やっと、見つけた。
すぐ頭上から聞こえた声に反射的に息を呑んで、声のした方を見上げる。
そこにいたのはあの瞳では無かった。
夜の空よりも深い、黒々しい闇色の体である事は間違いない。
だが、それが形作っているのは人の形だった。
人間の女の子。
その背格好はどういう訳か、私に似ている気がした。
「あ、あなたは……?」
震える声で問いかけた。
『それ』は優しく、柔らかな口調で答える。
「大丈夫。私は、あなたの味方だよ」
膝に手をついて私の顔を覗き込む、私と同じ色の瞳は不思議と安心感を与えてくれる。
身体を起こした漆黒の少女は、続けて言葉を発する。
「私はね、あなたの一部だった物」
「私の……一部?」
「うん。そしてさっきまでは、あの大きな目玉の怪物の一部だった」
彼女の言っている事を理解できずにいる私に、さらに説明を続ける。
「あの怪物は、主を失った感情や記憶の集合体みたいな物なの」
月明りと、僅かな街灯の光で照らされた知らない家の庭は怖ろしい程に静かで、その中で唯一空気を震わせている少女の声は私の心を穏やかに和ませていく。
「忘れ去られた記憶。封じ込められた想い。抑え込まれた感情。棄てられた夢。様々な理由があって主を失ってしまった彼らは、だから自分の主を見つけるために彷徨い続けている」
「私があなたの『主』なの?」
その質問に少女は頷く。
「あなたを見つけた時、すぐに私はあなたの中にいたんだって気が付いたの。だけど、あの中は色んな感情が渦巻いていて、すぐには出て行くことが出来なかったの。私一人だけの意志では、みんなを制御しきれなくて。……怖い思いさせちゃってごめんね?」
そう言って申し訳なさそうな表情を見せたが、「でも」と一転笑顔を浮かべる。
「あなたが、ちゃんと私を見つけてくれたから。こうして、あなたの所に来ることが出来た」
「みつ……けた?」
小さく問い返した私に視線を合わせるようにしゃがんで、優しく微笑む。
「あなた、『助けて』って言ったでしょ?」
それは、この理不尽な状況と耐えがたい恐怖に、思わず出てしまった言葉。
心の中で呟いた私の言い訳が聞こえていたかのように、彼女は首を横に振る。
「ううん。それはあなたがずっと胸の奥底に隠していた本当の気持ち」
彼女の言を否定したいはずなのに、そうするための言葉が声にならない。
抗い難い程にすんなりと、その言葉は私の心に沁み渡っていく。
「勉強は嫌いじゃない。学級委員としての役割も、副部長としての仕事も。…だって、皆があなたに期待してくれるから。あなたはその期待に応えることが出来るから。……応え続けないといけないから」
グッ、と心が締め付けられる。
心を縛り付けている何かに、手を掛けられるような感覚。
少女はこちらに構わず言葉を綴る。
「だから、あなたは自分の心に蓋をした。胸の痛みに気付かないふりをした。心の傷から目を逸らした。自分の本音に耳を塞いだ」
黒い影は、自分の胸に手を当てる。
心臓に指を突き立てるように、手に力が籠められる。
苦痛に歪んだ口許から言葉が零れる。
「……『私』は、こんなに苦しかったのに」
私を非難するような視線に堪え切れず、思わず反論する。
「そんなの、仕方ないじゃない。そうするしか、無かったんじゃない」
胸が痛い。心が軋む。
「自分が苦しいなんて。辛いなんて。無理して頑張ってる、なんて……気づいてしまったら。私はもう、頑張れなくなっちゃうじゃない……ッ!」
心に掛かっていた鍵が、音を立てて砕け散る。
乾きかけていた頬を、再び伝った涙が湿らせる。
次から次へと溢れ出てくる。
真っ黒な少女が私の両肩に手を添えて囁きかける。
「良いんだよ、それで。ずっと頑張っている必要なんてない。辛いときは『辛い』って思って良い。疲れた時は休んでも良い。苦しいときは泣いたって良い。もう無理って思ったら、我慢せずに弱音を吐いたって良いの。……良いんだよ?」
投げかけられる優しい言葉に、自分を甘やかしてくれる言葉に、涙が止まらなくなる。
「限界に気付かないふりをし続けていたら、いつかぽっきり折れちゃうよ。そしたら本当に、もう二度と頑張れなくなっちゃうよ」
今まで必死に抑え込んでいた感情が、堰を切って溢れ出す。
「……みんな、勝手な事ばっかり言って。私がどんな想いでいるかなんて知りもしないくせに」
今日の放課後、友人と交わした言葉が頭を過る。
「何よ。私が何の努力もせずにいい成績取ってるとでも思ってるの?夏休み中に遊んでいる余裕があるくせに、塾に行かされるのが何だっていうのよっ?」
担任の顔が脳裏を掠める。
「私みたいだったら良かった?私が羨ましいの!?私が何でも持ってるみたいな言い方して。そりゃ、先生だって大変なのかもしれないけど、私だって大変なのッ!」
そして思い出すのは、部活の先輩たちの事。
「『私達だって忙しい』……?じゃあ私は忙しくないって?最上級生だから、受験生だから何よ!?何もかも仕事押し付けて、部活には殆ど顔出してるだけのくせに偉そうにしないでよッ!!去年はもっと大変だったとか、知らないよ、そんな事!私には関係ないでしょ!?」
小さな呟きから始まった独白は、いつの間にやら夜空を震わせる叫び声に変わっていた。
「辛いよ、苦しいよ、もう疲れたよっ!もう、もう……もう無理だよぉおおおおおおおおおお!!」
涙も声も枯れんとばかりに吐き出して、ふと、空虚さが胸を突く。
「……こんなこと、何の意味もないよ。自分が辛い事に気付いたって、余計に辛いだけじゃない。こんな所で、一人吐き出したって、現実は何も変わらないじゃない」
私の両肩に添えられていた少女の手。その内、左肩に載せられていた手が、ゆっくりと移動して、私の胸の中心にそっと触れる。
不思議と、心が少し軽くなっている事に気が付いた。
黒い少女は問いかける。
「何も、変わらない?」
私は、小さく頷く。
「自分が辛いことを自覚したって、それを誰かに相談できる訳じゃない。今まで必死で守ろうとしてきた物を手放して、楽になろうとも思えない」
だけど、と。
胸に当てられた少女の手に、自分の手を重ねる。
「もう無理、じゃ……無くなったかも」
影は嬉しそうに微笑んで、「良かった」と言った。
ゆらゆらと少しずつ、形を失いながら私の事を抱きしめる。
黒い少女は闇に溶けるように解けていき、吸い込まれるように私の中へ入って来た。
その闇は、心の隙間を埋めるように、私を満たしていった。