。それと……ありがとうございました」

 気を取り直したおふくろが顔を赤くして詫びを言う。伊達先生はそんなおふくろをちらっと見て、少し寂しそうに笑って会釈した。

 玄関の明かりを点けた時、先生のワイシャツの背中のあたりが少し汚れていたので、外へ出たついでに払おうとしたら、半袖から出た左肘に血が滲んでいるのが目に留まった。おふくろを助けてくれた時に擦ったんだろう、もうほとんど乾いてしまっている。

「先生、肘……」

「ん? ああ……」

 言われて左肘を覗く。先生も初めて気づいたみたいだった。俺はそのまま一階まで先生を送って行った。なんにも言わないのに美咲もついて来る。

「ごめん、先生……」

 薄闇の中で、車のドアに手を伸ばした先生の背中に声を掛ける。先生には本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。悪気はなかったけど、いつかはこの償いをしなきゃならないかな。

「いや……まだ当分は、僕の入り込む余地はないみたいだな」

 振り向いた先生は、やるせないって顔で、それでも無理して微笑んでそう言ってから、一瞬黙った。が、すぐに気を取り直したようにぐっと両手の拳を握り締める。

「だが、諦めないぞ。いつかきっと……僕は『僕の天使』を掴まえてみせる!」

 そう言って宙を見つめる先生の目に恋の炎が燃え盛り、背中からはピンク色のオーラが立ち上る。そっと視線をたどったら、その先は家のベランダだった。

『センセ、燃えてるよ……』

 伊達先生は身体だけでなく、精神的にも結構打たれ強いみたいだ。俺は苦笑しながらもほっとした。それから、あんな修羅場を目の当たりにしながら、おふくろの事を嫌わないでいてくれる事に、改めて感謝した。

 先生が帰った後、俺達のやり取りを黙って聞いていた美咲が、なんだか納得したように二、三度頷き、つぶやく。

「ふーんそっか。そーいうことだったん」

 一人で納得した後、いたずらを見つけた子供みたいに横目でちらっと俺を見た。

「なんだよ」

「フフッ、いいからいいから」

 そう言って、楽しそうに俺をエレベーターに押し込む。三階で降り際に俺の方を振り向くと、ウィンクしたあと両手をメガホンにして叫んだ。

「翔、あたしも諦めないからね!」


「なんだいったい。わけわからん。ヘンなヤツだな」

 美咲の叫んだ意味を取りかねて、俺が首を傾げながら部屋へ帰ると、おふくろはすっかり落ち着いてダイニングの椅子に座っていた。俺の顔を見て、恥ずかしそうに聞いてくる。

「ねえ、翔、今から聞くのも変なんだけど、伊達先生、どういうご用でいらしたの?」

 そっか、肝心な事、忘れてた。俺はちょっぴり、おふくろをからかってやりたくなった。

「おふくろにプロポーズしに来たの。センセ、何も言わなかった?」

 おふくろが、えっ、と驚いて、顔を赤くする。おっ、こりゃ、ひょっとするとひょっとするかも。

「冗談! 大木夢子センセのサイン欲しいんだってさ。伊達センセ、おふくろの小説のファンだって。本、わざわざ買って読んでくれて、すっごく感動したって言ってたよ。で、著者のサインが欲しいって言うから、家へ連れてきたってワケ。本持って帰っちゃったから、今度また家に呼ぶよ。今日のお礼とお詫びをしなくちゃな。センセ、大好きな『大木夢子』を守る為に肘に擦り傷こしらえたんだぜ。名誉の負傷ってヤツ」

 傷の位置を指し示しながら、にやっと笑うと、からかわれた事に気づいたおふくろが、一層顔を赤くして照れ隠しにぷっと脹れる。(脹れた顔もカワイイや。)俺はおふくろに近づいて後ろから抱きしめると、顔を寄せて囁いた。

「今一瞬、ときめいたろ?」

「翔ったらー。タチ悪いぞ、親からかって」

 おふくろは赤い顔を更に赤くして半べそをかきながら、困ったように俺をちらっと見た。



 六月って季節は、好きだけど嫌いだった。初夏の日差しの後に梅雨が来るように、俺にとって、幸福と不幸が一度に押し寄せて来た月だからだ。俺の誕生日が六月なら、親父が死んだのも六月だ。楽しい思い出がいっぱいの前半と、悲しみに彩られちまった後半。

 もちろん、最初からそうだったわけじゃない。ガキの頃は、誕生日が来るってだけで、なんとなく嬉しかったんだから。それが、親父が死んでからは心から楽しめなくなった。恐らく、いつかは俺も―――って不安が、心の片隅にあったからだろう。

 でも、この頃の俺は、ちょっぴりだけど六月が『好き』の方に比重が移ってきている。理由は――まあ、いろいろとあるけど、あの事件以来平穏無事に過ぎてる事もその一つだ。今日も夕方から、俺の十七歳の誕生祝いを兼ねた焼き肉パーティーに、伊達先生と美咲がやってくる事になっている。もちろん名目上は、おふくろと二人きりじゃつまらないからと、俺が駄々をこねた事にしてある。

 三時近くにドア・チャイムが鳴って、デザートのメロンを持った伊達先生が顔を覗かせた。

「よう。どうだ調子は」

「ああ、全然いいっすよ。あがって下さい」

 おどけてガッツポーズを取ってみせると、満足そうに頷く。

「あれ、また背が伸びたんじゃないのか?」

「へっへー、まだ育ち盛りだからね、この半年で三センチ伸びたんだ。もうすぐ先生追い抜かせるかな」

 俺は自分の頭の上に掌を当て、そのまま先生の方にスライドさせた。小さい頃、よくこうやって親父と背比べをした事を思い出しながら。先生はにこにこしたまま俺の頭に手をやり、ぽんぽんと軽く叩いた。俺の目の前で、先生の笑顔に親父のそれが重なる。親父も、いつもこうして、お、また大きくなったな、と言いながら、嬉しそうに笑った。そうして俺の頭をくしゃくしゃに撫でた。

「あら、いらっしゃいませ」

 チャイムに気づいたのか、おふくろが部屋から出てきた。が、男二人が互いに相手の頭に手を当ててるのを見て、不思議そうに首を傾げる。先生は照れたようにおふくろに笑いかけると、テーブルの上にメロンを置き、左脇に抱えた包みを俺に差し出した。

「ほら、この前頼まれた本、探してきたぞ」

「サンキュ、先生。これ、どうしても読みたかったんだ」

 俺はそう言って、伊達先生にウィンクした。

「いつもすみません、わがままばかり言って。今あちらを片づけますから、ゆっくりしていって下さい」

 おふくろが申し訳なさそうに頭を下げるのを、伊達先生が慌てて遮る。

「あ、いや、僕ならここで。まだ仕事中でしょう、気を遣わないで下さい」

 そう言いながらさっさと自分の指定席になってるダイニング・チェアを引き出し、座る。これぞ勝手知ったる他人の家、ってとこだろう。ただ一つ先生が知らないのが、そこが親父の席だったって事。親父が死んで暫くは、そこへは誰も座らせなかったおふくろが、笑いながらお茶を入れ始めた。おふくろも、今ではなんのこだわりも持っていないようだ。

 先生は先生で、もうすっかりおふくろの執筆ペースを掴んだみたいで、この頃じゃ、いつでも一服する時間を見計らったようにやってくる。邪魔をしたらいけないと思って、気を遣ってくれてるんだろう。

 あれから三年、おふくろは相変わらず作家を続けてるけど、伊達先生は前より頻繁に家へ来るようになった。俺が高校へ進学して、担任という肩書きが外れた事も少しは影響してると思う。(中には贔屓と見るヤツもいるからだ。)

 ま、なんだかんだと、理由は俺が見つけてやっているんだけどね。おふくろも嫌がってる様子もないし、息抜きにはちょうどいいんだろう。ただ、伊達先生が態度をはっきりさせないと、このまま単なる茶飲み友達で終わってしまう危険性も、無きにしもあらずだが。

 確かに、本来純粋なプラトニック・ラブってのは、茶飲み友達で終わるのが本当なんだろうけど、あの年でそこまで枯れるのも、どうかと思う。かといって、けしかけてどうにかなるものでもなし、なまじっか俺は口出ししない方がいいかなと思って、ずっと見守っているってわけだ。こうやってると悪くないムードなんだけどな。

 二人を見ながらそんな事を考えているうちに、美咲がやってきた。いちおうおよばれだからというつもりか、白いレースのキャミソールドレスにピンクのリップで、目いっぱいおしゃれしている。白の綿シャツとジーパンの俺と比べたら、どっちが主役かわからない。(ここまでくると女子高生と言うより、まるっきりアイドルモードだ。ま、似合うから文句は言わないでおこう。)俺を見るなり左に十度首を傾けてにっこり笑い、おめでとって言いながらリボンを掛けた包みを差し出した。(近頃このポーズが気に入っているらしい。みんなにカワイイって言われたと、この前一人ではしゃいでた。相変わらず成長してねーなー。)苦笑しながら受け取って、上がれよと言おうとした途端、伊達先生の靴を見つけて部屋の中を覗き込む。

「こんちわー。あれー伊達先生、もう来てたん?」

「ああ、たった今な」

 振り返った先生が照れたような顔をする。と、いきなり美咲が俺の手を引っ張った。

「翔、ほら、早く! 買い物付き合ってくれるって約束だったでしょ?」

 そんな約束してねーぞって、きょとんとした俺に、美咲がウィンクして囁く。

『もう、気がきかないなぁ、翔。センセ、プロポーズまだなんでしょ? 二人きりにしないと、やりにくいじゃない』

「ん? ……あ、そっか」

 美咲の意図に気づいた俺は、とりあえず財布だけ取ってくると急いでバッシュをつっかけ、二人に向かって手を上げた。

「ごめん、ちょっと出掛けてくっから!」

「あ……あ」

「翔?」

 思いがけず二人きりにされて、戸惑ったようなおふくろたちをその場に残し、勢いよくドアが閉まる。一瞬の沈黙の後、伊達先生とおふくろの、照れたような声が聞こえてきた。

「し、静かになりましたね」

「はい……」

 美咲がエレベーターの所で待っていたが、俺は構わずにドアの前にしゃがみこみ、靴紐を解いてから履き直す。こーいう時バッシュってのは、手間がかかる分、都合がいい。さりげなくドアに耳を寄せ、聞くとは無しに聞き耳を立てると、伊達先生が今度はやけに落ち着いた声で話しだした。

「翔君、具合がよさそうなので、安心しました。優しい子ですよね。以前から、もし自分に何かあったらあなたが一人になってしまうと、その方が心配のようでした」

「そうですか、翔がそんな事を」

 おふくろのしみじみとした声が聞こえる。息子の優しさに触れて、嬉しかったんだろう。が、二人ともこの流れで話していたら、ただの父兄面談になっちまうぞ、と、俺が危惧した時、突然伊達先生がせっぱ詰まったような声を振り絞った。デカい地声が喉に引っかかったように細くなり、おまけに声がひっくり返っている。

「岡本さん、いえ、あっ……あかりさん。突然こんな事言ったら、変に思われるかもしれませんが……お願いがあります、僕と…………して……くれませんか。じっ……実は、翔君には三年前に許可をもらったんですが、なかなか言い出せなくて……でも、今日は思い切って言います。作家を辞めろとは言いませんから、どうか僕と、……けっ、……けっ、……結婚して下さいっ!」

 ゴツン! と、鈍い音が聞こえた。おおかた、頭を下げた時にテーブルにでもぶつけたんだろう、必死に頼み込んでる様子が目に浮かぶ。

「先生? 困ります、そんな……」

 突然の事態に、おろおろしながら慌てて遮るおふくろを、さらに慌てて先生が遮る。

「困らないで下さい。困られると僕が……困ります! す、好きなんです、この三年間、ずっと、今日は言おう、明日は必ず、と思いながら、今日まで来てしまいました、だから、どんなに困られても、諦められません、どうか、お願いします、…あ、あかりさん、ご主人を忘れろとはいいません、でも、あなたの心の中に、少しだけ僕の場所を空けて下さい、そして僕を、翔君の父親にして下さい!」

 興奮して訳の分からない事を言い出す。(最後の一言は余分なんじゃねーか?)ま、なんでもいいや、その調子だ、もう一息、一気にいけえっ、と、俺も興奮して拳を握った途端、戻ってきた美咲に耳を引っ張られて、思わず「いてっ!」と大声を出しそうになり、慌てて両手で口をふさいだ。よろける俺の腕を取り、力ずくでエレベーターの前まで引きずりながら、自分が立ち聞きされたわけでもないのに美咲は顔を赤くして怒る。

「翔、立ち聞きなんて、趣味悪い!」

「そーいうわけじゃねーけどよ、やっぱ気になるじゃんか」

 体裁の悪さを脹れてごまかす。おふくろ、一体なんて答えたんだろ。


 土曜の午後は売り出しがあるからと多少は覚悟していたが、歩いて十分足らずのところにある大通り商店街は、思いの外、人出でごった返していた。陽気のせいだけでなく、暑い。なのに商店街に着いても、美咲は図々しく俺と腕を組んだままでいる。この三年で十センチ以上背が伸びた俺との身長差を埋める為か、今流行の編み上げの高下駄サンダルを履いてるから、足元が不安定なせいもあるんだろう。(ちなみに、俺の今の身長は百八十二センチ、厚底のバッシュを履くと百八十五は優に超えるはずだ。百六十センチ弱の美咲が十センチ嵩上げしたって、俺の口元あたりまでしかない。)

 通りすがりの野郎どもがうらやましそうにこっちをちらちらと見ているが、わざわざエスコートするのも癪だから、俺は両手をGパンのポケットに突っ込んだまま歩いた。歩けば歩くほど、おふくろがなんて返事したか気になって仕方がない。せっかくいいとこまでいったのに肝心の結論が聞けないなんて、クライマックスでテレビを消されたような気分だった。あー、もう、落ちつかねえ。

「しっかし、こんなことは気がきくのなー、おまえ。買い物なんて、別にないんだろ?」

 俺は半ば呆れ、半ば感心して言った。美咲がにやっと俺の顔を覗き込む。

「お母さん、心配なん?」

「バーカ!」

 俺は無視してさっさと歩いた。わかっているなら、いちいち聞くな。

「まーったく翔はお母さんに甘いんだからぁ。十分の一でもいいから、あたしの事も心配してよ。あたしだって一人で町歩くと、危ないんだよぉ。ナンパしてくるの多いし」

「そんなカッコしてるからだろ。目をつけるなってほうがどうかしてるぜ」

 ただでさえ目立つ顔と身体してるのに、超ミニのキャミソールドレスで足むきだしてたんじゃ、目をやるなってほうが間違いだ。いい加減、気がつけよ。

「ひどーい、誰の為におしゃれしたと思ってんのよ」

「そんな事、頼んだ覚えねーぞ」

「もうっ、翔のイケズ!」

 口を尖らして俺の腕をぎゅっとつねる。思わず「いてっ!」と声を上げたら、小気味よさそうにべーっと舌を出した。

 美咲はそれでもまだしつこく俺の腕に吊る下がっていたが、宝飾店の前まできたら、途端に目を輝かせてウィンドウにへばりついた。

「わあ! かわいー。翔、見て見て、あのハート型のピンクダイヤ! いいなー」

 俺はちらっと横目で見たが、視力二.〇の目に飛び込んだ値札の数字を見て気づかないフリをする事に決め、黙って歩き出した。美咲が慌てて追いかけてくる。

「ねえー、あの指輪欲しいー。買って買ってー、翔ー」

 俺の袖を掴んで振り回し、ガキみたいに駄々をこねる。俺の誕生日になんで俺がおまえに買ってやらなきゃならねーんだ、と思ったが、めったなこと言うと、じゃ、あたしの誕生日に買ってと言われそうだから、それは黙っておく。

「何で俺が買わなきゃならねーんだよ。欲しけりゃ自分で買え。俺、金ねーぞ」

「だからー、婚約指輪ー」

「そんなもん欲しいなら金持ち探せ。貧乏人の俺にねだるのは、はなからお門違いだ」

 甘やかすとクセになるからと、ぴしっと言ってやったら、美咲がぷっと脹れた。

「翔のケチー。スカタン! イチ・キュッ・パだよー、安いじゃん」

「あほう、ゼロ三つ、ついてたぞ」

 ケチと言われて、俺は思わず言っちまった。途端に相好を崩して、美咲が小猫みたいにじゃれついてくる。

「なあんだ、ちゃんと見てたんだ!」

「まとわりつくなって!」

 俺は人目を気にして振りほどこうとしたが、幸か不幸か、美咲はそんな事、一向に気にしないタイプだ。その上今日は余計に気合いが入っている。どうやら伊達先生に刺激されちまったらしい。

「いーじゃん、腕組むくらい。ほんっとケチなんだからぁ」

 そう言いながら、人ごみの中だというのに美咲は俺の左腕に両手を絡め、あろうことか身体をぴったりくっつけた。あまりじたばたするのもみっともないから、やりたいようにさせる事にするが、これで俺が中年男なら、紛れもなく援助交際の図だ。身体のわりに豊かになった胸が弾んで、歩くたびに俺の腕にぶつかる。(というより、薄手のTシャツとレースのキャミソールドレスを通した胸の膨らみが、モロ俺の腕を包みこむってカンジだ。)

 うん、胸だけは中学の時より一回りは大きくなったかな、と、俺も多少鼻の下を伸ばしながら中年オヤジのような事を考えてると、向こうからやってきたオバサンたちが、今時のコーコーセーは、なんて破廉恥なの、と言う顔で、あからさまに俺達を睨んで通り過ぎた。

 美咲はもちろん、睨まれても知らんふりをしているし、俺は俺で、向こうが押し付けてくるんだから俺が文句言われる筋合いもあるまいと、無視して胸の感触を楽しんでいたら、美咲が聞こえよがしに意外な事を言い出した。

「ねえ、高校卒業したらさ、あたしたちも結婚しようよ。この際だから学生結婚だっていいじゃない。何だったら来年の六月でもいいよね、翔の十八歳の誕生日に結婚式ってのはどう? 一年くらい早くなったって、どうって事ないじゃん。学校がうるさいコトいうなら、籍入れるのだけ延ばしゃいいんだし。ね? そうしようよ」

 なに血迷ってんだと横目でちらっと見下ろすと、上目遣いで媚びるように俺の顔を見上げる美咲と、モロに目が合った。こいつ、こんなに色気あったかよと、少しどっきりする。慌てて目線を下へずらしたら、大きな襟ぐりの下の胸の谷間と、超ミニからにょっきり出ている太股が眼に飛び込んできた。色が白いだけに、なんとも言えずなまめかしい。こーいうのを超レアな曲線美と言うんだろうが、間近で見ると目の毒以外の何物でもない。ヤバイぞこりゃ、ボルテージが上がっちまう。

「なんだよおまえ、さっきから」

 スケベ心を見抜かれそうで照れくさくなって、ぶっきらぼうに言う。

「だってさ、お母さん結婚してあの家出てったら、翔独りになっちゃうじゃない。ご飯も炊けないくせに、どーすんのよ。毎日コンビニのおにぎりですますつもり?」

「まだ決まったわけじゃねーぞ。第一なんでおふくろが出て行かなきゃなんねーんだよ。あそこで三人で暮らしゃ別に問題ねーだろが。親父が生きてた頃に戻るだけだろ」

「あんな事言って。小学生じゃないんだから、もう二DKで三人一緒ってわけにもいかないでしょ。狭いし、お互いに気を遣うだけじゃない。どうせいつかは独立するんだから、今したって同じことよ。あたしがついてれば家でちゃんとしたもの食べさせてあげられるし、お母さんたちだってその方が安心すると思うよ。それとも翔、新婚夫婦のジャマするつもり?」

「おまえなあ……」

 文句を言おうとして、俺は言葉に詰まった。正直、そこまではまだ考えてなかったんだ。美咲がしてやったりという顔をする。小憎らしいヤツめ。

「それにさ、翔が今のとこにいれば、家とも自由に行き来できるわけだし、三方丸く収まって一番いいじゃない。家で食べるのが気兼ねして嫌なら、あたし、毎日ご飯作りに通ってあげるから。ね?」

 そう言いながら、余計に擦り寄ってくる。なーにが三方丸く収まるだ、それって、おまえにとって都合がいいってだけじゃねーか?

 こーいう気分の事を『シラケ鳥がとぶ』って言うんだろうなと、独りではしゃいでいる美咲を見ながら俺は思った。ったく、何度言っても懲りないヤツだな。一発ガツンとくらわせなきゃわかんねーのかよ。

「ダーメだ! 大学出た後、お互い他に相手がいなけりゃもらってやるって言ったろ。ただし、それまで俺が発病しなければだけどな」

「またあ。いっつもそうなんだからあ」

「トーゼンだろ」

 いつもどおりこれで諦めるかと思ったら、だが今日はしつこく食い下がってきた。

「だってさ、もし二十二まで待って結婚したとして、次の年に死んじゃったらどーすんのよ。あたし、たった一年で未亡人になっちゃうよ? そんなのつまんない。」

「あのなあ……」

 黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって、そんなに俺を殺したいのかよ、と言おうとした途端、美咲が不敵な笑いを浮かべた。

「それにさ、あんまりトシいくと、新婚初夜に『腹上死』ってことも有り得るしい」

 人ごみの中なのに平然と言う。あまりに大胆かつ過激な発言に、回りにいた何人かが驚いて一斉に振り向く。一緒にいる俺はというと、あせって慌てまくった。思わず腕を引っ張って、小さな声で怒鳴りつける。

「バカッ。街中だぞ、少しは場所考えてモノ言え! コーコーセーの言うセリフかよ!」

「あー、赤くなってるう」

 怒鳴ってもちっとも応えないばかりか、目を見開いて笑いながら、珍しいものでも見たかのように俺を指差した。こいつめ、俺をからかってるつもりかよ。

「このオタンコナス!」

 いい加減にしろと手を振り解こうとした途端、美咲が俺の両腕を掴んで素早く真ん前に回り込んだので、避ける間もなく俺は美咲の胸にぶつかり、立ち止まらざるを得なくなった。人通りの激しい中、周囲の目を意に介する事もなく、美咲はほぼ二十センチの至近距離から俺の顔をじっと見つめる。つられて見つめていたら、大きく見開いた目の回りが熱に浮かされたように赤くなってきた。きりっとした中にもしたたかな色気を感じ、またまたどきっとする。十七年付き合ってても、こいつのこんな顔見るの、初めてだった。

「じゃあ『結婚する』って言って。そうすれば考えてあげる」

 あまりに積極的な攻勢に、返す言葉が出てこなくなる。その上、返事をためらう間にも、しっかり目を見開いた美咲の顔がどんどん迫り、回りの景色がフェードアウトしていく。ヤバイ、と思いながらも、とうとう俺の眼は形のいい唇に釘付けになった。その瞬間、俺は催眠術で金縛りに掛けられたみたいに身動きができなくなっちまった。が、唇があと十センチの距離まで近づいて美咲の目が閉じようとした瞬間、誰かが俺の肘に激しくぶつかり、その衝撃で俺はここが街中だったことを思い出し、すんでの所で我に返ることができた。急いで踵を返し、美咲から逃れて路地裏の方へと歩を進める。あぶねえ、あぶねえ、もうちょっとでワナに嵌まるとこだったぜ。ぶつかってくれたヤツに感謝しなきゃなんねーな。

 はぐらかされた美咲が慌てて追っかけてくる気配を後ろに感じながら、赤くなったのを見られないよう、俺は美咲に背を向けたまま言い放った。

「ジョーダンじゃねえ、脅されて結婚するんじゃ男が廃る。第一俺の好みは、もっとおしとやかなのだ! 女からセマるなんて、もっての外だね」

 良い悪いじゃない、これは俺の、男としての美学だ。たとえ相手が誰であれ、プロポーズする時は俺からするって、決めてある。いくらおまえでも、これだけは譲れねーな。

「いじっぱり!」

 追い付いた美咲が、腹立ち紛れに俺のシャツを引っ張った。

「そういうの、トウヘンボクっていうのよ、このヤボ天男!」

「黙れ、ヒネクレジャジャ馬」

「なによおマザコン! トーフのかどに頭ぶつけて死んじゃえ!」

「いったな!」

 互いに知ってる限りの死語をぶつけ合った後、路地裏に人がいないのを確認してから、俺は振り向きざま後ろに回り込み美咲に抱きついてやった。きゃーっとうれしそうに嬌声を上げながら、それでも逃げようとして首を竦める美咲を、包み込むように抱きしめる。振り向けないようにと顎で頭を押さえ付けたら、シャンプーの香りに混じって、少し汗ばんだ胸元や首筋から、三年前よりも大人びた匂いが立ち上った。思いっきり吸い込んだら、頭がクラクラしそうだ。

「……翔?」

 美咲の動悸と体温が高まって、俺の腕に伝わってくる。午後の日差しを浴びながら、俺は暫くそのままの姿勢でじっとしていた。目を閉じて柔らかな身体を抱きしめてると、今、言っちまってもいいかなって気もする。けど―――

「やっぱ、やーめた。今から縛られるなんて、ジョーダンじゃねえ。少なくとも後一年は言わねーぞっ」

 きっぱり宣言して俺は腕を解いた。

「翔!」

 振り向いた美咲の顔が、どうして? あたしの事、嫌いなん? って言いながらべそをかいている。俺は美咲の肩に両手を置くと、腰を落として瞳を覗き込むようにし、わかるように言い聞かせた。もちろん、優しく微笑んで。

「医者に、十八まで発病しなければ、まず大丈夫だと言われてるんだ。そのタイムリミットまでが後一年。わかるか? 大学や仕事もそうだけど、俺の場合特に、健康面でおまえの両親を納得させるだけの材料集めねーと、プロポーズなんてできるわけねーだろ? 俺は、できるなら親父の轍は踏みたくねーんだ。だから、もう少し待て」

 美咲が驚いたように両目を見開いたと思うと、たちまち涙をあふれさせ、何も言わずに俺の胸にしがみ付いてきた。かわいいヤツ、と思いながら、俺も思い切り抱きしめてやる。

 しゃーねー、俺も覚悟を決めるか。半年くらいバイトすりゃ、あの指輪買ってやれるだろ。それまで取っててくれるよう、内緒で頼んでみるかな。そう思って美咲を見つめると、振り仰いだピンク色の唇が、誘い込むように艶めいて光った。


  ―――今のところは、みんな平和だ―――








はじめまして。数年前に描いた作品ですが、読んでいただければ幸いです。

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