幼なじみは毎日俺を噛む
「修君朝だよ起きて」
呼ばれた声で覚醒した。この声の主は幼なじみの今日子だ。一緒に登校しようと俺の家まで来て、母さんに寝ている俺を起こしてきてくれとでも頼まれたのだろう。
「……もうちょっと寝させてくれ」
昨日は夜遅くまで友達とゲームをしていたせいで非常に眠いのだ。いつも今日子は余裕をもって迎えに来るからもう少し寝ていても時間的に問題はないと思う。
「修君起きようよ」
今日子が今度は俺の体を揺らして起こそうと試みる。ただ非力な今日子の力では俺を完全に起こすには至らない。
「こうなったら最終手段しかないね」
今日子の表情は寝ている俺からは見えないが、その声色から笑っているのではないかと思えた。なんだか嫌な予感がする。いい加減に起きようかと思った瞬間首に衝撃が走った。今日子が俺の首元を軽く噛んできたのだ。勢いよく目覚めた俺は今日子を引っぺがしてベッドの壁側に逃げるように移動した。
「朝はもう噛まないって先週約束しただろ」
眠くて忘れていたが先週も似た展開があったばかりだ。こんなに早くまた同じ目に遭うとは。
「修君が起きないからでしょ。そんな無防備にしていたら噛んじゃうよ。はい、ウエットティッシュ」
とんでもない暴論な気がするがずっと起きない俺が悪いという点においては認めたくないが一理ある。朝から正当性を主張するのも面倒なのでさっさと謝ってしまおう。俺は貰ったウエットティッシュで首の噛まれた箇所を拭きながら口を開いた。
「悪かった。明日からちゃんと起きるからお前も噛むなよ」
「どうしようかな」
「おい」
謝り損である。それなら頑張って早く起きる意味がない。不満げな表情を作っていると俺の方を見て今日子が笑みを浮かべた。
「冗談だよ。起きてくれるなら次から朝は我慢します」
「頼むからそうしてくれ」
一騒動を終えた俺は今日子と共に母さんの待っているだろうダイニングに向かった。
「お、修。今日も朝から赤上さんと登校か。相変わらず熱いな」
今日子と登校し教室の自分の席に座ると友人である宗助がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「お前も毎日毎日それ言って飽きないのか?」
「飽きてたらもう止めてるよ」
「何が面白いんだか」
中学2年で俺と今日子の関係性を知って以来宗助はずっと俺をいじってくる。そのうち別々のクラスや学校になり自然に離れるだろうと思っていたが、高校2年になった現在でも宗助とは同じクラスだ。所謂腐れ縁と言ったものだろう。
「小さい頃から高校までずっと続いている幼なじみとか絶滅危惧種だろ。しかもそれが男と女っていうなら尚更」
そんなものだろうか。確かに俺たち以外の幼なじみの男女の話はあまり聞かないかもしれない。そもそも俺には聞く相手がそんなにいないのだが。
「なんでもいいけど今日子にはあまりちょっかいかけるなよ」
「はいはい。言われなくても赤上さんには何もしませんとも」
「だったらいい。それで昨日のクエストの事だけど……」
俺たちの話題は昨晩遅くまで一緒にやっていたゲームの方へと移っていった。
「修君帰ろ」
授業が終わりリュックに教科書やノートを入れていると今日子に声をかけられた。
「今日は用事ないのか?」
優等生である今日子は先生や他の生徒に頼られており放課後でもそこそこ頻繁に頼みごとをされる。そのため今日子が用事を済ますのを待ったり手伝ったりすることも少なくない。
「今日は大丈夫。だから帰ろ」
「分かった」
リュックに残りの荷物を詰め俺は今日子と帰路に着いた。
今日子と雑談しながら歩いているとあっという間に俺の家まで到着した。
「じゃあまた明日な今日子」
俺は家に入ろうとしたが、それは今日子に腕を掴まれたことで阻止された。
「修君まだ時間あるよね。今日も修君の家寄っていいかな?」
「良くないって言っても聞かないだろ」
えへへと笑いながら今日子が頷く。俺は持っていた鍵を使って家のドアを開けた。
「母さんたちが帰ってくるまでだからな」
「もちろん分かってるよ」
本当にこの幼なじみは理解しているのだろうか。一抹の不安を覚えながら俺は今日子と一緒に2階にある俺の部屋へと上がっていった。
部屋に着いた俺は胡坐をかき、今日子はその近くで足を崩して座っていた。今日子から話しかけてくる様子がないので俺の方から仕方なく俺から聞くことにする。
「で今日は何処がいいんだ?」
「明日体育ないから好きな所噛んでもいいよね。だったら……やっぱり肩がいいな」
体育で着替える時に噛み痕を他の奴に見つけられると誤魔化すのに骨が折れる。そのため体育がある日の前日はなるべく目立たない所に甘噛みさせているのだが、今日は遠慮なく噛んできそうだ。
「分かった」
制服のボタンに手をかける。制服、ワイシャツ、Tシャツ1枚1枚脱いで周りに放っていく。一応念のため弁解しておくと俺だって好きで毎回脱いでいるわけじゃない。この狂犬お嬢様が直噛みしたいと頼み込んでくるからこちらが折れているのだ。
「準備出来たぞ。ウエットティッシュくれ」
「噛む前は使わなくていいでしょ?」
「今日子が匂い嗅いでくるから綺麗にしときたいんだよ」
「そしたら修君の匂い消えちゃうかもしれないし……」
今日子も譲る気はないらしい。しょうがないのでいつも通りこちらが諦めることにする。
「……分かった。ただ汗臭くても文句言うなよ」
普段から汗拭きシートを使っているからそこまでひどいことにはなっていないとは思うが。
「もちろんだよ」
今日子はパッと明るく笑い俺の方に近づいてくる。そして胡坐をかく俺の上に乗ってきた。いつもの距離感だが未だ慣れることはなく心臓の鼓動がうるさい。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか今日子は俺の肩に勢いよくかぶりついてきた。
明日多少痕が残ってもいいと考えているからか今日の噛む強さはいつもよりちょっと強めだ。ただ食いちぎられるほど痛いわけでもなく甘噛みより多少強いくらいだ。おそらく痕は明日まで残らないだろう。噛まれている最中は手持ち無沙汰なので今日子の頭を撫でていた。10分程そうしていると満足したのか今日子は恍惚とした表情を浮かべながら俺の肩から口を離した。
「満足したか?」
「うん、ありがとね」
貰ったウエットティッシュで肩を拭いた後、服を着なおした。
「この後どうする何か見るか?」
日課が終わった後の今日子の行動は様々だ。一緒にアニメ見たりゲームしたり漫画読んだり課題をしたり試験勉強したりそのまま帰ったり。
「今日はお母さんの料理手伝うって言ってきたから帰るね」
「分かった。送ってく」
「別にすぐ近くなんだから大丈夫なのに」
今日子が言う通り、今日子の家は俺の家の3つ隣で帰るのに心配はいらない距離だ。
「一応だよ。それに母さんにばれたら怒られるし」
小学生の頃、俺の家に来た今日子をそのまま帰したら母親にちゃんと家まで送りなさいとこっぴどく怒られた。それからは多少面倒くさくても今日子を家まで送るようにしているのだ。
「修君は相変わらずお母さんに弱いね」
「言ってくれるな。ほら用があるならさっさと帰るぞ」
はーいと返事をする今日子を家まで送り届け、戻った俺は自分の部屋のベッドに寝ころんだ。そして今日子が俺を噛むきっかけになった出来事を思い出していた。
それは俺たちが中学生2年の時だった。今日子には2つ上の姉がいてその姉は大変出来が良かった。教師や学校の奴らから、その姉と比較されることで当時の今日子は非常に苦しんでいた。必死に勉強や運動を頑張っていたが中々成果が出なかった。そのストレスからか髪はボサボサ爪や肌はボロボロ、腕にも噛み痕があり正直見ていられなかった。
当時の俺はそんな今日子に『自分を噛むくらいなら俺を噛め。自分をそれ以上痛めつけるな』と方向性がよく分からないアドバイスをした。すると今日子は泣きながら俺の肩に噛みついてきた。その時は割と本気で噛んできたので正直凄く痛かったがこれまでの今日子の痛みを思って我慢した。
そこから今日子は辛いときや苦しいとき俺に噛んでいいか聞いてくるようになりその度におれは許可を出した。俺を噛むとヒーリング効果でもあるのか今日子は段々元気になっていった。髪や肌、爪も綺麗になり腕にあった噛み痕も消えた。性格も明るい性格に戻り、勉強も努力が実り優等生として扱われるようになった。運動は相変わらず苦手だったが楽しそうに取り組むようになった。
俺はお役御免と思い今日子の周りに人が増え始めた時点でその元から去ろうと考えた。だがその目論見は他ならぬ今日子の手によって止められた。今日子曰く、俺を噛まないと不安を覚えるようになってしまったのでなるべく痛くしないからある程度の頻度で噛ませて欲しいとのこと。
こちらとしても噛めと言ったのは俺なので責任を取るため今日子の提案を了承した。当時の俺は今日子がそのうち安定してこの関係も終わると思っていたのだ。だが、その考えに反して噛み噛まれの関係性は終わることなく、1週間に1回だったものが3日に1回になりしまいにはほぼ毎日今日子は俺を噛むようになった。
今の関係性が酷く歪であることは理解している。ただ俺が噛むことを拒絶してしまったらまた今日子は昔のようになってしまうのではないか。俺はそれを今でも恐れている。
「最近赤上さんとの関係はどうなんだ?」
翌日、俺が昼食を食べ終わって暇を持て余していると宗助が声をかけてきた。
「どうもこうもただの幼なじみで変わらないよ」
「ただの幼なじみは噛んだり噛まれたりしないだろ」
急いで周囲を確認する。どうやら俺たちの会話に聞き耳を立てている奴はいないようだ。
「心配するな。誰も聞いてない」
宗助は俺と今日子の裏の関係を知る数少ない人物だ。中学の頃まだ噛み加減を覚えてない今日子に付けられた噛み痕に気づき詰め寄ってきた。本人的には俺が家や学校の知らない所でいじめられてないか心配だったらしい。俺は観念し全ての事情を宗助に伝えた。最初は戸惑っていたが俺が覚悟の上で噛まれている事を知るとしぶしぶ納得し、他の人には秘密にしてくれた。
「今更だけどお前と赤上さんそんじょそこらのカップルよりも過激なことやっている自覚ある?」
言葉に詰まる。宗助が言う通り俺と今日子の関係性は健全とは言えないような気がする。
「……まあ」
「分かってるならいいわ。最初の質問に戻るけど赤上さんとの関係に発展はないの?」
「ないって言っただろ。こちとら10年以上この関係だぞ」
「つまんねえな。お前も告白したいとか思わないわけ?」
予想しなかった言葉に思わずむせそうになった。
「なんで急に告るなんてことになるんだよ」
「もう俺たち高校2年だぞ? いい加減彼女の1人や2人欲しいだろ」
「2人はいらない」
「なら1人は欲しいんだな」
意地の悪い返しをしたつもりだったが、逆に揚げ足をとられてしまった。
「そりゃ彼女作りたくないって言ったら嘘になるけど……」
「そしたらお前の場合、赤上さんに告白するのが1番確実で手っ取り早いだろ」
「今日子は今まで告白全部断ってるぞ」
これは事実だ。優等生で綺麗で明るい今日子はそれなりにモテる。週に複数回告白されることも珍しくない。だがその度に今日子は告白を全て断っていた。
「知ってる。でもお前なら受け入れてくれるかもよ。自分を助けてくれた恩人なんだから」
「恩着せがましいだろそれ。俺は噛ませてることを恩なんて思ってない」
「えらく頑なだな。修は赤上さんのこと好きじゃないのか?」
「好きかと言われれば間違いなく好きだけど……。それが友達としての友情なのか家族としての愛情なのか、或いは恋愛感情なのかは分からない」
好きでもない相手に毎日噛ませてやるほど俺はお人よしではない。ただ、俺が今日子のことをどう思って噛ませているかは上手く言語化出来そうもない。
「随分難しく考えてるな。好きなら告白しちゃえよ」
「そんな単純に考えられるか」
「高校生同士の恋愛だしそれくらい分かりやすくていいと思うけどな。それに赤上さんモテるんだからそうやって悩んでるうちに知らない誰かと付き合うかもよ」
宗助の意見にも一理ある。これまで告白を断ってきたからといって、今日子がこれからも誰とも付き合わないとは限らない。そのとき俺は素直に今日子を祝福できるだろうか。俺は自分の中にモヤモヤした何かがある事を感じながら、昼休みの残り時間を宗助の好みの女性像を聞くことに費やした。
放課後、俺は今日子と2人帰路に着いていた。特に話すこともなく歩いていると今日子が意を決したように口を開いた。
「修君、昼休み向田君と何話してたの?」
思わずギョッとした。まさか宗助との会話を今日子が聞いているとは思わなかった。最初確認したときはこっちを見ていなかったので、話の途中から聞き始めたのだろう。誤魔化しても無駄だと思った俺は白状することにした。
「そろそろ彼女作りたいなって」
「修君彼女欲しいの?」
「欲しいなとは思う」
「修君気になっている子いるの?」
答え方に困る質問だ。本人の前で君のことを気になっていると言うのは正直恥ずかしい。それはほぼ告白ではないだろうか。
「いる」
顔に血が集まっているのが分かる。今頃俺の顔は真っ赤に見えている事だろう。ふと気になって今日子の方を見ていると、俺とは逆に顔から血の気が引いていた。
「どうした今日子。顔真っ青だぞ」
「……大丈夫。それより今日も修君の家寄ってもいいかな?」
「いいけど」
その後、俺の家に到着するまで今日子が再び口を開くことは無かった。
俺の部屋まで来ると今日子はベッドの縁に腰かけた。いつもは床に置いてあるクッションに座っているのに珍しい。今日子は俺をベッドの方まで誘導してきたので俺もベッドの上に座り胡坐をかいた。
「それで今日は何処にするんだ?」
「その事なんだけど……。今日は上全部脱いでベッドに寝てくれないかな?」
「うん? まあいいけど」
なぜ噛む箇所を言わないのかは疑問だったが俺は服を脱ぎ捨てベッドの上に寝た。
「これでいいか?」
「うん、いいよ。ありがとう」
そして小さな声で『ゴメンね』と聞こえたのと同時に左肩に激しい痛みが走った。
「いっ」
馬乗りになった今日子が俺の肩を力いっぱい噛んでいるのだと分かった。こんな強さで噛まれるのは最初の時以来、或いははじめてかもしれない。抵抗すれば引きはがせるかもしれないが引きはがそうとは思わなかった。引きはがしてしまえば壊れてしまいそうなほど今の今日子は脆く見えた。
激痛に耐えること数分、今日子の噛む力が弱まってきた。俺も余裕が出てきたのでいつものように今日子の頭を撫でた。更に数分後、今日子は泣きじゃくりながら俺の肩から口を離した。そして俺に目を合わせて話しかけてきた。
「どうして修君はいつも私を受け入れてくれるの?」
確かに事の発端は俺の発言にあるとはいえ、律儀に数年に渡って噛まれ続けるのはまあまあ正気の沙汰じゃない。なぜ俺は今日子を拒めないのか。
「お前の事好きだからじゃないか」
今何て言った俺? 今日子の方を見ると信じられないものを見ているかのような表情をしている。
「……好きって言った?」
「ああ」
「ほんとに?」
そう聞く今日子は今にもまた泣き出しそうだ。
「嘘じゃない」
自分でも口に出すつもりはなかったが、昼に宗助に話した通り今日子が好きである事に偽りはない。
「私いつも修君を噛んで傷つけてるよ」
「分かってる」
気にしていたのか幸せそうに噛んでくるから気が付かなかった。今でも今日子は俺の知らない所で苦しんでいたのか。
「私嫉妬深いよ」
「そうなのか?」
「修君が女の子と仲良くしてた日はわざと強く噛んでたの」
たまに強く噛まれる日があることには理由があったのか。俺鈍すぎないか。
「知らなかったけどそれで嫌いにはならない」
今日子が俯く。その頬には赤みがさしているように見える。2人の間に沈黙が流れる。しばらくすると今日子が決意したのか口を開いた。
「修君のことが好き」
今度は俺が驚く番だった。真っ赤な顔で言われるとインパクトが半端じゃない。
「俺が噛ませてるからそう思うだけだ」
「それだけじゃないよ。私が噛むとき優しく撫でてくれる修君が好き。こんな私を受け入れてくれる修君が好き。昔から私が辛いとき助けてくれる修君が好き」
「分かった、分かったから」
そんなに好きを連打されたらこちらの心臓が持たない。
「だから……。私と……」
「ちょっと待って。そこから先は俺から言わせてくれ」
今日子の言いたいことはなんとなく分かったがそれはこちらから先に伝えたい。今日子は戸惑っていたが頷いてくれた。
「今日子お前が好きだ。俺と付き合ってくれ」
「……はい」
こうして俺と今日子の関係性は新しい1歩を歩み始めた。
翌日、体育の後着替えていると俺の肩を見て宗助が声をかけてきた。
「修、噛み痕残ってるぞ」
急いで着替える。周りを見たが他に視線は感じない。
「すまん、油断してた」
「まあいいけど。久しぶりだなそんな噛み痕残ってるの」
「色々あってな」
「過激な幼なじみだな」
「それは少し違う」
宗助が不思議そうに首を傾げる。
「ちょっぴり過激な彼女だ」
そう言った時の宗助の驚いた顔は中々見物だった。