ちゃんと隠れていて。
目玉の化物がカウントダウンを終えて以降、その声はしばらくの間聞こえなくなっていた。
それが5分なのか10分なのか、それ以上なのかは分からない。いつの間にか腕時計は止まってしまっていて、スマホの計時機能も同様に使い物にならなくなっていた。
このまま隠れていても何も解決できない。そんなことは分かっているが、具体的な策は何も思いつけない。ここから逃げ出すことも、あいつを退治することも現実的な案とは思えない。今はただ、見つかっていない事に安堵し、見つからないことを祈るしかない。
そんな私の鼓膜を、『あの声』が振動させる。
「どコに、いルノ?」
意図せず、肩がびくりと反応する。
聞こえたのは微かな声。頭の後ろ、座り込んだ体を預けている壁の方から聞こえて来た。
なるべく物音を立てないように、静かに窓の下へと移動し、窓の淵からそっと顔を出して路地へ視線を走らせる。
私の隠れている建物の面している路地の向かって右側に、『それ』はいた。
「どこカに隠レてルの?」
問いかけるように呟きながら、こちらへと向かって来ている。このままだと数十秒もしない内にこの家の前を通るだろう。
相手に気取られるより先に、再び窓の下に身を隠して息を潜める。
今の状況を打破する策は何一つとしてない。
だが少なくとも、今ここで見つかる訳にはいかない。
「ホら、出てオイデ?」
唄うような、憂うような声が徐々に近づいてくる。
「シっかリ、カクれてイテ」
嘲るような、寄り添うような声がすぐ、もう真後ろまで来ている。
無意識の内に息を押し殺す。
こちらには気付いていない、とは思うが、初めにあの目玉と対面した時の黒い重圧がどうしても頭の端にチラついて、全身がじっとりと汗で湿っていく。
「スグに見ツけてアゲル、からネ」
その声は、一つ前の言葉と殆ど同じ角度から聞こえた気が、した。
「ここニ、いるカナ?」
それはきっと、どこかの建物を見据えて発せられた言葉だった。
この建物かも知れないし、向かいの建物かもしれない。
だけど何故か、あの化物はこの家の方を見ているのだと、直感的に感じた。
得も言われぬ恐怖に体が固まる。
冷静になれ、と自分自身に言い聞かせる。
たとえ、この場所が感付かれているとしても、家の周囲は出入り口の無い塀で囲われている。
手足の無いあの怪物には越えることは出来ないだろう。
一通り自分を納得させて、息を吐こうとしたところで再び声が聞こえた。
「どこ?ドコ?何処にイるの?」
足元から。
どうやって入って来たのか分からない。考えている余裕が無い。
すぐそこまで、来ている。
部屋を見回す。
どこか、隠れる場所は?
机の下……は駄目だ。椅子の陰に隠れたって丸見えになる。
ならクローゼットの中?
「いナイのォ?」
視線を投げた先、隣の部屋からまた声が聞こえる。
そちらに近付くことを本能が拒絶した。
となると、残る選択肢は一つだけ。
クローゼットと反対側の壁に面して設置されているベッドの下を、床まで垂れ下がったシーツをめくりあげて覗く。
人一人くらいなら何とか入れそうな隙間がある。
迷っている時間は無い。
捻じ込むように身体を滑り込ませる。
暗いベッドの下から、街頭で照らされた部屋の中の様子が薄っすらと透けて見える。
そして、『それ』はやって来た。
私が先ほど隠れるのを躊躇った、クローゼットの中から。
まるでそこには何もないかのように、ぬっとりとすり抜けて。
あの中に隠れていたら、確実に見つかっていただろう。
そう考えると、肝を冷やすどころでは無かった。心臓が握り潰されるみたいな圧迫感に襲われる。
完全に部屋の中に入って来た瞳は、左右にゆっくりと回しながら室内を観察する。
「いないカナ?イナイね」
数度、視線を往復させた後、丸い影は部屋の扉の方へと消えていった。
扉を開ける音はしなかったが、入って来た時と同様に壁を透過していったのだろう。
とは言え、部屋を出て行った確信が出来ないため、ベッドの下から這い出す決心がつかない。
「こッチかナ?ドウかな?」
その声が少し遠くに聞こえて、やっと暗い隙間から抜け出す事が出来た。
出来ることならあの怪物がこの家から離れるまで隠れていたいが、さっき迷わずこの家に入って来た所を見ると、私がいる場所をある程度把握できているのかも知れない。
だとしたら、一か所に留まり続けるのは危険だ。
怪物がこの家の捜索を続けている間に別の場所に移動した方が良いだろう。
まだあいつが彷徨っている家の中を歩き回る気にもなれないので、私は路地に面している窓をそっと開けて、一階の屋根に降りようと試みる。
下を見下ろして一瞬足が竦むが、それを上回る恐怖に背を押されるように窓の淵を乗り越える。足を滑らせないように、音を立てないように、細心の注意を払いながら体全体を家の外へ。
路地と敷地を仕切る塀に足を延ばして、塀の上に乗り移る。そこから少しずつ体を下に降ろし、静かに路地へ降りる。
自然と浅くなっていた呼吸を、恐る恐る、深く吐き出してから、建物の前を離れようと顔を上げた時だった。
「こンなトコロに……」
私のすぐ左隣。
背後の塀から瞳が姿を現したのは。
「イたァ……!」
ぎょろり、と目玉の視線が流し目で私を捉える。
心底嬉しそうに、安心したように、獲物を前に舌なめずりするように、三日月の形に目を歪めている。
巨大な眼球が、私の姿を正面から視界に収めようと旋回する。
その動きはとても緩慢な物に思えたのに、瞳がしっかりとこちらを向き直るまでの間、私は一切の身動きを取れずにいた。
「ヤッと、ミツケタ」
後ろに下がって距離を取ろうとした足が縺れて、冷たいアスファルトに尻餅を突いてしまう。
スカートの右ポケットからスマートフォンが転がり落ちる。
混沌色の瞳がにじり寄る。
私は咄嗟にスマホを拾い上げ、ロック画面のショートカットからカメラを起動する。
それを目の前の怪物に向けてシャッター切った。
「ウっ、マブシイ!!」
カメラのフラッシュに目を細め、怪物は動きを止める。
その隙に何とか立ち上がり、背後を振り返って駆け出す。
右へ左へ、でたらめに路地を曲がりながら必死に走る。
息も絶え絶えになりながら、それでも無我夢中で足を動かし続ける。
しばらくして、あの化け物を撒くことが出来ただろうか。
目玉の発する不気味な声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
走りながら後ろを振り返るが、その姿も見当たらない。
ホッとするのは一旦先延ばしにして、最後の力を振り絞って一気に加速。勢いのまま、正面にある塀に飛び掛かって敷地内に転がり込む。
越えて来たばかりの壁に体を預けて座り込む。
相手が壁をすり抜けられる事を考えれば、せめて家の中まで隠れておくべきなのだろうが、今の私にはそんな体力は残されていなかった。
乱れた呼吸を整えない事には歩くことは疎か、一度座り込んでしまっては立つことさえ難しい。
呼吸音が大きくなり過ぎないように気を配りながらも深呼吸を繰り返し、冷静さを取り戻しつつある頭と裏腹に、私の心は限界を迎え始めていた。
「一体、何なのよ……あいつ」
いきなり目の前に現れて、理由も説明されないままに理不尽に追い掛け回されている。
得体の知れない化物に対して沸々と怒りにも似た感情が沸き上がり、言葉が口を衝いていた。
「なんで、私なのよ……?」
大体、どうして選りに選って私が狙われなければいけないんだ。
私が何をしたって言うの?
ただでさえ、私はこんなに大変だって言うのに。
毎日毎日、遅くまで勉強をして、半ば押し付けられた副部長の仕事も、名ばかりの部長のやり残した仕事や雑用みたいなことまでこなして、クラスでは学級委員としてクラスメイトや先生からの期待に応え続けなきゃいけない。
これ以上他の事に構っている余裕なんか無いのに。私は私の人生を恙なく生きていくだけで精一杯なのに。
私は……こんなに頑張っているのに。
「……誰か」
気が付けば言葉が零れていた。
「誰か、助けてよ……!」
絞り出すような言葉が。耐え切れずに溢れ出してしまったような言葉が。
一滴の涙と共に。
そんな言葉に答えるように、声が、聞こえた。
「やっと――」
その声はとても近く。
俯いた私の頭の上。座り込んだ私の真正面から。
「――みつけた」