第五話
ふっくらとした絨毯を踏みしめてリタは部屋の中央まで歩み出た。片膝をついて敬礼の姿勢を取る。
「リタ=ブルームフィールド、召集に応じて参じました」
聖都騎士団の制服に身を包んだリタは、凛とした声で騎士団長レオスへと告げた。
次元の融合の起きた日から五年が経過し、リタは念願だった聖都騎士団へと入団していた。断絶されていた魔の世界との融合の余波により一時はばらばらになってしまった騎士団と、それを再び召集させて纏め上げた団長レオス。若くしてのリタの騎士団への登用は、レオスのもとで騎士団の再結成に助力した功績を買われての抜擢だった。
こちらとあちらの世界とがひとつながりとなって以来、魔の精霊があちらこちらで出現するようになった。それから五年。世間がようやく落ち着きを取り戻し始めたのは、取りも直さず復興した騎士団やアカデミアの術士たちの尽力によるものだった。
レオスはすっかり老け込んだ顔から無理矢理に疲労の色を抜き、背もたれに体重を預けて重々しく告げた。
「来たか。ひとつ、頼みたいことがある」
「お任せください!」
リタは立ち上がり直立不動の姿勢を取ると胸に手を当てて力強く答えた。少女のあまりにも生真面目な態度にレオスは苦笑を浮かべる。
「意気込みは買うが、あまり力み過ぎてもな」
イスを軋ませながら立ち上がり、レオスは手にした書類をリタへと手渡した。そこには長々とした儀礼の許諾に関する文面が並び、そして一枚の写真が添付されていた。
写真に写されていたのはまだ年端もいかない少女の姿だった。
「天才的な聖の素養を持つ少女が、降って湧いたように市井から発見されてな。彼女を新たな聖女として任命し、魔人皇〈カボル=ドゥガ〉に対抗するため聖霊鳥〈アルカトル〉の召喚符が託されることが決定した」
レオスは皮肉交じりの笑みを噛み潰した。それは誰に対する皮肉だったか。
「リタ=ブルームフィールド。貴殿に聖女エルク=フェアランドの護衛任務を頼みたい。彼女とともに聖霊鳥〈アルカトル〉の力を借りて、現出した魔人皇〈カボル=ドゥガ〉を撃破せよ」
表情を引き締めなおしてレオスは厳かに告げた。
まだ幼い少女をなだめすかして死地へ送り込めという命令を、こちらもまだ子供といえる少女へと下す。胃がズキズキと不平の声を上げるのを鉄面皮の下に押し隠し、レオスは騎士団長として命じた。
レオスの胸中を知らず、リタははっきりとよく通る声で答えた。
「謹んでお受けします!」
退室するリタの背中を見届けてからレオスは長年愛用したイスへどさりと腰を落とした。イスの脚たちは耳慣れた悲鳴を上げて限界が近いことを訴える。知ったことか、とレオスは胸中でイスに怒鳴りつけた。
(子供たちだけを死地へと送り込んで、自分は雑用に追われる身とはな)
事務机のうえには山と積まれた書類が所狭しと並んでいる。そのどれもが各地で暴れ回る魔の勢力への対処のために、レオスへと圧し掛かる騎士団長としての責務を文字に起こしたものだ、
「いまは動けん。だが決戦の時には必ず、この身命を賭して彼女らの働きに報いると誓おう」
拳を固めてひとりごち、レオスは書類の山へと挑み始めた。
「いいお天気ですねぇ」
てくてくと。そうとしか表現しようのない気楽さで聖女エルク=フェアランドは歩いていく。
彼女を追い越さないように歩幅を合わせながら、リタは横目にエルクの様子を盗み見た。満面の笑みを浮かべて背負ったリュックサックを揺らしながら歩く少女。傍目にはどう見てもピクニックに出かけるようにしか見えない。
(世界の命運を背負わされたって、理解できてるのかしら……?)
リタの胸中にそんな不安が顔を覗かせる。だがすぐに思い直し、首を振って気を引き締める。
(いいえ、そんなの関係ない。この子の身にどんな災厄が振りかかろうと、それを振り払うのが私の役目なんだから!)
世界を救うのがエルクに与えられた使命なら、そこに立ち塞ぐあらゆる障害を排除するのは自分の使命だ。リタは自分にそう言い聞かせた。どんな敵だろうと自分が防ぎきり、エルクにはピクニック気分で世界を救ってもらえればそれでいい。
(それが五年前に、離れ離れになる仲間たちになにもできなかった、私の贖罪……)
懐かしい顔ぶれを思い出しそうになり、リタは潤みかけた目元をそっと押さえる。見上げた昼日中の太陽は白々しいほどに明るかった。
積み木の街のような聖都の街並みをふたり揃って歩いていく。
「聖霊管理局はこの道を三区画ほど行った先にあるわ」
ふと訪れた静寂を嫌ってリタはそんなことをつぶやく。この街で生まれ育ったエルクには言うまでもないようなことだったが、エルクも調子を合わせて答えてくれた。
「お昼前には着けそうですね」
どこまでも陽気なエルクの調子に、リタは自分のペースが狂わされるのを感じる。そして、それがどこか心地良いと感じてしまっている。
エルクの間延びした声だけが暖かい陽気のなかでふわふわと漂っている。
「儀式が終わったら、出発前にイーリアおばさんのお店でランチをいただきましょう。タイミングが良ければ、お土産に手作りのドーナツを持たせてくれるんですよ!」
「それは……楽しみね」
身振り手振りまで交えて手作りドーナツの素晴らしさを語るエルクの言葉を、リタは彼女が躓いて転ばないかだけを心配して聞き流していた。
聖霊管理局はかつての聖霊教会のすぐ近くにあった。いまはもう聖霊教会は存在しない。
五年前のあの日、聖霊教会は次元の歪みに呑まれて消えた。リタたちは「こちら側」の各地に飛ばされて、いまはまたこの聖都へと帰還することができたが――教会はその敷地ごと、おそらくは「あちら側」へと転送され消失していた。そしてあの場にいた者のなかにはいまだに行方知れずの者たちもいる。「こちら側」に飛ばされた者たちはまだしも運が良かったといえる。
リタたちは聖霊管理局へとエルクに洗礼の儀式を受けさせるために足を運んだ。
儀式は滞りなく進行されエルクは聖霊管理局から聖霊鳥〈アルカトル〉の召喚符を借り受ける。
エルクが洗礼を受けている間、リタは待合室で待たされていた。管理局に勤める事務員の女性がお茶を運んでくる。
「ずいぶん大人びたわね、リタ」
突然その事務員から声を掛けられてリタは跳び上がるほど驚いた。
「フィズ……? フィズじゃない! あなた、ここに勤めていたの!」
それは旧友との五年ぶりの再会だった。
リタの驚く声にフィズは苦笑して答えた。
「アカデミアを卒業してから、ね。そんなことも知らなかったのは、あなたがあの日以来アカデミアに寄り付きもしなかったからじゃない」
非難の声を受けてリタはバツが悪そうに視線を泳がせた。
「そう……そうね、その通りだわ。言われてみれば……憧れだった聖都騎士団に入れて、ずっとその復興のために世界中飛び回って。私、あれ以来アカデミアに一度だって顔を出してなかったんだ」
「大変だったのは聞いているわ。あなたの活躍と一緒にね。それにしたってジェクト先生もクレア先生も心配していたわよ」
口を尖らせてフィズは悪戯気な顔をした。リタとフィズ、互いに顔を見合わせて苦笑する。
「アカデミアのみんなはその後どうしてる? 元気にしているのかな」
級友たちの顔を――苦痛を伴わず自然と思い浮かべられたことに、リタは自分でも驚いていた。そんなリタの胸中を露知らず、フィズは指折り名を上げていく。
「ジェクト先生が学院長になったのよ。車イスが手放せなくなっちゃったけど、クレア先生が補佐に就いて意外とうまくやっているみたい。クレア先生は学院長のイスを狙っているみたいだけど、まぁジェクト先生が自分から譲らない限りは無理でしょうね」
大人ぶって見えて野心家な教師ふたりの顔を思い出しながら、ふたりは声をあげて笑った。子供たちにさえ見透かされてるとも知らずに気取った大人たちの姿は懐かしくも好ましい。
「クレア教室のみんなは相変わらずね。アカデミアの復旧に合わせて、学生に戻ったり、卒業して教師になったりよ」
そこまで告げてからフィズの表情が陰った。彼女の震える薄紅色の唇を見つめて、リタはどきりと心臓が痛むのを感じる。
「あとは……そうね、エンリケは――あれ以来、姿を見せてない」
フィズはそこで言葉を切る。リタ以外のジェクト教室の生徒たちに関しては、エンリケを含めて誰一人その後の行方が知れていなかった。
名前すら挙げられなかったふたりも含めて。
気持ちを切り替えるようにぱっと表情を明るくして、フィズはリタの手を取った。
「ねぇ聞いてよ! 私ね、新しい命を授かったの!」
きらきらと表情を輝かせてフィズは告げた。突然の報告にリタは目を丸くする。
「えっ……あなた、結婚してたの?」
「ずいぶん前にね。あなたにも式の招待状を送ったのに、その様子じゃ気付いてもいなかったんでしょう」
「うっ……」
犬歯を剥き出して凶悪な顔で笑うフィズに、リタは冷や汗を流す。
安アパートを借りた名目だけの自宅にはほとんど寄り付いていなかった。溜め込んだ広告に埋もれて一緒に捨ててしまったであろう招待状を思い、リタは頭を抱えた。
「うわー……出たかったなぁ、結婚式……」
「あなたって生真面目に見えて、結構ズボラよね」
心底落ち込んだ様子のリタを見て、フィズはけらけらと笑った。笑いすぎて目元ににじんだ涙を拭うと、リタの手を取りそっと自分の腹部へと触れさせる。
「五年前、私も解放者の人たちと戦った。みんな幸せになりたくて――自分の幸せが欲しくて、ひとから奪ってでもそれを手に入れようとしたんだと思う」
見た目にはわからない。触れてもわからなかった。けれど愛おし気に見つめる母の視線に、そこに確かに新しい命が宿っていることを信じられる。
「あの時、私はすごく悩んだ。いまの世界と、解放された世界と、どちらが正しいのかって。きっとみんな悩んで、自分が正しいと思った道を選びたくて戦ってた。そして私は、なにも選べずに戦うのを止めた」
フィズは真剣な眼差しでリタの指先をじっと見つめている。自らに宿った新しい命へと伸ばした、戦士の指先を。
「でも私はいまとても幸せよ。誰かから奪わなくたって、新しく生まれてくる幸福だってあるって、私は伝えてあげたい――戦いを選ばずにはいられなかった人たちに」
戸惑いながらそっと触れた指先に、フィズは包み込むように自らの手を重ねた。
「自らの意思で行く道を選んだ人たちを、否定するつもりはない。けどほんの少し立ち止まって、別の道だってあるかもって考えてみて」
触れた指先には、人と人とが触れ合ったときのやわらかな暖かさが感じられた。
その言葉は餞別だった。あの日からの五年間、そしてこの先も戦いの道を行く友人への餞の言葉。リタはそっと無言で頷きだけを返す。
「この子が生まれたら、また会いに来てよね! 名前ももう決めてあるの」
「世界をめちゃくちゃにした頑固者たちに一発入れたら、また来るわ」
リタはぐっと腕に力を入れて見せて、また互いにけらけらと笑い合った。
「この子の名前は、イーライよ」
「いい名前ね」
リタは凛と背筋を伸ばし、旧友に別れの挨拶を告げた。
洗礼の儀式を終えたエルクと合流し、出立の準備を整える。
馬車の窓から見る見慣れた街並みは流れるように視界の端を滑り落ちて小さくなっていく。リタは視線をエルクへと戻して少女に尋ねた。
「行き先は南部地方の首都カルサレニアでいいのよね?」
念を押す声に、人形のようにちょこんと座ったエルクは首肯した。手にした召喚符――聖霊鳥〈アルカトル〉の写し身であるカードを見つめ、答える。
「はい。まずは世界に散らばった四属性の〈異界渡り〉、その写し身となる召喚符を解放者さんたちより先に確保しなければなりません」
この世界に〈異界渡り〉が存在することで、彼らの司る各属性世界とこの世界はひとつに重なり合っている。彼ら〈異界渡り〉は人前に姿を見せることはないが、世界に存在する〈異界渡り〉の召喚符だけが彼らの存在を証明する。
「南部――火の加護の地において火炎竜〈ヴリトラ〉様の召喚符を手に入れよ、というのが聖霊鳥〈アルカトル〉様からの託宣です」
聖都アスカレアが聖霊鳥〈アルカトル〉に守護されているように、各地方はそれぞれに〈異界渡り〉の影響を強く受けた土地柄となっている。
商都カルサレニアは熱気と喧騒の街といわれている。商業や交易が盛んであり、粗暴ではあるが民族の隔たりなく何者をも受け入れる。ただし笑顔で迎え入れられるのは金払いのいい者だけだが。
そんなお決まりの文句を思い出し、リタはふと過ぎる不安に頭を痛めた。
「もしもの時のためにあなたにも多めに路銀を持たせたけれど、ふたりでいる時は必ず私に支払わせて。それと人前でけっしてお金を取り出すところを見せないようにね」
「はーい!」
わかっているのかいないのか。気楽に手を挙げて返事をしてくるエルクの姿にリタは頭痛が増すのを感じる。
魔の手先よりも、異国の文化にこの世間知らずの小娘を放り込むことがリタにとって眼前に迫る恐怖だった。
「まったく……まったくの予想通りよ……」
行き交う人々。怒鳴り合う声。客引きが景気のいい謳い文句で自慢の商品を宣伝している。そんな雑踏の渦中でリタはひとり頭を抱えてうずくまった。たったひとりで。
そんな彼女の姿を怪訝そうに見る者もいるが、その無遠慮な視線も気にならない。気にしている余裕はなかった。
「予想はしてた。あの風船娘は油断すればすぐにどっか飛んでくって。でもこんな、到着から秒ではぐれることってある……?」
商都カルサレニアについてものの数秒の出来事だった。馬車を降りて御者にチップを手渡す。そのほんの数秒間だけ目を離した隙に――リタが振り返ったとき、すでにエルクの姿はなかった。
血眼になって周囲を見渡すが小柄な少女の姿はどこにも見当たらない。
「仕方がない。まずは宿を取って拠点の確保。それから人を雇って探すしかない」
そう自分に言い聞かせて気分を落ち着かせる。やるべきことを確認すれば多少は混乱も収まった。
「せめて厄介事に巻き込まれたりしてなければいいのだけど……」
つい余計なことまで口にして、嫌な予感を振り払うように早足で宿へと向かっていった。
リタが宿を手配しているその間。エルクは商都カルサレニアの路地裏の景色をぼんやりと眺めていた。
初めて見る都市のその裏側が、走る速度に合わせて軽快に上下に跳ねている。
「おぉー……」
エルクは感嘆の声をもらす。彼女が自分の脚で走っているわけではない。隆々とした筋肉を見せつけるような薄着の男がエルクを小荷物のように抱え上げて走っていた。
しばらく息を切らして走り回った後、筋肉男はエルクをその場に降ろして前を走っていた細身の男に話しかけた。
「上手く行きましたね、アニキ!」
「あぁ! こいつと引き換えに身代金をいただけば……」
そこまで言ってからはたと動きを止める。筋肉男は気付いた様子もなく、ニコニコと悪気なく訊ねた。
「で、どうやって身代金と引き換えるんで?」
優男はしばらく無言で虚空を見上げて。たっぷりと間を置いてから告げる。
「やべ。考えてなかった」
満面の笑顔を貼り付けたまま、筋肉男ががっくりと肩を落とす。その様子を見て取ってエルクが助け舟を出した。
「保護者の方と連絡を取りたいんですよね?」
「あ、あぁ……」
なぜか協力的なエルクの提案に、優男はかくかくと頷く。
エルクは背負ったリュックのなかを探りおもちゃのラッパを取り出すと、大きく息を吸い込んで吹き鳴らした。
気の抜けた甲高い音が商都の路地裏に空々しく響く。
「なんだそりゃ……!」
子供にからかわれたと感じた優男が表情を険しくしたその時――召喚紋が開いて、光のなかからリタが現れた。
混乱して目を白黒させている三人をよそに、エルクはおもちゃのラッパをリュックにしまいながら淡々と説明した。
「リタさんが迷子になったら困ると思って、このラッパに『リタさんを呼び寄せる魔法』を付与しておいたんです」
事態を呑み込めずに余計に混乱した男ふたりを余所に、リタが驚愕の声を上げる。
「あなた……エンチャンターだったの?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ?」
道具に霊力を付与して特殊な効果を発揮するアーティファクト。それを生み出す能力を持った召喚術士、彼らはエンチャンターと呼ばれている。
「まぁ、探す手間が省けたのは助かるわ。行きましょう、向こうに宿を取ってある」
エルクの手を引いて立ち去ろうとするリタの背中を優男の怒声が引き留める。
「待て待て! 計画は狂ったが、とりあえず金目の物を置いていってもらおうか!」
優男は懐からナイフを取り出し、筋肉男の方もその拳にメリケンサックをはめてふたりで威嚇のポーズを取った。
「この街じゃ知らないヤツはいねぇ! バロゥズファミリーとは俺たちのことだ!」
「知らないわよ。旅行者だもの」
にべもないリタの言葉に、ふたりは気勢を削がれてがっくりと膝をついた。
「うぅ……もうダメだ。なにをやっても上手く行かねぇ」
優男はへたり込んで頭をかきむしり、筋肉男にいたっては爪を噛んで泣き出している。哀れを誘うその姿に耐えかねてエルクがおずおずと尋ねる。
「結局のところ、なにがしたかったんですか?」
坂道を転げ落ちるように厄介事が増えていく気配を感じて、リタはこっそりと頭を抱えた。
宿の一階部分は昼間は食堂として使われていた。
そこで無遠慮にパスタを頬張りながら、誘拐犯の優男はリタとエルクに向けて名乗った。
「俺はシド=バロゥズ。こっちの大男は弟分のジモン。ふたり合わせて、この商都カルサレニアにその名を轟かすバロゥズファミリーだ!」
オムライスに大量のケチャップを盛りながらエルクが疑問を口にする。
「ふたりだけなのにですか?」
「ふたりだってファミリーだ。文句なんか言わせねぇ」
開き直ってシドが答える。
海鮮がふんだんに盛り付けられたサラダをつつきながら、半眼になったリタが冷たい声音を出す。
「で、そのギャングくずれはなにがしたかったのよ」
シドはギャングくずれという単語に反論しようとしたが、口にパスタが詰まっているうちにジモンが答えてしまい機を逸してしまう。ジモンの前にはすでに空の皿しかなく会話に混ざるタイミングをうかがっていたのだろう。
「俺たちは、火竜の洞窟に挑みたかったんす!」
突然出てきたその単語にリタは手にしたフォークを取り落としかけた。この商都カルサレニアに隣接する山岳地帯、そこにある火竜の洞窟こそが火炎竜〈ヴリトラ〉の祀られる場所であり、リタたちの目的地でもあった。
「そのための装備とか、出来れば召喚術士の用心棒とか、いろいろと準備のために金が必要だったんす」
若干バツが悪そうにジモンが声の調子を落とす。エルクは気にした様子もなくせっせとオムライスを口に運んでいたが。
「どうしてただのチンピラが火竜の洞窟に挑もうなんて思ったの?」
チンピラまで格下げされたが反論は無駄だと悟りシドは淡々と答えた。
「解放者を名乗るヤツらが少し前にこの街に現れてな。この街の裏社会の連中に声を掛けてきたんだよ。〈ヴリトラ〉の召喚符を持ってくれば解放者の一員として認めてやる、ってな」
「ギャングたちは騒然としたっす。悪名高い解放者と繋ぎを取れるチャンスだって」
そこまで聞いて、リタは怒りに任せて力いっぱいにフォークを叩きつけた。串刺しになったサラダの上で潰れたトマトが赤い果汁を滴らせる。
「それでこの街の悪党どもは、解放者どもの手下になりたがってるってわけね」
睨む相手を石化させそうなほど凶悪な眼光を向ける。シドは慌てて両手を振りながら弁解した。
「お、俺たちは違うって! そんな連中にこの街の裏社会を牛耳られたくないからって、さきに〈ヴリトラ〉の召喚符をどっかに隠しちまおうと思ってたんだ!」
「あら、そうなの」
半信半疑の眼差しを向けたままリタはごっそりと突き刺した野菜の束を口に押し込んで頬張った。唐突に向けられた殺気が削がれたことにシドは胸をなでおろす。
自分の分を食べ終えたエルクが両手を合わせて挨拶をすると、そのまま手を合わせて言ってきた。
「〈ヴリトラ〉の召喚符を回収したい私たちと、他の人たちに取られたくないシドさんたち。目的は一致してますよね!」
(まぁ、言うとは思ってたわよ)
にわかに気色ばむシドたちと呑気に微笑むエルクの顔を見渡して、リタはうんざりとした顔で詰め込み過ぎたサラダの束を噛み潰した。
「まぁ実際、人手が欲しかったのは認めざるを得ないわね」
「素直に言えよ。役に立ってくれてるってな!」
シドがぐっと親指を立てて言ってくる。子供のころから山を遊び場にしていたと言い張るシドは、地元民らしく山の地理に明るかった。彼の案内する洞窟までのルートは山に不慣れな者でも安全に進めるようによく配慮されていた。
ジモンはその大柄な体躯を活かし大量の荷物を軽々と背負って山道を苦も無く歩いていく。道中、力仕事が必要になれば率先してこなす彼に助けられた場面も多かった。
ふたりの協力があって洞窟までの山道を難なく越えられたことは事実だった。
「問題はここからだぜ」
巨大な洞穴を覗き込みながらシドが緊張に身震いする。
洞窟とはいうが、そのなかは真紅の光が岩肌を明るく照らしているのがうかがえる。
「このなかは巨大な溶岩洞になってる。迂闊に足を滑らせりゃ命の保証はない危険地帯だ」
靴底のスパイクを確かめるように覗き込みながらシドが洞窟の危険性について訴える。その忠告をエルクが真剣な顔で聞きながらこくこくと頷いていた。
その頭をわしゃわしゃと撫でながらシドはにっと笑った。
「まぁ任せときな。お嬢さん方はゆっくりついてくりゃあいいさ」
シドを先頭にしてリタとエルクが続きジモンが殿を務める。目端の利くシドが事前に危険を察知し、不意のアクシデントにもジモンが即時対応する。一行は洞窟のなかを順調に進んでいった。
不意にシドが片手を挙げて後続のリタを制止した。
「待て、この先に誰かいるぞ」
シドは岩陰に身を潜ませて注意深く道の先を見通していた。リタもそれに倣い姿をさらさないよう慎重に様子をうかがった。
シドの言葉通りにふたり組の男たちの姿が道の先に見える。頭まですっぽりと黒いローブを羽織った、見るからに怪しげな風体のふたり組だった。
「あいつらだ! 街のギャングたちに〈ヴリトラ〉の召喚符を持ってこいっていった連中は!」
「暑くないのかしら? あの格好で……」
リタは半眼になってうめく。最低限の装備を残して可能な限り軽装になったリタたちでさえ溶岩洞の熱気に全身から汗が滴っていた。ふたり組の格好は正気の沙汰とは思えなかった。
「恐ろしい連中だぜ……!」
「その恐ろしさはもっと別の方向で発揮してもらいたいわね」
感嘆のうめきを漏らすシドに対してリタは冷ややかな視線を向ける。
リタは懐から召喚符を取り出すと身を起こして岩陰から歩み出た。
「なんにせよ解放者を名乗る連中なら、それは私の敵よ」
颯爽と。
傍らに付き従う〈パラディン〉と共に歩み出る。片手に大剣を。もう片方の手には大盾を構えた、リタのもっとも信頼する精霊。
白銀の輝きを放つ全身甲冑の〈パラディン〉は主人の命に応えて泰然と身構えた。
黒衣の男たちは突然現れた〈パラディン〉の姿に狼狽していた。
だが慌てふためきながらも、なんとか自分たちの召喚符を構えて精霊を呼び出す。現れたのはうごめく死体の〈グール〉と牙持つ甲虫〈ラストイーター〉の二体。
黒衣のひとりが嘲笑う声を放った。
「驕った聖騎士など、我らの連携の前には絶好の獲物よ!」
その声と共に〈グール〉が緩慢な動きで前進を始める。接近した〈グール〉を〈パラディン〉は苦も無く斬り払った。
「かかったな! 受けろ、〈腐蝕〉!」
黒衣の放った呪文が発動して、斬り払った大剣に付着した〈グール〉の体液が霊力を帯びる。暗い霊力の輝きを湛えた〈グール〉の体液は〈パラディン〉の手にした大剣を見る間に錆び付かせた。
もうひとりの黒衣が勝ち誇った声をあげる。
「行け〈ラストイーター〉! 錆喰らいの名を持つ甲虫よ!」
甲虫が〈パラディン〉の持つ錆びた大剣に噛り付き、口内に生えた鋭い牙でがりがりとかじり取っていく。
その様子を冷静に見つめてリタは呪文を発動させた。
「その手の連携には昔、散々苦しめられた。私だってあの頃のままじゃないの。詠唱、〈霊剣〉!」
柄だけを残してぽっきりと折れた剣。その失われた刀身が輝きを放って伸びる。
リタの霊力をもって生み出された霊剣を振るい、〈パラディン〉は主に仇なす魔の手先をあっさりと斬り捨ててみせた。
リタたちに取り囲まれて黒衣のふたりはすっかり震えあがっていた。
「そのザマでよく解放者を名乗れたものね」
リタは嘆息し呆れた声を出す。その言葉への反骨心からか黒衣たちも多少は威勢を取り戻して抗弁した。
「我らを侮辱するな! 我々はこの世界をいままで虐げられてきた魔の支配下に置くという解放者の思想に共感し――」
そこまでいったところで言葉が止まる。唾を飛ばして叫ぶ黒衣の顔面をリタが思い切り殴りつけた。
「あいつはそんなことを望んで解放者を名乗ったわけじゃない……!」
黒衣のふたりは呆然としていた。その襟首をジモンが掴み上げ、ふたりを崖の上に吊り上げる。足元には煮えたぎる溶岩がぐつぐつと泡を吹きあげている。
ジモンはふたりに顔を寄せて睨みつける。
「武器と召喚符。いまここで全部捨てろ」
黒衣たちは無言で頷き、足元の溶岩へと手持ちの武器を投げ捨てた。エルクがとことこと近寄って蛍光灯のようなものを振ってからジモンに目配せすると、ジモンはふたりを地面の上へと投げ捨てた。
這いずるように黒衣のふたりは逃げ去っていく。
「手首、痛めただろ? 殴り方がなってねぇんだよ」
シドがそっとリタの手を取って慣れた様子で手当てする。確かに殴りつけた時にひねった手首がずきずきと悲鳴をあげていた。
後ろ暗い気持ちでリタは誰にともなくつぶやいた。
「解放者の肩を持つわけじゃないの。でも、あいつのやりたかったことを理解しようともせずに、勝手に分かった気になって名前だけ都合よく利用するなんて……なんていうか、ムカつく」
唇を尖らせてもごもごと言い訳じみた言葉を口にするリタの姿を、シドは快活に笑い飛ばした。
「いいじゃねぇか! ムカついたからブン殴る! 俺たちだってそうしてるさ!」
シドとジモンは顔を見合わせてゲラゲラと笑った。
だが急にシドは真剣な顔つきになって、応急のギプスで固定したリタの手首を取った。触れられた場所がずきりと痛む。
「でもな、殴り方は考えな。慣れない奴が拳だけ振り回したって、痛い思いをするのは自分だけさ」
そういって優しくリタの手を離してシドは立ち上がる。話はそれでおしまいという風に。
ジモンとリタも荷物をまとめて再び洞窟の奥へと進む準備を始めている。
リタは熱を帯びて無言の悲鳴をあげる自らの手を抱き寄せて、その痛みを胸に刻んだ。
一行は洞窟をさらに奥へ奥へと進んでいった。
「着いたぜ、ここが火竜の洞窟の最深部だ」
シドの声と共に一行は開けた場所へ出た。溶岩洞のなかドーム状に広がったその場所の中央に祠があり、そこに火炎竜〈ヴリトラ〉の写し身となる召喚符が祀られている。
リタは何気なくその祠へと近付こうとした。瞬間、エルクが声をあげる。
「リタさん、気を付けてください! 〈アルカトル〉様が警戒しています!」
聖霊鳥〈アルカトル〉の召喚符を持ち、その声を聴くエルクが警戒を発した。リタは瞬時にその場所から跳び退く。
一瞬前まではどこにも存在しなかったはずの真紅の鱗を持つ巨大なドラゴンが、先刻までリタがいた場所を踏み抜いていた。リタは背筋に冷や汗を流して戦慄する。
「火の〈異界渡り〉が、こちらの世界に来ている!」
その言葉に火炎竜〈ヴリトラ〉は金色の眼をぎらりと向けた。
「世界を渡り歩くから〈異界渡り〉だ。驚くことはあるまい」
傲慢に告げて火炎の混じった鼻息を吹いた。
一行のなかからエルクが進み出て火炎竜〈ヴリトラ〉に語りかけた。
「私たちは聖霊鳥〈アルカトル〉様からの託宣を受けて、火炎竜〈ヴリトラ〉様にお願いがあってきました!」
ちょこんと片手を挙げて語りかけてくる少女に、真紅のドラゴンは大仰に頷いた。
「わかっている。魔人皇〈カボル=ドゥガ〉の復活はこの身に感じている。だからこそ我ら四属性の〈異界渡り〉もまたこの世界に顕現した」
火炎竜〈ヴリトラ〉の言葉にシドとジモンが両手を打ち合わせて歓声をあげた。
「話が早いぜ! 四属性の〈異界渡り〉が動いてるなら、魔人皇だって……」
「笑止!」
火炎竜の怒号が歓声を吹き飛ばした。溶岩洞そのものが震え、落石がばらばらとこぼれ落ちる。
火炎竜は地響きと共に一歩を踏み出し、憤怒を湛えた声で一喝した。
「かつての聖と魔の果て無き戦いにおいて、我らがようやくの思いで世界から魔の者たちを切り離した! その断絶を無に帰したのは、貴様ら人間の身勝手さだ!」
その場にいた人間たちは言葉もない。
火炎竜は憎悪に満ちた眼差しを人間たちへ向けた。
「我は再び魔の者たちと戦おう! だがもはや人間たちには愛想が尽きた! 我は他の〈異界渡り〉と力を合わせ――魔の領域を含めた人間界ごと、他の属性世界から切り離す!」
火炎竜は吼えた。それはかつての壮絶な戦争を勝ち抜いた先の平穏が、無残に踏みにじられたことに対して怒りと悲しみを湛えた咆哮だった。
リタが、シドが、ジモンが、返す言葉を失って呆然と火炎竜の咆哮を聞いていた。
エルクだけが胸を張って堂々と火炎竜に訴えた。
「たしかに今回の問題は人間たちが引き起こした問題です。だから〈異界渡り〉の皆さんには手を出さずに見守っていて欲しいんです。私はそれをお願いに来ました」
火炎竜の咆哮がピタリと止まる。
真紅のドラゴンは目を丸くして、ちっぽけな人間の少女を見下ろした。
「手を出すな、というのか? 手を貸せと言いにきたのではなく?」
エルクは胸に手を当てて力強く首肯する。
火炎竜は――さらに怒りを増して吼えた。
「それこそ笑止! 貴様らごとき矮小な存在に、かの魔人皇を討ち滅ぼせるものかよ!」
聞く耳を持たない〈ヴリトラ〉の怒声にエルクは唇を尖らせてぼそりとつぶやいた。
「みんながそんな態度だから、〈カボル=ドゥガ〉様だって怒るんじゃないですか」
エルクのつぶやきに疑問を感じてリタが聞き返そうとしたが――それよりも先にエルクが召喚符をかざしながらリタに告げるほうが早かった。
「戦いましょう、リタさん! 人間たちだってやれるんだってこと、証明するんです!」
「え。えぇ……」
叫びながらエルクが自らの精霊〈ヴィゾフニル〉を召喚する。混乱収まらぬなか、リタも〈パラディン〉を呼び出した。
怒れる〈異界渡り〉、火炎竜〈ヴリトラ〉と対峙する。
「やってみせるか、人間! ならばその力、示してみせよ!」
吹き荒れる闘志が灼熱の溶岩洞のなか熱気を渦巻かせた。
溶岩洞の最深部は巨大なドラゴンが暴れ回るのに充分な広さがあった。火炎竜〈ヴリトラ〉は力任せに暴れ回った。その腕の一振り、尾の一撃が敵を粉砕するのに余りある破壊力を持っている。
「無茶苦茶するわね!」
リタが呆れたような悲鳴をあげた。〈ヴィゾフニル〉が飛び回って攪乱しながら、〈パラディン〉が一撃必殺の機会をうかがっている。
だが〈パラディン〉が踏み出そうとした瞬間、〈ヴリトラ〉の放つ灼熱のブレスがその行く手を遮る。鉄をも溶かすその熱波にリタは決め手を失っていた。
「〈ヴィゾフニル〉が誘導して、私の〈パラディン〉が〈霊剣〉の一撃を刺す……ただあの厄介なブレスのせいで、あと一手が足りない……!」
リタが口惜しげに歯噛みする。打開の一手がなければこのままじりじりと疲弊して敗北するのが目に見えていた。
焦るリタにエルクが笑いかける。その手にはおもちゃのコインがある。エルクは指で弾いてコインを打ち上げた。〈ヴリトラ〉の攻撃を誘いながら逃げる〈ヴィゾフニル〉の眼前に向けて。
「忘れてませんか? 私は召喚術士であり、エンチャンターです!」
エルクの指示を受けて〈ヴィゾフニル〉が突進する。そのくちばしの先にエルクから託された一枚のコインが咥えられていた。
〈ヴリトラ〉の咆哮。灼熱のブレスが白熱して迫る。
〈パラディン〉が火炎の渦に飲み込まれる直前、〈ヴィゾフニル〉がその身を挺するように割り込んだ。
「〈おまもりコイン〉の効果は、味方を受けるダメージからほんの少し、ほんの少しだけですけれど……守ってくれます!」
傷つき倒れた〈ヴィゾフニル〉を跳び越えて〈パラディン〉が天高く舞った。
その手に青白い輝きを放つ〈霊剣〉を掲げて。
「我が敵を討て、〈パラディン〉!」
リタの絶叫が溶岩洞に響き渡る。
両断された〈ヴリトラ〉の姿が一瞬だけ霞み――すぐまた元に戻った。〈異界渡り〉の存在はしょせん写し身でしかなく、本体は彼ら自身の世界にある。〈パラディン〉が斬ったのは投影された虚像に過ぎなかった。
だが火炎竜は動きを止めて、厳かに告げた。
「これが実体だったなら、確かに我は手痛い一撃を受けていたことになるな……」
エルクに抱きかかえられた〈ヴィゾフニル〉は戦闘不能で、リタの〈パラディン〉も全身の鎧があちこち溶けて無惨な有様だった。
だが確かにこの勝負はエルクたちの勝利だった。
「勝手にしろ……! 貴様ら人間たちが無様に敗北したのを見届けてから、我が魔人皇を討てばいいだけの話だ!」
不貞腐れた声だけを残して火炎竜〈ヴリトラ〉はその姿を消した。
「だからそんな風に――」
「すげぇよ嬢ちゃんたち! 本当に〈異界渡り〉に勝っちまった!」
「ひゃあっ!」
なにかを言いかけたエルクを後ろからシドが抱え上げた。エルクは驚いて短い手足をバタバタと動かした。
リタは祠へと駆け寄り、そのなかから火炎竜〈ヴリトラ〉の召喚符を取り出した。先程まで戦いを繰り広げたドラゴンの霊力をそこから感じる。
「目的は達成したわね。さぁ、帰りましょう」
目的を達した一行は火炎竜〈ヴリトラ〉の召喚符を手に、火竜の洞窟を後にした。
次の目的地は風の〈異界渡り〉のいる遺跡都市ヘスタムだった。商都カルサレニアから西の港町までを船旅で移動し、そこからは馬車を借りて移動する予定になっている。
リタとエルクはカルサレニア港でシドとジモンに別れを告げた。
「ありがとよ、嬢ちゃんたち! おかげさまで商都は変わらないままでいられる」
「いい土産話もできたっす! 一生の自慢にできるっすよ!」
楽し気に笑うふたりと握手を交わして、リタとエルクは出立の船へと乗り込んだ。
船を見送るシドとジモンの姿は次第に小さくなっていくが、ふたつの影はいつまでも大きく手を振っていた。