21.山の離宮へ
それから数日は、表立ってなにか起こることはなかった。
ロイはアジールと行動するとき、注意深く周辺を見渡すようになった。たとえば、庭の木の実を採って食べるときも、まずロイが食べてなにもなければアジールに渡した。実に毒が塗られていてもおかしくないと思ったからだ。
「ずるいぞロイ! はよう私にもカロンを寄越せ」
アジールがぷぅと頬を膨らませてわめく。メディナの宮の庭には小さな池があり、ほとりにはカロンの木が群生していた。この甘酸っぱい実が、小さな皇子の大好物なのだった。
「しょうがないなぁ、ほら」
ロイが笑ってアジールの口にカロンは放り込む。満足そうにカロンの実を味わうアジールを、気づかわしげにユンがうかがっていることにロイは気づいていた。
「2人とも、外はそろそろ冷えますよ。こちらへ上がっていらっしゃい。あとでミンヒにカロンを採らせておきましょう」
ミンヒは、信頼のおける女官の1人だ。ヨウロウ州の頃からメディナに仕えており、ユンが最も信頼している女官と言っても過言ではない。
ミンヒは、仰せのままに、と頭を下げてほほ笑んだ。ミンヒは信じられる人か、と心の中でロイは思った。
表立ってなにも起きていないとは言え、メディナもユンも日に日に顔に疲れが浮かんでいる。今までまったく気づかなかったが、アジールに危害が及ばないように手を尽くしているらしかった。その証拠に、3日ほど前から急にメディナは毎日厨房へ足を運ぶようになった。王族の妃としては前代未聞の行為である。
メディナは「なんだか料理をしてみたくなってしまいましたの。今までひとつもつくったことないんですもの。ねぇ料理長? 教えてくださらない?」とおっとりとした口調で言っているようだが、真っ赤な嘘だ。おおらかなヨウロウ州では首長一族の女性が厨房に立つのも珍しくない。事実、ヨウロウ州へ里帰りした折には、「王宮の者には秘密ですよ」と言って、メディナ手づからつくった菓子をもらったことがあるのだ。
ロイが険しい顔をしていると、アジールが袖を引いた。
「ロイ、そなたなんだかおかしいぞ。毎日難しい顔をしているではないか」
むっとした表情のアジールがロイを見上げている。年の割に、アジールは少し幼い。本来は1人っ子なのに、ロイが兄のようにふるまうので、すっかり甘えぐせがついているようだった。切れ長の青い瞳が不安そうに揺れている。
「なんでもありません、アジール皇子」
「おかしいではないか。そなた、私をアジールと呼び捨てにしていたではないか。なんでそう呼んでくれぬのだ」
アジールの顔がみるみる真っ赤になっていく。まずい、癇癪を起すサインだ、とロイは思った。
「うそうそ、冗談! アジール、ちょっとふざけただけだよ!」
ロイが慌てて取り繕うと、アジールはホッとしたように表情を緩めていく。
母に怒られるのではないかと恐る恐る振り返ったが、ユンも険しい表情のまま虚空を見つめている。もうロイの振る舞いを怒っている暇もないようだ。
「アジール、ロイ、こちらへおいでなさい。あなたたちに話すことがあります」
東屋にいたメディナが声をかけて、ロイはハッとした。
見上げると、メディナはいつもの優しい笑顔でほほ笑んでいる。
「さぁ、こちらへ。それからユン以外は人払いを」
ドクン、とロイの心臓が脈打つ。ユンの顔を盗み見ても、なにもわからなかった。どこか覚悟を決めたような蒼白な表情で、口を真一文字に結んでいる。形のいい太い眉がこれまでにないほどぎゅっと眉根に寄せられ、浅黒い手は震えるほど握りしめられているのがわかった。
「はぁい、母上」と呑気に返事をするアジールと対照的に、ロイはゴクリとつばを飲み込んだ。これからきっと、“あの日”の話のことが明かされるに違いない。
すっかり人払いされた東屋で、メディナが切り出した。
「明日から、山の離宮へ行こうと思うわ。私とアジール、それからユン、ガウス、ロイで」
アジールははじかれたように顔を上げて瞳をきらきらと光らせた。
「本当ですか、母上!?」
アジールは山の離宮が大好きだった。日頃口うるさい教師もいないし、人気の少ない山ならば好き勝手に遊ぶことができる。ロイと野山を駆け回り、ガウスから山菜や薬草のことを教えてもらうのがアジールの楽しみだったのだ。
メディナは微笑みながら、「本当ですよ」と言ったが、ロイは背中を冷や汗が伝うのがわかった。
護衛を1人もつけず、ユン以外の女官もつれずに山の離宮へ行くなどありえない。馬車で向かうので御者はいるだろうが、離宮では5人だけで過ごすつもりらしかった。
ロイはメディナの真意を測りかね、ユンの顔を盗み見た。けれどユンは一度もこちらを向かず、どこかうつろなまま虚空を見つめていた。
「そういうわけですから、2人とも今日の晩には支度をなさいね。明日の朝に出立しますよ」
離宮に行けると聞いたアジールは、興奮が止まらないのかメディナの声など耳に入っていないようだった。
「ロイ、離宮だぞ! うるさい教師もいない! 私は離宮がいちばん好きなのだ。一生離宮でお前と遊んでいたいくらいだぞ!」
にこにこと笑うアジールに、「そうだな」と笑ったものの、ロイの胸は騒いだままだった。
その晩は慌ただしく離宮へ行く準備をして、寝床についた。離宮へ行ったらどうなるのだろう、と考えているとなかなか眠れなかったが、ようやくまどろみ始めた真夜中に、隣で横たわっていたガウスが起き上がる気配がした。
ガウスがメディナの主治医かつユンの夫とはいえ、基本的に男子禁制の妃の宮に住むことはできない。ガウス、ユン、ロイの一家はメディナの好意で王宮仕えの者たちが暮らす離れの棟に広めの部屋を与えられていた。妃付き女官は本来妃の宮で過ごすので、これは破格の待遇だ。ただし週に何度かはユンが寝ずの晩としてメディナの宮へ泊まり、今日もその当番の日だった。
「父さん…?」
「起きたか、ロイ」
ガウスは静かな低い声を潜ませた。
「いいか、今から宮を出る。母さんはすでにメディナ様やアジール様と一緒に宮を出ているはずだ。これから落ち合う」
ロイは一気に目が覚めて、父の顔をじっと見た。
「お前は、気づいていたか」
ガウスの静かな問いかけに、ロイはコクリと頷く。ガウスは険しい表情のまま言った。
「わが息子にしては上出来だ…いくぞ。今夜しかないのだ」




