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男女の友情は成立しないと言いますが、女同士の友情より厚いようです。

作者: 小麦

少し長くなりましたが、読んで頂ければ嬉しいです。


「イリーネ、すまない。お前とローマンとの婚約は解消となった」


疲れ切った顔をした父ドルフの言葉を、イリーネはベッドに横たわりながら聞いていた。


「そうですか。申し訳ありません。私が病気になってしまったばかりに」


イリーネは精一杯声を絞り出したものの、その声は掠れていて、言い終わる頃には息が切れた様に肩を上下に揺らした。


「いいや、お前は何も気にする事はない。余計な事は考えず治療に専念しなさい」


温かく大きな手はイリーネが眠りにつくまで、彼女の頭を優しく撫で続けた。

小さな寝息を立て眠るイリーネを見て、安心したように目を細めたドルフは静かに部屋を出た。


部屋を出たドルフに一人の女性が駆け寄り、心配そうな顔で彼に問いかけた。


「イリーネの様子はどうでしたか?」


ドルフは今にも泣きだしそうな顔をする妻のフリーダの肩を抱き寄せると、落ち着かせるように肩をポンポンと叩いた。


「大丈夫だ。今はぐっすり眠っているよ」

「ああ、神様はなんて意地悪をなさるのかしら。あの子に何の罪があると言うの」


ついに泣き出したフリーダを優しく抱きしめ、ドルフもまた零れそうになる涙を必死に耐えていた。



この国の名門侯爵家の次男として生まれたドルフは、成人後父である侯爵の持つ爵位の一つである子爵位を譲り受け、その後見事な手腕で領地を盛り立て、クラウスナーの名を国中に知らしめた男であった。


ドルフとフリーダの間には二人の子供が生まれ、長男のティモはドルフに似て優秀で、長女のイリーネはフリーダに似て優しく穏やかな子に成長した。


3年前に成人したティモは、めでたく予てから婚約していた令嬢と婚姻し、イリーネも幼馴染であった伯爵家のローマン・フェルザーと婚約が決まった。

ローマンは伯爵家の次男ではあるが、幼い頃より聡明であった為、ドルフも安心してイリーネを任せる事が出来た。


そんな順風満帆なクラウスナー一家に影が差し始めたのは、イリーネが16歳になってすぐの事だった―。



「イリーネ、なんだか顔色が悪いがどうかしたのかい?」


ある朝、家族で朝食を摂っている時に発したティモの一言がすべての始まりだった。


「なんだか最近朝になると眩暈がするのです。暫くすると落ち着くのですが、日に日に酷くなっている様な気がして…」


その言葉を聞いたドルフはすぐに侍医を呼び、イリーナの診察をさせた。


「恐らく軽い貧血でしょう。食事や睡眠に気を付けていれば落ち着いてくるでしょう」


そう言って薬と食事療法の説明をして侍医は帰って行った。

そんな侍医の言葉に家族が安堵したのも束の間、イリーネの容体は目に見えて悪化して行った。


度々倒れる様になり微熱が続き、食事をしても窶れていく一方。

しかし侍医も原因が分からないと言う。

ドルフは金には糸目を付けず、国内外の優秀な医者を呼び寄せ、イリーネの病気の原因を突き止めようと奔走した。


それから半年後、隣国から呼び寄せた医者がついに病気の原因を突き止めた。

しかしその病気は患者数が圧倒的に少ないため、治療法も薬もまだ見つかっていないのだと言う。


「現時点で出来る治療法は、薬で進行を遅らせる事くらいです」


それからと言うもの、イリーネは毎日たくさんの薬を飲み続けた。

しかし日に日に体力は落ち、一日のほとんどをベッドの上で過ごす様になっていた。



「お嬢様、ツヴァイクレ伯爵令嬢様がお越しになりました。お通ししてもよろしいでしょうか」


侍女の言葉にイリーネはゆっくりと頷く。

それを見た侍女が一礼して一度部屋を辞した後、一人の令嬢を連れ再び部屋へやって来た。


「イリーネ。体調はどう?」


部屋へ入って来るや否や、その令嬢はイリーネのすぐそばまで駆け寄り声を掛けた。

イリーネは侍女が部屋を出た後ゆっくりと体を起こし、ベッドのヘッドボードに寄りかかる体勢になっていた。


「相変わらずよ。ミア、来てくれてありがとう。こんな恰好でごめんなさいね」

「いいのよ。辛くなったら言って頂戴」


ミア・ツヴァイクレは伯爵家の令嬢で、イリーネの幼馴染で親友である。

イリーネとミア、先日イリーネとの婚約を解消したローマン、それからもう一人、子爵家の嫡男ディルク・ヴォルフは仲の良い幼馴染である。

家格は違うが、父親同士が友人なのもあって幼い頃より四人でよく遊んでいた。


「―そうなの、それでね…」


イリーネはミアの話を時々頷きながら黙って聞いていたが、ふと視線を落とした時に視界に入った自身の腕と手を見て、いたたまれない気持ちになった。


痩せこけて骨と皮だけになり骨ばった指はまるで老婆の様で、爪もボロボロで肌もカサカサとしている。

一つに結い肩に流した髪は痛んでボサボサしている。

毎日侍女がお手入れをしてくれているにも関わらず、16歳とは思えない程の酷い有り様だった。


それに比べ、ミアの肌は陶器の様に美しく、緩やかに波打つブロンドの髪は光を浴びて艶やかな光を放つ。

流行に敏感なミアの着ているドレスは今の流行りなのだろう、ふんわりと腰から膨らみ裾に向けフリルが広がり、細かな刺繍を施した可愛らしくも女性らしいデザインで、まだあどけなさの残るミアにとても似合っていた。


そんなミアにはまだ婚約者がいない。

イリーネとローマンの婚約が決まる前、実はミアとローマンの婚約話が出ていた。

しかし、フェルザー伯爵家はローマンの兄が継ぐ事が決まっていた事から、爵位のないローマンとの婚約をミアの父親であるツヴァイクレ伯爵が渋った事で立ち消えになった。


そんな事もあって、イリーネはミアとローマンに多少の後ろめたさを感じていた。

女性から見ても可愛らしいミアと地味な私では、きっとローマンもミアと婚約したかっただろうと、イリーネは度々考えていたのだ。


ミアには少し前まで交際している恋人がいた。

その相手はイリーネの従兄でもある侯爵家の嫡男だったが、結局婚約をする事なく別れたのが、イリーネが病に倒れた頃だった。

当時自身の事で手一杯だったイリーネは、ミアの相談に乗ってあげられなかった事を今でも悔やんでいる。


そして先日、その従兄の侯爵子息が正式に婚約した事を聞いたイリーネは、もしもミアが落ち込んでいたら、今度こそ相談に乗ろうと決めていた。

話を聞く事くらいしか出来ないが、心にもない事を言うよりはましだろうとも思っていた。


しかしミアはと言うと、全く落ち込んだ様子もなく、いつもと変わらず楽しそうに最近の出来事を話していた。

そんな時、ミアの口から出た名前にイリーネの胸が締め付けられた。


「そうそう、そう言えば先週ローマンと街に出かけたのだけど、その時ローマンたら私に髪飾りを贈りたいと言ってね…」


ミアがそこまで言うと、ハッとした様な顔をして口元を両手で抑えた。


「ごめんなさい。婚約、解消したって…配慮が足りなかったわね…」


落ち込んだように目を伏せるミアの長いまつ毛の奥で、瞳が揺れる。


「いいえ、大丈夫よ。気にしなしで。病気になった時から覚悟はしていたもの」


そう言いながらもイリーネの胸は苦しいほどに痛んでいた。

それと同時に、ミアに対しての嫉妬心が込み上げるのを感じ、イリーネは必死にその感情を抑え込もうとした。


イリーネは、もしかしたら自分がいなくなった後、二人は結ばれ結婚するかもしれない。

そしてローマンはミアを愛し、自分の事なんて忘れてしまうかもしれないという恐怖、そして何よりそんな二人の幸せを祝う事が出来ない自分の醜い嫉妬心に怯えていた。


ミアが気にしないようにと必死で取り繕うも、長い付き合いのミアには全てお見通しだった。


「私に強がりを言う必要なんてないわ。貴女がローマンを好きだった事くらい気付いていたわ」

「え…嘘。隠していたつもりだったのに」

「バレバレだったわ。ねえ、ローマンに会いたい?」


ミアの言葉にイリーネは困った様に笑いながら頷いた。


「会いたいわ…」


イリーネが最後にローマンに会ったのは数か月前の事だった。

病気が見つかる少し前に会ったのが最後で、病気になってからは一度も会っていなかった。

最初のうちはお見舞いにクラウスナー邸までやって来てくれていたが、イリーネがローマンに会う事を拒み、次第にローマンが見舞いに訪れる事はなくなっていった。


イリーネはローマンに会って嫌われるのが怖かったのだ。

日に日に痩せていく身体、肌はくすみ、唇はひび割れ髪艶も無くなり、立っている事すら難しい姿を、好きな人に見せるのが怖かった。


本当は会いたいが、会って声が聞きたいが、最後に会った綺麗な姿の自分を最後の記憶にして欲しくて、会う事が出来なかった。


「そうよね。会いたいわよね…」


イリーネ自身も気付かないうちに、目からは大粒の涙が零れ落ちていた。

そんなイリーネの手をミアがぎゅっと握った。




それから数日後、イリーネは侍女に支えられ、窓辺に立っていた。

イリーネの部屋の窓からは庭が一望でき、そこにはイリーネの好きな花がたくさん植えられていた。


最近は暖かくなってきたとは言え、まだ春と言うには早い季節。

そんな時期でも咲く花を庭師がイリーネの為に周辺国から取り寄せて、丁寧に育てている。


イリーネの家族だけでなく、邸に仕える使用人も皆、彼女の弱っていく姿に心を痛め回復を祈っている。

そしてそんな皆を心配させまいと気丈に振舞い、皆の前では笑顔でいるイリーネを皆慕っていた。


「今日もたくさんのお花を咲かせてくれてありがとうと、庭師のトマに伝えて」


ふらふらとした足取りでベッドに戻ると、力を無くしベッドに沈み込む。

そこへノックの音が聞こえ、返事をすると別の侍女が来客を伝えにやって来た。


「やっほー。イリーネ、久しぶり」


やって来たのは幼馴染のディルク・ヴォルフ。

軽い調子と派手な見た目から一見遊び人に見られるディルクだが、根は真面目な好青年である。


「ふふ。久しぶりってつい先週も来たじゃない」

「一週間ぶりなんて俺にとっては久しぶりだよ。あ、はい。これね」


当たり前の様に差し出されたのは小さな花束だった。


「ありがとう」


差し出された花束を受け取るとお礼を言うが、この花束はディルクからの贈り物ではない事をイリーネは知っている。


イリーネの一番好きな花で出来た花束を見て、自然と笑顔が零れる。

この花は夏に咲く花で、寒さに弱い。

それなのに、二月程前からディルクがお見舞いに来る度に持ってくるようになった。


「まったく、この前久しぶりにフェルザー夫人に会ったら、息子が温室に引きこもって出て来ないって相談されて参ったよ」


そう言いながらベッド脇に置かれた椅子に腰かけると、長い足を組み溜息を吐いた。


ローマンはイリーネやミアの前では普通に話すのだが、極度の女性嫌いで他の女性とは目も合わせない。

それでも綺麗な顔立ちのローマンは女性から人気で、陰では“氷の貴公子”と呼ばれている。

その異名を知った時の彼は、心底嫌そうな顔をしていた。


そんなローマンが温室に籠って花の手入れとは、ローマンファンの令嬢が知ったらどんな顔をするのだろうと想像していたイリーナは、気づけば一人でクスクスと笑っていた。


「今日は体調が良さそうだな。そういや、この前ミアが来たんだって?大丈夫だったか?」

「…?」


ディルクの言葉の意味が分からず、首を傾げるイリーネの頭に大きな手が乗った。


「何でもない。俺はイリーネの顔が見られただけで満足だ。あんまり長居すると疲れるだろ?今日は帰るよ。またな」


そう言ってディルクは颯爽と帰って行った。



それからまた数日後、イリーネの元に思いも寄らない来訪者がやって来た。


その日イリーネは朝から体調が良く、ゆっくりだが一人でベッドから降り、窓から庭を眺めていた。

窓から差し込む日差しが暖かく、いつもより長い時間窓の外を眺めていると、ノックの音が響いた。

返事をして入って来た侍女は、困ったような顔で用件を伝えた。


「お嬢様、ツヴァイクレ伯爵令嬢様と…その…」


侍女が言い辛そうに口籠っている姿を見て、イリーネは不思議に思った。

イリーネが病気になって以降、ミアとディルクの来訪は事前の前触れがなくてもイリーネの体調が良い時なら会えるようになっていたが、それ以外の者は断る事になっていた。


「どうかしたの?」


イリーネが侍女に問いかけ、困ったような顔の侍女が口を開こうとした時、廊下が騒がしくなった。


「困ります。ツヴァイクレ伯爵令嬢様」

「どうして?私はイリーネがどうしても会いたいと言うから連れて来たのよ」


その声はクラウスナー家の家令とミアのものだった。

段々と近づく足音に、イリーネは嫌な感覚を覚え、侍女に扉を閉め、鍵を掛けるよう指示を出した。


侍女が鍵を掛けたのとほぼ同時に、扉がノックされた。

イリーネが侍女に視線で合図を送ると、イリーネの代わりに侍女が返事をした。


「申し訳ありません。只今お嬢様はお休み中です」


侍女の返事に、ミアは納得いかない様子で言葉を返した。


「そんなはずないわ。さっき庭師が、イリーネが窓から庭を覗いていたと言っていたわ」


侍女が困ってイリーネに視線を送ると、小声で侍女に尋ねた。


「何があったの?」

「それが…」


侍女が言いかけた時、廊下を慌てた様に走る足音と、イリーネのよく知った声が聞こえた。


「ミア、いい加減にしろ!」


久しぶりに聞くその声に思わずイリーネは涙を流した。


「ローマン…」


掠れた小さなイリーネの声は、傍にいる侍女にしか届かない。


「勝手に連れてきて、どう言うつもりだ。部屋にまで押しかけるなんて。帰るぞ」

「待って!ローマン!イリーネはローマンに会いたいって言っていたの。だから会ってあげて欲しいの」

「ミア、とにかく今日はもう帰ろう」


ローマンがミアに帰るように促すが、ミアは聞く耳を持たない。


「待って、きっと今はお化粧をしていないから会えないだけよ。そうよね、イリーネ。待っているからお化粧をして着替えたら会ってくれるわよね」


ミアのその言葉を聞いて、イリーネは自分の中に何かが溢れる感覚に襲われた。

確かに会いたいと言ったのはイリーネだ。

しかしあれは、本心であって本心ではない。


化粧をしたって、綺麗なドレスを着たって、今の自分はどんなに頑張っても老婆にしか見えない。

もう何日も鏡を見ていない。鏡に映る自分を見るのが嫌だから。

本当はミアがお見舞いに来るのが嫌だった。

綺麗な肌に綺麗な髪、綺麗にお化粧して、流行りの綺麗なドレスを着て、楽しい出来事を話すミアが嫌いだった。

自分よりローマンの隣が相応しいミアが妬ましかった。


そして、そんな風に思ってしまう自分が何よりも嫌いだった。


そんな事を思いながらイリーネは、骨と皮だけになって力の入らない手を握りしめた。


「…って。…ってよ。ミアにもローマンにも会いたくない。帰ってよ!」


イリーネが振り絞って出した声は掠れ、かろうじて扉の向こうにいる人達に聞こえる程度だった。


「イリーネ…そんなひどいわ…」


イリーネはミアの言葉にハッとした。

今のは完全に八つ当たりだ。

しかし放った言葉はもう取り消せない。

言い訳しようにも言葉が出ない。


イリーネは扉に向かって心の中で叫んだ。


「違う。ごめんなさい。今のは八つ当たりだったわ。ごめんなさい」


しかしその思いが声になる事はなかった。


「わかったわ。イリーネ、ごめんなさい。帰るわね」


そう言って靴音が静かに遠ざかって行く。


「イリーネ、騒いでしまってごめん。ゆっくり休んで」


その場に崩れる様に座り込んだイリーネの耳にローマンの優しい声が届く。

イリーネの心が満たされるのと同時に、もうこの声を聞くのは最後だと、二度と会う事もなく自分はこの世を去るのかと、そしてローマンは誰か別の女性と…そこまで考えると心臓が痛いくらいに軋み、鼻の奥がツンと痛んだ。


「ご…な、さい」


震える声で言った言葉はローマンに届いたか分からない。

だけど、聞えていなくても良かった。

イリーネ自身が何に対する謝罪なのかわかっていなかったから。




その日の夜から三日三晩イリーネは高熱を出し、ベッドから起き上がる事が出来なくなっていた。


医者からもって数か月と告げられた家族は、交代でイリーネの看病をした。

そのお陰もあって、イリーネの病状は少しずつ落ち着き、少しの間なら身体を起こすことが出来るまでに回復していた。


しかし、薬で進行を遅らせるのにも限界が来ており、イリーネの最期の日は着実に迫っていた。


クラウスナー一家は、イリーネとの残り僅かな時間を一緒に過ごすために、仕事や社交を極力減らし、家族みんなで過ごす様になっていった。


もって数か月と言われてから3か月、あと一月後にはイリーネの17歳の誕生日という時、ディルクによってクラウスナー家に朗報が届けられた。


「イリーネの病気が治るかもしれません。先日隣国の学者が特効薬を作り出したと発表して、その薬を手に入れる事が出来たんです」


そんなディルクの言葉を聞くと、クラウスナー家の皆から歓声が上がった。


「今うちの侍医に、イリーネの主治医の所に薬を届けに行って貰っています。もしその薬に問題がなければ、すぐにでも治療に取り掛かって貰いたいと思っています」


ディルクの言葉を聞き終わると、ドルフは安堵のあまり涙し喜んだ。


「しかし、イリーネの病状はかなり進んでいる状態ですので、効果が見込めない場合もあるとの事です。それと…薬の副作用の事ですが…」


ディルクの言葉に、先程まで喜んでいたドルフは愕然とし、フリーダは声を出し泣いた。

しかし、命が助かるのであればと最後は皆が納得をした。



その後、薬の投薬を開始した直後から効果は現れ出し、4か月後には部屋の端から端までなら一人で歩けるまでに回復した。

食欲も出てきて少しずつ肉付きも良くなり、ずっと苦しんでいた眩暈も頭痛も無くなった。


そんなある日、クラウスナー邸にディルクが見舞いにやって来た。


「ねえ、イリーネ。うちの領地においでよ。ヴォルフ領なら気候が安定していて自然も豊かだから療養にもピッタリだよ」


ヴォルフ領は王都から馬車で1週間程度、イリーネの体調を考慮すればその倍にはなるが、途中には大きな町がいくつかあるので寝泊まりには問題ない。

気候は一年を通して温暖な気候で、過ごしやすい事はイリーネも良く知っていた。


「お医者様が許可をくれるかしら」

「あ、それならもう許可は貰っているよ。ちなみに医者も一緒に着いてきてくれるって」

「え!?」


イリーネはディルクの根回しの早さに驚き、思わず大きな声が出て口を押えた。


「はは。大きい声が出る様になったね。俺の愛情たっぷりな看病のお陰だね」

「愛情を注がれた覚えがないのだけど」

「あはは。俺の愛情は愛する人にだけ注がれるからね。イリーネは友情で勘弁しておいて」


軽い口調で言うディルクだが、イリーネはディルクに心から感謝をしていた。



それから一か月後、イリーネはヴォルフ領で毎日を過ごしていた。

ヴォルフ子爵家の皆はイリーネの幼い頃からよく知っていて、とても良くしてくれていた。

今はもうすぐ始まる社交シーズンの為の準備に忙しくしていた。


イリーネも体調のいい日は手伝いをしたり、領内を見て回ったりと充実した日々を過ごしていた。


「イリーネ、体調はどう?」


イリーネが庭園を眺めていると、ヴォルフが声を掛けて来た。


「今日はとても体調がいいの」

「そう、それは良かった。俺は来週一旦王都に戻って、欠席できない夜会にだけ出たら戻ってくるよ」

「そんな、ゆっくりしてきたらいいのに」

「俺は元々社交が好きじゃないから。それにもうじき俺には必要なくなる事だし。それより、何か必要な物はない?」

「いいえ。何もないわ。あ、でも…一つだけお願いしてもいいかしら」


イリーネはここ最近ずっと気になっていた事を、ディルクにお願いする事にした。


「ミアに手紙を渡して欲しいの。許してくれないかもしれないけれど、ちゃんと気持ちを伝えておきたいの」


それからイリーネはミアに手紙を書いた。

あの時の事への謝罪、ずっと健康で綺麗なミアが羨ましかった事、自分の醜さが許せなくてつい当たってしまったのだと、それから王都に戻ったら会いたいと正直な気持ちを綴った。



一週間後、託した手紙を持ってディルクは一足先に王都へと向かった。


そのまた一週間後には他のヴォルフ家の皆も荷馬車を引き連れ王都へと出立した。


社交シーズンになると国中の貴族たちが王都へ集まり、毎晩のように夜会が催される。

この国の成人は16歳で、社交界デビューもその歳にする者が殆どで、幼い頃からそれを夢見る貴族令嬢は少なくない。

イリーネもその一人だったが、デビュタント目前で病気になり、その夢も叶う事はなかった。


「ローマンと踊りたかったな…」


馬車を見送りながら零したイリーネの言葉は、風にかき消された。



しばらくして王都から戻ったディルクは、手紙を無事に渡した事を報告してくれた。

しかし返事はなく、ディルクは申し訳なさそうにしていた。


「ありがとう、ディルク」


イリーネはもうミアとは以前の様には戻れないと思うと正直寂しかったが、自業自得なのだから落ち込む姿を見せてディルクに心配をかけるのは違うと、平静を装った。


「あ、それから大事な物を預かって来たんだった」


そう言ってディルクは胸ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、イリーネに手渡した。

その紙を開けたイリーネは中を見て目を瞬かせた。


「…種?」


中に入っていたのは植物の種の様だった。


「そう。寒さにも強いように改良されているらしいけど、ヴォルフ領でも温室の方が良いって」


ディルクの言葉に全てを理解したイリーネは、その種を大事そうに両手で包んだ。


翌日、早速鉢に種を植えると、それからイリーネの日課は温室通いになった。

ミアの事で落ち込んだ気持ちも、少し和らいだ。



それから1年後、温室がイリーネの好きな小さな水色の花で溢れた頃、突然ミアから手紙が届いた。


内容は結婚の報告だった。

何でも、相手は当主と後継を立て続けに亡くし、他に後継となる男子がいない事から急遽当主となる事になった伯爵家の次男らしい。

状況と相手の年齢を考慮し、婚約期間は3か月でその後すぐに結婚するとの事だった。

歳は10以上離れてはいるが、初婚で優しく、ミアを愛してくれいているらしい。

とても幸せそうな内容の手紙を読み、イリーネは嬉しくなりすぐに返事を出した。


最近イリーネは、自身の身近の人の変化をとても嬉しく思うようになっていた。

あのまま病気で亡くなっていたら知る事の出来なかった未来を、生きて体感している。

それだけでイリーネは幸せだった。


ディルクは相変わらずイリーネを中心に生活を続けているが、何やら良い事があったようで最近はご機嫌だ。

ヴォルフ子爵夫妻は毎日仲が良く、今年はディルクの弟が社交界デビューをしたので王都で張り切っているらしい。

ローマンは、昨年の騎士団の入団試験に受かり、今は見習いとして頑張っているらしい。

相変わらずの女嫌いで、未だに婚約者はいないらしいが。

イリーネの両親は相変わらずで、月に一度必ず手紙を寄越し近況を報せてくれる。

最近は兄のティモとお嫁さんの間に双子が生まれ、その事で便箋3枚は使われていた。


そして、イリーネにも大きな変化があった。


「もう完治と言って支障ありません。よく頑張りましたね」


主治医のその言葉にイリーネよりもディルクの方が喜んでいた。



半年後、イリーネとディルクは王都にあるフェルザー伯爵家に来ていた。


「どうしよう。ディルク、私緊張して来たわ」

「はは。抱っこしてあげようか?」

「なんで抱っこなのよ。抱っこして緊張が解れるなんて聞いた事がないわ」


そんな会話をしているうちに、中庭に到着した。

そこには1年半ぶりに会うミアと、2年ぶりに会うローマンの姿があった。


ミアは相変わらず愛らしいままだったが、ローマンの方はすっかり大人っぽくなり、身長も伸びたらしく一段と素敵になっていた。

そんなローマンの姿を見たイリーネの心臓は、どくどくと大きく高鳴った。


席に着き、イリーネの完治のお祝いの言葉と、ミアの結婚のお祝いの言葉を交わした後は他愛のない話で盛り上がった。

それは懐かしい光景で、イリーネはとても嬉しく思っていた。


「そう言えば、イリーネは結婚しないの?」


しかしミアのその一言で、楽しかった空気が一気に冷えたような感覚になった。


「結婚はいいわよ。毎日旦那様に愛を囁かれるの。奥様とか夫人って呼ばれる度に幸せを実感するわ」


とても幸せそうなミアの言葉に水を差すようで、イリーネは話すか迷ったが、幼馴染の皆には本当の事を話すべきだと決意した。


「私は誰とも結婚はしないわ」


イリーネの言葉にミアはまあ!と目を丸くした。


「私、子供を産めないの」


その言葉に三人は何も言わずに、黙ってイリーネの言葉の続きを待った。


「治療に使った薬の副作用で、子供が出来ない体になったの。それでも家の為に必要なら後妻に入る事も考えたわ。けれど、両親も兄夫婦もずっと家にいて構わないと言ってくれたの」


全てを知っているディルクは、イリーネの背中に手を置きよく頑張ったねと言ってくれた。


ローマンは動揺する事もなく、ただ黙ってイリーネを見つめていただけだったが、ミアは「可哀そう」と言って目元をハンカチで抑えていた。


「絶対に出来ないと言う訳ではないんだ。確率が下がったと言うだけで、まだ出来たばかりの薬で症例が少ないから」


ディルクが付け加えるが、貴族令嬢にとって子が出来ない可能性があるだけで結婚は難しくなる。

それにイリーネにとって、ローマン以外との結婚に何の魅力も感じなかった。



「イリーネ、またね」


先に帰るミアに手を振っていると、ディルクが立ち上がった。


「じゃあ俺も帰るわ」


ディルクが帰ると言うので、慌ててイリーネも帰りの支度をしようとするとディルクに止められた。


「イリーネ、ごめん。馬車俺に使わせて。俺これから大事な用時があるの。帰りはローマンにでも送って貰って。ローマンが嫌なら馬車手配するけど」


じゃあと言ってディルクは足早にその場を後にした。


残された二人は呆然としたまま見つめ合っていたが、突然ローマンが「連れて行きたい場所がある」と言ってイリーネの手を引いて歩き出した。


イリーネは繋がれた手に嬉しいような恥ずかしいような複雑な思いと、汗をかいていないか心配な気持で、何も考えられなくなっていた。


「入って」


連れてこられた場所は温室で、中に入るとそこには色とりどりの珍しい花が咲き乱れていた。

そのまま奥に案内され着いて行くと、そこにはイリーネの大好きな小さな水色の花が温室を埋め尽くさんばかりに咲いていた。


「わあ」

「イリーネ。結婚して欲しいって言ったら困らせるかな」

「…え…」


突然のローマンの言葉にイリーネの頭の処理が追い付かない。


「今すぐでなくていい。僕も騎士団に入ったばかりだし、一人前になるまでは駄目だって子爵には言われているし」

「え?子爵って…お父様?」


イリーネの問いかけにローマンは黙って頷く。


「でも私子供が…」

「関係ないよ。家は兄が継ぐし、僕にはイリーネがいればそれだけでいい」

「でも…」

「父も母も賛成しているよ。僕はイリーネ以外とは結婚しないと言っていたし」


ローマンの父親はイリーネが完治の難しい病気だと知ると、すぐに婚約の解消を申し出てきたが、その後ローマンが他の女性とは結婚しないと言い出し困り果てていたらしい。


「イリーネ、答えはすぐでなくていい。何年でも待つし、何回でも僕はまたプロポーズするから」


気付けばイリーネの目からは涙が溢れていた。


まだイリーネが元気だった頃、婚約中もお互い言葉で気持ちを伝えた事がなかった。


「ローマン、私ずっと貴方の事が好きだった。病気になって死ぬことよりも、貴方が他の誰かと結婚して私の事を忘れてしまう事の方が怖かった」


イリーネが崩れる様に泣き出すと、ローマンがその体を受け止め力強く抱きしめた。


「僕もずっとイリーネの事が好きだった。イリーネを失うかもしれないと思ったら生きた心地がしなかった。生きていてくれてありがとう」




それからまた数か月後、その日はイリーネの社交界デビュー。

2年遅れての社交界デビューのエスコート役はローマン。

まだ正式に婚約をした訳ではないが、二人は順調に交際を続けていた。


「イリーネ。素敵なドレスね」


会場に着くとミアがすぐに声を掛けて来た。


「ミアも相変わらず素敵だわ。今日は旦那様に会えるのを楽しみにしているわ」


軽く言葉を交わし別れた後は、ディルクや久しぶりに会う友人と話しをしたり、慣れないダンスを踊り夜会を満喫していた。


「疲れただろ?少し休憩してくるといいよ」


ローマンとディルクに言われ、イリーネは休憩用に用意された部屋の一室に入りソファに腰かけた。

やはり初めての夜会という事もあり、疲れたのだろう。

イリーネは気づくと暫く眠ってしまっていた様で、何やら聞えて来た話声で目を覚ました。


話声は隣の部屋からで、イリーネのいる部屋とは扉で繋がっている様だった。


「隣は婦人方の休憩室よね…」


イリーネが独り言を呟いていると、隣の部屋からよく知った声が聞えイリーネは驚き扉に目をやる。


「見まして?ローマン様とディルク様に媚びて、恥ずかしいったら」

「ケネル夫人はイリーネ嬢と親しくされていましたわよね」

「嫌ですわ。知っていまして?彼女、子供を産めない体なのですって」

「まあ、そうなの?確か数年前に体調を崩したとか」


ミアが嫁いだ伯爵家はケネル伯爵家、つまりケネル夫人とはミアの事である。

イリーネは驚きの余り身動きを取る事も出来ず、ただソファの上で扉を見つめていた。


「その病気を治すために飲んでいた薬、そのせいで子供が出来なくなったようですわ」

「まあ、何てこと。私なら子供が産めなくなるのなら死んだ方がマシだわ」

「でも彼女は違いましたのよ」

「どう言う事ですの?」


会話はミアを中心に進んでいて、その内容はイリーネにとって衝撃的なものだった。


「彼女、療養でヴォルフ子爵領へ行っていたのはご存じ?」

「いいえ」

「彼女、子供が出来ない事を良い事に、そこでディルク様と不埒な事をなさっていたそうよ」

「「まあ」」


数人の驚きの声が重なる。

イリーネは一瞬何を言っているのか理解できずに固まっていた。



「友人だなんて都合のいい事を言っていても、男女の間にそんなものが存在する訳がないでしょうに。王都に帰ってからはローマン様にまで色仕掛けで迫っているそうで、彼女にとっては子供が出来ない事は好都合の様ですわ」


イリーネはゆっくり深呼吸をすると、勢いよく立ち上がった。

ミアが意図する事が理解できたが、それと同時に怒りが込み上げてきたのだ。


ミアは嘘デタラメを恰も真実の様に話し、イリーネを貶めようとしている。

しかしイリーネにとってそんな事よりも、あれほど親身になって自分を支えてくれたディルクと、ずっと陰ながら支えてくれていたローマンの事まで悪く言われている事が許せなかった。


イリーネは扉の前まで行きノブを回すも、鍵がかかっているようで扉は開かなかった。

仕方なく、一度廊下へ出ようと部屋の入口に向かおうとした時、慣れないドレスのスカートに足が引っかかり転んでしまった。


「では主人が待っていますので、失礼」


イリーネが転んで床にへばりついている間に、ミアは部屋を出て行ってしまった。

それでも隣の部屋へ行って誤解を解こうと立ち上がろうとした時、笑い声が響いた。


「ふふ。聞きまして?主人ですって」

「皆知らないと思っているのかしら」

「ご主人、独身時代から入れあげている娼婦を離れに呼んだそうじゃない」

「しかも、本妻より先に愛人の方に子供が出来てしまうなんて」

「やだ、当然だわ。だってご主人、結婚してからもずっと離れで過ごしているそうよ」

「まあ、お可哀そうに」

「「ほほほ」」


イリーネはその会話を聞いて信じられない気持ちでいた。

あんなに幸せそうに結婚について話していたし、旦那さんにも愛されていると言っていた。

毎日幸せだって言っていた。


イリーネが再び動けずに固まっていると、ノックの音が聞こえハッとする。


動揺のあまり返事も出来ずにいると慌てた様に扉が開かれた。


「イリーネ、大丈夫?」


開けられた扉の向こうからローマンとディルクが同時に現れ、床にへたり込んだままのイリーネを見て慌てて駆け寄った。


「どうした?具合が悪いのか?」


二人が心配そうに額に手を当てたり、脈を測ったりするのでなんだか面白くなってイリーネは吹き出してしまった。

それから先ほどの事を二人に話すと、顔を見合わせて困った顔をした。


「ミアには俺からちゃんと話しておく。それから他の貴族婦人たちへも説明をしておくよ。まあ、殆ど信じてはいないと思うけど」


ディルクの言葉に少し落ち着きを取り戻したイリーネは、ローマンの手を借りて立ち上がった。


「ごめんさない。私のせいで二人にまで迷惑を掛けてしまって」


そう言ったイリーネに二人は首を振った。


「イリーネが責任を感じる必要はないよ。僕たちは何を言われても構わないが、イリーネに対する誤解だけは解いておいた方がいいね」

「そもそも俺らがミアの事を最初に話しておくべきだった」


結局その日、三人は早めに夜会会場を後にした。


その後ディルクがミアに話をしたらしいが、曖昧な返事だけだったと言う。

イリーネが何度かミアに手紙を出したが、返事が来ることはなかった。


社交界で顔を合わせてもミアはイリーネを避けている様だったし、数人で話す機会があってもお互い当たり障りのない会話しか出来なかった。


そんな状況が1年ほど続いて、以前の様な関係に戻る事をイリーネは諦め始めていた。

そもそも友人だと思っていたのは、初めからイリーネだけだったのかもしれないとも思っていた。

幼い頃からずっと一緒だったミア。

四人で仲良く過ごしていた時間が、今ではとても遠くに感じられた。



そしてイリーネは今教会で、一組の夫婦の誕生を祝っていた。


花弁が舞う中、幸せそうに微笑み合う男女。

男性が女性の腰を抱き、少し大きくなったお腹を庇う様に、女性は自身のお腹に手を添える。


「おめでとう、ディルク」

「ありがとう」


とても幸せそうに微笑むディルクは、隣に立つ女性を自慢げに抱き寄せた。

相手の女性はリンダと言って平民で、二人はディルクが16歳の時から交際をしていた。

しかし、二人の結婚を父親に反対されていたディルクは弟に爵位を譲り、自身は貴族籍を捨て平民として生きて行く事を決めた。


「ディルク、何か私に力になれる事があったら言ってね。今度は私が貴方の力になりたいの」


イリーネの言葉にディルクは、チラリとローマンを見た。


「俺は二人が幸せな所を見られれば、それだけで満足だから。ローマン、イリーネを幸せにしてやれよ」


ディルクの言葉にローマンは黙って力強く頷いた。

次から次へとお祝いの言葉を掛けに来る人に囲まれたディルクは、その一人一人に妻になったリンダを自慢していた。

貴族位を捨て、平民になる者に我先にとお祝いの言葉を掛ける貴族の姿を見て、ディルクの人望の厚さを再認識したイリーネが、感心したようにその光景を眺めていると、隣に立つローマンが腰を抱き寄せた。


人々が主役の二人に夢中になっている中、イリーネとローマンは互いに見つめ合っていた。


「次は僕たちの番だね」

「え!?」


ローマンがイリーネの耳元で呟いた言葉に、イリーネの頬が赤く染まる。

意地悪く笑うローマンは、いつの間にかイリーネの薬指に指輪を嵌め、口づけを落とす。


イリーネがローマンに抱き着くと、周りから歓声と拍手が鳴り響いた。

いつの間にか皆の注目を浴びていた事に気が付いたイリーネは、恥ずかしさのあまりローマンの肩に顔を埋めた。



いつも近くで支えてくれた大切な友人のディルクの隣には、彼の大切な人が世界一幸せそうな顔をして笑っている。

そんな彼女を、ディルクもまた幸せそうに見つめている。

友人の幸せがこんなにも自分の事の様に嬉しい事とは、自然とイリーネの瞳に涙が浮かぶ。


そして、イリーネの隣には愛する人。

一度は諦めた彼の隣に立てている今がどれだけ尊いか、当たり前の事ではなく、イリーネにとっては奇跡でしかない。


イリーネは大切な人たちの笑顔を見て感慨深くなった。

それと同時にミアの事が脳裏に浮かぶが、それを察したローマンが「考えなくて良い」とイリーネの頭を撫でた。




ディルクの結婚式から一年半後、イリーネ達はディルク達と同じ教会で結婚式を挙げた。


よたよたと歩く元気な男の子の後をディルクが心配そうに着いて歩き、それを大きなお腹のリンダが微笑ましそうに見ている。


「ふふ。随分と元気ね」

「もう、目を離すとすぐどこかへ行ってしまうから大変だよ」

「カイ、おいで」


ローマンがディルクの息子を抱き上げると、キャッキャと嬉しそうな笑い声を漏らす。


「ミアはやはり来なかったな」

「そうね…」


あれからミアとは何度か顔を合わせたが、挨拶をするとミアは不機嫌な態度を隠そうともせず、すぐに他の婦人たちの所へ行ってしまう様になっていた。

貴族婦人たちとイリーネの方にチラチラと視線を向けながら薄ら笑いを浮かべ、明らかにイリーネの噂話をしているのが分かった。


しかしミアがイリーネの噂話を流す度、ローマン達がその噂を払拭してくれる。

そんな事を繰り返すうち、ミアの話すイリーネの話しには矛盾が生まれていき、次第に他の貴族婦人たちからも遠巻きに見られるようになっていた。


「いつかは分かり合えるかもと思っていたけど、無理みたいね…」


悲しそうに目を伏せるイリーネの頭を、小さな手が優しく撫でた。


「だいじょーう?いたい?」


カイが心配そうにイリーネの顔を覗き込むその顔がとてもかわいくて、イリーネに笑顔が戻る。


「大丈夫よ。ありがとう」


すると今度はイリーネのお腹を指差し、カイが不思議な事を言うので皆が同時に首を傾げる。


「あーちゃん。うれちい」


少しの間皆が顔を見合わせていたが、リンダがハッとした様に叫んだ。


「赤ちゃん!?」


突然の大きな声に、近くにいた人が一斉にイリーネ達の方を見た。


「でも、私は…」


そこまで言いかけたイリーネは、何かを思い出したかのようにローマンを見た。


「そう言えば、先月から月のものが来ていないわ…」


その言葉にローマンは満面の笑みを浮かべる。

透かさずディルクはローマンから息子を奪い取る。


「イリーネ!」


ローマンがイリーネを抱き上げるとクルクルと回り出す。

それを慌てて皆が制止するが、ローマンはイリーネの身体を高く抱き上げる。


「たかいたかい。ぼくも」


カイが羨ましそうにディルクにせがむ。


「でも、まだわからないわ。お医者様は難しいだろうって言っていたし」

「ごめん、でももし違っていてもいいんだ。僕がイリーネを今すごく甘やかしたい気持ちなのは変わらないから」


周りには会話の内容まで聞こえないが、たった今夫婦になった二人の仲睦まじい姿を見て拍手で二人を祝福した。



数か月後、イリーネとローマンの間に元気な男の子が誕生した。

子供が無事に生まれるとローマンや家族だけでなく、ディルクとリンダも涙を流し喜んだ。


絶対に無理だと諦めていた子供を授かる事が出来たイリーネは、この奇跡に心から感謝し、生まれてきてくれた息子にリヒトと名付けた。


16歳で全てを諦めたイリーネは今、大切な家族と友人たちに囲まれとても幸せに生きている。





読んで頂き有難うございます。

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