第七話
大分間が空いてしまいました。
そういえば音哉はその日、どこかほっと安堵したような表情をしていた。
いつもほとんど語らず、表情も鬱々として暗く、父は我関せずを貫いていたし、詩子も自分が関与したところで音哉の表情や感情が変わることはないだろうと声を掛けることはなかった。
同じ家で暮らす、家族だったのにも関わらず。
もし、奏や鈴太郎が毎日そんな辛く苦しそうな表情をしていたら心配して執拗に声を掛けるに決まっている。
そうするに、決まっている。
「……あの、安心したように穏やかな表情でいたのは、もう学校に行かなくても済むから、嫌な人たちに会って嫌なことをされずにすむから、そう思ったからなんだ」
我が家は、見事兄を守る要塞となったわけだ。
「―――だけど」
詩子はすっと顔を上げて、歌織を見据えた。
「兄さんは、もう38だよ。いくらなんでも世間から逃げ続けるには長すぎると思う。中学を卒業したら、大体高校で皆散り散りになるじゃない。いじめていた人たちだって一か所に固まるわけじゃないでしょう。社会から現実から切り離して、家に匿い続けることが、本当に兄さんのためになるの?」
母の黒々とした目に、すっと小さな白い光が入り込む。ただ、それは現実に引き戻されたという趣旨ではない。
娘の言葉が、胸に届いたとかそういう意味ではないことは分かっていた。
「音哉を疎ましく思って避け続けたくせに、ずっと守っていた恩人に吐く言葉じゃないわね。詩子に何が分かるの?あの子がずっと苦しかった、母さんありがとうって涙を流しながら訴えていたのよ。苦しさを理解してあげられたのは、私だけだったの」
「分かってる。兄さんが、母さんの提案を受け入れたことに後悔はなかったって。だけど、それは今の今までずっと自分の部屋に閉じ込めて擁護してもらうためではなかったと思っているんじゃないかな。兄さんは、色々と落ち着いたらまた自分の力だけで世間や社会に出ようと思っていた。だけど、出ようと思うと母さんに話すたびに、外は危ないとか、また兄さんは傷ついて苦しむだけとか、母さんが言い聞かせてたんじゃない?」
歌織はぐっと息を飲んで沈黙した。
あまり自信がなかったが、吹っ掛けたことが現実だったようだ。
「……兄さんは、自分自身に何の意欲も持ち合わせていないし、自信も失っている。自分はニートだから、ニートはニートでしか生きられないって、制限を掛けているの。ねぇ、今からでも兄さんは社会に出ることの楽しさを教えてあげられないかな。このままずっと引きこもっていても、どうしたって母さんの方が先に亡くなっちゃうんだよ。その後、兄さんはどう生きていくの?すぐに働くっていうのは難しいからさ、まずは職業訓練施設とかで色々と学んでみたら―――」
気付くと、敵にでも向けるような視線をこちらに向けられている。
「母さん?」
「音哉は、私がいないとダメなの。生きていけないの。大丈夫よ、あの子が一人になっても生きていけるように資産運用は施してあるから。詩子は、自分の家族のことだけを考えて動いていけばいいの」
「待ってよ、私だって家族だよ。家族の一員でしょう?」
「あら、詩子は庸介さんのところに嫁いだでしょう?」
歌織はにっこりとどこか形式ばった笑みを張り付けている。
「―――嫁いで、苗字が変わったって、兄さんは兄さんで、母さんは母さんでしょう。その関係性が消失することはないよ!」
「そうね、血の繋がりがある以上、それは変われない事実よね。あぁ、面倒ねぇ血って。血の繋がりなんて、微々たるもので、それが無くても大きな関係を繋げるところは繋げるのに。詩子、あなたは私の娘であるのは確かだけど、廣道家にお嫁に出した時点であなたは廣道家の人間なのよ。だから、花井家は現在、私と音哉だけなの。花井家の主が私である以上、音哉の未来は私が握っているのよ」
「そんな……その中には、私は一切踏み入ることは出来ないってことなの?」
母はいつものようにんーと幼げに首を傾ける。
「別に家に入ってもいいけど、奏ちゃんや鈴太郎くんには会いたいし、だけど、方針には一切口出ししないで欲しいの。何で、私がこんな自信を持って口に出来るか分かる?音哉はこのままでいた方がいいって視えているからよ。そして、詩子は自分の家族を大切にしないと、この後大変になることも視えているの」
歌織はびしっと指先を詩子の眼前に向けた。
「だから、今は私のことをどうこう言うより、そっちのお家のことをしっかり見なさい」
そのまま子供たちの手を握って逃げるように実家の最寄り駅へ向かった。
鈴太郎は直接お寿司を音哉に渡したがっていたが、詩子は何度も謝りながらそれを拒否した。子供たちが小走りでついてこなければならないぐらいに、ただただ詩子は前を見据えて早足で急いだ。
歌織の、あの黒々とした光のない視線が追ってこないように。
「お母さん、どうしたの?お祖母ちゃんと何か言い争ってた?」
「ううん、そういうのじゃないの。ごめんね、急に帰ることになって」
「まぁ、私はお寿司をたくさん食べられたからいいけど、問題はこっちじゃない」
奏は歩きながら、はるか後方でとぼとぼ歩いてきている鈴太郎を見やった。
「鈴太郎!早く歩きなさい!」
「―――酷いよ!なかなか伯父さんに会えないから、もうちょっと色々と話したかったのに。あとで、お寿司渡すねって、約束したのに!」
精一杯の声を発して、鈴太郎が叫んでいる。
腕でごしごしと目をこすっている鈴太郎の姿を見ると、詩子はさっきの歌織の言葉を嫌というほど思い出される。
『そっちのお家のことをしっかり見なさい』
ぴたっと歩みを止めると、怒りで体全体が熱くなっていることに気付かされる。
はあはあと荒い息を整えると、ふうっと大きく息を吸って気持ちを落ち着ける。
「奏、ごめんね。ちょっとお母さん、周りのことちゃんと見えてなかった」
「まぁ、うん、そういうこともあるんじゃない。私は大丈夫だよ。お母さんが私たちのことを考えてくれてるって、ちゃんと分かってるし」
奏の言葉に、詩子はじんと感動してしまい、唇を噛みしめた。
そして、立ちすくむ鈴太郎の元へ歩みを進めた。
「鈴太郎、ごめんね、鈴太郎の気持ちを邪険にしたよね、ごめんね」
鈴太郎は腕で顔を隠したまま俯き、何も話さなかった。
「お母さんね、お祖母ちゃんに伯父さんのことに関して意見したんだけど、今は家族じゃないんだから口出しするなって言われちゃったんだよね」
詩子の言葉に、鈴太郎はびっくりしたようにこちらを見上げた。
「結構、ショックだったんだけど、今考えたら、やっぱり黙視していることは、出来ないなぁって。それは、奏や鈴太郎のことも、お父さんとのことも。お母さんは、どちらの家族のことも考えたいし、これからも大事にしたい。それは、鈴太郎も、分かってくれる?」
「……うん、僕も、伯父さんと外で話したりお出かけしたりしたい」
詩子はにっと口元に笑みを浮かべると、鈴太郎に手を差し出した。
「じゃあ、鈴太郎は同志だ」
「どうし、って?」
「志を同じくする人、このことは奏も巻き込んじゃおう。お母さんは、欲張りだからさ、どちらかを諦めてどちらかだけを叶えようって無理なんだよね。どちらも、叶えたい」
「えー何ー何の話?」
奏が向こうから走ってくる。
まだ、これからどうなるか分からない。むしろ、前途多難かもしれない。
でもまずは、一番難解で放置していた問題と直面していかないとならない。
家に戻ると、部屋は真っ暗だった。
リビングは何だか油っぽい異臭が漂っているし、洗濯物も当然ごとく取り込まれていない。
シンクを見ると、朝御飯の食器がそのままになっている。
怒りの沸点を下げるために、ふううとその場で大きく息を吐く。
「お父さん、玄関に靴がなかったからどこかに行ってるかな?」
「別に、お父さんがいたっていなくなって大して変わらないし」
奏は手を洗うために洗面所に向かった。
「とりあえず、夕飯の支度をしようか。お寿司食べたの遅かったから、あまりお腹が減っていないかもしれないけど。簡単なものでいいかな」
「うん、何でもいいよ」
鈴太郎はどこかさっぱりとしたような晴れ晴れとした表情をしている。色々な願望や展望などを腹を割って話せたのが良かったのかもしれない。
奏が洗面所から戻ってきた。
「奏、ごめん、洗濯物を取り込んで、二人で畳んどいてくれる?」
「うえー」
「お、ね、が、い、ね。だったら、奏が夕飯作ってくれる?」
「洗濯物、やりまーす」
なんだかんだ言っても奏も素直でいい子だ。渋々な対応を取るけれど、最終的には家事を手伝ってくれる。
ああ、誰かさんとは大違い―――
そこで、はたっと意識を改める。
『この後、大変になることが視えているもの』
あの、得意げに言い放った母の視線をそのまま受け入れたくない。
兄の音哉はサイコキネシス、詩子は読心術、それなら生みの親の歌織が先読みの力があったとしたって、何ら不思議なことではない。
この読心術の力は、はっきり言って便利だけの物じゃない。本来、隠しておきたい本心が建前がそのまま言葉となって詩子に入り込んでしまうのだ。
庸介が、自分のことをもう女性として好きじゃなくても、疎ましく思っていたとしても、私は私の家族を守るために、その本心から逃げることなく受け入れなければならない。
本心を知ったことで、そこから再構築出来るかはわからないけれど。
夕飯を急いで作り、簡単にリビングを片付けて、お風呂掃除をし、いつ帰ってきても笑顔で迎えられるよう準備をしておいた。
お昼にたくさんお寿司を食べたとはいえ、もう夜八時近い。明日は日曜で休みだけど、寝るのが遅くなってしまうと体のリズムが狂ってしまう。
申し訳ないけれど、先に夕飯を食べることにした。
夜10時になり、二人は出掛けた所為もあるのかしきりに目をこすっている。
「二人とも、もう寝なさい。今日は疲れたでしょう」
奏と鈴太郎はそのまま自室に入っていった。
夜11時になり、いくら何でも遅いのでスマホに連絡をしようと手に取った。
『大分帰りが遅いみたいだけど、今どこにいるの?』
10分くらい待ってみても既読にならなかった。
すると、微かにドアが開く音がした。
帰ってきたのかと思い、リビングを出ると、そこに20代くらいの若い女性に体をもたらせてぐったりとしている庸介がいた。
「あ、夜遅くにすみません。廣道さん、酔いつぶれちゃったみたいで、一人で帰るのも難しそうだったんで下までタクシーで来ました」
『あーこれが例の奥さんか。ほーんとまじで大したことない感じ』
私が女性としての魅力が上とばかりに挑戦的な視線に、例のごとく心の声が駄々洩れで一気に怒りが湧きそう―――と思いきや、どこか冷静な自分がそこにいた。
「あ、それはどうもありがとうございます。主人がお世話かけました」
淡々と述べる詩子に女性は一瞬怯んだが、そのまま玄関の三和土に庸介を置くとそのまま逃げるように後にした。
ぐおおといびきをかいて転がっている旦那の姿に、完全に心が冷え切っている状態で見下ろしている詩子は、どうして自分はこの人ともう一度家族をやり直そうと思ったのだろうと自問自答するしかなかった。
そして、やはり、歌織の見解は正しかったのと思わざるを得ない現実に、悔しくて悲しくて爪が手のひらを痛いくらいに食い込んでいても気にならなかった。