第二話
深緑の葉を生い茂らせたその森は学園の裏手にあった。
模擬戦闘試験の二日目を迎えて、リタはいつものように〈パラディン〉を付き従えて堂々と立っていた。
「わざわざこんなところに呼び出したって、わたしの〈パラディン〉には関係ないわ!」
主の声に応えるように〈パラディン〉は周りの樹木などいっさい意に介した様子を見せない。立ち並ぶ樹々によって動きが制限されるその地形に対して〈パラディン〉は悠然と待ち受ける姿勢で構えた。
相対する少年はその様子を見て低く笑った。
「勘違いするなよ。俺はただ……」
そうして懐から一枚の召喚符を引き抜いて叫ぶ。木漏れ日のなかに黒い影が走り、その姿なき影は樹々のざわめきのなかを滑るように移動していった。
「人目につかない場所で勝負したかっただけさ!」
迫りくる影が〈パラディン〉へと牙を剥く。鋭利な爪が〈パラディン〉の甲冑を引き裂こうと縦横から無尽に攻めたてる。
「これってまさか、魔の精霊じゃ……」
リタは驚愕に目を見開く。ジェクトからその存在について聞かされてはいたが、その禁忌の存在をこのアカデミアで使役する者が現れるとは思ってもみなかった。
呆然とするリタの視界の端で〈パラディン〉はかろうじて影の攻撃から身をかわしていた。
「……っ! 防御して、〈パラディン〉!」
なんとかリタが我に返って指示を出すと、〈パラディン〉は即座に手にした大盾をかざして防御の体勢をとった。だが伸びた影の爪は大盾の表面をするりと滑ると〈パラディン〉本体へとその爪を突き立てた。
「無駄なんだよ、物理的な防御なんか!」
自在に伸縮する影の連撃がわずかずつではあるが〈パラディン〉の甲冑を削り取っていく。白銀の姿には無数の傷が刻み込まれ、聖なる騎士はその身をよろめかせる。
「こんなかすり傷、わたしの〈パラディン〉にはどうってことないわよ!」
リタの鼓舞する声が倒れかけた〈パラディン〉を踏みとどまらせた。大地へと力強く踏みこんで倒れかけた体を起き上がらせる。主からの絶大な信頼が〈パラディン〉の傷だらけの体に活力を与えた。
「お返しよ、やっちゃいなさい!」
〈パラディン〉が吼える。樹々の葉をざわめかせて閃いた大剣は、大樹の陰に身を潜ませようとした魔の精霊を一刀のもとに両断した。
「わたしは聖都を護る騎士になるんだ! あなたなんかに負けられない!」
リタが万感の思いを込めて快哉を叫ぶ。だが魔を使役する少年はその思いさえも嘲笑った。
両断された影は揺らめいて、そのまま消え去るように見えたが。一瞬の後にはなにごともなかったかのように元の形を取り戻し、ふたたび〈パラディン〉へと爪をかざして迫った。
「バカが! 物理的な防御が効かないってことは、物理的な攻撃も効かないんだよ!」
「そんな……!」
スペルによる援護ができないリタにとって、物理攻撃が効かないという事実は完全な手詰まりを意味する。為す術もなく立ちすくんだ〈パラディン〉の胴体を、鋭く伸ばした影の一撃が刺し貫いた。
「勝てた……! 勝てるんだよ、魔の精霊さえ使えるなら俺は! これが俺の本当の実力なんだ!」
傷つき地に倒れ伏した〈パラディン〉の姿を指さして、少年は高らかに笑った。自らの適性を活かせずに落ちこぼれ扱いを受けてきた者が、存分にその力を振るえる快楽に酔いしれていた。
その哄笑を制するように怜悧な声が響き渡る。
「そこまでよ」
少年の表情が一瞬にして凍り付く。森の間隙から突如として飛び出したアメーバ状の魔法生物が、少年の使役する魔の精霊をまるごと飲み込んだ。
「魔に属する精霊の使役は禁止されているわ。この試合は無効試合とします」
毅然と言い放つ声とともに樹々の間からアーネが姿を現す。少年が口惜しげなうめきをあげながら懐に手を忍ばせるが、アーネはそれを察知して少年が手を抜き放つよりも素早くもう一体の精霊を呼び出した。召喚された新たな〈スライム〉は少年の手足に絡みついて体の自由を奪う。
「おとなしくしてなさい。といっても、動きようもないでしょうけど」
拘束された少年をアーネは冷ややかな視線で見下ろした。少年はしばらく暴れていたが余計に〈スライム〉が絡みつき体力を無駄にしただけだった。
「お前らにはわからないんだ。思うまま自分の力を振るうことが許されたお前らには、俺たち魔の素養を持って生まれちまった奴の気持ちなんて……」
「しばらくそのままで反省なさい」
アーネの表情に悲しみの色が浮かぶ。それを隠すように少年に背を向けて、アーネは肩を震わせるリタのもとへ歩み寄った。
リタは傷ついた〈パラディン〉を回収したあと、その召喚符をただ無言でじっと見つめている。
アーネは伸ばしかけた指先をそっと引き寄せて。リタの心中を察してなにも言わずに、拘束した少年を連れてその場を後にした。少女のかすかな嗚咽だけが森の奥にいつまでも響いていた。
アカデミアの校舎裏、滅多なことでは誰も寄り付かないその場所に呼び出されたロンは気楽な様子で対戦相手の少女の前まで歩み出た。
そのまま世間話をするような調子で目の前の少女へと話しかける。
「アカデミアのあちこちで魔の精霊を使うヤツが出たって教師連中が騒いでるな」
ロンはあくまで陽気に指先でカードをもてあそびながら語り続ける。だが口調とは裏腹にその眼差しは射抜くように鋭い。
「あんたもそのクチかい?」
その視線にじっと見据えられて少女は口元を引き締めた。互いに召喚符を引き抜き、同時に構える。
「まぁ、そんなもんはやってみりゃわかるさ!」
それが開始の合図というように、ロンはカードから精霊を呼び出した。現れたのは地に属する獣人〈コボルト〉だ。それに合わせて少女も自らの精霊を召喚する。姿を見せたその精霊〈メドゥーサ〉は、やはり魔に属する存在だった。
禁忌とされた魔の精霊を目の当たりにしても、ロンは一切の動揺も見せずに軽口をたたいた。
「やるからには負けるつもりはないぜ!」
互いの精霊が姿を現すや否や、ロンは素早く〈コボルト〉へと指示を出した。ロンはまっすぐにその腕を伸ばして〈メドゥーサ〉の姿を指し示す。それを受けた〈コボルト〉がいまにも駆けだすような姿勢を見せた。
(かかったわね!)
少女はロンが術中にはまったと思い、口元を緩める。
〈メドゥーサ〉の魔眼は目を合わせたものを石化させる能力を持つ。少女は〈コボルト〉が迂闊に攻撃を仕掛けてきたところを返り討ちにしようと待ち構えた。
「なんてな! もういっちょ召喚、〈ストーン・ピラー〉だ!」
手品のようにその手のなかに新たな召喚符を取り出してみせると、ロンは掛け声とともにその召喚符を空へ放った。放り上げられた召喚符は虚空に召喚紋を描き出し、そこから巨大な石柱を呼び出される。
何事かと身構えていた少女は、呼び出されたのが〈ストーン・ピラー〉だと知ると余裕を取り戻した。
「なにかと思えば、ただの石柱じゃない」
ロンが呼び出したのは攻撃する術など持たないただの石の柱でしかなかった。先手を取っておきながら防御にしか役に立たない石柱を呼び出したロンの支離滅裂な行動を少女は鼻で笑う。
だが続くロンの命令はさらに少女の意表を突いたものだった。
「〈コボルト〉よ、<ストーン・ピラー>を攻撃しろ!」
その声を受けて〈コボルト〉は頑丈なピッケルを取り出した。この器用な獣人は様々な道具を使いこなすことができる。ピッケルを装備して〈コボルト採掘士〉となった獣人は一心不乱に〈ストーン・ピラー〉へとピッケルを叩きつけ始めた。
「……なんのつもり? 〈メドゥーサ〉、魔眼を放ちなさい!」
困惑しながらも少女は〈メドゥーサ〉に迎撃の命令を出した。しかし〈メドゥーサ〉の瞳がいくら妖しい光を放とうとも、〈コボルト採掘士〉はそちらには目もくれずに石柱を砕くことに専念している。
「御大層な魔眼も目を合わせなけりゃ意味ないぜ!」
「なら直接叩くまでよ!」
少女が手を振ると〈メドゥーサ〉は大きくその身を反らせた。そこから身を震わせて頭上に頂く無数のヘビが隙だらけの〈コボルト〉の背中へと襲い掛かっていく。
そこにロンの声が割り込んだ。
「させねぇっての!」
突然その姿を現した石の巨人が殺到するヘビの群れをひとまとめに握りつぶした。突如として召喚された〈ストーン・ゴーレム〉は鷲掴みにしたヘビたちを手繰り寄せ、抗う〈メドゥーサ〉との間合いをじりじりと詰めていく。
「どこからこんな、高位の精霊が……!」
少女の悲鳴じみた叫びに、ロンは得意気に笑ってみせる。
「〈コボルト採掘士〉のクラフト能力で加工した〈ストーン・ピラー〉を依り代にしたのさ」
本来であれば高位の精霊を召喚するには莫大な霊力が必要となる。だがロンは精霊を呼び出すための憑代を用意し、肉体を伴わない精霊の能力だけを呼び寄せることで、わずかな霊力だけで高位の存在を召喚してみせたのだ。これがロンの得意とする手法だった。
「ははは、やっちまえ! 〈ストーン・ゴーレム〉!」
「くっ! 魔眼よ、〈メドゥーサ〉!」
苦し紛れに〈メドゥーサ〉は魔眼の光を輝かせるが、ロンは余裕の笑みをますます皮肉気に吊り上げてその悪あがきを嘲った。
「石の巨人に、石化攻撃なんざ効くわけねぇだろ!」
〈ストーン・ゴーレム〉の強烈な一撃が、魔の精霊〈メドゥーサ〉を無慈悲に叩き潰した。
敗北を認めた少女はすっかり意気消沈してその場にしゃがみこんでしまう。その眼前に詰め寄ってロンは屈みこんだ。その姿勢から少女の顔を覗き込むように睨みつける。
「で、おまえらはどっから魔の召喚符を手に入れたんだ?」
その存在が禁忌とされた魔の存在を呼び出す召喚符は、一介の学生がおいそれと手に入れられるものではない。少女ははじめは口をつぐんでいたが、しゃべれば見逃すというロンの言葉を信じて魔の召喚符の出どころを話した。
「魔の召喚符を生徒たちに配っているのは、ルーカス教師よ」
ロンは名を挙げられた教師の狡猾そうな顔を思い出して、したり顔で笑みを浮かべた。
「そうか、裏で糸を引いてんのはあの野郎か」
ロンは逃げるように走り去る少女の背中を見送りながら、自らもその後を追うようにアカデミア校舎の方へとゆっくりと歩き出した。
会議室のなかは喧騒に満ちていた。生徒のなかに魔に属する精霊を使役する者たちが現れたことで教師たちは対策を講じるべくこうして召集された。試験の中止を訴える者や、魔の召喚符の出どころを突き止めるのを優先しようとする者の声が入り交じり、会議は混乱を極めている。
ジェクトは会議に参加するフリをしながら、それらの声をすべて聞き流して周囲の教師たちの表情を観察していた。沈痛な面持ちで押し黙っている学院長アウレリア、眉間にしわを寄せ教師たちと怒鳴り合うクレア教師、そしてヘビのように狡猾な顔を隠そうともしないルーカス。
(アーネやロンからの報告によれば、ヤツが黒幕のようだが……)
取り押さえた生徒たちから聞き出した情報によると、皆一様にルーカスが糸を引いたと口をそろえて証言した。
(ここで締め上げたところで、向こうも逃げ道は用意しているだろうな)
生徒たちの証言だけでは決定的な証拠とはならない。また生徒たちの方も自分が処罰を受けてまでルーカスをかばうとは、ルーカス自身も考えないだろう。事前に追及されることを予測していれば言い逃れのひとつやふたつは用意しているだろうとジェクトは考えた。
実際にジェクトの懐疑的な視線にさらされながらルーカスは余裕の笑みを浮かべている。生徒たちを使ったこの混乱は、次の一手への布石でしかないはずだ。
(まだなにか仕掛けてくるはずだ。そこでヤツの尻尾を掴む)
喧噪のなかでジェクトとルーカスが無言で睨み合う。
その時だった。激震がアカデミア校舎を揺るがせる。跳ね馬のように暴れまわる足元に教師たちはたまらず倒れ伏し、会議室のなかをより一層の混乱が襲う。
いち早く異変に気が付いたクレアは窓枠に取りすがり、そこから見える光景に戦慄した声をあげた。
「なによ、あれは……」
アカデミアの敷地内に忽然と巨大な精霊がその姿を現していた。校舎を襲った激震の正体は精霊がその巨躯を一歩踏み出すたびに巻き起こす地響きだった。
「あれは〈バジリスク〉か!」
その精霊の姿を認めてジェクトが愕然として立ち上がる。魔に属する精霊のなかでも最上位クラスの存在である魔竜〈バジリスク〉。忌まわしきその姿に背筋を冷たい汗が伝うのを感じる。
「まさかあれを、このアカデミアの校舎にぶつける気か!」
〈バジリスク〉は大仰な地響きとともに一歩、また一歩とこのアカデミア校舎に向けて進撃していた。明確な敵の出現に、混乱していた教師たちも平静さを取り戻してその脅威に立ち向かうべく駆けだそうとした。
その行く手を遮ってルーカスが立ちはだかる。
「邪魔立てはよしてもらおうか!」
ルーカスは素早く召喚符を取り出すと瞬きひとつのうちに魔の精霊を呼び出した。それはすべてが準備された動きだった。
ルーカスが学院長の手を無理矢理に引いて部屋から飛び出すと同時に、呼び出された〈ボックス・デーモン〉が結界を張り巡らせてこの会議室を外界と遮断する。突然のルーカスの裏切りに困惑したアカデミア教師たちは結界のなかに閉じ込められてしまった。
かろうじてその罠を抜け出せたのは、事前にルーカスの裏切りを察知していたジェクトだけだった。とっさに身体ごと扉にぶつかって廊下へと跳び出したジェクトは、ぐったりと動かない学院長を抱えあげて走り去るルーカスの背を見る。
(やつの狙いはなんだ……? 学院長の身柄か?)
ジェクトは自らの精霊を呼び出すための召喚符を構えながら、逃げるルーカスの背を追って走り出した。
逃げ惑う生徒たちの流れに逆らって、エンリケは校舎へと迫る〈バジリスク〉のもとへと駆けた。エンリケとて自分になにができると思ったわけでもない。だが校舎へと迫りくる怪物の姿を黙って見ていることなどできずに走りだしたのだ。
「こんな時に教師連中はなにやってんだよ!」
遠目にわずかばかりの生徒が無力な抵抗を試みている姿が見える。エンリケは毒づくが、ルーカスの策略によって隔離されてしまった教師たちのことなど知る由もない。
エンリケは校舎の前まで走りよると額の汗をぬぐって息を整える。見上げる〈バジリスク〉の巨体は馬鹿馬鹿しいほどに怪獣じみて、抵抗していた数人の生徒たちももはや無駄を悟って逃げ出していた。
〈バジリスク〉は感情のない瞳で辺りをぐるりと見渡すと、巨大な尻尾をはためかせてまた一歩を踏み出した。振り回された魔竜の尾が周囲の樹々を薙ぎ払い、その足音が爆音と激震をアカデミアの校舎へと響かせる。
エンリケの従える〈フェアリー〉とは比較にもならないほど強大な精霊が、いま眼前へと迫り来る。だがエンリケは震える脚を意志の力で押さえつけ、妖精を呼び出す召喚紋を描き出した。
(無駄なあがきだろうと、あがいてやるさ!)
呼びかけに応じて召喚紋の光のなかから〈フェアリー〉が現れる。仔猫ほどの大きさしかない非力な妖精は、それでもエンリケの闘志に応えて〈バジリスク〉へと立ち向かう意志を見せた。
「いつだって自分の無力さに抗ってきたんだ、俺たちは!」
その叫びを呪文にして生み出された真空の刃が飛んだ。しかし鋼鉄をも斬り裂くその鋭利な風の刃も〈バジリスク〉の全身を覆った毒々しい鱗に阻まれて弾かれる。魔竜は意に介した様子もなく平然と歩みを続ける。
「くそっ、〈風刃〉が通用しねぇのかよ!」
鋭利な真空の刃で相手の防御ごと斬り裂く〈風刃〉は、エンリケの扱える魔法のなかでも特に防御の堅い相手への対策を目的としたスペルだった。これが通用しないとなると、より大掛かりな上位魔法に頼らざるを得ない。だがエンリケの呼び出した非力な妖精たちだけではその発動のための時間を稼ぐのは難しかった。
歯噛みして必死に打開策を考えるエンリケに、横合いから落ち着いた声が掛けられた。
「無駄な抵抗は諦めなさい」
浅黒い肌の長身の男が〈バジリスク〉に追従するようにこちらへ歩いてくる。
「〈バジリスク〉は子供の敵う相手ではない。怪我をする前に君も避難した方がいいだろう」
諭すような口調で語りかけてくる。彼の口調はけして相手をあなどるわけでなく真摯にその身を案じたものだったが、かえってそれがエンリケを逆上させた。
「ハイそうですか、って引き下がれるような状況じゃねぇだろうが!」
怒りにまかせ破れかぶれに上位魔法の詠唱を始めたエンリケの姿を、〈フェアリー〉は不安げに見つめながらともに詠唱する。〈フェアリー〉はエンリケの冷静な判断力を信頼して彼に付き従っていたが、そのエンリケの最大の武器がいま失われていることに不安を覚える。
怒りに我を忘れたエンリケは、そんな〈フェアリー〉の眼差しにも気付けない。
「喰らいやがれッ!」
エンリケが使える最大威力の上位魔法、その効力を発現せんとしたまさにその瞬間。
「させないよ」
それに先んじて男の唱えた〈霊力奪い〉の魔法が発動してエンリケの霊力を奪う。全力をもって必殺の一撃を放たんとしていたエンリケは無防備にその効果を受けてしまい、上位魔法の発動のために解放した霊力のほとんどを男に奪われてしまう。
エンリケの切り札は不発に終わり、自身の霊力すらほとんど使い果たしてしまった。
(やられた……!)
打つ手を失ってエンリケは呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。忌々し気に男の顔を睨みつけるが、相手は涼しい顔で悠然と〈バジリスク〉を従えて歩いてくる。
瞬間、立ち尽くすエンリケの横をすり抜けて小さな影が飛び出してきた。
「なにやってるのよ、エンリケ!」
飛び出した影の正体はリタだった。
リタは高らかに〈パラディン〉の召喚符を天に掲げ、迫り来る〈バジリスク〉の威容にもまったく怯んだ様子もなく名乗りをあげた。
「召喚士リタの名において命ずる! 〈パラディン〉よ、我が元に来たれ!」
少女の宣言に召喚紋が開かれ〈パラディン〉が姿を現した。やわらかな白金の髪を風にたなびかせた少女は、白銀の騎士を従えて堂々と立っていた。
対峙した男の顔にどこか面白がるような驚愕の色が広がる。
「その歳で〈パラディン〉を従えるか、お嬢さん」
「お嬢さんじゃないわ! 〈パラディン〉使いのリタよ!」
感嘆を込めた男のつぶやきに対して、即座にリタは胸を張って答えた。エンリケはそれが少女の精一杯の虚勢だと見抜いていたが、同時にそれはリタにとって譲れない誇りであることも知っていた。
「これは失礼をした。それではこちらも名乗らねばなるまいな」
堂々としたリタの名乗りを受けて、男もまた自らの手にした召喚符を高々と掲げて宣言した。
「私は解放者、アラン=ゾルダート! 〈バジリスク〉の使い手だ!」
お互いに名乗りをあげて使役する精霊の名を告げる。古風な決闘の様式に、知ってか知らずかアランは合わせてくる。
リタは緊張した面持ちで〈パラディン〉を一歩前へと踏み出させた。だがこのままでは万にひとつもリタに勝ち目がないことは明らかだった。必死に震えを抑える少女の小さな肩を、エンリケは見つめていた。
「俺は、〈フェアリー〉使いのエンリケだ!」
吹っ切れたように吼えるエンリケの声に。リタが驚愕に目を丸くし、アランが面白がるように薄く笑う。そして〈フェアリー〉が信頼の眼差しを向けて微笑んだ。
「そっちが吹っ掛けてきたケンカだ! 二対一でも文句はねぇよな!」
猛るエンリケの怒声にもアランは涼しい顔で頷いた。
「勿論だとも。ではお二方よ、いざ尋常に勝負といこうか!」
アカデミアの中庭を抜けたその先に荘厳な礼拝堂がある。気を失ったままの学院長を抱えてルーカスはそのなかへと逃げ込んでいった。
その後を追ってきたジェクトは礼拝堂の扉を押し開けようとして、思いとどまり外から礼拝堂のなかの様子を窺った。ルーカスの裏切りは明白となったが、その理由までは依然として闇のなかだ。ジェクトはルーカスの目的を確かめるためにいま少し泳がせることを選んだ。
礼拝堂のなかからは学院長の体が床へと投げ出される音が聞こえてくる。その衝撃で彼女も目を覚ましたようだった。
「……っ! ルーカス教師! いったいなぜこのようなことを?」
アウレリア学院長の詰問の声が響く。対するルーカスは込み上げる笑いを抑えるような声で答えた。
「我々は解放者だ。我々の目的はただひとつ、魔の〈異界渡り〉をこの世界に解放すること」
ルーカスの言葉にアウレリアは息を呑む。
それははるか遠い昔から語り継がれた神話だった。この世界とは別の次元、精霊たちの住む異世界から次元の壁を越えて世界を渡り歩く〈異界渡り〉たち。彼らの存在こそが異なる世界同士をつなぐ召喚術の要となっていると。
その〈異界渡り〉たちの間で戦争が起きた。この地の支配権をめぐり聖霊鳥〈アルカトル〉と魔人皇〈カボル=ドゥガ〉は他の〈異界渡り〉たちをも巻き込んで激しく争ったという。その結果として、争いに敗れた〈カボル=ドゥガ〉はこの世界とのつながりを断たれ、現在に至るまで魔に属するものを召喚することが禁忌とされたと伝えられている。
「魔人皇の封印を解き、魔の復権を行うことこそ我々の悲願だ!」
ルーカスは高らかに笑う。その瞳の色は狂気に染め上げられていた。
「そのようなおとぎ話を真に受けるとでも?」
アウレリアはその言葉を一笑に付そうと気丈な態度を見せたが、震える声音までは隠せていなかった。アウレリアの虚勢を見破ったルーカスはその態度を鼻で笑った。
「理解を得ようとは思っていないよ。我々はただ魔人皇の存在を封じる鍵、それさえ手に入れられればいい」
ルーカスは不遜な笑みを浮かべ、そして懐から召喚符を取り出した。手にした召喚符がか黒い輝きを放って召喚紋を描き出す。
「その鍵を握るのはお前なんだろう? 聖女アウレリア!」
聖霊鳥〈アルカトル〉への祈りを捧げるための礼拝堂に、邪悪なる魔の精霊がその漆黒の翼を広げた。誰もが思い描く悪魔そのものの容貌をした〈バフォメット〉は聖なる気の満ちた礼拝堂のなか不快気な雄叫びをあげた。
「そこまでにしてもらおうか!」
意を決して礼拝堂へと飛び込んだジェクトが精霊を解き放つ。闇に抗うように炎の精霊〈イフリート〉がその身を赤々と燃え上がらせる。
相手が反応するよりも早く、〈イフリート〉はその燃え盛る拳を振りかざして駆けた。
「やれ、〈バジリスク〉!」
「くっ……!」
〈バジリスク〉がその見上げるほどの巨体で踏み潰しにかかるのを、〈パラディン〉が構えた大盾でかろうじて受け止めた。屈強な〈パラディン〉の全身の筋肉が軋み、悲鳴をあげる。押し潰される寸前でなんとか魔竜の脚を横へと弾いて身をかわした。
(まだだ……あわてるな!)
〈霊力奪い〉によってほぼすべての霊力を削られたエンリケは、焦燥感をむりやり押さえつけて逆転の機会をうかがっていた。残りわずかな霊力で放てるスペルは一撃が限度。その一撃でリタを支援して勝たせなければならない。
「今度はこっちの番!」
〈パラディン〉が転がるように〈バジリスク〉の足元から抜け出したのを見てリタが声を上げる。
「全力で攻撃よ、〈パラディン〉!」
もとよりリタには小細工を弄するような余裕はない。一撃に全身全霊を掛けた真っ向勝負だけが彼女の唯一の戦術だった。
地を蹴って〈パラディン〉が駆けた。天空へと大剣を掲げ、待ち受ける魔竜へと一直線に。
「迂闊だな!」
アランが余裕の笑みを浮かべてその手をかざす。渾身の一撃を放つべくただ全力で真っ直ぐに走る〈パラディン〉の姿を、感情のない〈バジリスク〉の眼がじっと見つめていた。
「受けるがいい、魔竜の眼光を!」
叫ぶアランの声に、〈バジリスク〉の真紅の眼が光を帯びて妖しく輝く。相対する者を石と化す魔竜の眼光が〈パラディン〉を迎え撃つべく閃いた。
(いまだ!)
エンリケはこの瞬間を待っていた。
「詠唱、〈霧〉!」
残されたすべての霊力を込めてスペルを放つ。
発動したスペルは周囲一帯を真っ白な霧で包み隠して〈バジリスク〉の魔竜の眼光を無力化した。白くかすんだ視界に〈パラディン〉の姿を見失い、魔竜は憎々し気な咆哮をあげて辺りを震わせる。
「なるほど、考えたな少年! だが魔竜の眼光を封じらたところで、〈バジリスク〉の防御を越えられるかな!」
霧のなかでアランの叫ぶ声が響く。だがエンリケは一切構わずに、〈霧〉のスペルへと精神を集中させ続けていた。
「俺の作戦は、ここからが本命だ!」
周囲一帯を覆っていた霧がゆっくりと流れる。ある一点へと収束するように霧が集められていった。それは駆ける〈パラディン〉の構えた大盾へと集約され、白銀の表面を薄く張った水で覆われた大盾は、光を反射する水鏡の盾へと変わる。
魔眼の光を輝かせた魔竜は、その水鏡の盾のなかに己の忌まわしき眼光を見た。
「なんだと!?」
はじめてアランが動揺を見せる。鏡面に己の魔眼を見た〈バジリスク〉はその身に自身の魔力を受けて、身の毛もよだつ末期の悲鳴を叫んだ。その脚が、その顔が、見る間に石へと変わっていく。
その巨体を石へと変えた〈バジリスク〉は、一個の巨石となった頭部に〈パラディン〉の一撃を受けてばらばらに砕け散った。
使役する精霊の最期を見届けて、アランが勝者へと気のない拍手を送る。
「見事だ。まさか〈バジリスク〉が予定よりも早く倒されるとはな」
「負け惜しみって訳かしら!」
微笑みを崩さないアランを相手にリタが勝ち誇っている。だがエンリケはアランの態度に不気味さを感じていた。
(予定よりも……?)
エンリケの懸念に応えるように、無数の石片と化した〈バジリスク〉の亡骸から濃緑色の煙がくすぶりだした。
「〈バジリスク〉の亡骸は、その周囲を蝕む猛毒の霧を放つ! 地に満ちよ、腐蝕する怨嗟よ!」
「まずいっ!」
猛毒の霧に飲まれて〈パラディン〉が倒れるのが見えた。エンリケは状況が呑み込めずに困惑するリタの手を引いて駆けだす。猛毒は地面を伝ってじわじわと辺り一面、アカデミアの敷地内を魔毒の領域へと侵食していく。
「さらばだ、エンリケ! リタ! 機会があればまた相見えよう!」
高らかに叫ぶ声だけを残してアランが毒霧の向こうに姿を消していく。エンリケはただ歯噛みしてその姿を見送るしかできなかった。
礼拝堂はその雰囲気に似つかわしい静寂に包まれていた。
「そんな、バカなことが!」
その静寂を破ったのは呆然とつぶやくルーカスのうめき声だった。激しい戦闘の末にルーカスの〈バフォメット〉はジェクトの〈イフリート〉に敗れ、その姿を礼拝堂のなかから消していた。
「魔の扱いは不慣れなようで」
ジェクトは憐れむように静かに告げた。その背に隠れたアウレリアはなにもいわず、ただ悲しげな眼をルーカスに向けている。
「う、うるさい! その女をこちらへ渡せ!」
逆上したルーカスがその手を伸ばして飛び掛かるが、ジェクトの〈イフリート〉が間に入り行く手を阻む。全身を炎に包まれた精霊とまともにぶつかり、ルーカスは苦悶に顔を歪めながら地を転がった。
「なぜそんなにも魔の者たちに肩入れするのですか?」
半身に手ひどくやけどを負ってのたうつルーカスの憐れな姿に、アウレリアは哀しげな瞳を向けた。ルーカスは怨念のこもる眼差しでふたりを見返して叫んだ。
「わたしには聖都で暮らす弟がいた。だが弟は、一方的な嫌疑をかけられて騎士団に私刑を受けた! あの純朴な弟がそんなことをするはずがないというのに!」
地を叩き、胸をかきむしりながらルーカスは嗚咽混じりに叫び続ける。騎士団とて軽率に処罰を行うはずもなく、事の真偽など本当のところはルーカスにもわからなかった。だがその胸のうちに宿った憎悪の炎だけはルーカスが確かに信じられる唯一のものだった。
「なにが聖なる都だ! なにが聖都騎士団だ! こんな聖なるものに支配され、それに恭順するだけの世界など!」
そこで息を詰まらせ、天を仰ぐ。暗い礼拝堂の天井を無言で見上げる。その視線の先にはステンドグラスで象られた聖霊鳥〈アルカトル〉の姿があった。
ゆっくりと振り向いたルーカスの顔には壮絶な笑みが貼り付いていた。
「壊れてしまえばいい」
その引きつった笑顔の中心に、音もなく飛んだ白刃が突き刺さった。
「何者だ!」
ジェクトは白刃が飛んだその方向へと視線を送るが、そこにはすでに誰の姿もない。飛び去っていく精霊の羽音だけを残して犯行者は手の届かぬ上空まで逃げ去っていた。
歯噛みして引き返しルーカスへと近付くが彼はすでに息絶えていた。流れ落ちる血が涙のように、笑うルーカスの死に顔を彩っている。
「口封じということか」
ジェクトは物言わぬルーカスの遺体をそっと横たえる。アウレリアはなにも言わず、ただ目の前の哀れな遺体へと黙祷を捧げていた。
気が付けば断続的に鳴り響いていた〈バジリスク〉の足音もいつの間にか消えている。
「あちらも片が付いたようだな」
静寂の訪れた校舎の方へと視線を送り、ジェクトは疲労のにじんだ目元にそっと手を当てる。もう若くない体は休憩を求めて悲鳴をあげているが、戦闘が終わったとしてもまだやることは残っている。
血に染まった礼拝堂に背を向けてジェクトはアカデミアの校舎へと歩み出した。
ジェクトがアカデミア校舎の方へと足を向けると、その姿を認めたアーネが駆け寄ってくる。
「暴動に加担した生徒たちは鎮圧し、各々の教師に引き渡しました」
「そうか。ご苦労だったな」
ジェクトは優秀な生徒からの報告に満足気に頷きを返す。アーネは状況を簡潔にまとめて教師へと報告した。
「解放者の主戦力だった〈バジリスク〉はエンリケとリタが撃退してくれました。ただアラン=ゾルダートと名乗る召喚術士は取り逃し、〈バジリスク〉の放った毒でアカデミアの校舎は半壊、負傷者も多数出ています」
淡々と報告していたアーネの表情が曇る。解放者の撃退と彼らの目的であったアウレリア学院長の身柄を守ることこそできたものの、アカデミアが受けた被害は甚大だった。
「宿舎の方が無傷だったのが不幸中の幸いでした。負傷者はそちらに運ばれて、治癒や解毒の可能な者が治療にあたっています」
「そうか」
アカデミアの学舎としての機能こそ失われたものの、人的被害はまだ取り返しのつく範囲で済んでいたことを聞いてジェクトは胸をなでおろした。
そこへアウレリア学院長が蒼白な顔をして追いついてきた。顔色こそ血色が失せていたものの、しっかりとした足取りで立ちアーネからの報告を聞いてしばらく考え込む。
「解放者を名乗る者たちの狙いは、私の持つ魔を封印する鍵です。私は聖都へ向かいましょう」
アウレリアの言葉にジェクトも同意する。
「聖都騎士団へ連絡を取り、助力を得るのがいいでしょうね」
「はい。それに聖都には私の父が教主を務める聖堂教会があります。私はそこに庇護を求めようと思っています」
今後の方針を取り決めてジェクトはすぐさまアーネへと指示を出す。まだ戦える者たちのなかから学院長を聖都まで護衛するメンバーの選出をアーネへと任せ、ジェクトは夕焼けに染まるアカデミアの姿を振り仰いだ。
解放者たちとの戦い、その始まりの一日がようやく終わりを迎えようとしていた。