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もういいよ。

 ひとまず、文化祭の演奏会で披露する曲と順番は決め終わった。

 その後、顧問の先生を捕まえて、楽譜を用意できるかどうか相談をして修正をしたり、練習日の調整をしたりしていたら、すっかり遅くなってしまった。

 決まった練習予定を部員に連絡してから、私はやっと帰路につく。


 今にも夜の向こうに消え行ってしまいそうな太陽が、西の空を赤々と染め上げている。

 当の太陽自体は建物の陰となってしまって見ることが出来ないが、その夕日を背に受けながら、人気ひとけのない静かな路地を歩いていく。

 風すらも夏の暑さに負けてしまったかのような静けさの中、私の革靴がアスファルトの地面を打つ音だけが空気を震わせ続ける。


 早く帰って、今日の授業の復習をしてしまわないと。明日から早速、部活の練習を入れてしまったから、朝も早いし。

 あ、そう言えば合宿の予定も決めておかないといけないんだった。それは流石に明日でいいかな…。


 障害物にぶつかってしまわないよう、最低限に目の前の景色を認識しながら、今後の予定について思案に暮れながら足を進めていると、徐々に、視野が黒に染まっていくのを感じる。

 空の端で耐えていた太陽が、いよいよ夜闇に沈んでいく。

 日の光と共に、地上の熱さえも奪われていくが如く、周囲の空気がスゥっと冷えていく。


 景色が、闇に染まる。

 

 日の入りの時間に合わせて、路地に沿って設置された街灯が光を放ち始める。

 私の進行方向の奥にある街灯から順に。

 こちらに向かってくるように、一つづつ点灯していく。

 そして――


 「ッ……!?」


 目の前を白い明りが照らし出した時、思わず目を見開いて、息を呑んだ。

 体が石にでもなってしまったかのように硬直する。


 そこに『いた』のは、私の背丈ほどもある闇色の球体。それは私の行く手を阻むように、路地の中央に浮いていた。

 球を覆う闇は、まるで瞼を開くように上下にゆっくり割れていった。

 やはり、というべきか、中から現れたのは巨大な瞳。

 この世にある全ての色をごちゃごちゃに混ぜ合わせたかのような混沌色の瞳は、カッと見開かれたそれは、紛れもなく私を真っ直ぐに見つめていた。

 真っ直ぐに見つめて、言った。


 「みィ……つけタ」


 目以外のパーツの無い『それ』が声を発した。

 男なのか女なのか、子供なのか若者なのか老人なのか、それすら分からない声で。あるいは、それら全てを混ぜ合わせたような声色で。


 「な……ッ」


 何なの、と口にしようとして言葉に詰まる。

 恐怖で声が出ない、というのもあるが、そもそもこれは対話の成り立つ相手なのか?

 そんなコミュニケーションを悠長に試みている場合か?

 そんな感情が、自然と私を一歩後退りさせる。


 「逃ゲルの?」


 目玉が告げる。

 冷たく言い放つように。あるいは、優しく問いかけるように。


 「ジャあ……待っテテあげル」


 待つ?何を?

 目の前の怪物が言っていることが分からない。考えていることが理解できない。

 私を見逃してくれると言っているのか?

 刹那、考えを巡らせていると、眼球が続けて声を発した。


 「ほラ、逃げテ、ごらン?」


 暗闇が目を細める。

 こちらを見定めるように。睨みつけるように。恐怖する私を嘲笑うように。安心して、と微笑みかけるように。

 言葉の意図も、意味も分からない。

 だが、一つだけ、本能的に理解できた。

 今ここで逃げなければ、次のチャンスは二度とやって来ないという事。


 次の瞬間、私はきびすを返して、来た道を駆けていた。

 走るのに邪魔になる鞄も路傍に投げ捨てる。

 そんな私の様子を見て、化物は数字を数え始める。


 「サーん、ジゅーう」


 私は構わず足を動かす。


 「にージュきューぅ」


 読み上げられた数字は、30、29。

 カウントダウンしているのか。

 つまり、数字がゼロになる前に逃げ切って見せろ、という事か。


 「にーじゅハーチ」


 まずは、誰かに助けを求めなければ。

 そう思って、走りながら反射的にスマートフォンをポケットから取り出した。

 これで助けを呼べば……!という僅かな希望は、画面上部にある『圏外』を示す表示によって打ち砕かれた。

 ここは私がいつも通学路に使っている道だ。圏外だった事なんて一度もない。

 きっとあの化物の影響だろう。

 私がスマホを元の場所に押し込みながら歯噛みしている間にも、カウントダウンは淡々と、楽し気に続けられていく。


 「……ニィじュごーぉ」


 だったら、せめて誰か人がいる場所へ向かおうと、最寄り駅への道順を逆走していたのだが、一向に見慣れた駅の建物は姿を現さない。

 それどころか、毎日通っている道のはずなのに、知っている景色がどんどん遠ざかっていく。

 似たような形の二階建て民家が、コンクリート塀の後ろに並べられた単調な路地。知っているはずなのに知らない場所。

 周りの風景は、いつの間にかそんなものに変貌していた。

 立ち並ぶ家々には一様に明りが灯っておらず、人の気配が全くしない。


 人のいる場所や、知っている場所に辿り着くことを一旦諦め、とにかく『あれ』から遠ざかる方向へ走ることに目標を変更する。

 何度か路地を左右に曲がりながら、ひたすら足を動かし続ける。

 次第にあの目玉の声は小さくなり、カウントダウンは微かなものになっていった。

 とは言え、周りの景色は先程までと変わらない不気味な静けさが広がるばかり。


 「……にぃージュ」


 全力で走り続けたせいで、もう息が苦しい。

 思わず足を止めてしまう。全身を巡る酸素が足りない。

 止まった足が前に進まなくなる。

 自分の心音が化物の声を上回る大きさになって、頭の中で響いている。

 きっとこのまま逃げ続けたとしても、逃げ切ることは出来ないだろう。


 「……じゅーナぁーナ」


 『あれ』の設定したタイムリミットもジリジリと迫ってきている。

 逃げ切ることは出来なくても、せめて、どこか隠れる所を探さないと。

 そう思って辺りを見回すが、路地を構成する塀の向こうには家が並んでいるにも関わらず、敷地内へ入るための扉のようなものはどこにも見当たらない。

 しかし、路地にある物で身を隠せそうな物は、せいぜい街灯程度だ。隠れる場所を見つけるためにはこの壁を越える他ない。

 塀に手をかけてよじ登ろうとするが、なかなか体が持ち上がらない。


 「……じゅーウよーん」


 地面を蹴って体を浮かせ、塀に足をいて自身を押し込むように、何とか壁の向こうに転がり込む。


 「……ジューにーィ」


 このままここに身を潜めていることも考えたが、塀と建物の間の狭い空間では見通しが悪いし、万が一見つかってしまった場合に身動きが取り辛い。

 出来ることなら建物の中に隠れた方が良いだろう。二階建ての建物の上階からなら多少は周囲の様子もうかがう事が出来る。

 玄関側に回り込み、家の扉に手を掛ける。


 「……じューう」


 あまり期待はしていなかったが、その予測とは裏腹に、扉は軽い力で簡単に開いた。

 ここが他人の家だと思うと多少気が引けるが、そのまま家の中に入り、靴も履いたままで玄関を上がる。

 一階を探索して、二階へと続く階段を見つける。


 「……ゴぉーオ」


 私はそこを速足に駆け上がる。


 「よーン」


 二階に辿り着いて、目についた手近な部屋の戸を開ける。


 「さーん」


 入った部屋は机とクローゼットとベッドくらいしかない簡素な部屋。

 当然、部屋の中は暗かったが、流石に灯りを点ける気にはなれなかった。

 窓から差し込む街灯の光で、部屋の中の様子は十分に把握できる。


 「ニィーい」


 そっと窓に近寄って、壁の陰に隠れるようにしながら外を覗くが、ここからは『あれ』の姿は見えない。


 「イーチ」


 取り敢えずホッと息をいて、壁に背をもたれかけたまま床に座り込む。


 「ぜーロ!」


 声が怒鳴るように、そして、嬉しそうに最後の数字を読み上げた。


 「もォーイイかーい?」


 恐怖や不安で支配されたこちらの心情をもてあそぶような、もうこれ以上は待ち切れないというような問いかけ。

 もちろん私はそれに対して返事をしなかったが、その沈黙を肯定と受け取ったのか、怪物は次の台詞を吐き出す。


 「じャア、探しに行クよ……!」


 今まで空間を支配していた不気味な静寂が、町を覆っていた不穏な闇が、ゆらり、と蠢いたような気がした。

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