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第三話

急いで社食に入ると、大半の社員は食事を終えて雑談に興じていた。社食、とはいえ小さな会社なのでメニューは480円の日替わり定食かラーメンかうどん、パスタといった無難な麺料理くらいしかない。入社時は詩子も何度も社食でお昼を食べていたが、麺類は伸びきっていて汁も少なくあまり美味しい印象がなかった。日替わり定食も揚げ物はべちゃっとしていて480円も毎日支払うのは割に合わないと思い、今は大半のお昼ご飯はコンビニで済ませている。


詩子のような考えの人は多いようで、社食のおばちゃんたちはどこか暇そうだ。設備投資的に赤字なのでは?と思うが、管理職の面々はおばちゃんたちと懇意にしているようで社食を無くすつもりはないようだった。


社食の隅の方で、牧絵が文庫本を開いて座っていた。詩子が近づくと、牧絵が顔を上げた。


「うたちゃん、遅かったわね。あまりお昼の時間ないよ」


「……すみません、ちょっとコンビニが混んでて。おにぎりとスパサラダなんですぐに食べられます」


「あ、お茶持ってくるね。自分も食後のお茶、飲みたいから」


「ありがとうございます」


さらっと牧絵は気遣いができる。詩子のためだけではなく、と念押しするところにそう感じる。


家でもそうだが、仕事家事育児を同時進行していると、ゆっくりと食べている時間がない。急いで食べて、お風呂掃除をしたり洗濯物を片付けたりとやることはたくさんある。兼業主婦の人たちは、皆が大体マルチタスクをこなしているのが日常だろう。


だから、庸介が帰ってきてテレビを観ながらゆっくりと食べているのを横目で見ると、羨ましいを通り越して腹立たしくなる。でも、それを容認しているのは詩子で、慌ただしく動いて家事をしているのが母の普通という意識を子供たちに植え付けているのも詩子自身なのであると、後悔しか残らない。


でも、その日常を選んだは詩子なので、こなしていくしかない。詩子一人で家事をこなしているのは普通ではないと、少しずつ子供たちに教えていくしかないと思っている。


ざっと10分かからずに流し込むと、あとはトイレで用を足して簡単に歯ブラシをすればまだ時間が余った。牧絵さんは詩子が食べている間は話しかけることもなく、黙々と本を読んでいた。大学時代にミステリ研究会に在籍していたらしく、有栖川有栖、綾辻行人、清涼院流水、京極夏彦などが大好きでよく読んでいたらしい。私はあまりミステリが得意ではなく、江國香織や角田光代、唯川恵などの恋愛小説を好んで読んでいた。ジャンルは違えど、自分の好きな小説の話がこの歳になって話せる人がいるのはとても貴重だと思う。


「牧絵さんの最近のおススメ作家は誰なんですか?」


「最近ね、辻村深月さんとかおススメかな。米澤穂信さんもいいね。ライトなミステリもあるし、深いのもあるし」


「最近は全然本が読めなくて……帰ったら家事をやって子供たちの宿題を見てあげてたら一日があっという間で。やっと子供たちが寝てくれた、と思ったら主人が帰ってくるし、自分の時間が全然ないですね」


「え?旦那さんのご飯の用意とかもしてあげてるの?私はもう数年前に【あなたのことはやりません。すべて自分でやってください】って宣言してからノータッチだよ。ご飯は用意しとくけど。食器とかも自分で洗ってもらってる」


「そうなんですね……まぁ、最近は帰ってくるのが遅いので、外で食べてきたりしているみたいですけど。言ったところで、家事は女の仕事でしょ?みたいな感じで丸め込まれて何もやってくれないんですよね」


「えーそんなの駄目だよ。うたちゃんだって働いてるんだから。ちゃんと家事は分担しないと」


「本当にそうですよね」


紙コップのお茶を啜りながら、牧絵さんの家庭みたいに言ったら聞いてくれるばっかりじゃないんだよなぁ、とも思う。庸介の母は典型的な専業主婦で、何もかも完璧にこなし、三兄弟とも難関大に入れた人だ。私が働く、と話した時もいい顔をしなかった。庸介の稼ぎで十分やれるでしょう?子育てとかしっかりやれるの?とそればかりを口にしていた。


最終的には、庸介のご飯もしっかり作ってあげなさいよ、だ。


その言葉に庸介は嬉しそうににまにまと笑っていた。嫌な笑顔だった。


こちらは反論することもなく、「頑張ります」の常套句だけ返しておいた。従順な嫁を演じておけば嫁姑関係もとりあえず円満で済むだろう。ただ、最近義父が糖尿病になったらしく、義母はそちらに掛かりきりであまりこちらに連絡はしてこない。自分が段々と年をとっておくと、母は兄の音哉が一緒に住んでいるので介護に関しては問題ないと思うが、義両親は70近いのでそろそろ介護のことも視野に入れておかなければならないのだろう。庸介は次男なので、実質大きな責任を負うこともないと思うが、一番上のお兄さんのお嫁さんが義両親を嫌っていて、ほとんど親交がないとも聞いている。介護のお鉢がこちらに回ってこないとも限らない。義両親も自分たちを嫌っている嫁に見てもらうより、何でもにこにこと肯定する嫁の方がいいに決まっている。


そう考えると、溝が入ってもきちんと意見を言うべきだったか、とも思うが、そんな上っ面な関係は長くは続かなかっただろうなぁとも思える。


【あーなんで私、いつも上から偉そうに意見を言っちゃうんだろう】


どこからか焦ったような声が聞こえて、詩子はあたりをきょろきょろ見回した。午後の仕事の時間が差し迫ってきているためか、あまり社員の人たちはいなかった。


視線を戻し、牧絵さんを見ると、困ったように視線を下に向けている。てっきり本の世界に没頭しているのだと思っていた。


【こんなんだから、いつまでたってもうたちゃんから敬語なんだろうなぁ。夫婦関係のことに、誰だって口出しなんかされたくないのに……】


どうやら目の前の牧絵さんの心の声のようだ。何も聞こえてこなかったので、詩子に対して何の感情も持っていないのだと思っていた。


牧絵の言葉に、詩子はじわじわっと胸が熱くなった。


それと同時に、悶々と悩んでいた義両親との関係性や家事に非協力的な庸介のことなど、どうでもよくなってしまった。


「でも、まぁ、そうですよね。妻ばっかり何でもやるのってやっぱりおかしいですよね。今、とりあえず旦那より子供たちから意識改革しようと思っているんですよ」


詩子の言葉に、牧絵はびっくりしたように目を見開いた。


「あ、すみません。さっきの家事分担の話です。蒸し返しちゃってすみません」


「え、あ、うん。何か、私も年の功とばかりに偉そうなことばっかり言ってごめんね。そうね、お子さんたちも小学生だもんね。少しずつ家事を覚えていける年齢よね」


「そうですよね!やっぱり諦めたままじゃダメですよね。イライラしちゃって、精神面にも良くないと思いますもん、毎日」


詩子が快活に話し続けるのに安心したのか、牧絵は目を細めて口元を緩めて話を聞いてくれた。


こんな時、心の声が聞こえて良かったと思う。聞こえないままじゃ、多分互いに鬱屈した思いを抱えたまま午後の仕事に向かうところだった。




夕方4時、本日の仕事が終了した。


詩子や牧絵は短時間パートなため4時に業務終了だが、派遣社員の畑中さんは5時までの勤務だ。畑中さんに「お先に失礼します」と早口で挨拶をすると、二人はいそいそと事務室を出た。


階段を下りている途中で、落ち込んだ様子の男性とすれ違った。総務部の真島だ。


【やばいな、奈津子に勘付かれてる。週末のゴルフ接待にあいつの知り合いがいるなんて聞いてないよ。マズいなぁ】


どうやら畑中さんとの不倫旅行が奥さんにバレているらしい。心の声が聞こえなくても、道理に外れたことはいずれバレてしまうんだろう。そんな教訓を得ながら、詩子は急いだ。


駐輪場で牧絵と別れ、詩子は急いで家路を急いだ。奏は帰ってきてもすぐに友達と遊びに行ってしまうが、鈴太郎は友達と遊ぶことなく家で待っていることが多い。そもそも、鈴太郎から学校の話も友達の話も滅多に聞かないので、どのように過ごしているのか分からない。5月にあった個人面談では、「鈴太郎くんはじっくり学習に取り組むので皆よりもワンテンポ遅いです」とか「ぼんやりとお空を眺めていることが多いです」とかそんな不安要素しか担任から告げられなかった。


庸介に相談しても、「今は発展途上な状態だからゆっくり見守ってあげればいいじゃん」と他人事のように吐き捨てた。


庸介はずっとサッカーや野球などスポーツに打ち込んできた少年だったようで、息子が産まれたら息子とキャッチボールやPKなどすることが夢だったらしい。だけど、蓋を開けてみれば人よりのんびりで個人の世界で生きる独特なタイプだった息子にがっかりしたのか、あまり一緒に出掛けたり遊びに行ったりしなかった。そんな父の意図も感じ取ったのか、鈴太郎もこうして欲しいと希望を言うこともなかった。


お互いがお互いの存在を諦めている父と息子の関係性をどうにかしたいと思い、詩子は一緒に動物園や遊園地に出掛けようとセッティングを試みた。だけど、庸介は土日は疲れているの一点張りで、詩子一人で奏と鈴太郎を連れ出すのも疲れ果てるのが見えているので、近くの公園へ連れ出すことがほとんどだった。


奏はそんな互いに興味を持たない冷え切った家族に辟易したのか、よく週末は友達と出掛けたりして不在なことが多かった。詩子の友人の薫とも話が合ったのか、二人でどこかに出掛けることもあった。


だけど、祖母の歌織の家には行くのを渋った。歌織は好きだが、ずっと実家にいる音哉が苦手なようで、滅多に顔を出さなかった。反対に、鈴太郎は音哉と馬が合うようで、よく二人で図鑑を読んだり、プラモデルを作ったりしていた。


(鈴太郎の好きなものは、何なんだろう)


小学三年生にもなるが、いまだに息子の好きなもの、夢中になるものが分からない。


家に帰る途中で、近くのスーパーによって買い物をした。月曜日は野菜や果物が安い。大体の買い物を済ませて、詩子はまた自転車のペダルを漕いだ。


家に近くなってきたころ、いつも通りかかる公園に見覚えのある青いキャップを被って蹲っている子がいた。自転車を停めて、少し公園の入り口に戻す。


「―――鈴太郎!」


詩子の声に、青いキャップの主はゆっくりと後ろを振り返った。その表情は無で、何の感情も浮かんでいなかった。ひやっと不安になりながらも、詩子は笑顔で近づいた。


「どうしたの、こんなところで。まだ家に戻ってなかったの?」


「……うん。家にいても何もやることないから」


「おやつ、置いといたけどまだ食べてない?」


鈴太郎は首を振った。


「お腹空いてないから」


鈴太郎はそのまま地面をじっと見続けた。詩子も隣に腰を落とした。


「何を見ているの?」


「アリが蝶の死骸を巣穴に運んでいたから、それをずっと見てた」


「そう」


歌織の言葉を思い出す。


『鈴太郎は発展途上なんかじゃないわよ。もう十分に自分で色々なことを考えられる。自分の中で確立は出来ているけど、うまく言語化できないだけ。周りとはちょっと違う、と言われるかもしれないけど詩子はきちんと鈴太郎と向き合ってあげてね。あの子は、聡いわよ』


「じゃあ、お母さんも一緒に見ていようかな。一緒におうちに帰ろう」


詩子の言葉にゆっくりと鈴太郎は顔を上げた。その顔を、詩子は見つめる。驚いたような表情を浮かべていたが、少し照れくさそうに目を伏せた。


(大丈夫、ゆっくりゆっくり。少しずつ、鈴太郎を知っていこう)


そのまま時間を忘れて、詩子はしばらく鈴太郎とアリの巣穴を見続けていた。

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