見よ、聖者の帰れるを
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。
別のノートから破り取った部分のようだが、それは最新のページに丁寧に糊付けされていた。
暗号のような文字列が几帳面な字で書かれている。
『ダル2C浸 玉生シシ 加粉油大1 SP』
「どういうことなんだろ」
「日記なんて、他人が読んでわかるかなんざ、はなっから気にもしちゃいねえだろう。うっかり見られてもいいようにわざと曖昧に書くことだってあるわな」
相変わらずの塩っからい口調で、曽根は言う。
「そりゃね。でも他のページは、そのまま出版してもいいくらいの文章だよ。ここだけなんだ」
僕は、淡いクリーム色のページの角をそっと撫でた。茄子紺色の革張りの装丁とのコントラストがなんとも品のいい日記帳だった。
「そもそも、なんでそんな厄介な依頼を抱え込むことになったんだ」
本人が来る前にちゃんと説明しろ、と曽根は眉を怒らせた。そのスジの人に見えなくもないくらい迫力がある。泣く子も黙る、鬼瓦の曽根である。
秋の正午を少し回った頃合いだ。この時間、曽根米穀店の客はぱったり途絶える。店長の曽根と店員兼便利屋作業員の僕、二人が雁首を揃えても、書類仕事や電話番くらいしかすることがない。それを当てにして、店の副業である、よろず便利屋の依頼人には午後一番の時間帯に店にきてもらうことにしていた。
まかないのおにぎりを一口かじって飲みこんでから、僕は話し始めた。
「依頼人は杉井美音さん。大学の授業で知り合った」
ごく普通の女子大学生に見えた。派手ではないが気の配られた身なりで、授業で積極的に発言や質問をする方ではないが、欠席は少なく、ノートもこまめにとっている。
「杉井さん、下宿がこの商店街を抜けた先なんだって」
先週の授業の後でふいに声を掛けられた。
『梅田君のバイトしてるお米屋さん、最近、何でも屋さん始めたよね』
通りすがり、僕がシフトに入っているのを何度か見かけていたらしい。お盆のころ店主が新しく張り出した、『困りごと、万事承り候』という手書きのPOPが気になっていたのだという。
『あれってどんなことを頼めるの?』
そう正面切って聞かれると実は困ってしまうのだが、僕は曖昧に答えた。
『店主が割と顔の広い人なんだ。相談を聞いて適切な専門家やお店を紹介したり、役所や警察に行った方がよさそうならそう助言したり。料金は内容次第で、他を紹介するだけなら無料。普通の便利屋みたいな雑用もするよ。家具の移動や買い物、電球交換とか』
わかったようなわからないような説明に、杉井は首を傾げた。
『依頼があれば声をかけて。店主に紹介する』
暗に、僕には仕事を引き受ける権限がない、と告げたつもりだった。だが、彼女は急に思いつめた顔になった。
『じゃあ、調べものは? 半年ほど前から音信不通の叔父が部屋に残していった日記の謎を解きたいの』
思った以上に重い一言だった。僕は一瞬、言葉に詰まった。
まさに、店主が判断しないとどうにもならない案件だ。僕がずれかけた眼鏡を直しつつ、相談の日時をすり合わせようとすると、杉井はバッグから茄子紺の皮張りの日記帳を取り出した。
『これなんだ。一人じゃどうしようもなくて、途方にくれてて』
『大事な物だろ。相談の時でいいよ』
押しとどめようとした僕の手に、彼女は日記帳をねじ込んだ。
『中を読んだ上で断られるなら、それでもいい。でも、一度検討してみてほしいんだ。お願い』
僕はたじろいだ。思わず彼女の肩あたりに視線をさまよわせたが、引く様子がない。うなずくしかなかったーーーー。
僕の説明に、なるほど、と曽根はため息をついた。
「……で、ウメ。どう思う?」
僕は口をへの字に曲げた。曽根の表情も曇る。僕が言葉に詰まる状況を察してくれたらしい。
「説明が難しいなって。でも依頼は、日記の謎を解くこと、だよね。それに限定すればやり方はあるかも。あとは杉井さん、叔父さんそれぞれの問題だから」
「そうか。……押し切られたんだな」
「圧がすごくて。でもとにかく、曽根には先入観なしに判断してほしい」
「まあ、会えばわかんだろ」
曽根は大きく伸びをしてから、日記帳を手に取ってぱらぱらとめくり、読み始めた。僕はその間に、テーブルの上の片付けにとりかかった。
***
約束した午後一時半ちょうどに、杉井美音は現れた。
「ごめんください」
バックヤードに招き入れると、彼女は先日の切羽詰まった様子を恥じるかのように僕に会釈してから、曽根に向かってぴょこんと頭を下げた。
曽根は、少し目を細めるようにして彼女を見た。しばらく黙っていたが、ふと我に返ったように言う。
「ああ、座ってください。……それで、具体的にはどんなご希望なんですか?」
彼女は、机の上に置かれた日記帳を指さした。
「こちらはご覧いただきましたか?」
「はい、ざっと」
「この、最後のページだけ、意味が分からないんです。ここに何が書いてあるか調べていただくことはできるでしょうか」
「叔父様の日記だそうですね」
「はい。この最後のページも、その前に書き込まれた文章も、叔父の筆跡です」
「ご本人に直接お聞きになる機会があるまで、待つという方法もありますよ」
立ったままだった僕は、さりげなく杉井に背を向けた。曽根の静かな言葉に思わず唇を引き結ぶ。
曽根も酷なことを言う。
僕の特別製の眼鏡越しにも見えたものは、彼女と会った瞬間、曽根にも察せられたはずだ。先日も今日も、彼女の肩先に所在なさげに浮かんでいる、彼女とよく似た面差しの中年男性。それは生きている人間が思い余って飛ばした念ではありえないほど輪郭が濃かった。
多分、杉井の叔父は、この世にはいない。彼女がよほどその種の才能に恵まれていない限り、直接叔父と話す機会はもう訪れないだろう。
僕と曽根には、見えてはいけないものが見えてしまう。いわゆる霊感というやつだ。
僕は気がつかず、人ならぬ存在とも普通に関わってしまっては体調を崩していたのだが、たまたま知り合った曽根に指摘されて、自分の特異体質を知った。彼の紹介の眼鏡屋であつらえた特別な眼鏡をかけることで、どうにか『視力』を下げ日常生活がまともに送れるようになった。
それでも時に『あちら側』の存在と関わりを持たざるをえなくなることがある。その時身を守るのが『便利屋』の契約なのだ。
できることを約束して協力する代わり、できないことはできないと断る。そうでないと、付け込まれてずるずる頼られ、たたられることになる。はっきり線を引くために、曽根が『便利屋』という仕組みを作ったのである。
そういう意味で、僕たちの『便利屋』の本来のお得意様は、この世の人達ではない。
僕が日記帳を受け取ってしまったのは、杉井の肩からじっと訴えかけるようにこちらを見つめていた、この中年男性のせいだった。
「ここに何が書いてあるか、ということですよね」
曽根はページを開いて指した。最後の、日記よりもさらに古いノートから切り取って貼り付けたらしい暗号メモのような部分だ。
「何か特に心配なことがあるんですか?」
無表情に問いかけた曽根に、彼女はうなずいた。
「先に言っておかなくて申し訳ありませんでした。あの、人が多い講義室では言いにくくて……」
彼女は口ごもってから、思い切ったように言った。
「叔父は、両手の小指の先が欠けていました。それと、夏でも長袖を欠かさず、見せないようにしていましたが、肘の少し下あたりに複雑な模様の刺青があったんです」
「ほう。小指の欠損と前腕部の刺青」
『鬼瓦』の曽根が言うと独特の迫力がある。
「最近ですか?」
「いいえ。私が物心ついたときにはもう。少し古い写真ですが」
彼女はスマホで画像を見せてくれた。風呂上りらしい甚平姿で、幼い美音を抱えて笑っている男性。明らかに、彼女の肩先にいる人物の今より若い姿だった。その袖口から覗いた腕には、黒い線が込み入った模様を描いていた。
「叔父さんは何と?」
「当たり前になっていたので、わざわざ話題にはしませんでした。でも子どもの頃、指について何気なく尋ねたのを最近思い出したんです。その時は、叔父は困ったように笑って、神様につかまりそうになっちゃったから、家に帰るために預けてきたんだよ、って。冒険ものの民話みたいな内容なので、私を怖がらせないように冗談で答えたのかと思って忘れていたんです」
「叔父さんが、いわゆる反社会集団と関りがあるかもしれない、と感じたことは?」
「全くありませんでした」
彼女は視線を落とした。
「穏やかで、物事に固執しない人です。唯一、叔父自身が自分の執着だって言っていたのは、三年前に亡くなった祖母と私のことくらいで、恋人どころか親しい友人もいない様子でした」
祖母と住んでいた家を手放し、身の回りのものも最低限に淡々と暮らしていた叔父が、半年前から急に連絡がつかなくなった。一人暮らしの部屋に残されていたのは、衣類や日用品が少しと、この日記帳だけだった、という。
「仕事は何を? まだ引退する歳ではないですよね」
五十代半ばほどだ。彼女は首を横に振った。
「多分、株じゃないかと。大学を出た後、保険会社に勤めていたんですが、祖母の介護で辞めてしまって。勤めていた時期に得た知識に加え、独学で勉強して、退職金を元手に投資をしていたみたいです」
日記の大半は、自由人として暮らしている独身男性の日々の所感を綴ったものだ。季節の話題、食べたもの、何気ない思い出話。そんな内容が中心で、極道とのつながりはおろか、投資とか、その他の生計に関わる仕事の内容も一切出てこない。雲か霞を食べて生きているみたいな、澄んだ内容だった。
彼女は顔を上げて、真っすぐに曽根の目を見た。僕にも意志の強い視線を向ける。
「叔父は危ないことに関わっていたと思いますか? もしそうであれば、父を説得して警察に相談しないと。気が向いたらふらっと帰ってくるだろう、って初めは思っていたんです。でも、叔父がこの日記を置いて行ったのは私へのメッセージじゃないかって思い付いたら、怖くなってしまって」
「メッセージ? 杉井さんへの、というのは?」
「私が叔父の部屋の鍵をずっと預かっていたんです。私と父以外には身寄りがない人なので、冗談めかして、何かあったときのために、と言われて。父と叔父はずっと折り合いが悪かったものですから」
「今の部屋に引っ越した時からですか?」
「いいえ、その前から。叔父と祖母が二人で暮らしていたころ、その家の鍵を預かったのが最初です。中学生になったすぐあとくらいだったと思います。何かあったときのために、なんて、表向きの口実でした」
彼女は自嘲めいた笑みを浮かべて、わずかに目を伏せた。
「私自身も、その当時、父ともめて家を飛び出してしまうことが度々あったんです。いつも行く先は祖母の家でした。祖母や叔父が作ってくれたありあわせの夕ご飯を一緒に食べたりして、落ち着いたら帰宅するのがお決まりで、祖母が亡くなってからも叔父を頼ることが何度かありました。叔父はあれこれ詮索しないので、居心地がいいんです。いつも、しょうもない話ばかりしていました。カレーにタケノコを入れるのはおかしくない? とか。祖母が作らない料理ばかり作るのが面白くて、聞いたら、学生の頃に貧乏旅行をしていて覚えたんだ、とか」
彼女が大学生になって一人暮らしを始めてからも、鍵を返すきっかけはなかったという。
「叔父から頼まれたらすぐ返そうと思っていました。けれど、言われもしないのに自分から返すのも他人行儀な気がして。なので、叔父は自分が音信不通になった時、最初に部屋に入るのは私だと想像できたと思うんです。だから、私だけにわかるように何かを伝えようとしたのかと」
「ああ、そういう事情なら、おっしゃることはよくわかります」
杉井は、訴えかけるようなまなざしで曽根を見た。その視線は僕にも向けられる。
「これが暗号のようなものだとしても、もちろん、叔父がトラブルに巻き込まれているとは限りません。茶目っ気のある人なので、ひょっとしたら私が謎を解いて迎えに来るまでかくれんぼ気分で待っているのかも。パソコンを持っていれば、どこでも株の仕事はできますし。でももし、もっと大ごとで、誰かに相談することもできずに叔父が困っているのなら、今度は私が助けないと。いずれにせよ、謎が解けないことには身動きが取れないんです」
曽根はうなずいて、しばし考えこんだ。
「ページの中身について、一つ予想はあります。叔父さんは学生時代、旅行をご趣味にされていたんですよね。とりわけ、登山に打ち込まれていたということはありませんでしたか」
無感情な曽根の声にぎょっとして、僕は隣の相棒を振り返った。僕は、肝心のそのページの中身については未だに皆目見当がついていなかったからだ。
杉井も驚いたように目を見開いた。
「若いころは、もしかしたら。今は道具も持っていませんが」
「俺のは、あくまで一つの可能性です。全く的外れかもしれませんが」
「構いません。教えてください。正式に料金をお支払いしますから」
勢い込んだ杉井を、曽根は手のひらを見せて押しとどめた。
「こんな不確かな思い付きでお代はいただけません。でも、こちらも一応、商売なので……そうだ。今度、神社の秋祭りでおにぎりの店を出すんですが、手が足りないんです。売り子の単発バイトをお願いできませんか? 時給はそう高くはできませんけど」
祭りの日付を聞いて、杉井は即座にうなずいた。
「むしろ私が得しちゃいますよ。そんなことでいいんですか?」
「今時、いいバイトさんを見つけられるかどうかは、経営者にとって死活問題なんですよ」
しかつめらしい顔で曽根は腕をくんだ。
***
予想が当たっているかどうか、検証実験をしたい、と曽根は言い出した。
「お前は商店街を回ってこれを集めてきてくれ」
買い物メモを渡される。中には、商店街に並ぶごく普通の店で扱っているのかよくわからないものもあったが、曽根が先回りして店主に電話をかけ、話を通しておいてくれると言ったので、完全にただのおつかいだった。
僕が買い物から戻ると、曽根はまかないを作るのに使う住居部分の台所を簡単に片付けて待っていた。杉井は所在なさげに食卓の横に立っている。
「この部分は、別の手帳から切り取って貼り付けたように見えますよね。たまたまこれに見覚えがありました」
彼は、用紙の隅にごく薄いグレーで印刷されたロゴを指さした。
「フィールドワーク用のメモ帳です。インクの乾きが早く、丈夫で水濡れに強いのが特徴で、研究者やバックパッカーに人気のロングセラーなんです」
「ああ、それで叔父も使っていたんですね」
「持ち物に執着しない叔父さんがこのページだけ残していた理由の一つはおそらく、使うからです」
彼はページの最初の辺りを指さした。
「ダル2C。ネパールの食文化で、ダルバートというのをご存知ですか?」
彼女は首を横に振った。
「ごはん、豆のスープ、辛い漬物、野菜のスパイス炒めなどで構成される定食のことです。この、豆のスープをダルと呼びます。ご飯がバート」
彼は、僕が持ち帰ってすぐ、計量カップに二杯計って鍋の中で水に浸けていた豆を示した。緑豆という種類の豆だ。
「ダルには、ひきわりにした豆、という意味もあります。浸水時間が短くても早く煮えるのが特徴なんです」
彼は豆と水の鍋を火にかけて沸騰させ、その傍らで野菜を刻んだ。
「玉ねぎ、生姜、シシ唐。材料や入れるタイミングは地域や家庭によっても違うようですが、これを豆の鍋に入れて柔らかくなるまで煮る」
鍋から、香味野菜の独特の香りが立ち始める。杉井は眼を閉じて深く息を吸い込んだ。
「……ああ、この感じ。叔父の料理、こういう匂いがします」
「当たりなら、こちらはもっと印象に残っているかも」
曽根は小さなフライパンに、大匙一杯ずつのカレー粉とサラダ油を入れた。つまりこれが、曽根が解釈した『加粉油』なのだろう。言われてみれば、暗号はレシピの走り書きに見えてくる。
「ネパール料理なのにカレー粉でいいの? インドだろ」
僕が疑問を口にすると、曽根は呆れたように片眉を上げた。
「カレーはインドに限らん。タケノコカレーはネパールの定番だぞ。現地では家ごとに秘伝の調合があるみたいだけど、日本では単独のスパイスでは気軽に買えないから、『カレー粉』のつもりで書いたんだろうと思ってさ」
そんなやり取りが終わるか終わらないうちに、油で熱されたスパイスの香りがぱっと花開くようにあたりを包んだ。
「あ、……これです!」
彼女はふと涙ぐんだ。心細そうな様子に見えた。
「叔父さん、私にレシピを置いていこうとしたのかな。戻ってこないつもりとか? まさか」
「一見わかりにくいですが、見る人が見れば謎でさえないですしね。旅の思い出と、美音さんとこの料理を食べた思い出、両方を懐かしんで貼ったのかも」
曽根は油で炒めたカレー粉を豆の鍋に加え、塩コショウ――つまり、SとPだ――で味を調えて、底が焦げ付かないようにかき混ぜながら言った。
「丁寧な字なのに極端に省略した書き方なのは、旅行中、メモ帳をできるだけ節約したかったんでしょう。むしろ、この日記の部分の方が、誰かに――おそらく、杉井さんに読まれることを意識して書かれたような気がします。普段はこれだけ綺麗な文章を書く方ですから、自分の想いを言葉で語らずにはいられない気質でしょう。このレシピだけってこともないんじゃないですか。追って何かありますよ、きっと」
彼女の肩口で、中年男性が恥ずかしそうに頭をかいた。
僕には、彼の存在を杉井に伝えることがどうしてもできなかった。曽根も、目顔で何も言うなと告げている。
信じろと言う方が難しい。彼女を傷つけるだけの結果に終わる可能性の方が高い。
だが、中年男性の輪郭は、スパイスの香りの中で次第にはっきりしていった。アジアの山岳民族風の凝った衣装を着ている。両腕や顔面に、不思議な模様の刺青のような筋が走っていた。
僕は内心で、彼に手を合わせた。 矛盾しているようだが、ごく普通の中年のオジさんにしか見えない彼には、そうせざるを得ないほど神々しい圧が備わっていたのだ。
どうか杉井を見守ってやってほしい。そして、彼女を宙ぶらりんのままにしないで、大好きな叔父さんが行った先の世界のことを、どうにかして伝えてやってほしい。
***
二週間後。
朝からよく晴れた。地元の鎮守の社が行う秋祭りには、近隣からたくさんの客が訪れた。
杉井は、大学で会っても祭りのバイトに来た時も、それまでと変わらない、控えめながら明るくはきはきした様子だった。
だから、出店の片付けが済んだ後で、彼女が少し時間をくれ、と言って話し出した内容には、驚いた。
「叔父の訃報が届いたんです。曽根さんと梅田君には叔父のことで先日お世話になりましたから、きちんと伝えなくては、と」
曽根は彼女を店のバックヤードに招いた。
「立ち話でする内容でもないでしょう。よろしければゆっくり」
「いいんですか? ぜひ、聞いていただきたいんです」
彼女は前回と同じ古いパイプスツールに座って、静かな口調で続けた。
「ネパールの隣のごく小さな新興国に滞在中、持病が急に悪化して亡くなったそうです。日本とまだ正式に国交がない国だったのと、現地の天候の状況で、訃報がネパールの日本大使館経由で伝わるまで時間がかかったんだとか」
叔父は末期がんだったという。彼女は、叔父の死後を託された弁護士から遺品のノートパソコンを受け取った。その中に、彼女宛ての文書がいくつか入っていた。
「私に、病気のことや旅行のことをうっかり言えば、悲しませるとか、海外に行くのを止められると思ったみたい。心配性なんだから」
寂しそうに笑う。
「その国は叔父にとって特別な場所だったそうです。学生のころ旅行で訪ねて、季節外れの大雪で山村に閉じ込められたことがあったんだとか。村には、生き神様と呼ばれる、巫女のような立場の神聖な少女がいました。生き神様は決してお社の外に出てはならず、祭りなどで出る必要があるときは、足を地面に決してつけてはならないというきまりがありました。雪が高じて土砂崩れが起こり、お社が倒壊しかかったとき、村の人は神聖なお社に踏み込めず、立ち往生していました。でも、通りすがりの滞在者だった叔父はそんなことは知らず、とっさに飛び込んで生き神様を抱えて救出したんです。叔父自身も雪交じりの土砂に押し流されて、生き神様を守りながら一夜を明かし、なんとか生還したけれど、凍傷で指を失ったのだそうです」
彼女は、僕が淹れたお茶を一口飲んで続けた。
「叔父は村人から、大変な尊敬を受け、現地にとどまってほしいと強く乞われました。叔父が、祖国に母親を残してきたから帰らないといけない、と説明すると、ならば孝を果たしたら再訪してほしいと懇願されたのだそうです。叔父はその約束に、現地に伝わる神聖な刺青を腕に入れることにしたのだとか」
「神様を助けた外部からの来訪者もまた、神でなくてはならない。村の守り神のような扱いを受けたのではないですか?」
曽根の言葉に、彼女ははっとしたように顔を上げてうなずいた。
「生き神の一人として遇されたのでしょう。刺青は神格化を示す一つの儀礼として用いられることもある」
聞きようによっては恐ろしい話だ。旅行先でたまたま少女を助けたがために、村から帰るなと言われ、神様として崇め奉られる。もし帰してもらえなかったら、一種の神隠しではないか。彼はその代わりに刺青を入れることになる。帰国の代償として、あるいはその地を再訪する約束として。
僕に浮かんだ微妙な表情を、杉井は察したらしかった。
「叔父は無理強いされたというより、その日その場に居合わせたことを天命だと思ったのだそうです。それで『家に帰る代わりに小指を神様に預けてきた』と言ったのでしょう。なくした小指に託して、一旦帰国はしたけれど、叔父の魂の一部はもうずっとその村にあるのだ、と言いたかったのだと思います」
そういう見方もあるか。
「ただもう何十年も前のことですし、再訪しても現地でまた引き留められるかは半信半疑だったようです。それならそれで普通に帰国して、思い出や再訪した村の風景を心の支えに闘病しようと思っていたみたい。それがたまたま、その場で病状が急に悪化してしまった。……神様が叔父に、もういいでしょう、姪も大きくなったしこちらに来なさい、と言ったのかも」
杉井は泣き笑いのような表情になった。
「私自身、別れ方にまだ気持ちが追いついていません。それでも、叔父の思いはパソコンの中にしっかり残っていました。少しずつわかっていけたらいいな、と思います」
杉井は深々と曽根に頭を下げた。
「ありがとうございました。曽根さん、ご存知だったのでしょう? すぐに叔父のメモがネパール料理だと気づきましたし、指のことも山岳事故だって推測したんじゃないかって。だとすると刺青の文様も、神事に関連するものだってお気づきだったんじゃ、と」
「……買いかぶりですよ」
曽根はぶっきらぼうに言った。
「叔父は不思議なほど物事が見通せる人でした。そんな叔父が私に言ったことがあるんです。美音には神様のくれた耳があるんだよって。根拠は言えませんが、私には誰かが嘘や隠しごとをしているとき、聞いてわかるんです。漠然と、それが悪意なのか、自衛なのか、誰かのためなのかくらいも。それは、神様がおでこに印をつけて美音に授けてくれた奇跡の力なんだよって、叔父は言っていました。信じてもらえないから、叔父以外の人に言ったことはないですが。……あの日、曽根さんも梅田君も、私に話してくれた以上の何かに気づいていましたよね。でも黙っていてくださったんじゃないですか。私が妙な心配をしないように」
「杉井さんもだいぶ変わってるよね」
思わず僕は口を挟んでしまった。『見える』僕に対して、彼女は『聞こえる』人なのだ。
「ふふ。今まで知らなかった? 私は、梅田君がかなり変わってる人だってなんとなくわかってた」
「わかりました。杉井さん、俺は今からちょっと変なことを言いますが、気にしないでください」
曽根はそう宣言すると、彼女の肩のあたりに視線をやって、半眼になった。
彼女の叔父は、まだそこにいた。
「美音さんはもう立派に成人して、自分の足で立とうとしています。それでも、時には困ったり迷ったりするでしょう。俺と梅田は、美音さんの友人として、困ったときには相談に乗るし、自分たちにできる手助けを必ずします。俺たちにはそれしかできませんが」
今までどこか不安げだった彼は、ぱっと表情を輝かせた。杉井の正面に回り込むと、親指でそっとその額に触れる。杉井の額に、一瞬、赤く輝く印が浮かんで消えた。
次の瞬間、彼女の肩先にはもう誰もいなかった。
「わあ、ありがとうございます。じゃあ、バイト探してる時とか相談してもいいですか? また紹介してもらえたら、すごく助かります」
杉井は、曽根の言葉を自分に向けられたものだと解釈したらしい。嬉しそうに言って、天真爛漫に笑った。少し気おされたように、彼はうなずいた。
「もちろん。俺の方も、当てにできるバイトさん候補が一人いるのはありがたい。商店街でも、ちょっとした短期の人手が欲しい店は結構ありますしね。変人同士、困ったときには助け合いましょう」
「やった。ぜひぜひ、お願いします」
曽根はまた、迷える野良を一匹、保護してしまったらしい。
「梅田君も、今後ともよろしくね」
杉井は無邪気に僕に向かって握手の手を差し出した。それが日常の習慣になっている欧米の人みたいに、屈託がない仕草だった。
「うん」
僕が応じて、手のひら同士が触れた時、不意に脳裏に透き通った高山の青空が広がった。
あ、と思ったけれど、手を振りほどくことはできなかった。
僕の意識になだれ込むようにして勝手に再生される映像の視点は、雲一つない空から、そこに向かって峻然と立つ岩山に沿って、ぐうっと下ろされていく。岩肌を深く切り裂くように谷が走り、その底に澄んだ水が圧倒的な水量でごうごうと流れている。指をさらせば切られるように冷たいのだろう。あれが、彼女の叔父さんをさらった雪解け水の、日常の姿なのだ。
谷ぞいのごつごつした岩場の、わずかに平たんな場所に集まった質素な家並み。その軒先に色とりどりの小さな旗がはためき、文字の書かれた無数の金属の風車がかたかたと頼りない音を立てながら回る。
誰かが叫んだ。知らない言語なのに、不思議と意味が聞こえた。
見よ、聖者の帰れるを。
私、藤倉楠之が2024年5月に発表したpixivの同名作品より加筆修正のうえ転載しています。
「日本SFクラブの小さな小説コンテスト」に参加した作品です。書き出しの一文はコンテスト主催者に指定されたものです。