3.ロイとアイゼル
男性のあとをついて木立のなかに入ると、男性は慣れたように獣道を歩いて山を下って行った。勾配のある山道を下るのは大変で、玲奈は後ろを追うのに必死だった。けれど、ここではぐれたらまたあのような獣に出会ってしまうかもしれない。そうなったら今度こそ食われる、と思うと、男性とはぐれるわけにはいかなかった。
自然と息があがる。裸足の足に小石や草が刺さり、傷ついているのがわかる。痛む足を動かしながら背中を追うと、男性が立ち止まって振り返った。
思わず立ち止まった玲奈の足元を見ると、男性は「…すまなかった」とつぶやき、玲奈に近づいてきて肩へかつぎあげるようにひょいと抱きかかえた。
ひゃあっと小さく叫ぶと、「取って食いやしない。暴れるな」と言われ、玲奈をおとなしく運ばれるしかなかった。
15分ほど山を下っただろうか。木立を抜けたところに、先ほどよりも広く開けた場所が出現した。段々畑のように、人の手でならされた段の平地に小さな藁葺屋根の小屋のようなものが立ち並ぶ。いくつかの小屋には煙突のようなものがあり、うすい煙が立ち上っていた。小さな村のようだった。
小屋には人が出入りし、女性も男性も薄汚れた土気色の浴衣のような服を着ている。草履を履き、せわしなく小屋から出たり入ったりしていた。人々はこちらをちらちらと見る。視線から逃れるように男性の背中にぎゅっと顔を押しつけると、小さな足音が近づいてきた。
「先生! 山へ山菜を取りに行って、子どもを拾ってきたのか?」
からかうような幼い声がした。
「そうだ。山奥でロウダに襲われそうになっていた」
「ロウダだって!? ロウダが出たのか!?」
ロウダというのは先ほどの獣のことだろう。焦りを含む子どもの叫び声に、周囲の大人たちもざわめく。
「先生、ロウダが出たってのは…」
「本当だ。冬を生き抜いたのだろう、かなり飢えていた…討伐しておいたので心配するな」
恐れる人々に、男性が答えた。心なしか優しい声色で、周囲の人々に安堵が広がる。
「あぁ、よかった。先生がいなきゃ、俺たちみんな食われちまうところだったよ…。その子は、ロウダにやられそうだったのか」
「ああ、おそらくどこかの妓楼か屋敷から逃げ出してきたのだろう…十分に服も着ていない。小屋で手当をするので、あとで食料を分けてもらえぬか」
「そりゃ、怖かったなぁ…。ロウダをやっつけてくれたんだろ、おやすい御用さ。死んだら飯も食えねえからな。あとで、うちのおっかさんが飯を届けてやろう」
「恩に着る」
返答していた男性は村のリーダー格だろうか。てきぱきと指示を出し始めるのを聞きながら、玲奈を担いでいる男性はまた段々を下って行った。
段々のいちばん下まで来ると、すとんと地面に下ろされた。このあたりは草も生えておらず、ならされた土のようだ。集落と少し離れたところに、小さな掘立小屋があった。
男性が掘立小屋に入っていくのを見て、玲奈もおずおずと小屋に立ち入った。小屋は急ごしらえで建てられたようで、地面はむき出しに、いくつかの岩の上に見たことのない草ののったザルが置かれていた。プンと漢方のような香りが鼻をつくので、薬草だろうか。小屋の隅の干し草が積まれたところに、小柄だががっしりとした体型の浅黒い肌の男性が座っていた。
「ロイ、すまぬがこの娘を見てやってくれないか」
「アイゼル、遅いと思ったらどうしたんだ! 子どもを拾ってきたのか?」
「山の上の池のあたりで、ロウダに襲われそうになっているのを見つけた。言葉がきれいだから、妓楼かどこかから逃げてきたのだろう」
「…ロウダか。冬の前にあらかたやっつけたと思ったんだがな。大事ないか?」
「ああ」
助けてくれた男性はアイゼルというらしい。そして、背の低い方がロイ、だろうか。
ロイは薄いグリーンの短髪に黒い瞳で、冷たい印象のアイゼルとは違い、愛嬌のある顔をしている。年はアイゼルと同じ、20歳くらいだろう。くしゃっと笑いながら近づいてきた。
「大丈夫かい? アイゼルが見つけてくれてよかったな。ここらでは、アイゼル以外にロウダを倒せるやつはいないから。俺はロイ。ここで医師をやっている。きみの名前は?」
このあたりで玲奈はうすうす、どこか異次元に飛ばされたか、輪廻転生というやつで別の時代に来てしまったか、というようなことを感じていた。地獄に村があって医師がいるなんておかしい。仮死状態になっている私の夢だとしたらかなり込み入った妄想だが、いずれにせよ今の玲奈はどこか知らない世界の、知らない村にいるのだ。だとしたら、今の名前がなんなのか、自分がどういった存在なのかよくわからない。
「…わかりません」
ひと言そう答えた玲奈に、ロイは困ったように眉をしかめた。
「大丈夫だ。どこかから逃げてきたとしても、もうこの村に入ったら君は村の一員だよ。だれも秘密を洩らしはしない。呼び名がないのは困るな。教えてもらえないか?」
本当に困ったように話すロイに、玲奈は逡巡したのち、答えた。
「…レイナ」
「レイナ、レイナか。珍しい名前だな。最近の妓楼ではそういう名が流行っているのだろうか? 年はいくつだ?」
玲奈は今度こそ困窮した。苗字を言っても仕方ないと思い、下の名前を答えてしまったものの、年は本当にわからない。だいいちこの体は玲奈ですらないのだ。
「年は、あの、本当にわらかないんです…ごめんなさい」
「謝ることはない。妓楼や屋敷の子なら、わかる方が珍しい。今まで辛かっただろう。怪我を見せておくれ」
ロイはレイナを膝くらいの高さの岩に座らせ、跪いてレイナの足をとった。裸に布1枚しか巻いていないレイナはビクッと体を固まらせたが、ロイの瞳はいたって真剣だ。先の細い鉄の箸みたいなものを腰に下げた袋から取り出し、足の裏に刺さった小石を一つずつ丁寧に取り除いていく。
「裸足で、よく山の中腹まで来れたものだ。ここからいちばん近い街でも歩いて2日はかかる。ロウダでなくても、人を食らう獣はいるのだ。君がここまで来れたのは奇跡としか思えない」
ロイは探るような眼でレイナの足を眺めながら作業した。深く刺さった小石を引き抜かれると痛みがして、レイナは顔をしかめる。あらかた小石を取り除くと、ロイが真剣な顔で手のひらを足の裏にぴたりとくっつけた。
これも治療の一部なのだろうか、と戸惑う。ロイに触れられた足の裏が急速に熱を帯びて驚いていると、ロイが不意に手を離した。
「さぁ、片方は終わった。もう片方の足の裏も石を抜いてしまおう。思ったよりひどくなさそうだ。きれいになったら薬草を塗ってあげるからね」
レイナは先ほどのロイの行為の意味がわからず、不審に思いつつも、「ありがとうございます」と小さく答えた。ロイはそれから治療が終わるまで、レイナの顔を見なかった。
この世界が異世界だと気づき始めたレイナ。次は、ロイ視点の話です。