第四話
翼をたたんだグリフォンの背から飛び降りてリタはあたりを見回した。どこまでも白い街並みが整然と並んでいる。
「ここが聖都アスカレア!」
感嘆のつぶやきが思わず口をついて出た。瞳を輝かせるリタの姿にアーネが苦笑を浮かべる。ここまでふたりを運んでくれたグリフォンを召喚符へと仕舞いながら、アーネはたしなめるようにリタの頭に手を置いた。
「感激するのはいいけれど、重大な任務を任されてきたことは忘れないでね?」
リタはほんの少し顔を赤くしながら、それでも街並への視線は熱を帯びている。
ふたりは学院長を守護する本隊に先行してこの聖都へと飛び立った。聖都を守護する聖都騎士団へと、アカデミアを襲撃した解放者の存在を伝えるために。
「学院長たちは聖堂教会へと向かっている。私たちは聖都騎士団へと応援を呼びに行く。いいわね?」
アーネに念を押されてリタはこくこくと頷いた。ふたりは連れ立って聖都騎士団の本庁へと向けて歩き出す。
昼下がりの陽気に照らされた聖都の街並みはどこまでものどかで、積み木細工のような街並みは整然と並んでいる。リタはきゅっと口元を結んで緩みかけた気を引き締めなおした。
「さすがに解放者たちも聖都のなかまでは攻めては来ないでしょうね」
あるいはここでも仕掛けてくるかと警戒していたが、ふたりは何事もなく聖都騎士団本部へと辿り着くことができた。
広大な敷地で周囲の民家から隔てられた聖都騎士団の本庁は、荘厳な佇まいをもってふたりを迎え入れた。
受付の年若い衛士に用件を告げて学院長から預かった書状を渡す。衛士は慇懃にふたりを応接室まで案内すると、早足で駆けていった。上等なソファに半ばまで沈みかけながらリタは応接室のなかをしげしげと見回した。
「ここが父さんが働いてた場所なんだ」
リタの隣に行儀よく腰掛けていたアーネがふっと優しい視線を向ける。
「リタのお父さんは騎士団の召術騎士だったのよね?」
「うん。母さんから、そう聞いてる」
ふわふわとした革張りのソファ。ぴかぴかに磨かれた樫造りの机。年季が入りちょっとだけくすんだ色の壁。そのひとつひとつにもしかしたら父が過去に触れていたのかもしれない。そう考えるとリタは感慨に心が躍るのを抑えきれなかった。
(父さんから受け継いだ〈パラディン〉の召喚符。いつか使いこなせるようになって、わたしも父さんのような立派な聖騎士になるんだ!)
聖なる精霊を従えて人々の安寧を護る聖都騎士団たち。それはリタの目標であり夢だった。いまは来客として訪れただけだが、この場所でリタは決意を新たにする。
(見守っていてね、父さん!)
リタは懐中にしまった〈パラディン〉の召喚符にそっと手を添えて祈った。
しばらく間を置いてから、応接室の扉になにか堅いものを叩きつけるような音が響き渡った。その音量に驚いてリタはソファから滑り落ちかけるが、アーネがどうぞ、と声を掛けたのを聞いてそれがノックの音だったと気付く。
「失礼する!」
これもまた大音量で叫びながら厳つい大男が入室してきた。全身に余すところなく筋肉を盛りつけた男は、ふたりの対面に腰を下ろすとにっと笑ってみせた。
「私は聖都騎士団長のレオス=グラッドン! 通報に感謝する、アカデミアの有志諸君よ!」
そういってレオスはグローブのような手を差し出して握手を求めてきた。その手をそっと取ってアーネはにこやかに微笑んだ。
「いえ、こちらこそ助力を求める立場ですから。聖都騎士団のご協力に感謝いたします」
聖都騎士団長はその所作のひとつひとつが豪快さを極め、ふたりが挨拶を交わす間もリタはただただレオスの放つ威圧感に圧倒されていた。アーネは解放者を名乗る集団によってアカデミアが壊滅的な被害を受けたこと、彼らの狙う「鍵」を持つ学院長が庇護を求めて王立聖堂教会へと向かっていることをレオスに伝えた。
レオスは厳めしい顔つきをさらに険しくして頷いた。
「承知した。ただちにアカデミアへの救援と聖都周辺への警戒を指示しよう。聖堂教会へは私が同行する」
呼びつけた騎士団員に手際よく指示を出すと、レオスはリタとアーネを伴って王立聖堂教会へと急いだ。
王立聖堂教会は聖都の郊外にある。
エンリケたちは聖都で合流した騎士団に付き添われ教会へとたどり着いた。
騎士たちを付き従えるように、学院長アウレリアは教会へ向けて歩みだした。
「聖堂教会の現教主は私の父が務めています。きっと力になってくれるでしょう」
そう告げて荘厳な佇まいを見せる教会の扉を開いた。
学院長アウレリアはジェクトとクレアを伴って教会のなかへと足を踏み入れる。残る生徒たちは騎士団の用意してくれた護衛部隊とともに解放者の襲撃に備えて周辺への警戒へと当たる。
「これで一件落着ってとこかな?」
頭の後ろで手を組みながら気楽な調子でロンがつぶやくのが聞こえる。だがエンリケはロンほど楽観的な気持ちに離れなかった。
「まだ油断はできないさ。解放者が全滅したわけじゃねぇからな」
エンリケは姿を見せないアランの影を警戒していた。実際に戦ったエンリケからすれば、口惜しいがアランの手並みは認めざるを得ないものだった。あれだけの術士が姿を見せずに潜んでいる。その事実がエンリケの表情に暗い影を落とす。
フィズも落ち着かない様子でエンリケに同意した。
「聖都はまさしく、聖なるものの象徴よ。騎士団だって迎撃の態勢を整えてる。どう考えたって無謀な戦いにしかならないのに、それでも解放者は来るのかしら……」
「連中の目的を考えれば、いまさら引き下がれるようなもんじゃないはずだ」
暗い表情のふたりの気分をロンがいつもの軽口で紛らわせようとしたとき――その不安が的中したように教会のなかで喧騒が起こった。
学院長アウレリアは教会のなかへと招き入れられ、懐かしい父の顔と出会った。
「お久しぶりです、お父様」
たおやかに身を折って会釈するアウレリアに教主サイファーはにこやかに答える。
「おぉ、久しいな我が娘アウレリアよ」
若くしてアカデミア学院長の座に就いてから二十余年の月日を隔てた父娘の再会だったが、挨拶もそこそこに教主サイファーは眼差しを険しくした。
「解放者を名乗る者たちが、鍵を狙っているそうだな」
「はい。恐ろしいことに、彼らは世に魔人皇を解き放とうとしています」
震える声でアウレリアは腕を抱いた。鍵とは封印された魔人皇〈カボル=ドゥガ〉をこの世に解き放つためのものだった。魔人皇を封じたうえ聖霊鳥アルカトルの加護を得ることで、この世界は聖なるものによって統治されている。その封印が解かれれば、かつて起きたといわれる聖と魔の苛烈な戦争が再びこの地に起きることとなる。
それを未然に防ぐためアウレリアはこの聖堂教会へと庇護を求めた。
「鍵はいま、確かにお前の手にあるのだな?」
聖教主サイファーの言葉にアウレリアは胸元を抑えて答えた。
「はい。鍵は、確かにここに」
その言葉を受けてサイファーは満足げに頷く。
そして穏やかな笑顔を浮かべたまま、抜き放った短剣をアウレリアの胸へと突き刺した。
予想もしえなかった出来事に、アウレリアの両翼に控えていたジェクトもクレアもとっさに反応することができなかった。
アウレリアの体を貫いて血にまみれた銀の刃は、毒の花弁を思わせる美しさでこの聖堂に妖しく輝きを放っていた。
「お父様……? なぜですか……?」
口の端からひとすじの鮮血を流しながら、アウレリアは震える指先を父の背中へと伸ばした。それを厭うかのようにサイファーは手にした短剣をより深くへと突き入れる。
「愚かなアウレリアよ。我らが大望のために散れ!」
サイファーが身を離して短剣を引き抜くとアウレリアはその場に膝をついて崩れ落ちた。流れ落ちる血がこの聖地にどす黒い徒花を咲かせる。
ジェクトたちもようやく事態を呑み込み動き出そうとしたが、すべてが遅すぎた。背後から忍び寄って来ていた解放者たちによって動きを封じられてしまう。
「狂ったか……! 聖教主ともあろうものが」
ジェクトは忌々しげにサイファーを睨みつけるが、実の娘の返り血に染まったその顔は穏やかに笑っていた。狂っているのだ、いわれるまでもなく。
「聖教主などと呼ばれながら人生のほとんどをこの場所で生きてきた」
厳かに語るその姿は教主としての姿としてはふさわしいのかもしれない。解放者に与し、血に染まった教主であっても。
「強い光ほどその影もまた深いとは良く言ったものだな。私にはその影がよく見えてしまった。聖都に潜む闇から私に救いを求める声が聞こえたのだ!」
叫び、短剣を振り下ろす。その切っ先は倒れ伏したアウレリアの背を刺し貫き、彼女の姿をグロテスクな標本のように飾った。アウレリアは一度だけ身体を震わせ、そして二度と動かなくなった。
「鍵とはアウレリア自身だ! こやつが自らに施した術法こそが、現世と魔界とを断絶させていた門を開くための鍵だ!」
精霊とは何処から来るのか――この世界と精霊たちの世界とを結びつける〈異界渡り〉と呼ばれる存在たち。彼らの存在を指標にすることで他の精霊たちも召喚に応じ呼び出すことができる。
封じられた魔の〈異界渡り〉、魔人皇〈カボル=ドゥガ〉がその封印を解かれ再びこの世界と結びつくこと。それはいままで抑えつけられていた魔に属する者たちのタガが外されることを意味する。
「我が呼び掛けに応え……魔の門よ、開け!」
高らかに哄笑をあげながらサイファーが全身から霊力を解き放つ。
物言わぬアウレリアの遺体から流れ出る血液が召喚紋を描き出す。赤黒く輝いた不吉な召喚紋は、不気味な胎動を引き起こし聖堂教会を震わせた。
聖堂のなかには狂った教主の哄笑がこだましていた。
「ふはははは……! 世界に魔の気が満ちる!」
死せるアウレリアの黒血は空間を走り、複雑な紋様を描き続けている。この聖地を斬り裂くように生まれゆく魔法陣は、異界を生み出し侵食するように魔の領域を広げていく。
「……っ! させるものか!」
ジェクトが召喚符を抜き放つ。炎の巨人〈イフリート〉が呼び掛けに応えて姿を現した。暗き輝きに彩られた聖堂のなかに紅く燃える巨人の拳が唸りをあげる。
追随するようにクレアも自らの精霊を放ってジェクトを援護する。
「無駄なことを!」
サイファーが高らかに嘲笑する。灼熱の巨人の燃え盛る豪腕も、神速で翔ける猛禽の爪も、描かれる魔法陣そのものの持つ膨大な魔力によって護られた結界を突破することができない。
刻一刻と描かれ続ける魔法陣から流れ込んでくる魔界の瘴気が加速度的に増えていくのをジェクトとクレアは肌で感じていた。
「これだけ魔の瘴気が強くなれば、我が切り札も応えてくれよう」
サイファーは召喚符を取り出し、手にしたそれを高々と掲げた。召喚符からは漆黒の召喚紋が描き出され、巨大な影が空間を裂くように姿を見せた。
「我が元へ来たれ、邪眼の魔王〈バロール〉よ!」
呼び出された魔王は、相対する炎の巨人〈イフリート〉すら小柄に見えるほどの巨躯を持つ魔人だった。広大な聖堂でさえ狭苦しく感じさせるほどの体躯と威圧感をたたえて、〈バロール〉は手にした長槍を構えた。
「やれ、〈バロール〉!」
短く唱えたサイファーの声に〈バロール〉が猛然と長槍を振るう。その一振りで聖堂の石床は砕け散り、整然と並んだ長椅子は木っ端となって宙に舞う。暴風雨のような槍さばきに〈イフリート〉は為す術なく翻弄される。
飛翔する〈セイレーン〉を操るクレアが叫んだ。
「させる、ものですかっ!」
長槍の嵐の間隙を縫い、針の穴を通すような精緻な指示で〈セイレーン〉を駆る。〈セイレーン〉はついに〈バロール〉の眼前まで迫った。
「〈バロール〉よ! 〈邪毒の魔眼〉だ!」
サイファーが命じると〈バロール〉の額に閉ざされていた第三の眼が開いた。クレアはとっさに〈セイレーン〉を急旋回させて〈バロール〉の後背へと逃がす。〈バロール〉の眼が怪しく輝いた。
その眼光にわずかに触れた〈セイレーン〉の片翼が、見る間に腐り落ちていく。
「躱しきれなかったか!」
クレアが口惜しげに奥歯を噛んだ。機動力を奪われた〈セイレーン〉をかばってジェクトが〈イフリート〉を進撃させる。
叩きつける槍の一撃に対してジェクトは〈イフリート〉に防御態勢を取らせる。
「耐えきってくれ、〈イフリート〉!」
ジェクトの背筋を冷たい汗が流れる。〈イフリート〉は両腕を頭上で交差させて振り下ろされた一撃を受けた。爆音と、重い振動が聖堂に響き渡る。
会心の一撃をかろうじて耐えて、〈イフリート〉は倒れていた〈セイレーン〉を抱えて後ろ跳びに間合いを離す。
そうしている間にも刻一刻と魔界へと開く門が描かれていくのが視界の端に映る。
(かくなるうえは……!)
ジェクトはクレアへと視線を送り、互いに頷き合った。
手負いの精霊たちの眼前には〈バロール〉が迫る。魔王の第三の眼がいま再び開かれようとしていた。
「お願い、行って〈セイレーン〉!」
片翼の〈セイレーン〉が、それでも地を蹴って羽ばたいた。その胴体を〈バロール〉の長槍が無慈悲に刺し貫く。〈セイレーン〉は最期の力を振り絞り、大きく翼を震わせる。
「スペル発動、〈追い風〉!」
死にゆく〈セイレーン〉を中心として聖堂内に旋風が巻き起こる。激しい大気のうねりは〈イフリート〉の体に収束していき、その身に纏った火炎をひときわ燃え盛らせ聖堂内に舞い上がらせた。
身を焼く熱気に炙られながらもサイファーは勝利を確信した声で叫ぶ。
「なにをしようとも無駄だ! 〈邪毒の魔眼〉の前に散るがいい!」
〈バロール〉の魔眼が開ききる。その直前、ジェクトは持てるすべての霊力を〈イフリート〉へと注ぎ込んだ!
「すまない、〈イフリート〉よ……!」
両の拳を撃ち合わせて〈イフリート〉の身体がひときわ目映い光を放つ。
次の瞬間、〈イフリート〉は迫りくる〈バロール〉を巻き込んで爆散した。
騒ぎを聞きつけてエンリケたちが駆け付けた時にはすでに勝負は決していた。激しい戦闘の形跡を目にして生徒たちは言葉を失う。
「クレア先生!」
傷つき倒れたクレアの姿に気付いたフィズが駆け寄る。〈イフリート〉の自爆に巻き込まれて気を失っているが、クレアはまだ軽傷だった。
アーネに抱え起こされたジェクトは――自ら使役する精霊の爆発を間近で受けたジェクトは全身にひどい火傷を負っていた。深手を負った恩師に対して、生徒たちは掛ける言葉を見つけられないでいる。
だがジェクトは震える指先を聖堂の奥へと向けた。
「教主サイファーは……〈バロール〉はどうなった?」
ジェクトの示す先には破壊された〈バロール〉の残骸と、それでもなお勝ち誇った顔のサイファーの姿があった。
「地に闇が満ちる……!」
鮮血の召喚紋はその全様を描き終わり、解放者たちの大望はいまここに成就した。
「我が〈バロール〉こそ失ったものの、いまここに開門は成った!」
赤黒い光を放つその禍々しい門の完成にサイファーが快哉を叫ぶ。
その様を見やりエンリケは歯噛みした。
「間に合わなかったってのか……!」
その時、聖堂の扉が開いた。
聖堂へと姿を現したのは騎士団を引き連れたリタだった。
「騎士団の人たちを呼んできたよ!」
リタは快活な声を上げながらエンリケの側へと駆け寄ってくる。金色の鎧に身を包んだ騎士団長レオスがリタの後に続く。
レオスは魔の召喚紋を一瞥し、騎士たちに警戒するよう指示を飛ばすとエンリケに向きなおり簡潔に尋ねてくる。
「戦えるものはどれだけ残っているか?」
「そこにいるリタも含めて生徒五名。教師二名は負傷して戦闘不能です」
レオスは無言で頷くと再び騎士団へと指示を出す。
「これより聖都騎士団は魔の門の破壊を試みる! 総員、攻撃を開始せよ!」
その場にいる全員に聞こえるように大音量でレオスが叫ぶ。騎士団が各々に召喚符を構え、そしてアカデミアの生徒たちがそれに倣う。
数人の騎士たちに取り押さえられたサイファーの嘲りの声が響く。
「無駄なことを! すでに門は開かれた! 魔の〈異界渡り〉はその眼で我々を見ているぞ!」
「〈異界渡り〉が現れる前に、この門を破壊する!」
怒号とともにレオスが自らの召喚符をかざした。レオスの呼び声に応えて、闇に沈んだ聖堂のなかに純白の炎を身に纏った天使が姿を現す。
「来たれ、我が守護天使〈ウリエル〉よ!」
〈ウリエル〉は光放つ白刃を抜き放ち身構える。レオスが総攻撃の号令をかけようとしたその時、門を取り囲んだ騎士団たちの一角から血飛沫が舞い散った。
「何事か!」
不意を突かれレオスがそちらを見やる。倒れ伏した騎士たちを踏み越えて、ひとりの男が軽薄な笑みを浮かべて歩み出た。
「無粋な真似はやめてもらおうか。新しき秩序の誕生をともに祝福しようじゃないか」
身に纏った白銀の軽装鎧はまぎれもなく騎士団の標準装備だった。だが見覚えのあるその顔にエンリケは皮肉に口元がひきつるのを感じる。
「おい、なんの冗談だよ」
悠然と近づいてくるその姿は、かつてアカデミアで戦ったアラン=ゾルダートそのものだった。
「アラン=ゾルダート……!」
「覚えていてくれて光栄だよ」
そういってアランは芝居がかった仕草でかるく辞儀をして見せる。挑発するようなその態度にエンリケは激昂して拳を握り締める。
「騎士に成りすまして、紛れ込んでたってのかよ」
「成りすます? 心外だな、私はまぎれもなく騎士団の所属だよ」
くつくつと笑いながらアランはレオスへと視線を送った。騎士団長は厳つい顔にいっそう渋面を浮かべて歯噛みする。
「アラン=ゾルダート特務騎士……貴様がまさか解放者の手の者だったとはな」
アランは懐から一片の召喚符を取り出して嘲笑う。闇深いその表情は、騎士の仮面を脱ぎ捨てた「解放者」アランとしての顔だった。
「いまこそお見せしよう、我が切り札を! 出でよ、黒き天使〈マステマ〉!」
アランが呼び出したのは、漆黒の翼をはためかせた魔の天使だった。〈マステマ〉は赤黒い光を放つ大剣を携えて破壊された聖堂へと降り立った。
レオスの〈ウリエル〉とアランの〈マステマ〉――白と黒の天使が対峙して互いに睨み合う。
レオスが騎士団へ、そしてアカデミアの生徒たちへと声を上げた。
「背信者アラン=ゾルダートは俺が相手をする! 総員、門の破壊を優先せよ!」
騎士団長の号令に、その場の全員がいっせいに攻撃を開始した。
教主サイファーは後ろ手に縛られて放置されていた。騎士団は門の破壊を優先し、そちらに気を取られている。
その隙にサイファーはこの場を逃げ出そうとした。
(世界は生まれ変わる……魔の者たちの支配する世界に! 私はこんなところで終わりはせんぞ……!)
騎士たちの背後を気付かれないように這って進む。その眼前に立ちはだかる影があった。
その影は悪戯っぽく笑いながらサイファーに語り掛ける。
「教主サイファー。あなたはよくやってくれた。だけど、最後にもう一仕事頼みたいんだ」
見上げたその顔に、サイファーは歓声を上げかけるのを堪えた。辺りを見回して自分たちに気付いた者がいないことを確認する。
「そうか、あなたが……いらしていたのですね、ここに!」
教主サイファーは彼の前に頭を垂れた。眼前に現れたこの男こそが解放者を結成した張本人だった。
「開門は成された。あとは〈異界渡り〉にお越しいただくのみ……あなたにはそのための道標となって欲しい」
そういって彼は懐から一枚の召喚符をサイファーへと手渡す。
それを受け取ってサイファーは歓喜の涙すら流しながら答えた。
「お任せください。我らが悲願の最期の一手、見事勤め上げて御覧に入れます!」
そして召喚紋が開かれた。
異変に最初に気付いたのはエンリケだった。
(あいつはこんな時になにやってんだ?)
倒れた教師たちのもとにはそれぞれアーネとフィズが付き添っている。彼女たちは騎士の手を借りて負傷者となったジェクトとクレアを介抱している。レオスの〈ウリエル〉とアランの〈マステマ〉は聖堂内を飛び回り熾烈な戦いを繰り広げていた。リタは傍らに〈パラディン〉を呼び出して、自分と共にいままさに魔の門へ攻撃を行おうとしている。
エンリケの視界に、ロンの姿だけがなかった。
周囲を見回してようやくロンの姿を発見する。教主サイファーへと一枚の召喚符を手渡しているロンの姿を。
「我が召喚に応じよ! 魔人皇〈カボル=ドゥガ〉!」
サイファーが高らかに叫ぶ。描かれた召喚紋は純黒の闇深さを思わせる色をしていた。召喚符から放たれた黒い光は空中に複雑な紋様を描き出す。
だが召喚も半ばにして、サイファーは苦しげにうめき膝をついた。
「ぐっ……やはり魔人皇の召喚には……私では力不足か!」
吐く息も荒くサイファーがうめく声がする。だがそれでも彼は召喚を止めようとはしなかった。
「いや、上出来さ。あとは俺に任せろ」
ロンがつぶやき、サイファーの掲げた召喚符に自らも手を添える。
「教主サイファー。あなたの肉体を依り代として、〈異界渡り〉の力の一端をいまここに召喚しよう」
重ねた手からロンが召喚符へと自らの霊力を解き放っていく。
「さあ魔界より現れ出でよ、魔人皇〈カボル=ドゥガ〉よ!」
サイファーの身体が荒れ狂う闇に呑まれる。それは巨大な漆黒のまゆのようだった。
その一部始終をエンリケはただ茫然と眺めていることしかできなかった。信じがたい光景にエンリケの思考は完全に真っ白になってしまう。
指先の震えを自覚して――ようやく事態を呑み込んだエンリケは喉が裂けるほどの怒りを込めて叫んだ。
「なにを……やってんだよ! ロンッ!」
怒声を上げてロンの元へと走る。エンリケは怒りに任せてロンの胸ぐらを掴み上げた。全員の視線がエンリケとロンへと集中した。
「なんでお前が! 解放者の連中に手を貸してんだ!」
ロンの胸元を握り締めたエンリケの姿は、怒りに震えて崩れ落ちそうになるのを縋りついて押し止めているようでもあった。
ロンはいつものような軽薄な笑みを浮かべてエンリケの怒りを受け流していた。だがその表情にはどこか寂しげな陰りもあった。
「手を貸していたんじゃないさ。解放者を組織したのはな、俺なんだ」
「そんなわけあるか! だってお前、ずっとアカデミアで俺たちと一緒にいたじゃないかよ!」
ロンは自分を掴むエンリケの手をそっと振りほどいた。
「アカデミアに入学するもっと前にな。俺と姉貴はこの聖都で生まれ育ったんだ。その時にな、この教会で俺とサイファーとアラン……この三人が最初の解放者になった」
涙をにじませたエンリケの眼には、そこに映る親友のいつもの笑顔が歪んで見えた。なにも言葉が見つからず、ただ拳を震わせる。
「だってよ、理不尽じゃねぇか。生まれつき魔の素質があったってだけで……俺は実の両親に殺されかけたんだぜ! あいつらの忌み嫌った魔の力で、返り討ちにしてやったけどよ!」
今度は逆にロンが両手をエンリケの肩へと差し伸ばす。両肩を掴んでエンリケの肩を揺さぶりながら語るロンの眼にも、淡く涙がにじんでいた。
「理不尽じゃねぇか! 聖に支配された、この世界はよぉ!」
叫び、顔を伏せてロンは震えている。
エンリケを突き放してロンは震える自分の両手を見つめていた。
「俺にとっては、あんな親ぶっ殺してやったって構わなかった。……けどよ、あんなんでも姉貴にとっては親だったんだ。俺が魔の素質を持って生まれたせいで――この世界の歪んだ秩序のせいで、俺は姉貴から両親を奪っちまったんだ!」
壁を殴りつけてロンが絶叫する。その叫びにアーネが怯えたように自らの身体を抱きしめた。フィズが、リタが、言葉を失い立ち尽くす。
そして、エンリケは――――
五年前のその日、聖都の空は青く澄み渡っていた。
おだやかな日差しをその身に受けながら幼い日のロンは息を切らして走っていた。チリひとつない聖都の舗装された道には彼の進行を妨げるものもなく、整然とした街並みを短い手足でぐんぐん追い抜いていく。
子供らしい笑顔を満面にたたえてロンは教会の扉をくぐった。
「教主様! 俺、今日で十歳になったよ!」
「おお、来たか。待っていたぞ」
にこやかな顔のサイファーが聖堂のなかからロンを出迎えた。ロンは待ちきれないようにサイファーの元へと駆け寄り、落ち着かない様子で教主を急かした。
「十歳になったら、俺にも召喚術を教えてくれるって約束だよな!」
ロンはそういってサイファーの儀礼服の袖を引っ張って催促した。
サイファーは落ち着かせるようにロンの頭を撫でてやりながら、苦笑を浮かべる。
「覚えているとも。だがその前に、お前にはどの属性の素養があるのかを調べてみないとな」
ロンは跳び上がって歓喜した。無邪気に飛び跳ねて心が躍るのを隠し切れない。
「俺ってなんの属性なんだろ? 姉貴が水の適性が高かったから俺もそうなのかな? もしかしたら聖の力が強くて聖都騎士団に入れちゃったりして!」
はしゃぐロンにサイファーは一枚の白紙の召喚符を手渡す。
「それは識別符といって使い手の素養を確かめるのに使われるんだ。さあ、ロン。こちらへ来て、儀礼をはじめようか――」
サイファーは幼いロンの手を引いて儀礼室へと入っていった。
数刻後――
サイファーは心痛に表情を歪めて、苦しげに胸を押さえた。
(まさかこんな……こんなことが)
教主の変化に気付かずにロンは彼の袖を引っ張って催促する。
「なあ教主様! 俺の適性ってなんだったんだ? もったいぶらずに教えてくれよ!」
無邪気に笑う幼子の顔に、サイファーもむりやりに笑顔を取り繕って答えた。
「あ、あぁ……お前の適性は地の属性だよ」
まだ少年だったロンに残酷な真実を告げるのをためらい、サイファーはとっさにそう答えてしまった。識別符はほんのわずかに地の適性を示す緑色の光を放っていたが、それを塗りつぶすようにより強い漆黒の光が目を奪う。
長く教主を務め、様々な召喚士の誕生に立ち会ってきたサイファーでも、ここまで深く黒い魔の力を秘めた輝きは目にしたことがなかった。
「地属性かぁ。地ってどんな精霊が使えるんだ?」
あどけない少年の笑顔にサイファーは怯え竦んだ。手の震えを、頬を伝う汗を、必死に押し隠しながらロンに背を向ける。
「あそこの書棚に、精霊たちの図鑑があるから読んでいてごらん。私は――少し、出掛けてくるよ」
そう言い残してサイファーは教会を後にした。ロンの両親と、彼の今後について相談しなければならないと、そう決心して。
そして、事件の夜――
若き日のアラン=ゾルダートは使命に燃える純粋な騎士だった。同僚から体よく押し付けられた深夜の巡回さえも、必要な役目だと信じて疑わず生真面目に行っていた。
闇に沈んだ聖都を巡り歩くうち、アランは異変に出会った。
(血の臭いがする……!)
闇夜に吹いた風に乗せて、かすかに生臭い不吉な臭いを嗅ぎ取ってしまった。アランは風の吹いた方向を見やる。
「あれはザシュフォード家の屋敷だな」
古くからの名家であるザシュフォード家。灯りの落ちたその屋敷は不気味なほど静まり返っている。
いまなら気の迷いとして引き返すこともできた。まぎれもなく貴族の敷地である。新米の騎士が気軽に立ち行っていい場所ではなかった。
それでもアランはためらわずに踏み込んだ。
(思い過ごしだったならそれでいい。私が叱られるだけさ)
気楽に考えてアランは屋敷の扉を開いた。
アランは自分の直感が間違っていなかったことを悟る。扉を開いた瞬間、屋敷のなかからはむせかえるような血臭が漂ってきた。
緊張を高めアランはより血の臭いの濃い方へと走る。
「…………ッ!」
そこで見た光景をアランは生涯忘れることはないだろう。
血溜まりに沈む両親とそれに縋りついて泣いている少女。そして無表情にこちらを見つめる少年の顔。
少年はアランの存在に気付くとぼそりと呟いた。
「父さんと、母さんが……俺が生きてると家名に傷がつくんだって。魔の力を持って生まれた俺は生きていちゃいけなんだって。そう言って、俺のことを殺そうとしてきたんだ」
ロンは虚ろな眼差しでアランを見つめて淡々とつぶやいた。感情のない少年の声に、アランは激しく動揺する。
アラン自身が魔の力を持って生まれたが故に両親から見放され、孤児となって以来は魔の力をひた隠しにして生きてきた。アランには立ち尽くすロンの姿が幼い頃の自分と重なって見えた。
ロンは心を失った表情で語り続ける。
「だからさ、俺も……自分を護るために戦ったんだ。生きるために戦って、俺が勝ち残ったって、それだけさ。でも……」
そこで初めてロンは感情を露わにした。物言わぬ死体となった両親に取り縋って泣き続ける少女を見て、ロンの目からも堪えきれず涙があふれだした。
「姉さんが、泣いたんだ……! 俺のことを殺そうとした親だけど、姉さんにとっては優しい両親だったんだ……! 俺、姉さんの家族を殺しちゃった……!」
とうとうロンも声をあげて泣き出してしまった。そうしていると年相応のただの幼子にしか見えない。
アランもまた涙を流し、この事件を闇に葬ると心に決めた。
夜が明けて、ロンとアーネを連れたアランは教会へと足を運んだ。教主サイファーならば力を貸してくれるとロンから聞かされて。
昨晩のうちにアランは精霊に死体を処理させ、サイファーと共謀してザシュフォード家の一件は失踪事件として口裏を合わせると決めた。ロンとアーネの処遇はサイファーが身元引受人となりアカデミアへと入学させることとなった。
疲れ果てて眠り続けているアーネを居室へと運んでいったサイファーが戻ってくると、ロンはうつむいていた顔をあげて語り始めた。
「この世界は理不尽だよ。みんなはそう思わないのかな」
アランは、そしてサイファーは、心痛にその顔を歪めながら押し黙って少年の言葉を聞いた。この世界の理不尽故に、実の両親を手に掛けた少年の言葉を。
「遠い昔の戦争で聖なるものが勝ったから、魔は悪者にされて封じ込められてるんだろ? そんなの力で支配しているだけで、正義じゃないって思わない?」
聖は正しく清らかであり、魔は邪なるもの――それはこの世界に刻み込まれた不文律のはずだった。だがその歪みの犠牲者が、いま口を尖らせていかにも子供らしく世界の常識を破壊する。
「解放してあげようよ。封じ込められた魔の存在たちをさ。聖と魔、どっちが支配することもなく互いの力が均衡すれば――この世界はもうちょっとマシになるんじゃないかな」
そうしてここに、最初の解放者が誕生した。
教主サイファーは何者かが自分を見ている、その視線を感じていた。
物理的な視線ではない。もっと直感的な、世界を隔てた遥かな場所から、自分の姿を見つめているものがいる。
「そうだ、私を見ろ……! もっとよく見てくれ……! この身はあなたへの供物だ、魔人皇〈カボル=ドゥガ〉!」
暗転。消失。
教主サイファーは自分の肉体が、その存在のすべてが、異界より現出した魔人によって塗りつぶされていくのを感じながら無となった。
それはどこにでもいる平凡な青年の姿をしていた。
街中ですれ違ったなら印象にも残らないような無害さを装って。魔人皇〈カボル=ドゥガ〉はこの世界へと顕現した。
「〈異界渡り〉とは楔だ。こちらとあちらの境界を越えるための、楔」
勝ち誇ったアランの声だけが聖堂のなかに響き渡る。
「〈異界渡り〉がこの世界にある限り、断絶されていた第六界が――魔界がこの世界との融合を始めるぞ!」
騎士団は即座に行動を起こした。レオスを筆頭に総員で魔人皇へと挑みかかり、そして瞬時に全滅した。
魔人皇〈カボル=ドゥガ〉は微動だにせず、ただそこに在っただけだった。だが彼に近づいた者から騎士団は次元の歪みに呑まれて消えていった。
「案ずることはないさ。ふたつの世界が融合する、その余波にすぎない。生まれ変わった世界でまた会おう!」
哄笑を上げながらアランもまた黒い波に飲まれて消えていった。〈カボル=ドゥガ〉に近い者たちから順に、巻き起こる衝撃波に呑まれてこの場から消えていった。
アーネは傷つき倒れたジェクトの身体をリタへと預けると、悲し気に微笑んだ。
「リタ、先生のことを頼めるかしら」
リタは泣きそうな顔をアーネへと向ける。
「アーネ? どうして……」
「私はロンと一緒に行こうと思う。だって、ふたりきりの家族だから」
去っていくアーネの背中を呆然と見送りながら、リタは掛ける言葉を見つけられない。なにも伝えられないまま、アーネの姿も次元の歪みのなかへ消えてしまった。
リタとジェクトが、クレアとフィズが、聖堂のなかから姿を消していく。
最後に残されたエンリケとロンは互いの顔をまっすぐに見つめ合った。
「お前、ずっとこんなことを考えてたのかよ」
「悪いなエンリケ。どうしても叶えたい願いだったんだ。聖と魔の不平等を失くすってのが」
「ずっとずっと、俺たちに黙ってたのかよ!」
「……すまねぇ」
怒りに震えるエンリケと、寂しげに笑うロン。ふたりの姿も消える。
がらんどうの教会にはもはや誰の姿もなかった。
エルクは鼻歌混じりに聖都の街並みを歩いていた。
母親からおつかいを頼まれた。昨晩の地震で花瓶が割れてしまったので、代わりを買ってきて欲しいと頼まれたのだ。
頼まれごとをするのは嬉しい。エルクは人から信頼されるのが好きだった。ついでにお駄賃で買ってもいいと言われたドーナツも大好きだ。
右手に硬貨を握り締めて昼下がりの大通りを歩いていく。
「…………?」
ふとエルクは足を止めた。街路樹の下、ベンチに腰掛けてうなだれている青年の姿が目に留まったからだ。
青年は肩を落とし両手で顔を覆ってうつむいている。
エルクは青年の元へと歩み寄り、声を掛けた。
「おにいさん、どうしたんですか? 具合が悪いですか?」
声を掛けられた青年はびくりと肩を震わせてから、ゆっくりと顔を上げた。長く伸ばした黒髪をかきあげながら、取り繕うように笑みを見せる。
「いや、なんでもないんだ。気にしないでくれ」
そういって乾いた声で笑う。
それでもエルクは引き下がらなかった。
「気になりますよう。だっておにいさん、泣いてるように見えたから」
「泣いて……いたのかな、俺は……」
エルクに言われて、青年は虚を突かれたような顔をする。照れ笑いを浮かべた青年はごまかすように手を振った。
「たいしたことじゃないさ。ちょっと、友達とケンカしてね」
青年はそれで話を打ち切ろうと腰を浮かしかけたが、エルクに両肩を押し戻されてベンチに圧しつけられる。
「たいしたことですよ! 友達は大事です!」
興奮したエルクが声を大にする。通りすがった人たちにじろじろと見られて青年はバツの悪そうな顔をした。
エルクは気にした様子もなく大声でまくし立てる。
「ケンカをしたなら仲直りするべきです! 大丈夫、ちゃんと謝れば許してくれますよ!」
「許して……もらえるかな? いや、もう謝る機会もあるのかわからない」
励ますつもりがますます落ち込んでしまった様子の青年に、エルクは眉間にしわを寄せて考えた。
そして両手を打ち鳴らしてポケットからなにかを取り出した。
「これ、おにいさんにあげます! 仲直りのお守りです!」
そういって手渡してきたのはおもちゃのコインだった。だがそれを受け取った青年は驚愕に目を見開く。
「これ、アーティファクトじゃないか!」
霊力を込めることで特殊な効果を付与した道具をアーティファクトという。少女が気軽に手渡してきたコインはかすかではあるがその内から霊力を感じさせた。
「はい! 仲直りのおまじないを込めたお守りです!」
エルクはにこにこと笑っている。
(まぁたいした価値のあるものでもないし、いいのかな?)
コイン自体ただのおもちゃで、込められた霊力も微弱なものだった。そう考えて青年は受け取ったコインを手のなかで遊ばせた。
「ありがとう、大事にするよ」
青年は礼を言って立ち上がり、手を振りながら走り去るエルクを見送った。
「仲直り、か……いつか出来るといいな」
指先でコインを弾きながらそうつぶやき、受け止めたコインを上着のポケットにしまいこむ。
一瞬だけ交錯したふたりはまたそれぞれの道へと歩き出していった。