もっと遊ぼうよ。
『それじゃ、あとは「ここ」から出ようか』
私の内側に戻って来た彼女の声が、頭の中に響いている。
「出られる、の?」
散々逃げ回って来たが、同じような街並みが続くばかりで、どこかに出口があるとは思えなかった。
『この空間はあの怪物が作り出した物だから。もちろん、私もその一部を担っていた。私があいつの一部じゃ無くなった事で、僅かだけど綻びが出来てるの。そこからなら、きっと』
「でも、どうやって?」
さっきまで背中を預けていた塀の向こうを背伸びで覗き込んで、路地の様子を伺いながら言葉を返す。
『「綻び」のある場所は私が分かるから、そこまで案内する。後は、その綻びからあなたが直接、この空間を破壊するの』
「……出来るかな?」
『大丈夫、私が付いてるから』
今はその言葉が、他のどんな言葉よりも心強く思えて、それに背を押されるように塀を乗り越える。
『気を付けて。私があなたと一緒にいることで、あいつから気付かれ辛くはなっているけど、それでも何となくの位置くらいは分かってるはずだから』
「わかった」
心の内に言葉を返して、続けて質問する。
「こっちからあいつの場所が分かったりはしないの?」
『ごめん、流石にこの空間への影響力はあいつの方が強いから。けど、近くにいる時は感知出来ると思う』
「ううん、ありがとう。あいつが近くに来たら教えてね」
『任せて。……待って、あいつが近くにいる!』
その言葉に、嫌でも体が硬くなる。
震えそうになる声を抑え込むように、ゆっくりと言葉を押し出す。
「どっちの方にいるの?」
『方向までは……。けど、まだそこまで近くはない。今の内に「綻び」を目指そう』
私は一人頷いて、彼女の示す方向へと足を進める。
なるべく大きな音を立てないように、それでも出来る限りの速足で路地を縫うように歩いていく。
『だんだん近づいてきてる』
少女が言ったのとほぼ同時。
「……コに……ルノ……?」
微かにあの声が聞こえる。確実に近づいてきている。
『「綻び」もそんなに遠くは無いよ。でも、あいつにもそれが分かってるからこの近くで見回っているのかも。慎重に行こう』
左右に道が分岐した丁字路に行き付く。顔だけを出すようにして、そこに目玉がいないことを確認し、路地を右に折れる。
「ダイじょうブ、痛クしナイかラ」
声が近くに聞こえる。
しかしその声は、トンネルの中にでもいるかのように反響し、どこから聞こえてきているのか判断が出来ない。
『今は、左の方にいるみたい』
心の内から聞こえてくる声が教えてくれるが、不運にも私が目指している方向もそっちの方だ。
『だけど、今は左後ろの方に向かって移動してる』
それなら、今の内に左方向に曲がってしまうべきだろうか。迷っている時間が勿体ない。
次の曲がり角を左に曲がる。
これで目標地点は右前方。彼女の情報によれば、距離はもう少し。
「コッチの、方カナ?」
発信源を特定させない声が響き、
『え、嘘……?』
少女の言葉に「どうしたの?」と問い返すと、
『位置が、急に変わったの。今は右の方にいる』
瞬間移動まで出来るのか。焦っている間もなく、少女が続ける。
『まっすぐ、こっちの方に向かって来てる……!』
「そんな……っ!」
向こうからこちらの位置は正確に把握できていないはず。当てずっぽうだろうか?
そんな事を考えている余裕はない。
「どっちの方から来るか、もう少し細かく分かる?」
『え、えっと……右斜め前だよ!』
「わかった……!」
声を押し殺しながら答えて、私は目の前の路地を右に曲がる。
あの怪物がさっきまで私がいた位置にまっすぐ向かっているなら、建物をすり抜けて移動してくるはず。上手く移動すれば、すれ違うことも出来るかも。
『今は真左、後ろ方向に移動してる。かなり近いよ』
頷きを返しながら、音を立てないように歩を進め、次の角を左へ差し掛かる。
心臓に圧し掛かる重暗い感覚。
自然と足を前に踏み出す速度が上がる。
角を曲がり切る。
これで、あいつの追跡からある程度逃れられるはず。
『うん、今は……えっ?』
ホッと胸を撫でおろそうとしたところで、彼女の言葉が途切れる。
そして代わりに『声』が聞こえる。
「ココだヨ……?」
私の、真後ろから。
『走って!!』
胸の内から響く声に突き動かされて、バネのようにその場から飛び出す。
『「綻び」は二つ先の曲がり角を右に曲がったとこだよ!』
「待ってヨォ……!」
足が絡まりそうになりながらも、必死で前に体を押し出していく。
「もッと……遊ボウよ」
二つ先の角を右に曲がる。
少し進んだ先に、虚空に浮かぶひびのようなものが見える。そこからは眩い光が漏れ出していた。
『あれが「綻び」だよ!』
手を後ろに伸ばせば届きそうな距離で追ってきている瞳を振り切るように、最後の力で全力疾走する。
怪物を数メートル引き離す。
「逃がサ、なイ!!」
『綻び』まで、もう少し。
『頭を下げてっ』
声に従って、反射的に頭を下げる。
頭上を黒い何かが行き過ぎた。
思わず振り返ると、背後に追い縋る球体から何本もの黒い腕が生えて、私を捕えようと伸びていた。
『振り返らないで!大丈夫、私を信じて!』
その声に背中を預けて、前を向き直る。
『右に避けてっ!』
言われるままに右へ。
真横を腕が掠める。
『次は左!!』
続いて掴みかかる腕も躱す。
少女の声が、まるで直接脳と直結しているかのように体が反応する。
『跳んでっ!!』
体が宙に浮かび、その下で腕が恨めしそうに空を切る。
『綻び』はもう目の前。
『私の力を使って!』
いつの間にか、私の手には漆黒のナイフが握られていた。
それを、殆ど体当たりするようにしながら、重力も味方につけて『綻び』に向かって振り下ろす。
空中のひび割れにナイフが突き立つ。
パキン、と音が響いたのと同時に、視界が光に満たされた。
光が晴れた時、私は見慣れた通学路の真ん中に立っていた。
呆っと視線を落とすと、足元には怪物から逃げる途中で投げ捨てたはずの鞄が置かれていた。
手に握っていたはずのナイフも無くなっている。
「ねぇ、いるの?」
問いかけても、『彼女』からの返答はない。
つい先ほどまでの出来事は悪い夢だったのだと、そう言われれば信じてしまいそうなくらいに全て元通りだった。
けれど――
私は自分の胸に手を当てる。
――この手から伝わってくる感覚が、あれば夢なんかでは無かったのだと、そう静かに確信させてくれた。