とある貴族令息の婚約破棄計画 ~令嬢視点~
「本妻が男児を生めない可能性がある以上、あらかじめ多くの妾を迎え入れておくことは必要だろう」
なぜそんな簡単なことが分からないのだと言いたげに見つめてくる青い瞳に、わたくしは最後の希望を打ち砕かれた気分でした。
彼と初めて出会ったのは、まだ幼い頃のこと。お父様に連れられて、当主同士の話し合いのもと成立したという婚約者に会いに行った日のことでした。あの日も今日のようにとてもいいお天気で、きっといいことが起こるはずだと胸を高鳴らせていたわたくしは、そのすぐあと広いお庭の中で一人取り残されることになるなど想像もしないまま。
わたくしにとって婚約者と仲を深めるという行為は、果てしなく平行線をたどる一方通行でしかないものでした。わたくしの話になど一度も耳を傾けようとはしてくださらず、毎回なにか気に障ったことがあったと怒鳴りながら遠ざかっていく背中に、何度この婚約自体をなかったことにしてほしいと願っていたことか。
けれどそのたびに、彼の弟がわたくしに気を遣って話しかけてくれたのです。
「大丈夫ですか?」
同じ青の瞳だというのに、その視線には常に優しさが満ちあふれていて。血のつながった兄弟で、どうしてこうも違う育ち方をされてしまったのかと疑問に思ったものです。
彼の弟とは双方向で会話ができるのと同時に、同じ年齢ということもあり親近感を持って接していたことは事実ですが、逆にいえばそれ以上の感情は持ち合わせていませんでした。
だからこそ、わたくしの婚約者は彼だけなのだと理解したうえで将来夫婦になる前提だと考え、彼からの妾についての提案にこう返したのです。
「それは認められません。最初から妾を大勢迎え入れられては妻の立場がなくなってしまいますし、そうなればわたくしのお父様も――」
ですが、わたくしの言葉が彼に届くことは最後まで一度もありませんでした。
「黙れ! お前はどうしてそう頭が固いんだ! こんな女がこの家の嫡男である私の婚約者を名乗っているなど、許しがたい事実じゃないか!」
わたくしは途中で言葉を遮られただけでなく、なぜか軽い罵倒を受けた挙句。
「いい加減、私もガマンの限界だ! お前のような女は私にふさわしくない! 即刻婚約を破棄してやる!」
一方的にそう告げて、いつもと同じように彼は一人お屋敷の中へと戻っていってしまったのです。わたくしをこのガゼボに残したままで。
(……あぁ、そうね。それもいいかもしれない)
こんな関係を続けるくらいならば、いっそ婚約破棄をしてしまったほうが楽になる。特に今回に関しては彼のほうからの申し出で、さらには事前に妾を大勢迎え入れるなどというわたくしの名誉を傷つけるような発言をされたのだから、きっとお父様もお許しになるはず。
実際、婚約者であるはずの彼には外に大勢の愛人がいるのだという情報は、かなり早いうちから私の耳にも届いていました。とはいえ当時はまだ彼も成人前で、かつ政略結婚が基本の貴族ともなれば愛人を持つこともおかしな話ではなく、法的にも問題はないからと特に気にしてはいなかったのですけれど――。
(女性の扱いに慣れるための練習と思えば安いものだと、全てを承知のうえでお父様もお許しになっていたことを、きっと彼は知らないのでしょうね)
そして万が一にも彼が愛人に本気になりわたくしの存在をおろそかにするようなことがあれば、相手方の瑕疵として賠償金を支払わせるかより良い条件での契約を結び直すか、最悪の場合は婚約自体をなかったことにすることも考えているのだと、あの時のお父様は口にしていた。顔は笑みの形を作っていたけれど、目だけは笑っていない表情で。
「……帰りましょうか」
こんな苦痛から解放されるというのであればそれで十分と、わたくしは屋敷から連れてきた侍女へと言葉を向けました。それに当然のようにうなずいてくれる彼女も、表情は普段通りですが瞳の奥に静かなる怒りを宿していたので、きっとこの事実はすぐにお父様の耳に入ることでしょう。
訪問先のお屋敷の使用人たちが突然の状況に戸惑っているようですが、それはわたくしたちには関係のないことですから。こちらが今できることといえば、このまま素直に帰宅して彼のお望み通り婚約を破棄することくらいでしょう。ただし、それは彼らの主の一方的な都合であり、そしてその瞬間に居合わせたにもかかわらず引きとめることもできなかったとして彼ら自身が罰を受けることになったとしても、それこそわたくしにはなに一つ関係がありませんからね。
「お待ちください!」
立ち上がりガゼボから足を一歩踏み出したところで、遠くから声をかけられました。普段と同じように、婚約者の弟である彼に。
「お話は全て伺っております! 兄が大変な失礼をいたしました!」
珍しく焦ったような表情を浮かべている彼は、その鮮やかな金の髪が乱れることも気にせずわたくしに頭を下げると、さらにこう言葉を続けたのでした。
「今回の件について我が家は重く受け止め、兄上にも相応の罰が与えられるはずです」
「そう、ですか」
ですがそれがいったい、なんだというのでしょうか。まさかそれだけで、この婚約関係を続けてほしいとでも?
(いやよ、そんなこと)
目の前の光を反射して輝く金を眺めながら、いっそ彼がわたくしの婚約者だったならこんなことにはならず、わたくしもこんな思いをする必要はなかったのにと、この時初めてそんなことを考えてしまったのです。
けれど、彼にそんなわたくしの思考が読めるはずもなく。
「名誉を傷つけるような発言、そして一方的な婚約破棄宣言など、到底許されるようなものではありません。なにより、あなたには一切の非がないのですから。それは私が保証いたします」
「……」
兄弟で同じ色合いのはずなのに、普段は優しさが灯る青い瞳を今は真剣な眼差しでこちらへと向けながら、彼はただただ真摯にわたくしに向き合おうとしてくれていました。
ですが、それだけではなく。
「ですからどうか、もう少しだけ我が家にお付き合いいただけないでしょうか? 近々いいことが起こるはずですから、もう少しだけお待ちいただきたいのです」
家のためになのかは分かりませんが、いいこと、などという珍しく曖昧な表現を使ってまで必死に引きとめてくる彼の姿に、わたくしはどこか興味が湧いてしまって。
「……分かりました。ですが本日の件に関しては、お父様にしっかりとご報告させていただきますね」
「もちろんです! むしろこちらからも詳細に関する文書をご用意いたしますので、それまでは今までのように私と共に時間を過ごしてはいただけませんか?」
少し意地悪だとは理解しつつも言葉を返したわたくしに、彼は家にとって不利にしかならない状況であるにもかかわらず即座にうなずいてくれただけでなく、こちらがお父様へ説明する手間も省けるように手配すると約束してくれたのです。特に最後のその申し出は待ち時間を退屈させないようにという配慮から出た言葉であることは明白だったので、わたくしも笑顔でうなずいて差し出されていた彼の手を取り、一度ガゼボへと戻ることにしたのでした。
ですが、まさか……。
「あなたの婚約者となれたこと、本当に光栄です」
婚約破棄宣言によってわたくしの婚約相手が兄から弟に変更になるなど、そして今までに見たこともないほど甘く優しい笑顔を向けられて思わず胸がときめいてしまうようになるなど、この時のわたくしはまだ知る由もなかったのです。
これにて完結です!
お読みいただきありがとうございました!