第六話
遺跡都市ヘスタムはその名の示す通りに遺跡の周辺を取り囲むように建てられた都市だった。
遠目にも中央に見えるのが風の 〈異界渡り〉が祀られた遺跡。その荘厳な石造りの居城から放射状に延びる街並は、砂漠から吹く砂と風にさらされながら頑健にそびえ建っていた。
儀式的な風貌を漂わせる無数に乱立した石柱が街中に散見される。そのひとつに身を寄せてリタは髪に絡んだ砂を払った。
「急いだほうがいいかもしれない。遺跡は禁足地に指定されていたけれど、世の中の混乱に乗じて〈異界渡り〉の召喚符を狙うハンターが後を絶たないらしいわ」
市長に遺跡への侵入の許可を得に行ったリタは、弱りきった市長の顔を思い出しながらエルクに告げた。
どれだけ警備を厳重にしても、手練れのハンターたちは知らぬ間に遺跡のなかへ入り込んでしまう。風の〈異界渡り〉の召喚符は、遺跡のなかの幾多ものトラップを潜り抜けなければ辿り着けない場所にあり――そしてなにより〈異界渡り〉自身に認められなければ手中に収めることなどできない。だがいまでも遺跡都市の守り神がその場所にあるかどうかは市長にもわからないという。
「大丈夫ですよ。〈アルカトル〉様は、あの場所で風戦鬼〈モーリアン〉様が待っていると教えてくれましたから」
いつもと変わらない気楽な調子でエルクが答える。
「だといいのだけれど」
エルクほど楽観的な気分にはなれずリタは視線を泳がせた。
その視界のすみに人影が映る。石造りの家屋の隙間を通り過ぎたその影は、リタの視界の端に一瞬だけその姿を映して過ぎ去っていった。
「……っ! エルク、ここで待っていて!」
返事も待たずリタは駆けだした。石畳のうえを全力で駆け抜けて人影が消えていった方向へひた走る。曲がり角を抜けた先――人影は雑踏に呑まれて、とうにその姿を消している。
リタは人目もはばからず大声で叫んだ。
「エンリケ……! エンリケなの!? あなた、この街に来ているの!?」
叫ぶ声も風に吹き消されて返事はない。
リタは肩を落としてエルクの元へと帰った。
「誰か、お知り合いがいたんですか?」
気遣わし気にリタを見上げてエルクが尋ねてくる。
リタはそっと頭を押さえて、首を横に振った。
「昔の知り合いに面影が似ていたのだけれど。いいえ、見間違いかも」
意気消沈したリタの背中にエルクがそっと優しく手を添えた。
市長から預かった認可状を確認すると、見張りの番兵たちはにこやかに道を譲ってくれた。
「ハンター気取りのならず者たちに荒らされて困っているんですよ。風の〈異界渡り〉が然るべき方の手に渡ってくれるのなら、それがいいでしょう」
にっと白い歯を見せて、まだ年若い番兵はリタたちを歓迎してくれた。彼より幾分か年かさの番兵は、自分たちの護ってきたものに多少の思い入れがあったようだが、なにもいわずただ遠い眼を遺跡の方へと向けただけだった。
リタたちは遺跡への階段へと一歩を踏み出した。長い年月を風雨にさらされた石段はところどころ苔むして、踏み出す足元に砂利が噛む小気味よい音がする。
石段を登りきると、ぽつぽつとランタンの灯りに照らされた暗い回廊がどこまでも続くかのように口を開けてふたりを待ち受けている。リタは大きく深呼吸をすると傍らに〈パラディン〉を呼び出した。
「この先はどんなトラップが仕掛けられているかわからない。慎重に行くわよ」
リタとエルク、ふたりの身を〈パラディン〉に護らせるように控えさせる。
エルクはリュックから鼓笛隊の格好をした人形を取り出すと、それを地面に立たせた。エルクが背中のゼンマイを巻くと人形は太鼓を叩き鳴らしながらトコトコと歩き出す。
「トラップ対策に用意したアーティファクトです。怪しい場所ではこれを使いましょう」
しばらく歩いてから動きを止めた人形を追いかけて、拾い上げながらエルクがいう。
リタが疑問に思い尋ねた。
「どんな効果があるの、それ?」
エルクは腰に手を当てて自慢げに人形をかざした。
「この人形が歩く先にトラップがあった場合、この人形は必ずトラップに掛かります!」
「…………そう」
もっとマシな効果は思いつかなかったのか――という言葉を胸にしまって、リタは〈パラディン〉へ警戒を怠らないよう促した。
遺跡に入ってからはそれなりに順調に進むことができた。多少のトラップであれば〈パラディン〉が即座に対応してリタとエルクの安全を確保する。主人の命令に従順な〈パラディン〉はふたりの身を完璧に守護した。エルクの人形については最初のトラップで落とし穴に落下して回収が不可能になっている。
淡い光を放つ〈ヴィゾフニル〉に照明の役割を担わせてエルクが遺跡の奥を探る。照らし出された広間にはどこからともなくすきま風が吹き、積もった砂をさらさらと運び去っていく。
エルクが広間の一点を指さして声をあげた。
「ありました! 上に登る階段ですよ!」
エルクの指し示す先、広間の一区画に上階へと続く階段があった。次のフロアへ向かおうと踏み出したエルクの足元で――石畳は彼女の体重を受け止めようとはせずに、するりと周囲のブロックから切り離されて落ちる。
「エルク、危ない!」
リタが叫ぶが動き出したトラップは止まらない。ずれ落ちる足場と共にエルクの体が沈んでいくのが、やけにゆっくりと見えるようだった。
瞬間、リタの背後から跳び出した影が、上空からあたりを照らしていた〈ヴィゾフニル〉を掴まえてエルクの元へと投げつける。すんでのところでエルクは〈ヴィゾフニル〉の体を抱きとめ、足場と一緒に奈落の底へと呑み込まれる事態をまぬがれた。小さな翼を懸命に羽ばたかせてエルクの体を支える〈ヴィゾフニル〉の真下には、ぽっかりと漆黒の闇が口を開けている。
慎重に〈パラディン〉を進ませてエルクと〈ヴィゾフニル〉の体を受け止めさせると、リタはほっと胸をなでおろしてその場にへたり込んだ。
「寿命が縮んだわよ、まったく!」
〈パラディン〉の腕のなかにすっぽりと収まったエルクは、自らを助けてくれた人物に頭を下げた。
「どなたか存じませんが、危ない所を助けていただきありがとうございます」
〈ヴィゾフニル〉の放つ光に照らし出されたその顔を。リタは心のどこかで予想していた。
「……エンリケ!」
その風貌は見間違いようもなく、アカデミアでともに学んだ兄弟子のものだった。いつも苛立っているような薮にらみの険相さえも懐かしく思える。
リタは再会したエンリケの前に駆け寄る。
「あなたいったい、いままでどこでなにしてたのよ!」
エンリケに詰め寄るとリタは彼の胸元に縋りついて声を荒らげた。エンリケを見上げる眼差しにはうっすらと涙が浮かび、紺碧色の瞳を鮮やかに彩っていた。
だがエンリケは縋りつくリタの手を振り払い彼女に背を向ける。
「解放者とのケリは俺がつける。お前らはすっこんでろ!」
怒りと決意――暗い炎を燃やしたエンリケはたったひとりで戦うつもりで放浪の日々を送っていた。すべてはあの日決別した友との決着を自らの手でつけるために。
頑ななエンリケの態度にリタはさらに声を張り上げて叫んだ。
「どうして全部ひとりで抱え込もうとするのよ! 私だってもう、あの時の無力な子供のままじゃない! あなたと並んで戦う資格くらいあるはずよ!」
怒りに肩を震わせて、悲痛な叫びでエンリケへと訴える。五年前のあの日、散り散りになる仲間たちを目の前になにもできなかった幼き日の自分の無力さに泣いた。無力だった自分を変えたくて、レオスに付き従い戦い続ける日々でリタは必死に自らの召喚術を磨き上げてきた。
幼き日に何度挑んでも勝つことができなかった兄弟子に――
「証明してあげる! 私の剣を!」
リタは自分の分身ともいえる精霊、〈パラディン〉の剣の切っ先を向けた。
つむじ風が巻き起こり、それは次第に勢いを増して。激しい旋風が遺跡の広間に渦巻いた。
エンリケは無言で〈フェアリー〉へと戦闘指令を送る。
吹き荒ぶ向かい風をものともせずに〈パラディン〉が大剣を掲げて走った。
「行きなさい、私の〈パラディン〉!」
リタの掛け声に応えて〈パラディン〉は軽快に駆け抜けていく。重厚な甲冑が足元の石畳を叩く音が響き渡り、大剣が悠然と浮遊する〈フェアリー〉へと迫った。
その切っ先が触れるより早く、エンリケは抜き放ったスペルを撃つ。
「詠唱、〈竜巻壁〉!」
エンリケから放たれた霊力を受けて、〈フェアリー〉が周囲に逆巻く旋風をさらに激しく踊らせた。
逆巻く旋風は竜巻となり、近づくものすべてを粉砕する怒涛の障壁となって荒れ狂った。〈パラディン〉は前進する足を止め、横跳びに竜巻を避けようとする。
「防御よ、〈パラディン〉! 踏みとどまりなさい!」
とっさに回避を選択しようとした〈パラディン〉をリタの声が制止する。主の命令に応え〈パラディン〉はその場に踏みとどまり、盾を構えて接近する竜巻を待ち受ける。
防御態勢を取った〈パラディン〉を狂乱する竜巻が蹂躙する。構えた盾が弾かれ、その勢いで〈パラディン〉の左腕がねじれて粉砕される。全身の甲冑が砕け、吹き飛んでいくなかで〈パラディン〉は吼えた。
「――――ゴォッ!」
一閃、大剣を横薙ぎに竜巻を斬り裂いて。両断された竜巻は最後に広間のなかを暴力的に吹き抜けて、ふっと跡形もなく消え失せた。
〈パラディン〉は半ばから断ち折れた剣を杖にし、かろうじて地に膝をつくのを耐えている。
エルクが心配げにリタに駆け寄る。
「どうして避けさせなかったんですか? 充分に回避が間に合ったはずですよ!」
リタは傷ついた〈パラディン〉の姿に心苦し気な視線を送りながら、〈霊剣〉のスペルを唱える。
「あいつのやり口は知ってるつもりよ」
砕けた剣に新たに霊力の刃を宿らせた〈パラディン〉が再び身構えると同時、彼が跳ぼうとした場所の足場が音を立てて崩落する。
「あの方向だけ攻撃が薄かったから、そんなことだろうと思ったのよ」
「トラップにわざと誘導した……!」
エルクは初めて見るエンリケの手腕に冷たい汗を流す。力をぶつけ合うだけの戦いではない、術と策で翻弄する使い手。エンリケという召喚術士の底知れなさをエルクは感じ取った。
静寂を破り、先手を打ったのはエンリケだった。矢継ぎ早に呪文を唱え、風の刃を連射する。鋼鉄をも両断する鋭い疾風が左右から〈パラディン〉を挟撃する。
(これは受けられない……避けるしかない!)
エンリケが次の一手を構えているのを視界に納めながら、リタは〈パラディン〉へと指示を出す。
「跳びなさい、〈パラディン〉!」
それが罠だと承知しながらも、リタの声を受けて〈パラディン〉がその場から大きく跳躍する。その真下を風の刃が石畳をいともたやすく斬り裂きながら通り抜けていった。
エンリケの必殺を期した詠唱の声が響く。
「詠唱、〈風の矢〉!」
〈フェアリー〉の指先から放たれたスペルは、螺旋を描いて〈パラディン〉へと迫った。空中で身動きも取れず、身を護る盾も失った無防備な〈パラディン〉へと。
数瞬後に訪れるであろう光景にエルクが身を竦ませる。だがその頭上からリタの凛とした声が響いた。
「見せてあげるわ、私の〈パラディン〉の真の姿を!」
弾丸のような魔法の風が〈パラディン〉の体を貫いた――と見えた瞬間に、〈パラディン〉が全身に纏った白銀の鎧が内部から爆発するように弾けた。粉々に砕け散った金属の破片たちが、風の矢を巻き込んで霧散させる。
「詠唱、〈武装〉!」
光に包まれた〈パラディン〉の姿が次第に露わになる。その身は新たな鎧を纏って地に降り立った。
「これが私の切り札! 行って、〈アームド・パラディン〉!」
新たな力を得た〈アームド・パラディン〉は、全身に力を漲らせてエンリケと〈フェアリー〉へと迫る。
距離を置いて呪文による攻撃を得意とする〈フェアリー〉の眼前まで肉薄する。そこはすでに近接戦闘を得意とする〈アームド・パラディン〉の間合いだ。
(あのエンリケにようやく勝てる……! 通じる、私の力でも!)
勝利への確信にリタが拳を握り締める。エンリケが忌々し気に舌打ちをするのが見えた。
「まさか奥の手を使わされるのが、お前相手とは思わなかったぜ!」
吐き捨てるようにつぶやき、エンリケが一枚の召喚符を取り出した。
「進化召喚、現れろ〈ハイ・フェアリー〉!」
エンリケがかざした召喚符から描かれた召喚紋と〈フェアリー〉の姿が折り重なる。薄紫色の燐光を放つその召喚紋を潜り抜けると、〈フェアリー〉の姿は〈ハイ・フェアリー〉のものへと変貌する。
生まれつきの召喚適性が低く、風の属性のなかでも下級の精霊しか呼び出せないエンリケが辿り着いた召喚術――それは呼び出した〈フェアリー〉を進化させることで、上位の精霊と同格の存在へと押し上げる術だった。
「さらに〈ハイ・フェアリー〉に〈妖精の剣〉を装備する!」
青白い輝きを灯した剣は〈ハイ・フェアリー〉の手に収まると、迫りくる〈アームド・パラディン〉の電光石火の一撃を踊るように受け流した。剣戟が薄暗い広間に火花を散らし、進化した〈ハイ・フェアリー〉と強化された〈アームド・パラディン〉の戦闘は一進一退の攻防を繰り広げる。
一撃の重さと堅牢な守備は〈アームド・パラディン〉に分があったが、飛び回る〈ハイ・フェアリー〉の素早さに翻弄されて捉えきれず、戦況は徐々にエンリケ側の有利に傾いている。
(まだ届かないの……? 私では、みんなの力になれないっていうの……!)
こぼれ落ちそうになる涙を振り払うように、リタは〈アームド・パラディン〉に渾身の一撃を放つよう命じる。その刹那。
大きく踏み込んだ〈アームド・パラディン〉の足場が崩落し、反射的に跳び退いた〈アームド・パラディン〉の胴体を疾風の弾丸が撃ち抜いた。
「ここでまたトラップ!? 冷静さを欠いた……!」
崩れ落ちる〈アームド・パラディン〉の姿を確認し、呪文符を構えていたエンリケが〈ハイ・フェアリー〉を召喚符へと戻しながら告げた。
「詰めが甘かったな。風の〈異界渡り〉は俺が手に入れる」
それだけを言い残してエンリケの姿は階上へと消えていった。
リタはその場に座り込み、こみ上げる敗北の悔しさに涙をこらえて震えた。その背中にエルクがそっと手を添える。
泣き出しそうなリタの背を優しくさすりながら、エルクはリタの手を取って立ち上がらせると、少し困ったような表情でリタの手を引いて歩きだした。
「傷心のところ申し訳ありませんが、私たちも風の〈異界渡り〉のところへ急ぎましょう」
その言葉にリタの足が止まる。
互いに怪訝そうな表情を見合わせながらリタが困惑した声をあげた。
「見ていたでしょう? 私、エンリケとの勝負に負けたのよ」
だがその言葉の意味をまったく理解していないといった表情を浮かべて、不思議そうにエルクが答える。
「えっ? リタさんが一方的にケンカを始めただけで、別に負けたら風の〈異界渡り〉をあきらめるなんて話してないですよね?」
リタはしばし虚空を見上げてエルクの言葉を反芻し――
「そういえば、そうよね」
ふたりは上階へと続く階段を駆け上がりエンリケの後を追いかけた。
遺跡の最奥、階段を登りきった先で風の〈異界渡り〉は待ち受けていた。
組み上げられた石造りの祭壇に腰かけ、自らの召喚符を指先でもてあそびながら待ち受けていた風戦鬼〈モーリアン〉は駆けつけたエンリケの姿を認めて不敵に微笑んだ。
「待っていたよ、人間の召喚術士」
おだやかに吹き抜ける風に絹糸のような銀の髪をなびかせて、蠱惑的な笑みを浮かべながら祭壇に座するその姿は――人に似て、しかし人外の存在だけが持つことを許された妖しさと美しさを描いていた。
エンリケは臆することなくその眼前に歩み寄ると、彼女の瞳をまっすぐに見据えていった。
「俺は力が欲しい! お前の力を俺に貸せ、〈異界渡り〉!」
その言葉に〈モーリアン〉は三日月のように流線を描いていた口の端をきゅっと吊り上げた。
「なかなかに情熱的なアプローチだね。悪くないよ」
頬杖をつき、値踏みするようにエンリケへと煽情的な視線を送る。エンリケはただ無言で〈モーリアン〉の誘惑する眼差しにじっと耐えていた。
ふっ、と――軽い吐息とともに〈モーリアン〉が微笑むと彼女は座していた祭壇から飛び降りた。エンリケの胸元へ自らの召喚符を押し付けながら、その耳元へ優し気にささやく。
「気に入った。キミにボクの召喚符を預けよう。力になるかどうかは、ボクの気分次第だけどね」
〈モーリアン〉はそういって少女のようにけらけらと笑いながらエンリケの周囲を飛び回る。エンリケは託された召喚符の感触を確かめるようにぎゅっと握り締めると、懐へ仕舞い込む。
そこにバタバタと足音を立ててリタとエルクが駆け込んできた。
「待ちなさい、エンリケ!」
息を切らしながらリタがエンリケへと詰め寄った。エンリケは呆れたように嘆息する。
「いいかげん、しつこいんだよ」
リタとエンリケ、両者の間に張り詰めた空気が緊張の度合いを増す。その様子を楽しげにニヤニヤと見つめていた〈モーリアン〉に、エルクが声を掛けた。
「〈モーリアン〉様は、どうしてエンリケさんに協力してくれるんですか?」
〈異界渡り〉に対して物怖じした様子もないエルクの口調に〈モーリアン〉はすっと目を細める。エルクから感じる聖霊鳥〈アルカトル〉の気配に気付き〈モーリアン〉は猫のようにエルクにまとわりついて人懐こい笑みを浮かべた。
「復活した魔人皇を討つためさ。かつての戦争では魔人皇をこの世界から切り離すことしかできなかったけど、ヤツが復活したいまこそ魔人皇を完全に撃ち滅ぼすチャンスなんだ!」
その美しい顔を酷薄に歪めて〈モーリアン〉が哄笑する。風戦鬼の名を冠するこの精霊はその名にふさわしい好戦的な笑みを浮かべていた。
絡みつく〈モーリアン〉の挑発的な態度に、エルクはむっとした顔をして彼女を引き剥がす。エルクは腰に手を当て子供に言い聞かせるような口調で説く。
「なんでみんなそうやって、〈カボル=ドゥガ〉様をいじめるんですか!」
静寂が、風とともに遺跡の最奥を吹き抜ける。エンリケが目を丸くし、リタが口をぽかんと開けて、エルクの姿を注視する。幼い少女は精一杯に胸を張り、怒っていることをアピールしている。
風戦鬼〈モーリアン〉が柳眉を逆立ててエルクの顔をまじまじと覗き込んだ。
「キミはなにを言っているんだ? いままさに、キミたちの世界は魔の領域に侵食されているんだぞ。それに数百年前の戦争の時、〈カボル=ドゥガ〉はこの世界を我が物とするために〈アルカトル〉様と敵対していたことを知らないのか?」
「そんな何百年も前の話、知ってるわけがないじゃないですか。いまの〈カボル=ドゥガ〉様がなにを考えているかなんて、ちゃんと話し合ってみなければわからないですよ!」
「キミは聖霊鳥〈アルカトル〉様に選ばれた聖女なんじゃないのか!」
とうとう〈モーリアン〉が悲鳴じみた声をあげる。リタや、エンリケまでもまったく同じ胸中だった。聖女として選ばれた少女が、魔の〈異界渡り〉を他の属性の〈異界渡り〉――自らを守護する聖霊鳥〈アルカトル〉までもと同列に語っていた。
エルクの価値観は幼さ故にどこまでも公平だった。
「〈アルカトル〉様は〈カボル=ドゥガ〉様と大昔にケンカしちゃいましたけど、もしかしたら仲直りしに帰ってきたのかもしれないじゃないですか! ケンカに負けたからってみんなで追い出して、帰ってきたら悪者にされてたんじゃ〈カボル=ドゥガ〉様だって可哀想ですよ!」
エルクは玉のような瞳に涙を浮かべて訴えた。この少女は真剣に、聖に属しながら魔の者たちのために怒っている。
「魔の精霊さんたちだってそうですよ。悪いことをしたなら怒られなければいけませんけど、だからって世界にいちゃいけないなんていうのはひどすぎます!」
その言葉に〈モーリアン〉はふっと表情を消す。顔立ちが美しいだけに、一切の感情を排したその顔はいっそう恐ろしい。〈モーリアン〉は覗き込むようにエルクに顔を近づける。
「キミのその言葉は、ボクらの戦いを無為にする言葉だ。戦いこそを生きがいとするボクを否定する言葉だ。ボクは……キミが嫌いだ」
エルクは涙をぬぐい、真っ直ぐに〈モーリアン〉を見返した。互いのガラス細工のような瞳のなかに、互いの姿が映されている。
「それでも私はみんなが仲良しになれる世界がいいです」
互いに譲れない意志を秘めた瞳同士が睨み合う。根負けしたように〈モーリアン〉がふっと小さく息を吐いてエンリケの元へと飛び去った。
「やってみなよ。見届けてあげる。キミが〈カボル=ドゥガ〉に裏切られて失望する姿をね!」
言い残して風の〈異界渡り〉は召喚符のなかへと姿を消していった。その召喚符を握りしめてエンリケがうめく。
「できると思ってんのか? 魔の連中と仲良くやってこうなんて」
皮肉気なエンリケの言葉にもエルクは力強く頷いた。
「できると、信じています。だって戦争になる前は、むっつの属性が調和する世界が確かにあったはずなんですから」