一話:人生とは恋愛である
俺は男として終わっている。
高校入学式からの帰り道、ペダルを踏み込むたびに自転車のチェーンが乾いた音を立てる。西日がやけに眩しく、視界の端でアスファルトが白く反射していた。そんな中で、唐突に、しかしどうしようもなく現実味を伴って、俺は絶望していた。
突発的に絶望しただけで、入学式で何かあったわけではない。
女を泣かせただとか、貧弱だとか、そういう話でもない。
恋愛感情が持てない、恋愛不能なのである。
モテないが故の強がりではない。あるいは強がりなのかもしれないが、もしそうなのであればそれは無意識領域であるため、ご容赦願いたい。
恋愛をしたくないわけではなく、彼女ができたことがないわけでもない。小学六年生のころ、クラスメイトの女友達から告白され、二つ返事で了承したことがある。放課後の校庭の隅、その女友達の友人が遠くからチラチラ見ていたのを覚えている。
幾度かSNSでやり取りをした。キスもした。「受け身」という但し書きが付くが。
結局、自分からアクションを起こさずに数カ月で自然消滅した。
恋愛って面倒くさいな、とその頃から思い始めた気がする。
その為、中学三年生の時に告白された際、
「俺は女友達としか見てないけど、それでもいいなら付き合うよ」
と返答をした。
自分なりに誠実な回答をしたつもりが、その子は「じゃあ大丈夫、ありがとう」と去っていった。
目元は見えなかったが、夕焼けに溶ける背中と、かすかに震えた声だけがやけに記憶に残っている。
有識者がなんでも回答してくれるサイトで、この件について「僕のこの返事はどうですか?」と質問したところ、五分で「最低ですね」と回答が付いた。
その瞬間から、自分がズレていることを自覚し始めた。
「あーあ、恋愛ってめんどくせえな」
思わず口に出すと、前を走る幼馴染が振り返りもせずに言った。
「いきなりガラにもないこと言わないでくださいよ、小林さん」
風に乗って届くその声に、少しだけ現実に引き戻される。
こいつは桐ケ谷。主人公のような名前の癖に、俺と同じ恋愛不能の哀れな奴だ。
ハッキリ言って変わり者だが、人を呪わば穴二つが俺のポリシー、そこは指摘しないでおくことにする。
「確かにガラでもなかった。帰ってドラハンやるぞ、ハンターレベル上げたい」
「今日でレベル解放まで行きますか」
人生とはゲームである。言う度笑われるが、本気でそう思っている。
もっとも、「ゲーム」の部分には娯楽全般が入る。快感を得られる現象であればなんだって良い。
人生の意味について考えた際、そう思った。
『人生とは恋愛である』
ふと脳裏によぎったその一文。
恋愛不能である俺には到底理解できない思想だが、きっとこの世には、この一文を見て大きく頷ける人種が沢山いるのだろうな、と思った。
「じゃ、またあとで。部屋は早かった方が立てるでよろしく」
「了解です。じゃ」
別れ際、振り返ると、沈みかけた夕日がやけに赤く、街全体を染めていた。
今、その夕日を一緒に見るのは桐ケ谷でいい。心の底からそう思った。
ーーーーー
高校一年生の五月の頭、俺はクラスの二軍男子の中心人物となっていた。
同中である俺と桐ケ谷は奇跡的に同じクラスになり、昼飯を一緒に食べていたのだが、そこから雪だるま式に非モテ集団らしき男子が固まってきたのだった。
昼休みの教室の隅、弁当の匂いと雑音に紛れて、気づけば居場所ができていた。
桐ケ谷は言動がイかれているため、会話を回せる俺が中心人物の役割を果たさなければならないのは必然だ。
「ぶっ飛ばしますよ、いい加減に」
「ヤバいヤバい! 桐ケ谷がキレる!」
「桐ケ谷は加減ができないから気をつけろ。中学でも『暴君桐ケ谷』と恐れられてたんだから」
笑いが起こる。
桐ケ谷は微笑みながら拳を握りしめている。怒り40、ネタ60といったところか。
独特な言い回しをいじられてキレる、いつもの流れだ。
雰囲気を保ちながら桐ケ谷をいじって笑いに変える一連の会話は、爆弾解除のようで楽しい。少しでも手順を間違えれば空気が死ぬ、そのスリルも含めて。
「ねえ、なんの話してるの?」
空気が変わった。
凍り付くとまではいかないが、一秒にも満たない沈黙がその場に下りる。
同じクラスの中島さんが、何故か二軍男子集団に話しかけてきた。
黒髪ロングで背が高く、光を受けて髪が柔らかく揺れる。顔はかなり可愛い部類だと思う。
「ああ、桐ケ谷がバカすぎるって話してた。うるさかった?」
「ぶっ飛ばしますよ」
「ううん、楽しそうだなと思って」
沈黙はまずいと思い、咄嗟に答える。
しかしその後が続かず、周りの黙っている男どもに殺意が湧く。
なんとか初手話してやったんだから、誰か続けよ。
「…小林君、放課後時間ある?」
「え、まあ、ある、けど?」
二軍男子達を見回してから、不意に出た質問。
ドギマギしながら答えると、中島さんは微笑んだ。
ドギリ、と心臓が跳ねる。
「じゃ、自習室にきてくれない? 話があるんだ」
「ああ、わかった」
二つ返事で答える。
よろしくね、と教室を出ていく中島さんの背中をぼーっと見つめ、はっとして振り返る。
恨めしそうな目をした二軍男子達が、無言でこちらを睨みつけていた。
ーーーーー
憎しみ20、嫉妬30、殺意50といった二軍男子に醜い日本語を浴びせられたが、クラスの可愛い子からのお誘いという最強無敵のメンタルバリアのおかげで何も感じなかった。
桐ケ谷には一人で帰ってくれと伝えた。
「変わってしまいましたね」という言葉と共に帰っていった。
俺は恋愛不能だが、自分を好きな人は好きだ。舞い込んでくれるならば願ったり叶ったりである。
我ながらクズ過ぎる、整合性もクソもない思想に辟易しながら、自習室に辿り着く。廊下は静かで、足音だけがやけに響いた。
我が高校は各学年に自習室が割り当てられているのだが、一年生のこの時期に利用する人はほとんど存在しないと、学校案内の先生が言っていた。
二人きりになれそうな空間に呼び出された、という事実も、ただの呼び出しを愛の告白と勝手に確定させている一因である。
扉の前で一度深呼吸をする。
そういえば中島さんは同じクラスだったが、一目散に自習室に向かってきてしまった。一緒に来ればよかった。
「よっ、早いね」
背後から中島さんの落ち着いた声が聞こえた。跳ねる心臓と体を意志の力で押さえつけ、平静を装う。
「おお、声かければよかったよね、ごめん」
「いや、誘ったの私だし」
当然のような顔で軽く会話しながら自習室に入る。我ながら鉄仮面だなと思う。
埃とカビの匂いが微かにする自習室には、西日というには白すぎる光が差し込んでいた。
使われていない机が整然と並び、どこか時間が止まっているような空間だった。
窓際に座ろうという中島さんの提案のもと、一番窓際の最前列に俺が、その一つ後ろの席に中島さんが座る。
振り返ると、光に照らされた中島さんの表情が少しだけ見えにくかった。
「話っていうのはね、多分君が思ってるようなものじゃないんだよね」
「というと?」
一息置いて、中島さんが話し出す。
「私、恋愛が苦手なの」
「…へ?」
素っ頓狂な声を出してしまう。
確かに、全く想像とは違う話だった。
「何回か告白されたことがあるんだけど、ずっと受け身でいることしかできなくて」
「はあ」
「『友達としてしか見れないけど』って返事して泣かれたし」
「ほお」
「でも恋愛がしたくないわけではないの」
「へえ」
さっきまでのドキドキが、全く違うドキドキに変化した。
俺と同じだ。
中島さんも、恋愛不能なんだ。
しかしそれなら、何故呼ばれたのだろう。
「そこで、私が話しかけても唯一動揺しなかった小林君にお願いがあるの」
「なるほど、それで俺に」
合点がいった。
動揺はしまくっていたが、ポーカーフェイスは得意だ。
「私のことは好きじゃないかもしれないけど、恋人役として私のトレーナーになってほしいの。上手に恋愛できるように」
絶句した。
どうやら俺を冷静沈着な恋愛巧者だと思っているらしい。とんだ勘違い過ぎる。
だが——退屈な日々に、この非日常は眩しすぎる。
胸の奥で、何かがわずかに動いた気がした。
「俺でいいなら、喜んで」
「ほんと? ありがとう! よろしくね!」
恋愛トレーナーとは、業務内容も分からないが、非常に楽しめそうだ。
窓から差し込む光が、さっきよりも少しだけ柔らかくなっていた。
退屈な日常が裏返る予感がした。
「俺に彼女がいたらどうしてたの、それ」
「…あ」
「ま、いないけど」
「いないんじゃん!」




