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24.雨の中

死の呪いを受けたユンは尻もちをついたまま、肩で息をしながらミンヒの遺体から後ずさった。ガウスが走り寄ってユンを抱き起し、呪文を唱え始める。


「我、呪いの力を解く者…」

「ガウス、やめて! こんなの意味ないわ。死の呪いはだれにも解くことはできない!」

「わかっている! でも、少しでも…!」


焦りの混じる声でガウスが必死に呪文を唱え、ユンの額に指を当てる。念力が流れているのが光って見えるほど強力な呪い解きの術だった。


「母さん、僕の力も足せば…」


たまらずにロイは馬車から飛び出した。


「ロイ、アジール様から離れてはいけません!」


鋭い声でユンが叫ぶと、ロイはぐ、と立ち止まった。振り返ると、馬車の中でアジールがガタガタ震えながら泣いていた。


「なぜだ? なぜこんなことになったのだ…? 私のせいなのではないか? 私さえいなければ、このようなことには…」

「アジール、そのようなことを言ってはいけません!」


メディナはアジールに駆け寄り、その頬を両手で挟んだ。


「あなたは私の最後の希望。愛しい子よ、この国の王になるのはあなたなのです。たとえハンレイ州に『日昇の証』が現れたとしても、この国でいちばん強い力をもつのはあなたに他ならない。王の器を正しく満たせるのは、あなただけです」


アジールは嗚咽を上げながらメディナの言葉を聞く。美しい青の瞳から次々と涙がこぼれていた。


「いいですか、もう時間がありません。よく聞くのです。母はこのあと、少しでも時間を稼ぎます。その間に、できるだけ遠くへ逃げなさい。ヨウロウ州ももう危ないでしょう…東へ、ミセン州へ行くのです。そしてしばらく身をひそめなさい。安全な状況になるまで――そしていつか必ず、王宮に戻るのです。この国の真の後継者は、あなたなのだから!」

「はは、うえ…」


メディナは泣きじゃくるアジールを抱きしめた。


「ここで母とは別れです。ずいぶん甘やかしてしまいましたが、これからはガウスと、ロイの言うことをよく聞くのですよ」

「ユンは…」


弱弱しい声でアジールが尋ねる。ロイにはもうわかっていた。ユンを連れていくことはできないのだと。足が勝手に動き出し、ロイは気がついたらガウスとユンの側まで歩いていた。


「母さん、父さん…」

「ロイ…アジール皇子から離れてはいけないと言ったでしょう」


目に見えて弱っているユンにはいつもの勢いはなく、息も絶え絶えにロイを叱りつけた。ガウスはびっしょりと汗をかきながら必死に呪文を唱えていたが、念力の力が弱まっているのはだれの目にも明らかだった。

ユンは額に当てられたガウスの手を取り、術を遮るように引きはがしてガウスとユンを抱きしめた。


「いいの、もういいのよ。ごめんね。私、最後までメディナ様のお側にいられないことを、今日までずっと悔やんでいたの。頭の中では、あなたたちと一緒に行かなければいけないとわかっていたのに。だから、最後までメディナ様のお側にいられそうで、ホッとしているの。ごめんなさい」


体に回された腕の力が弱く、ロイは心臓が凍りそうになる。これが母との別れになるのだ、とぼんやり思った。

ガウスがユンに応えるように、強い力で2人を抱きしめ返す。


「…知っていた。それでも俺は、お前と一緒に生きていたかった。メディナ様を1人残すことになろうとも」

「ばかね、メディナ様はあなたの初恋の人なのに」

「え、そうだったの?」


思わずロイが聞き返す。その声はあまりにも間が抜けていて、ガウスとユンは顔を見合わせるとぷっと吹き出した。


「そうよ、この人ったら子どもの頃からメディナ様一筋だったんだから」

「やめろ、こんなときに。あれは憧れのようなもので…ユン、俺が生涯愛するのはお前だけだよ」


ガウスは照れたように笑い、ユンの顔を覗き込んだ。ユンはきりっとした眉を下げて笑った。


「当たり前でしょ。これから先だって、浮気したら承知しないんだから。…ガウス、アジール様とロイを、頼んだわ」


絶望的な状況に、ロイは視界がゆらぐのを感じながら母の手をとった。


「母さん、僕、絶対にアジールを守るから」


ぼろぼろこぼれる涙を拭う暇もなかった。それでも、その姿を焼きつけるようにユンの顔を見つめる。


「絶対に生き延びて、父さんと2人でアジールを守るよ。ヨウロウ州も守るよ。全部守るから…母さんは、最後までメディナ様を守って」

「それでこそ、ヨウロウ州の子ね…ロイ、これを」


ユンは懐からごそごそと使い込まれた櫛を取り出した。毎晩、アジールの髪を梳く櫛だった。


「これからは毎晩、あなたがアジール様の髪を梳くのよ。あの美しい輝きを絶やしてはいけないわ。アジール様は、ヨウロウ州の希望。やがてこの国の王になられる方なのだから」


ロイは震えながら手を差し出した。不意に、ぽつりと水滴がロイの手のひらに落ちた。自分の涙かと思ったが、違った。雨が降り始めたのだ。その手のひらに、ユンが櫛を置く。ロイは小さな櫛をぎゅっと握りしめた。

ぽつぽつと雨が降り出すなか、遠くから地鳴りのような音が聞こえてきた。馬の足音だ。


「まずい、もう追っ手が来ている」


ミンヒの出した早馬が王宮に届いたのだろう。リーリンの私兵が追ってきたようだった。

ガウスはユンを担いでメディナの元に戻り、馬車へロイを押し込んだ。


「母さん! 母さん!」

「ロイ、必ず生き延びるのよ」


ユンはメディナに託され、立っているのもやっとの状態だった。メディナもアジールを片腕でぎゅっと抱き寄せた。


「行くのです、アジール。あなたにはできるわ。やり遂げなさい」

「いやです、ははうえ…」


アジールは茫然としてつぶやいたが、ガウスがアジールを抱えて乗りこむと馬車は自然に走り始めた。振り返ると、すでに土煙が見えており、私兵はすぐそこまで迫っているのがわかった。アジールは走り出した馬車から降りようと立ち上がったが、ガウスとロイがそれを抑え込んだ。


「いや、いやだ、離せ! ガウス、ロイ、無礼だぞ! 離せ! 母上、母上----!!!!」


アジールが絶叫する。メディナはユンを支えたまま「アジール、生き延びなさい!」と叫び、大きな術を発動した。ユンもそれに倣い、最後の力を振り絞ってメディナの術に力を送る。

メディナとユンの前に大きな結界が張られた。私兵たちは馬に乗りながら結界に向かって次々に矢を引いたが、どれも見えない壁によってはじき返されていくのが見えた。


「アジール皇子、気を確かに! メディナ様のお命を無駄にしてはいけません!」


太い声でガウスがアジールに言う。「命」という言葉にアジールの肩がびくりと跳ねた。


「なぜだ、なぜガウスは母上を見殺しにするのだ!? お前は命を助けるのが仕事ではないのか!? なぜお前が母上の命を助けないのだ!」

「我々にとって最優先に助けなければならないのが、あなただからです!」


ガウスがアジールの肩を掴んで瞳を正面からとらえる。にらみつけるような視線に射抜かれて、アジールは泣きながらたじろいだ。メディナとユンの命が消えてしまうことをわかっているガウスの指はアジールの肩に食い込み、震えていた。


「メディナ様の力でも、この馬車を動かしながら結界を出し続けることはできません。すぐに結界は限界を迎え、追っ手がやってくるでしょう。とにかく今はここを離れ、東へ向かうしかありません。追っ手を攪乱するために、山中を通ります。険しい道のりになります。絶対にくじけてはいけません。必ず、生きようとしてください」


ガウスの声は自分に言い聞かせるようでもあった。ロイは手の中に残る櫛を握りしめる。


「ミセン州の首長は、我々の味方です。まずはミセン州へ」


ガウスが振り返らずに先を見つめる。ロイもアジールも、つられて先を見据えた。いつのまにか、雨足は強くなり屋根を打っていた。ざあざあと降る雨の音に、悲しみがかき消されていく。この先の道のりは険しい。3人を乗せた御者のいない馬車は、東の森へと向かっていった。

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