#1984 銭湯にて
建物は古いけど、浴場はきれいに手入れされていて清潔感がある。
確かに中にいるのはおばあちゃんばかりだ。
女湯と男湯を仕切る壁の向こう側から、何やら騒がしい声が聞こえる。多分タカシさんたち、『トホホの会』メンバーだろう。
洗い場に、若い女性が三人並んでいた。彼女らはキャッキャと歓声をこだまさせながらシャンプーしたり、体を洗っている。
タカシさんのサークル仲間といきなりの裸のつき合い。変な感じだ。
ちょっと勇気を振り絞る。
「あの、タカシさん……佐伯さんから聞いたんですけど、シャンプーとかお借りしてもいいでしょうか?」
端に座って髪を洗っている女性が頭を上げずに答えた。
「ああ、サークルの新メンバーかな? そこのビオレとかシャンプーやら使っていいよ」と鏡の下の台を指さした。
「あ、ありがとうございます」
手を伸ばしてボディソープを借りる。
「それね、こないだ発売されたばかりなんだ。試しに使ってみてるの」
ひょっとしてボディソープってこの年に生まれたのだろうか。
「新メンバーさん、これからよろしくね」
その女性が、顔を上げニコッと笑った。
「あ、よろしくお願いします、名前は佐伯美玲……」
私は絶句してしまった。
若い! 若いって誰と比べてるかというと……母。
母に間違いない。間違いないけど若い。肌がツヤツヤ、ピチピチだ。
そりゃそうだ。このサークルのメンバーだとすると、彼女は大学生。私と同い年ぐらいだろう。
そうか……母と父は、このサークルで知り合ったのか。
「私は佐野めぐみ。『佐伯』さんってことは、ひょっとしてタカシ先輩の親戚?」
「あ、いえ、あ……はい」
私がジロジロ見ているのを不思議に思ったのか、小首をかしげて聞いてきた。
「私たち、どっかでお会いしたことがあるかしら?」
「え⁈ いえいえいえ……多分初めてだと思います」
「「よろしくねー!」」
洗い場にいた他の二人もこっちを向いて声をかけてきた。
『ヘアコロン』というシャンプーは、いい匂いがした。
四人で湯舟に浸かる。
女子大生に囲まれて、質問攻めにあう。
これは困った。変なことになってしまった。
なるべく当たり障りなく答えたが、
「学部と学科どこ?」
と聞かれ、イチかバチかで『文学部の一年』と答えた。嘘はついていない。あっちの世界で実際に通っている。コースが分かれるのは二年になってからだ。幸い、このサークルには一年生はいなかった。
こうして、私は自分自身を『今年この大学に入った、佐伯孝さんのハトコ』という設定にしてしまった。
風呂から上がり、男女共同の休憩室に入ると、タカシさんと男子学生二人がフルーツ牛乳やらイチゴ牛乳やらを飲んでいた。
私はタカシさんのそばに寄り、ヒソヒソと『私、タカシさんのハトコっていうことになってるから』と伝えた。
一瞬彼はピンク色の牛乳瓶を持ってキョトンとしていたが、察したのか『ああ、わかった』と答えた。
その場は、さらに男子が加わって、私への質問コーナーになってしまった。
私とタカシさんは、アイコンタクトして話を合わせながら質問に答えた。
ひょっとしたら、この短時間で十年分の嘘をついたかもしれない。
今日のトホホの会は、その銭湯で現地解散になった。
このサークルの活動に参加したはしたが、タカシさんと一緒に歩いただけで、みんなとはお風呂に入っただけだ。
昔の大学生は、ことあるごとに飲み会をやっていたと聞いたことがあるが、意外と健全だ。
JR、じゃなかった国鉄の池袋駅まで、二人でまた歩く。
「いやあ、ヒヤヒヤものだったね」
「ごめんなさい、変な話になっちゃって」
「でもどうして、君は僕のハトコってことになってるのかな?」
「……」
間違って自分の苗字を語ったなんて言えない。
「まあいいや、君は自分のこと、話したがらないようだし、そういう設定の方が都合がいいかもしれない……それにハトコっていうのは何となくシックリくる」
「え、どうしてですか?」
「何となくの感覚なんだけど、君と接していると、妹というか、家族というか、親戚というか……なんか血がつながっているような気がするんだよね。なんでだろう?」
そう言って私の顔を覗き込む。
「な、なんででしょうね……」
何とか話を逸らしたい。
「あの、銭湯で一緒になった『佐野めぐみ』さんって、可愛い方ですね」
「え?……まあそうだな」
あれ⁈ 意外と反応薄いな。
「おつきあいとかされてないんですか?」
「どうしてそうなる? ……まあ、他のサークル仲間の女子とウチに遊びに来たことはあるけど」
めぐみさん、あの『四畳半』は利用したことがあるのか。
「それにめぐみちゃんには好きな人がいるしね」
「え⁈」
私は思わず立ち止まってしまった。
「どうしたの?」と不審げな顔をして歩を止めるタカシさん。
「そ、それだと……将来……」
「将来って?」
「いえ……何でもないです」
「ほんと変な子だなあ」
そう言って再び歩き出した。そしてタカシさんはボソッとつぶやいた。
「めぐみちゃんは、男には興味ないんだ」
「え⁈」
再び私は立ち止まる。
「ど、どういうことですか?」
「今日、ずっとめぐみちゃんの隣にいた子。ミキっていうんだけど」
そう言えば、銭湯から上がっても、めぐみさん……私の母は、髪の長い女性と腕を組んで座っていた。
「あの子とつきあってるんだ」
これはびっくりだ。まさか自分の母が学生時代は女性とおつきあいしていたなんて。そんな過去を知ることになるとは思わなかった。
……と、悠長にびっくりなんてしていられない! だって、このままじゃ、タカシさんとめぐみさんは結婚せず、私は生まれてこれなくなってしまうんだから。
「で、でも……恋人同士ってわけじゃないでしょう?」
「うーん、どうだろうな。俺の見る限り、普通の友達同士のようでもないし」
「……ほんとに男子に興味ないのかな?」
「前にミキからちらっと聞いたんだけど、めぐみちゃんの家、しつけが厳しい家庭でね、特にお父さんが。それで男性恐怖症の気があるんじゃないかって」
「でも、タカシさんの家に泊ったりしてるんでしょう? 外泊して怒られたりしないのかな……それに男子の家に泊るのは恐いんじゃないのかしら?」
「ああ、彼女は実家が広島で、今は一人暮らしだからね。さすがにしょっちゅうは干渉されないだろう……それと、俺のこと、そんなに男として意識してないみたいでね」
「?」
「去年の春、サークル……トホホの会の勧誘のチラシを文学部のスロープで配ってたんだけど、その時新入生のめぐみちゃんと初めて合ったんだ。俺は彼女にチラシを手渡し、簡単にサークルの説明をしたんだけど、恐いとかそういう気持ちが起きなかったこともあって入会を決めたらしい。これもミキから聞いたんだけど」
うーん、タカシさんに積極的な好意を持っているわけではないけど一緒にいても特に抵抗はない、というわけか……微妙なところだ。
「ミキさんは、めぐみさんのこと好きなんですか?」
「ああ、放っておけないんだって。妹みたいに可愛くて」
これも微妙なところだ。
「でもタカシさん、めぐみさんのこと、少しは気になってるんでしょう?」
「バ、馬鹿言え、そんなわけ……ないだろ!」
ははん、これは怪しい。女の勘を舐めてもらっちゃ困る。
そんなに強い気持ちではないが、お互いに好意がないわけではない。そもそも私が生まれてこの世にいる、ということは、この後二人は恋愛し結婚することになるはずだけど、ホントに大丈夫だろうか? ひょっとして私がこの時代に来たことによって微妙に『史実』が変化してしまうことはないのだろうか? そんな不安が頭をよぎった。
「ところで君は、しばらくウチにいるんだろ?」
「……はい、そうさせてもらえると大変助かります」
「いいんじゃないか。俺の母さんも君のこと、気になってるし、気に入ってるみたいだし」
「そ、そうなんですか? それはありがたいです」
タカシさんとお母さん、二人には申し訳ないなと思う。でも本当のことは言えないし、言っても信じてもらえないだろうし……いっそのこと、話した方がいいんだろうか。私は2018年の未来から来た、タカシさんの娘であり、お母さんの孫なんだって。
でも、もし信じてくれたとしても、私の母がめぐみさんだなんて言っていいのかな? そもそも将来の結婚相手が誰かなんて、タカシさんは聞きたがるだろうか?
それに。
私が中学一年の時、父が癌で……なんて、とても言えない。