最終話
その一日がなにか特別なものになると感じさせる予兆はなにもなかった。いつもと同じ朝が始まり、変わらない平穏が過ぎていく。それが聖都の日常だった。
五年前のあの日、魔人皇の復活という世界崩壊の引き金が引かれた。だがそれは聖都に暮らす多くの者たちの預かり知れぬものであり、またそれを知る者たちでさえ五年という月日を変わらぬ日常に追われて、今日という一日が昨日と変わらず過ぎていくと誰もが漠然と考えていた。
聖都騎士団の団長たるレオス=グラッドンも例外ではなかった。彼とて油断していたわけではない。魔人皇の復活に彼も立ち合っており、決戦の日がいつか来ることも承知して備えていた。ただ動き始めたカウントダウンがゼロを告げるのが今日だとは神ならぬ身には知る由もなかったというだけだ。
レオスは今日も執務室へとこもり、破滅へと滑り落ちていく世界に必死で歯止めをかけるための雑務を粛々とこなしていた。
軽く、ノックの音が鳴る。レオスは書類から顔も上げずに短く答えた。
「入れ」
ドアの開く音、ついで誰かが入室する足音が聞こえる。レオスはペンを走らせる手も止めずに相手の要件を待った。そして聞こえてきた声に――
「ご機嫌いかがかな、団長どの」
レオスははっと顔をあげる。ペン先が弾けて、書類の重要項目のうえを黒い染みが汚した。レオスは立ち上がり怒号をあげる。
「アラン=ゾルダート! 貴様、なにをしに……いや、どうやってここまで入ってきた!」
涼やかな顔で吹きつける怒声をいなし、アランは優雅に微笑んですらみせる。
「勝手知ったる、というやつさ。私が元騎士団の所属だったということは、団長どのには言うまでもないことだろう?」
露骨にからかうような調子で答えてアランは執務室の壁にもたれかかった。レオスはせま苦しい執務室のなかで〈ウリエル〉の召喚符に手を掛ける。いざとなればこの部屋を爆砕してでも精霊を呼び出す腹づもりだった。
だがアランの方には戦闘態勢を取るつもりは見受けられず、とっておきのいたずらを披露する子供のような表情で窓を指さしただけだった。
「なにをしに……と問われれば、我々解放者の五年間の成果をお見せしたいと思ってね。さあご覧あれ――我らが決戦兵器〈パンデモニウム〉の雄姿を!」
聖都郊外に忽然と現れた異形の姿はあまりにも禍々しく、そしてあまりにも――巨大だった。聖都の街並みを隔てたこの執務室の窓からでもその姿を目視できるほどに。
全身に赤黒い外殻を纏い、多足を蠢かして前進するその姿はムカデにも似ている。〈パンデモニウム〉はその重すぎる胴体を地面に埋めながら匍匐するように聖都へと接近してた。一歩、また一歩と前進するたびに、こすれた地面との摩擦が熱を帯びて周囲へと異臭と黒煙とをまき散らした。
迫りくる〈パンデモニウム〉の悪夢のような姿にそれまで誰も気付けなかったのは――それがなんの前兆もなく突然その姿を現したからに他ならない。
「まさか、あれが精霊だというのか……!」
レオスは振り返り、怒りに血走った眼をアランへと向ける。アランは気のない拍手とともにレオスの姿を嘲笑った。
「あれこそ魔人皇が手ずから召喚された、彼の居城さ」
アランはこの五年の間に魔人皇〈カボル=ドゥガ〉と接触し、その尖兵としての役を担わされていた。そして今日というこの日、彼自身の決着をつけるためにここへと足を運んだ。
レオスとアラン、迫りくる〈パンデモニウム〉の奏でる破滅の足音を聞きながら互いに懐に忍ばせた召喚符へと手を掛ける。
安寧を約束された聖なる都市、その終末が機械仕掛けの足音を響かせて近づいていた。
あまりにも巨大な〈パンデモニウム〉の姿は、聖都へ向かう途中の馬車の車上からでも確認できた。
「ふざけてやがる……!」
自走する移動要塞が聖都そのものを飲み込まんと進撃している。晴天の下に黒煙をたなびかせるその姿はまさしく悪夢か、さもなくば質の悪い冗談のようだった。
御者台に座るエンリケが馬車を引く馬たちへと懸命に檄を飛ばす。激しく跳ねまわる車内でリタも体重の軽いエルクを支えてやりながら爪を噛んだ。
「このままじゃ聖都が破壊されてしまう……!」
三人は〈モーリアン〉を手に入れた後、〈アルカトル〉から聖都の危機を知らされて急ぎ聖都へと取って返した。
聖霊鳥からの託宣で、解放者はすでに地と水の〈異界渡り〉を手中に収め、エルクたちが火と風の〈異界渡り〉を抑えたことを知ると聖都への侵攻を開始したと教えられた。
聖都へとつながる街道を馬車は猛烈な勢いで走っている。だが視界に映る〈パンデモニウム〉の異様にはじれったいほどに届かない。エルクは意を決して懐中から召喚符を引き抜いた。
「急がないと街が危ない! わたし、先に行きますね!」
呼び出された精霊〈カラドリウス〉は、〈ヴィゾフニル〉よりも一回り大きな翼を広げて疾走する馬車に並走した。たしかに〈カラドリウス〉の体躯なら小柄なエルクひとりであれば背に乗って先行できる。
いまにも飛び出しそうなエルクの背をリタが引き留める。
「あなたひとりでどうするつもり?」
エルクは振り返って笑い、背中のリュックをぽんと叩く。リタは思い出した。商都ではぐれた時に彼女が制作したアーティファクトによって呼び出された経験を。
「リタさんだけなら、わたしが向こうに辿り着けば呼び出すことができます! ……エンリケさんには申し訳ないですけど」
エルクがすまなそうな顔をしたが、集中して手綱を握るエンリケは振り返らずに答えた。
「打つ手があんなら、さっさとやれ! 俺の方は自分でなんとかする!」
ぶっきらぼうなエンリケの言葉に微笑んでエルクは馬車から飛び出した。並走する〈カラドリウス〉の首にしがみつき、そのまま大空へと飛び立っていく。
見る間に小さくなっていく影を目で見送りながら、リタは不安げなつぶやきを漏らす。
「なんとかするって……どうするつもりなのよ、いったい?」
すっかり心配性になった元級友の言葉に、エンリケは振り向かずにただ口元だけで薄く笑った。
「なんとかするさ。お前は自分の心配でもしてな」
「いつまでも子供扱いしないでよ……」
唇を尖らせてつぶやいたその姿がなおさら子供っぽいと自覚して、リタは思わず苦笑する。ほんの少しだけふたりの間に懐かしい空気が戻ってきたように感じられて、リタは馬車を繰るエンリケの背中にそっと無言で笑みを向けた。
上空から〈パンデモニウム〉へと迫り、エルクはそのおぞましい姿を間近に見た。魔界で生まれたその魔法生物は機械と生命体が混ざり合ったような不気味な体躯をうねらせて、目前に迫る聖都へと侵攻を続けていた。
接近すると、その身から巻き起こる魔の瘴気とたなびく黒煙が目に沁みる。
「こんなのが街中に入ってきたら迷惑だから、やめてもらうようにいわないと!」
決意を固めてエルクは〈カラドリウス〉を異形の背へと着陸させる。エルクが降り立った場所は移動要塞〈パンデモニウム〉の甲板にあたる場所で、内部へと入りこむ侵入口が見える。
エルクはリュックのなかを探りリタを呼び出すアーティファクトのラッパを取り出して吹き鳴らした。
ほどなくしてエルクのすぐ隣にリタが呼び出される。リタは周囲を見回して状況を確認するとエルクと目を見合わせて頷きあった。
「あそこから内部へ入れそうね」
侵入口を目で示し、連れ立ってぽっかりと口を開けた闇のなかへと飛び込む。
飛び降りた場所から先は通路のようになっている。不快な感触を足元に伝える肉の壁は先が見えないほどどこまでも続くようで、薄暗い回廊を得体の知れない赤い光がところどころで明滅を繰り返している。
粘りつく足元に顔をしかめながらリタが先を歩いていく。エルクも顔だけは真剣そのもので、ぽてぽてと緊張感のない足取りでリタに続いた。
しばらく進むと開けた場所に出た。いくつかの通路がその広場で交わっている。リタは手近な通路を覗き込んでみたが、どれも似たようなもので手掛かりになるようなものはなにもない。
「まずはこのバケモノの動きを止めたいけれど……どこへ向かうべきかしらね?」
思案顔のリタが期待を込めてエルクのリュックをちらりと見るが、エルクは唇に人差し指を当てて困り顔を浮かべた。
「うーん……見たところ魔法生物の一種のようなんですが、この子がなにを動力としているのかがわからないと探知しようがないんですよね」
当てが外れてしまいリタも困惑を顔に浮かべて、どれも同じようにしか見えない通路を見渡した。
「そうか……じゃあもう、手あたり次第にカンで進むしかないのかしら」
「その必要はないわよ」
不意に頭上から掛けられた声に、リタとエルクははっと顔をあげて声の主の姿を探す。
「通路はどれもフェイク。重要な場所には、この転送機を使わなければ移動できない」
見上げた先にはアーネの姿があった。複雑に入り組んだ段差のうえを、ゆったりとした足取りで降りてくる。その手のなかに黒い球体があった。球体の表面には複雑な紋様が描かれており、その紋様に合わせて淡い緑色の光が灯っていた。
「あれ、アーティファクトですね。それも相当な精度の。マーキングされた場所に持ち主の意思ひとつで転送してくれる能力を持ってます」
エルクが専門家らしい分析を行うのを聞いてアーネはくすりと笑った。
「ご明察ね。引き返すというのなら、安全な場所まで送ってあげるわよ?」
リタは息を呑んだ。優しく、にこやかに微笑むアーネの姿に郷愁を覚える――と同時に、その笑みは彼女がアカデミアでもトップクラスの実力の持ち主であったことも思い出させた。優雅な微笑みを絶やさぬままアーネがどんな強大な精霊でも打ち倒してきたのを、リタは幼き日に幾度も目にしてきた。
(ビビるな、私! もうあの頃の私とは違うんだってことを見せてやるんだ!)
萎縮しかけた心を鼓舞してリタは傍らに〈パラディン〉を呼び出した。
「アーネ! あなたを倒してその転送機を手に入れる!」
〈パラディン〉が震え雄叫びを上げる。〈パンデモニウム〉の内側を震わせて響いた咆哮はリタと〈パラディン〉の士気の発露だ。
アーネは悲し気に眉根を寄せてほうとため息をついた。
「そう、残念だわ。どうしても戦うのね」
そうしてアーネも自らの使役する精霊を呼び出した。色とりどりの〈スライム〉たちが魔法生物の内臓のうえにひしめいた。
「とても残念ね」
その戦いの行く末をすでに予見して、アーネは深いため息をついた。
聖都へと到着したエンリケを出迎えたのは、解放者アラン=ゾルダートだった。
アランはまだ息があるのが不思議なほどの傷とやけどを負って、民家に身体を預けながらも――それでもエンリケの姿を見て微笑んでみせた。
「やあ、キミか……風の〈異界渡り〉を味方にしたようだね」
アランがわずかに身体を動かし、しかし満足に動けず民家の壁に赤黒い墨を引いて座り込む姿を。エンリケはただ無言でじっと見つめ返していた。
「レオス団長に手ひどくやられてね……いっておくが負けたわけではないよ? あの勝負は引き分けだったさ」
アランの瞳はエンリケの姿を映しているようで、虚空をさまよっていた。幾度となく眼前に立ちはだかってきた難敵の死に際に立ち会い、エンリケは乱暴にアランの襟首を掴み上げた。
「良いザマだな。世の中をひっくり返しておいて、こんなとこで犬死にして。それで満足かよ、お前は!」
傷口から全身に走る苦痛に一瞬顔をしかめ――だが襟首を掴むエンリケの手に支えられるように再び立ったアランは、無理矢理にその表情を笑みの形に押し込めた。
「後悔はしていない。誰かに知って欲しかったんだ、私は」
歪んだ笑みを浮かべながら、アランの瞳からは涙がこぼれていた。
「痛かったんだ、私は。母さんに見捨てられた時も。生きるために両親を殺すしかなかった少年に出会ったときも。ずっとずっと、私の心は痛かった」
アランは哄笑した。両の目からぼろぼろと涙を流しながら、声をあげて笑っていた。
「知って欲しかったんだ、私の心の痛みを! 痛くて、どうしようもなくて、わかって欲しかったんだよ! 私は苦しんでいるのだと!」
エンリケは声にならない叫びをあげてアランを殴りつけた。死にかけた男の体はなんの抵抗もなく地面に叩きつけられる。
倒れ込み、なおも泣きながら笑い続けるアランへ。エンリケは失望の眼差しを向ける。
「知るか……そんなもん知ったことかよ! お前、そんな理由でこれだけのことをしでかしたのかよ!」
「本当にそんな理由なんだよ。私はその程度の男なんだ」
自嘲気味につぶやくと、アランは懐から黒い球体を取り出した。震える指先は球体のなめらかな曲線を捕らえ損ね、手から離れた球体は地面を転がった。
「それは転送機だ。〈パンデモニウム〉……あの機動要塞の内部へと転送してくれる。欲しければ持っていけ」
エンリケがその球体を拾い上げると、表面に描かれた紋様が淡い緑色の光を放ち始めた。
「どうしてこれを、俺に寄こす」
「魔人皇との盟約だからだ。盤上にゲームの駒をそろえるのが私の役目だ。それに、私にはもう必要ない」
エンリケの姿が光に包まれ、そして消えた。
どこまでも澄み渡る聖都の空を見上げながらアランは大きく深呼吸をした。
「盟約は果たしたぞ、魔人皇。すべての〈異界渡り〉が集結し、我々は――貴様たちから解放される」
誰にも聞かれることのないつぶやきを最後に、解放者アラン=ゾルダートは永遠にその眼を閉じた。
リタとアーネの決戦はあっけなく終わりを迎えた。
アーネは薄く微笑み、その結末を満足気に見渡した。総身に傷を負い、地に膝をついた〈アームド・パラディン〉の姿を。そして彼の剣の前に散っていった、自らの精霊たちの残骸を。
「強くなったわね、リタ」
その言葉を息を切らしながら無言でリタは受け入れた。際どい勝負ではあった。だが勝負の一手ごとに常にリタが一歩だけアーネを上回り、最後に立っていたのはリタの精霊だけだった。
精霊を失ったアーネは目を伏せてつぶやく。
「当然の結果よね。誰もがみんな、前に進もうと必死にあがいてきた。私だけがあの日から一歩も進めずに立ち止まったまま」
顔をあげて微笑んだアーネの表情は吹っ切れたように清々しかった。そして彼女は最後の切り札に手を掛ける。
「だからもう終わりにする。水の〈異界渡り〉――水妖精〈ヴィヴィアン〉の召喚符。彼女から認められていない私に召喚権はないけれど、私のすべての霊力を費やしてでも〈ヴィヴィアン〉を召喚する……!」
アーネが全身から霊力を放出し、召喚符へと注ぎ込む姿をリタは無言で見つめていた。アーネの色の白い顔から血の気が失せ、ますます蒼白となっていくのを。召喚符を掴む指先が震えて、苦悶に顔を歪めるのを。
リタは無言で見つめたままアーネへと歩み寄った。
「出でよ、水妖精〈ヴィヴィ……!」
言いかけた言葉が途中で詰まる。無言でアーネへと接近したリタが、黙ったまま彼女を抱きしめていた。予想外の行動に集中したアーネの霊力も霧散して消える。
「えっ? なに、ちょっと……放してよ!」
リタの腕のなかでアーネが暴れるが、聖都騎士団として鍛えてきたリタの腕力は思いのほか強く、アーネの力では振りほどくことができない。
霊力を使い果たしたうえに混乱して暴れたせいで体力も尽き、アーネは抱きしめられたままぐったりとうなだれた。
「なんなのよ、もう……」
子供をあやすように優しく抱きしめられてアーネはただされるがままに身を任せていた。
アーネが落ち着いたのを見計らってリタはそっと身を離す。
「もうやめましょうよ。自暴自棄になったって、なにも解決しないじゃない」
リタは聖都で再会したフィズの話をした。彼女から伝えられた、戦う以外の方法を探していく道があるということを。
リタが話し終えるまでの間、アーネは真剣な顔で彼女の話を聞いていた。
「いつの間にか、すっかり追い越されちゃったわね」
涙を拭って立ち上がりアーネは楽しそうに笑った。並んで立てば、いまでは背もリタの方が少しだけ高い。手を取り合ってアーネはリタの成長を心から喜んだ。
不意にアーネは眼差しを厳しくすると、緊張した声音でつぶやいた。
「〈パンデモニウム〉の動きを止めるには、魔人皇〈カボル=ドゥガ〉を倒すしかない。魔人皇の座す場所こそがこの機動要塞の心臓部よ」
リタとアーネが目を見合わせて頷きあった。こうしている間にも〈パンデモニウム〉は聖都アスカレアへと侵攻を続けている。聖都に暮らす人々の平穏を護るためには一刻も早くこの機動要塞の動きを止めなければならない。
そこに待ち受ける魔人皇の存在。五年前、その力のほんの一端に対して感じた恐怖を思い出してリタは己が震えているのを自覚する。
そこにふたりの因縁を察して成り行きを見守っていたエルクがとてとてと近付いてくる。
「急ぎましょう! 行って、〈カボル=ドゥガ〉様にみんなを困らせるのをやめてもらわないと!」
まっすぐに前だけを見るエルクの瞳に、魔人皇への恐怖心をリタは無理矢理に抑え込む。世界の命運を背負わされてなお揺るぎない眼差しにリタは自然と笑みがこぼれるのを感じた。
「そうね。たとえどんな相手でも、ぶつかってみるしかないか」
アーネが黒い球体の表面を指先でそっとなぞる。淡い緑色の燐光が宿り、次第に辺りを光に染めていく。
エルクがリタの手を取り、リタがアーネの手を取る。繋いだ手をしっかりと握りしめて、三人は待ち受ける魔人皇の膝元へと飛び立った。
転送された〈パンデモニウム〉のなかでエンリケは懐かしい後ろ姿を見た。かつては親友とさえ感じていたロンの姿に、いまはなにを思えばいいのか。
入り混じる感情をすべて吐き出すようにエンリケは絶叫する。
「ロォォォンッ!」
振り向いたその表情は少し困ったように苦笑を浮かべて。
「なんだよ、もう来ちまったのか」
素早く引き抜いた召喚符から精霊を呼び出した。生命無き骸骨の戦士〈スケルトン〉。その数は三体。瞬時に連続召喚してエンリケの行く手を阻むように陣形を組んだ。
エンリケも呼応するように召喚紋を開き〈フェアリー〉を呼び出す。
「ロン……! お前、自分がなにやってんのかわかってんのかよ!」
問いかける声を呪文に換えて、渦巻く烈風が左右から挟撃をかける。展開した二体の〈スケルトン〉が壁となり、呪文を受けて砕け散る。その間隙を縫って残る一体が〈フェアリー〉へと斬りかかった。
紙一重で〈フェアリー〉は後退して斬撃をかわす。返す刃が翻るより先に、妖精の放つ風の矢が骸骨の頭部を撃ち抜いた。
ロンは極めて冷静に次なる召喚符を取り出す。
「悪いな。自分勝手なのはわかってんだ。――来い、〈スパルトイ〉!」
砕けた〈スケルトン〉たちの残骸を依り代にして、さらに強力な精霊を呼び出した。破壊したはずの三体の骸骨たちが新たな精霊となって再生する。
エンリケは舌打ちとともに追撃のスペルを放つ。
「魔の連中が野放しになって、世の中めちゃくちゃになってんだぞ! こんなことがやりたかったのかよ、お前は!」
鋭利な風の刃が吹き抜けると、先頭に立つ〈スパルトイ〉の一体がその胴体を両断されて崩れ落ちる。だがその陰に潜んだ二体が〈フェアリー〉へと竜の牙を模した長槍を構えて殺到した。
「正直、魔人皇の影響がここまでとは予想外だったぜ。あの野郎、俺の思惑を超えて暴走を始めやがった。……けどよ、その責任はちゃんと取るつもりだぜ?」
こんな時でさえ緊張感のない声音でロンが決意を口にする。
エンリケは巧みに〈フェアリー〉を操り、連携を組んで迫る長槍の乱舞をカウンターの風壁で弾き返す。
「どんな責任の取り方なら、この五年間の混沌を精算できるってんだよ!」
逆巻く風が嵐となる。怒涛の暴風にさらされて一瞬で〈スパルトイ〉たちも粉砕されていく。
互いに召喚符を構え目を閉じて集中する。全神経を研ぎ澄ませて繰り出されたのは、互いの切り札となる精霊だった。
「〈ボーン・ゴーレム〉!」
「〈ハイ・フェアリー〉!」
砕け散った骸の群れが寄り集まって巨人の姿を形作る。全身が人骨で組み上げられた〈ボーン・ゴーレム〉はその巨躯を軋ませて吼えた。
淡い光に包まれて上位の存在へと進化した〈ハイ・フェアリー〉は、燐光を纏った透き通る羽を開いて空中を舞い踊る。
何気ない調子でロンがぼそりとつぶやいた。
「俺自身を依り代にして、魔人皇の力を召喚する」
不意にもたらされたその言葉にエンリケは眉根を寄せる。ロンは世間話でもするように淡々と語り続けた。
「五年前、サイファーの肉体を依り代にして魔人皇の存在を召喚したようにな。俺自身を依り代として魔人皇の魔力だけを召喚して奪い取る。成功すれば俺が〈カボル=ドゥガ〉に成り代わって魔の〈異界渡り〉になれる」
〈ボーン・ゴーレム〉が砲弾のような勢いで拳を振るう。直撃を受ければ即死は免れないその攻撃を〈ハイ・フェアリー〉はスペルによる防御でかろうじて防ぎきる。
「俺が〈異界渡り〉になって魔の領域を支配して制御する。人の身を捨ててでもな」
そういってロンは笑いかけた。それは別れの挨拶をするような、悲し気な笑みだった。
エンリケは持てるすべての霊力をこの一撃の呪文へと託した。
「お前、それでいいのかよ! 自分がいなくなって、そんなことはどうでもいいとでも思ってんのかよ!」
エンリケから託されたすべての霊力と想いを身に纏う風に乗せて、〈ハイ・フェアリー〉はその身を疾風の弾丸へと変えて飛翔した。
ロンもまたこれが最後の一撃になると覚悟を決めた。総身の霊力を限界まで振り絞り〈ボーン・ゴーレム〉の拳へと宿す。
互いの全霊を掛けた一撃が交差する。
衝撃は火花を散らし、〈パンデモニウム〉の身を震わせて激しい光が周囲のすべてを白く塗りつぶす。エンリケとロン、ふたりの全力は互角の威力でぶつかり合って均衡していた。
このまま衝突を続ければ、結果は相討ちとなって共倒れに終わることは互いに理解していた。だが、ふたりはもう互いに退くことができなくなっていた。すべてを出し尽くし己の命までも振り絞る覚悟で、自らの精霊へとあらん限りの霊力を注ぎ込んでいく。
エンリケが。ロンが。互いの名を叫んだ。
それすらも白い光のなかへ飲み込まれて――なにもかもが消え去った。
爆発する光が去って行った後で。
(まだ生きてる……?)
満身創痍になりながらも、ロンは確かに自分の足でまだ立つことができていた。全身に激痛が走り立っているのがやっとの状態だったが、あれだけの衝撃波を間近に受けてそれだけで済んでいるのが奇跡に思えた。
光に眩んだ目が視界を取り戻すとエンリケもまたかろうじて立っていられるような状態でいた。
エンリケはよろめきながらもロンへと近付き、無言のまま胸ぐらを掴んでくる。エンリケはなにも言わない。ただ鋭い眼差しだけがロンを睨み据えていた。
掴まれた拍子にロンの胸元から一枚のコインがこぼれ落ちる。それは昔、すれ違った少女から渡されたアーティファクトだった。
(こいつが守ってくれたのか、俺と……エンリケを?)
コインは淡く灯っていた光を最後にほんの少しだけ輝かせると、その役割を終えてただのおもちゃへと戻る。
仲直りのおまじない――かつてコインをくれた少女の言葉がロンの記憶によみがえった。ロンは自らを掴むエンリケの手に自分の手を重ねる。
「俺だって本当は、〈異界渡り〉なんかになりたかねぇや……」
ロンはそっとエンリケの手を振り解いて、すがりつくように重ねた拳を握り締める。
「すまねぇエンリケ。しくじった! なんとかしてぇから、手を貸してくれ!」
ロンは深々と頭を下げて、かつての友に助けを求めた。エンリケはようやく聞けたロンの本音に深くため息をつき――
握り締めた拳を全力でロンのみぞおちへと叩きつけた。
「こっちはその言葉をどれだけ待ってたと思ってんだ。バカ野郎が!」
力尽きてふたりともその場に座り込み、互いに苦笑を浮かべる。数年越しの和解を経てようやくエンリケとロンは笑い合うことができた。
傷だらけの体を引きずるようにしてエンリケとロンは〈パンデモニウム〉の回廊を進んでいく。転送機を使って飛んだ先、この回廊の最奥こそ魔人皇〈カボル=ドゥガ〉の待ち受ける心臓部だった。
「おせぇぞエンリケ。もうへばってんじゃねぇのか?」
「ぬかせ。お前こそ息があがってんじゃねぇか」
ふたりともに満身創痍だったがその表情は明るかった。軽口を叩き合いながら重い足取りを前へ前へと運んでいく。
行く手に扉が見えた。漆黒の色に塗り固められた重厚な扉は侵入者の入室を拒んでいるようにも見える一方で、その内部にいる存在の恐怖をわずかでもこの世界から隔離しようとしているようでもある。
ロンは扉に手を掛けて大きく息を吸い込んだ。
「準備はいいか? 五年ぶりの魔人皇様とのご対面だぜ」
エンリケの顔を見やり皮肉気に笑う。そのロンの顔を見返してエンリケもまた口の端を吊り上げた。
「せいぜい派手に挨拶してやろうぜ」
閉ざされていた扉が耳障りな音を軋ませて開く。
魔人皇はそこにいた。闇に染められた部屋の中央に設えられた玉座に腰かけ、明滅する赤い光に灯されてまどろむように憂いの表情で頬杖をついていた。
エンリケが、ロンが、叫びをあげて精霊を解き放つ。風の刃が空間を斬り裂いて飛び、人骨の群れが手に武器を構えて飛び掛かる。襲い来るふたりの猛攻に魔人皇が目を見開いた。
その瞳が金色に妖しく輝いた。
「待ちかねたよ、人の子らよ」
魔人皇が指を打ち鳴らすと、その衝撃だけで風の刃は吹き消され人骨の群れは砕けて散った。魔人皇はゆったりと立ち上がり金色の眼でふたりの姿をとらえた。
エンリケが矢継ぎ早に呪文を連発し、ロンが砕けた骸骨兵を再生して立ち向かわせる。魔人皇は腕の一振りだけでそのすべてを吹き飛ばし、放たれた魔の瘴気の余波だけで傷ついたふたりを壁際まで追い詰めた。
「私のもとに〈異界渡り〉を集めてくれたのだな。礼を言うよ」
魔人皇はたおやかに身を折って謝辞を述べた。
かまわずに次の手を放とうとしていたエンリケを透き通るように真っ白な腕が押し止める。風戦鬼〈モーリアン〉がエンリケを護るように立ち、横を見ればロンの前にも地大樹〈イグドラシル〉が魔人皇と対峙するように姿を現していた。
エンリケは血の混じったツバを吐き捨てて〈モーリアン〉を押しのけようとする。
「まだこっちの挨拶が途中だぜ。アンタらは引っ込んでろ」
魔人皇の脅威にさらされながらも闘志を失わないエンリケの姿に〈モーリアン〉が苦笑を浮かべて微笑んだ。自分を押しのけて前に出ようとするエンリケの肩に触れて、優しくそっと押し返す。
「魔人皇〈カボル=ドゥガ〉との因縁に関していえば、ボクらの方が先約なんだよ? 数百年前からのね」
ふっくらとした唇に人差し指を当てて悪戯気な顔をする〈モーリアン〉の言葉を受けてエンリケはしぶしぶと引き下がった。呪文符に向けて開放しかけていた霊力を収めて回復に努める。
その様子に満足気な顔で頷いてから〈モーリアン〉は魔人皇へと向き直った。
「久しいね、魔人皇〈カボル=ドゥガ〉」
魔人皇もまた笑みを浮かべ、諸手を広げて〈異界渡り〉たちを迎え入れた。
「実に懐かしい顔ぶれだ。風戦鬼〈モーリアン〉に地大樹〈イグドラシル〉。それに、他の〈異界渡り〉たちもご到着のようだ」
〈カボル=ドゥガ〉の言葉にエンリケとロンが振り向くと、そこには駆け付けたエルクたちの姿があった。エルク、リタ、アーネの背後からそれぞれに聖霊鳥〈アルカトル〉、火炎竜〈ヴリトラ〉、水妖精〈ヴィヴィアン〉がその姿を現す。
いまここに六属すべての〈異界渡り〉が集結した。魔人皇〈カボル=ドゥガ〉は彼ら全員の姿を見回して心底から愉快そうに哄笑する。
「ついにこの時が訪れた! 数百年の時を経て、いま再び君たちと覇を競うことができるこの時が!」
魔人皇の言葉をみなまで聞かず、火と風の〈異界渡り〉が飛び出した。〈ヴリトラ〉が咆哮とともに放射した熱線があたりを白く染めて〈カボル=ドゥガ〉に迫る。〈カボル=ドゥガ〉が一足飛びにその火炎の奔流を避けた先で、目で追えぬほどに加速した〈モーリアン〉がランスをかざして連撃を仕掛ける。
薄皮一枚だけを裂かせて〈モーリアン〉の連撃を避け続ける魔人皇がその顔から笑みを消し去り、両手を胸の前に構え初めて戦闘態勢を見せた。
「やるな、火と風の! ではこちらも反撃させてもらおうか!」
その両の掌の間に暗黒の瘴気が生まれる。魔人皇が手をかざしたと同時、一閃、爆発するように闇が走った。
〈イグドラシル〉と〈ヴィヴィアン〉が即座に結界を張って仲間たちを護る。荒れ狂う闇があたり一面を蹂躙して暴れ回るなかで、激震と衝撃の余波にさらされた召喚術士たちはただ歯を食いしばって耐えた。
暴力的な力の波が過ぎ去ると、一転して部屋のなかは静寂に包まれた。
魔人皇と他の〈異界渡り〉とが無言で相対し、熾烈な争いの行く末を見守る召喚術士たちは息を呑んだ。浅く刻まれた頬から滴る血を軽くぬぐって魔人皇は荒くなった呼吸を整える。
「ははっ……愉しいな! 対等な相手と全力をぶつけ合えるのは!」
〈カボル=ドゥガ〉が再びその顔に酷薄な笑みを浮かべ、〈異界渡り〉たちが身構えたその刹那。
エルクが一歩前へと歩み出て、聖霊鳥〈アルカトル〉の召喚符を掲げた。
「それが〈カボル=ドゥガ〉様の目的だったんですね」
光り輝く翼を大きく広げた聖霊鳥〈アルカトル〉が薄暗い動力室をまばゆい光で包んだ。虹色の光を放つ精霊長を傍らに。エルクはまた一歩、魔人皇の眼前へと歩を進める。
「〈カボル=ドゥガ〉様は、ただ自分と対等に戦える〈異界渡り〉のみなさんと……ただみんなと一緒に遊びたかったんですね」
その言葉に〈異界渡り〉たちが、召喚術士たちが、そして魔人皇自身が。驚愕に目を見開く。
火炎竜〈ヴリトラ〉の怒声が響く。
「なにが……遊びか! 魔人皇はこの地を魔の者の支配下に置こうと、戦争を仕掛けて……!」
「そうすれば〈異界渡り〉のみなさんは、それを阻止しようと全力で〈カボル=ドゥガ〉様に挑みますよね?」
エルクの指摘に〈ヴリトラ〉は息を呑み言葉を詰まらせる。全員の視線が一斉に魔人皇へと向けられた。魔人皇は薄く笑みを浮かべると、そっと髪をかきあげた。
「その言われ方は少しばかり面映ゆいな。だが、まぁ、その通りだよ」
幼い少女の指摘を素直に受け入れて、魔人皇は自嘲気味に肩をすくめてみせる。
「本当はね、世界の覇権なんてどうでもいいのさ。おあつらえ向きに用意されたゲームの勝利条件が、それだったから目的に設定したに過ぎない」
魔人皇の言葉に〈モーリアン〉がその美しい顔を険悪に歪めてランスを握る手に力を込めていく。
「ゲームだって? この地に生きる者たちの興亡をかけたボクたちの戦いが、ただのゲームだっていうのか?」
いら立ちもあらわに柳眉を逆立てた風戦鬼の言葉にも、魔人皇は薄ら笑いを浮かべて涼しげに受け流す。
「まるでゲームの盤上のようだと思わないか? 本来であれば決して交わることのないはずだった六属の〈異界渡り〉という存在が、この地を介して一所に集められたこの奇跡は!」
語られる魔人皇〈カボル=ドゥガ〉の真意とは。
ただ自分と対等な友たちと肩を並べて、盤上のゲームを楽しむことでしかなかった。この世界をゲーム盤に見立てた壮大な六属の陣取り合戦を。
エルクはまっすぐに魔人皇を見つめて告げた。
「だからわたしは〈アルカトル〉様にお願いしたんです」
続くエルクの言葉は魔人皇の急所を正確に射抜いた。魔人皇の余裕ぶった表情が凍り付き、その手が震える。
「これがゲームであるのなら、その盤上から降りて欲しいと」
しんと静まり返った静寂は、ほんの瞬きほどの瞬間でしかなかった。
エルクは周囲の〈異界渡り〉たちを順番に見回して彼らの意思を確認していく。
「みなさんもそれで構いませんか?」
火炎竜〈ヴリトラ〉が炎の混じる嘆息とともに同意する。
「もとより我は貴様ら人間の行く末を見てから動くと、そういう約定だったからな」
「それに我らが長である聖霊鳥〈アルカトル〉様がそうおっしゃられるのであれば、ボクらにも異論はないよ」
風戦鬼〈モーリアン〉が〈ヴリトラ〉の言葉に追従し、〈ヴィヴィアン〉と〈イグドラシル〉もまた無言で頷いた。
先程までの余裕ぶった態度を失った魔人皇が震える声でエルクへと詰め寄る。
「いいのか、それで? そうなればこの世界は魔の者の支配下に置かれ、闇に閉ざされるぞ!」
しかしエルクは毅然と言い放ち、突き付けた言葉の刃を収めない。
「あなたがそれを望むのならでしょう? でもあなたはそれをしない。対戦相手の降りた盤上で事後処理をするのなんて、退屈なだけなんですから」
魔人皇は悟る。自分の急所をさらしてしまった以上、もはや自分にはこの少女を止められない。エルクの意思を突き崩せない。
魔人皇は目の前の弱く小さな存在に対して怯え、震えた。
「なにが望みだ、人の子よ。お前はこの魔人皇に対して、ゲームを続ける代償になにを願う?」
魔人皇〈カボル=ドゥガ〉が折れた。彼は交渉のテーブルにつき、ゲームの継続のためにエルクから交換条件を引き出す道を選択する。
エルクは胸を張って堂々と答えた。
「わたしの望みはただひとつ。あなたたちのゲームにたったひとつだけルールを付け加えて欲しい。わたしたち人間もゲームに参加する権利が欲しいんです」
乾いた風が吹き抜けていく。そこには〈異界渡り〉たちの姿も、破壊とともに進撃する〈パンデモニウム〉の姿もすべて消え、残されたのは人間の召喚術士たちだけだった。
「あー、緊張した」
魔人皇に対して一歩も引かず交換条件を引き出したエルクは、肩の荷を下ろすように大きく伸びをしてその場に座り込んだ。
救世主としての務めを果たした少女のそんな姿にリタが思わず笑みをこぼす。
「たいしたものね。魔人皇を相手にあれだけの大見得を切ってみせたんだから」
エルクが魔人皇に突き付けた条件は、この世界に対して〈異界渡り〉たちが直接的に手を下すことを禁ずるルールを付け加えることだった。絶大な力を秘める彼ら自身が盤上に立つことを禁じて、人間の召喚術士たちもゲームに参加できるパワーバランスに調整すること。それがエルクが出した条件だった。
魔人皇はその申し出を快諾した。彼はむしろ、エルクの出した条件によってこの陣取り合戦がより複雑化したことを喜んだようでさえある。
「なにからなにまで嬢ちゃんには助けられたな。礼を言うよ」
ロンが照れ臭そうに笑いエルクに手を差し出す。エルクもその手を握り返して微笑んだ。
「結果的にはこれで良かったんだと思います。見えないどこかで歪んでいたものが、これからは自分たちの手の届くところにある。わたしたちはこの世界の歪みに、自分たちで責任を負うことができるようになったんですから」
エルクのその言葉を受けてロンとアーネは力強く頷きを返した。最大の危機こそ乗り越えたが、彼らが解放者としてもたらした混乱が多くの人々を脅かした事実が消えるわけではない。
「私たちも自分の行いには責任を負わなければね」
「だな。こっからやることが、まだまだ山積みだぜ」
ロンに続いてアーネがエルクと握手を交わしてから、ふたりは歩き出した。リタがその背に声を掛ける。
「なによ、もう行っちゃうの?」
「あいつが世界を引っ掻き回した事実は消えはしねぇ。代わりに今度は世直しでもして回るつもりなんだろ」
後ろ手に手を振りながら去っていくロンに代わって答えたのはエンリケだった。呆れた口調を装ってはいるが、その口の端が微笑んでいるのがリタには見えた。
「またあいつが思い詰めてバカな真似しないよう、見といてやんねぇとな」
エンリケは手早く荷物をまとめると、ロンとアーネの後を追いかけて合流していった。
「なによもう、エンリケまで」
談笑し小突き合いながら去っていく背中を見つめながら、リタも我知らず微笑んでいた。置いていかれるわけではなく、それぞれの行く道へと歩き出した別れ。今度の別れはリタも彼らの背中を笑顔で見送ることができた。
「私たちも帰りましょう、私たちの聖都へ」
そよ風に吹かれてまどろみ始めたエルクの手を引いて起こしてやり、ふたり連れ立って聖都への道を歩き始めた。
傷つき、焼かれ、壊された聖なる都。そこは聖なる加護に安寧を約束された街では、もうなくなっている。それでもかまわない。
人が自分の足で立つことを覚えたこの日、揺りかごはもうその役目の終えたのだから。