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第八話

また大分間が空いてしまいずみません。

詩子はしばらくそのまま手のひらに血が滲むくらいに拳を握り締めていたが、「ぐが」と声を漏らした庸介から酒臭さと加齢臭が混じったような臭いが鼻をつくと、何だか怒りと絶望感に苛まれている自分が妙にバカバカしくなってしまった。


ふうっと息を吐くと、そのまま踵を返してリビングに戻った。


シンクからコップ一杯の水を汲んで一気に飲み干した。


喉が何だかからからだったので、体の中が潤うと頭が冴えるようだった。


三和土に転がる男を放置して寝たいところだが、途中トイレに起きてきた子供たちが目撃したらあまり良くないので何とか寝室のベッドに連れていくことにした。


目を覚まさない内に、詩子は無言で転がる男の足とか脇腹などを少し蹴ってみた。


普段のイライラがそれだけで少しは和らいでいくのを感じた。


「庸介さん、庸介さん」


耳元で名前を呼んでみるも、酒の酔いと若い女性の酔いで幸せ絶頂の男はむにゃむにゃと幸せそうに口角が緩んでいる。


顔面を勢いよくふんずけてやりたがったが、ぐっと飲みこんで、両腕を引っ張って廊下を引きずり始めた。途中、靴を履いていることに気付き、急いで脱がせる。


庸介の寝室は奥の部屋だ。


もう、奏が乳児の頃から泣き声が煩くて眠れないといい、そこから寝室は別になっている。だけど、詩子が奏に掛かりつけになると、自分を相手してくれないと不貞腐れるとても面倒な性格だった。かといって、ミルクを作ってあげたりもせず、うんちだとおしめを変えてくれない、買い物に行く時だって抱っこ紐で抱っこすることもない。家事も育児も詩子だけで、それで夜の生活も相手しなければならないなんて本当に泣きたくなるくらい辛かった。


正直、その生活がいつまで続くのだろうと、死にたくもなった。


だけど、奏も鈴太郎もふと見せる笑顔にその思いを一瞬にして思いとどまらせてくれた。


詩子も、何度も庸介に訴えた。助けて欲しいと。


だけど、庸介は家にずっといるんだからそれぐらいやれないでどうするの、とバカにしたように言うだけでまともに取り合ってくれなかった。


だから、鈴太郎が小学校に入る前に今の製紙会社を見つけて働き始めた。


働き始めたら、少しは大変さを分かって家事を手伝ってくれるだろうと思ったからだ。


だけど、庸介は変わらなかった。


仕事が詩子よりも大変だとは思っていたから、せめて食後の皿洗いや子供たちが寝る前に帰ってきて学校の話を聞いたりするなど家族の一員になって関わって欲しいと再度訴えてみた。


庸介はめんどくさいとばかりに返事をせず、当てつけのように子供たちが寝静まってから連日帰るようになった。


本当にそんな遅くまで仕事をしているのかと疑わしく思っていた矢先に、例の庸介の心の声が聞こえてきて、家族を軽んじて家族を裏切っていたことが分かったということだ。


重い体を引きずりながら、詩子は今までの不満な気持ちが一気に襲ってきた。


そして、自分は何のためにこの人と一緒に住んでいるのだろうと。




「花井さんはさ、家庭を作ることに興味はある?」


数か月のOJTが終わり、会社の近くのイタリアンでランチを食べている時だった。


ずっと覚えの悪い詩子に根気強く付き合ってくれた廣道先輩からそんなことを急に言われ、詩子はフォークでパスタを絡ませた状態で止まってしまっていた。


「え、家庭ですか……?」


「あ、急にごめん。花井さん、食べ方綺麗だし、あーだこーだでしゃばったりしないし奥ゆかしいし、家庭に入ったら家事と育児とかしっかりして家族を守ってくれそうだなぁって」


「いえ、そんな私なんて。今まで、誰とも付き合ったことないですし」


「え、そうなの?女子高女子大だったとか?」


「あ、そうです」


なるほど、とばかりにうんうんと頷いている。


「でも、そんな気がするな。何にも染まっていないっていうか。あ、これ、セクハラ発言とかじゃないからね。俺は、何かいつも理想を押し付けちゃうらしくて彼女が出来ても大体振られちゃうんだ。でも、それを直していこうと思ってる。その人の人生をちゃんと尊重してあげて、くつろぎやすい家庭を作っていきたいと思ってるんだよね。うちの母親がさ、ずっと専業主婦なんだけど、子供たちが過ごしやすいようにって何でも先回りでやっちゃうんだよね。有難かったけど、でもそれって男は何もやらなくてもいいんだって勘違いしちゃうじゃん?今の時代、男だって料理作ったり掃除したり出来てなきゃいけないんだよ。だから俺は、ちゃんと奥さんを助けて、家庭を守りたいって思うんだよね」


「素晴らしい考え方ですね。将来、奥さんになる人は嬉しいと思います」


心から思う言葉を伝えたはずなのに、廣道先輩はどこか不服そうにしている。


「廣道先輩……?」


「だからさ、今のは花井さんが奥さんになってくれたらなぁっていう話なんだけど」


「お、奥さん―――!?」


「い、いや、まだ付き合ってもいないし、いきなりこんなこと言われたら気持ち悪いと思われるかもしれないけど、そういうのを前提に、俺と付き合ってくれませんか?」


詩子はぽかーんと口を開けたままで固まっていた。


今まで誰からも告白されたことなどなかったが、急に奥さんになるのを前提に付き合って欲しいと色々なことをすっ飛ばした告白に気持ちがついていけていなかった。


「やっぱり、ちょっと急すぎたかな?困るよね、いきなり―――」


「いえ、あの、凄く嬉しいです。びっくりしちゃったというか、思いがけなかったというか。こんな、私で良かったら」


詩子の言葉に、廣道先輩はみるみる内に満面の笑みを浮かべて、ガッツポーズを取った。


あれよあれよという間に、廣道先輩は庸介さんになり、そのまま詩子は花井詩子から廣道詩子になった。




「……ぜーんぶ、嘘じゃない」


昔のことを思い出しながら、詩子はそう呟いた。


「家事育児も全然やらないし、奥さんを助けてもくれないし、子供たちとも全然関わらないから、疎まれてるし。家庭を、まーったく守れてないじゃない」


本人が起きるかもしれないと思いながらも、後半は少し語気を強めてしまった。


あの当時の詩子はまだ若くて世間知らずで、自分に好意を抱いてくれているというだけで天にも昇る気持ちになってしまったのかもしれない。


今、もしタイムマシンのようなものがあれば、当時の私に会いに行って「その男は口だけだからやめておきなさい」と提言できたのに。


だけど、そんな都合のいいものは存在していない。それに、過去は変えられないし変えちゃいけない。


変えることで、詩子だけではなく周りの環境や状況に影響が出てしまうことぐらい分かっている。


廣道庸介と結婚をしてしまった廣道詩子をこれからも生きていくしかない。


それに、目の前に転がっている人をもう好きではなくても、愛想尽かしていても離婚届に判を押してその関係を解消してしまったら母の思うつぼになってしまうのが癪に障るのだ。


婚姻関係は維持と意地のぶつかり合いだ。


だからといって何も言わないままで我慢をするのも耐えられないので、もしもの時のために浮気をしているのであればそれなりの証拠を押さえておこうと思う。


まだ見ぬ未来への投資とも思えば、何だか溜飲が下がってくる。


奥の部屋は詩子はここ数年、ほとんど入ったことがない。


数年前、何気なく休みの日に掃除をしたらえらい剣幕で怒られたからだ。


自分の部屋は自分だけのプライベートな空間だから入ってこないで欲しい、掃除も自分自身がするというのでそこからずっとほったらかしでいる。


その後、庸介が掃除をした形跡は見当たらないけれど。


久々に入る部屋はもわっとした何とも言えない臭気が漂っていた。


ハンガーにかけられているワイシャツはよれよれだし、スーツも全然クリーニングに出していない所為かしわが目立つ。ベッドの上も服や小物でごちゃごちゃだった。


本当は窓を開けて換気をしたいところだが、夜遅いし、あまりの夜風の冷たさに庸介が目を覚ましてしまうかもしれない。


好意が敵意に変わるのも嫌なので、詩子はそのまま庸介の上着を脱がしてベッドに放り投げた。


それでも庸介は目を覚まさずに高いびきをかいている。


そんな幸せそうな庸介の横顔をちらりと横目で見ると、そのまま部屋を出た。


明日は日曜で休みだし、少しだけ韓国ドラマでも観ようとリビングへ向かった。




休日とはいえ、普段から朝早いためか七時前には目が覚めてしまった。


だけど、昨夜見ていた韓国ドラマに癒された所為か少し気分は晴れやかだ。詩子はうーんと伸びをするとベッドから下りた。


リビングに行くと、珍しく奏がパジャマ姿で起きてきていた。


「奏、休日なのに早起きじゃない。まだ寝てていいのに」


声を掛けると、奏は何故か不機嫌そうに虚空を睨みつけている。視線を辿ると玄関の方だ。


「奏……?」


「お父さん、昨日遅くに帰ってきたでしょ。しかも何か若い感じの女の人と一緒に」


低い声でゆっくりと話す奏に、詩子ははっと表情を変えた。


二人とも、寝入っていたと思っていたが奏はまだ起きていたことに驚きを隠せなかった。


「お母さんもさ、家族を蔑ろにする奴なんてこの家に入れなきゃいいんだよ。わざわざ部屋まで連れて行ってさ、そんなことする必要ないよ。あいつはお母さんに甘えて、やってもらうことが当然だと思ってるんだから!ほんっとに気持ち悪い!」


「奏、落ち着きなさい」


「私は落ちついてるよ」


こちらを見据える奏の目には光が灯っていなかった。母の仄暗い光とは違い、希望を一切感じられない黒々としたもの、それは絶望と見間違えるほどの。


「ごめん、朝から大きな声を出して。もうちょっとだけ部屋にいるね」


そのまま目を逸らし、奏は部屋に戻っていった。


今まで庸介の態度に愚痴をいうことはあったが、あそこまであからさまな嫌悪感を晒すことはなかった。


もしかして、間違っているのだろうか。


このまま庸介と家族を続けることは、奏にとっても鈴太郎にとっても良くないことなのだろうか。


だけど、詩子のパート勤務だけではこの先二人を養っていく自信がない。もちろん、シングルマザーで一生懸命子供を育てている人だってたくさんいる。


だけど、詩子自身の両親がそうだったため、なるべく夫婦そろって家族を続けていきたいと願ってしまっている。


だけど、子供たちにとっては?そして、詩子にとっては?


今の家族の在り方は「正解」なのだろうか。


しん、としたリビングで指の先が冷えてくる。奏の瞳の黒さが脳裏から離れず、しばらく詩子は何もできずそのまま立ちすくんでいた。




ばんっ


と勢いよくドアが開いたと思うと、頭をぼさぼさにした庸介がリビングに飛び込んできた。手にはスマホを握りしめている。


何故か庸介は捨てられた子犬のような寂しげな目をこちらに向けている。


『俺も、詩子に捨てられるのか―――?』


「庸介さん、どうしたの?」


様子がおかしいのでそれとなく声を掛けてみる。庸介は小さく口を開き、


「……弟の宗介が、実園さんと離婚するって……実園さんから離婚して欲しいって言われたって」


か細い声でそう呟いた。



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